11夜 友人から頼られるというのは、無条件に嬉しいもの

「手間をかけたな」

 抑揚の乏しい声音で言われ、朔月さくづきは苦笑した。

「かまわないよ。ここは診療所なんだから、怪我の治療は本来の業務だ」

 とは言っても、正規の診療所ではないが。

 朔月は医師免許を持ってはいるが、診療所の開設に際して必要な申請を行っていない。当然のように診療所の看板も掲げておらず、ここは公的には一個人の住居扱いで、その所有者名も『朔月』ではない。


 首都を中心とした都市の治安維持組織である都市警察機構は、都市圏内のあらゆる公式医療機関に対して、事件性のある傷を負った者、あるいは犯罪者(と思しき者も含めて)が医療機関にかかった場合、それらの報告を義務づけている。

 そして、都市警察からの要請がなくとも、医療関係者に限らずとも、犯罪に関わる者、犯罪に巻き込まれた者を見つけた場合の通報義務は、本来、全市民に課せられているものだ。

 朔月も助手の律も、その市民としての義務やモラルに対してどうこう言うつもりはないし、あえて反抗しようと思っているわけでもない。が、診療所自体が非合法であることに加えて、朔月自身、政府関係組織との接触を可能な限り避けたい事情から、それが明らかな重犯罪者などであれば匿名で通報するくらいはするが、そうでなければ無視するのが常となっている。

 それなりに後ろ暗い事情を持つ者としては、どうしたって善良な市民には徹しきれない。

 そして、都市警察、あるいは政府機関への通報の恐れのない診療所というのは、脛に傷持つ者たちには重宝されるし、紫於もそんなひとりだ。


 もっとも、彼が持つ『傷』は、そこらの犯罪者とは質も桁も違う。

 都市警察および政府機関への通報の恐れがなかったとしても、ここ以外の医療機関を頼ることは、紫於にはできない。

 そもそも、彼が治療を必要とする事態自体が稀有であり、今回にしても治療と呼べるほどのことができたとは思えないが、それでも、頼ってくれたことは朔月にとっては素直に嬉しかった。

 友人から頼られるというのは、無条件に嬉しいものだ。

 紫於が朔月をどう思っているかは微妙なところだが、朔月は彼を友人だと思っている。彼がヴァンパイアであることは、問題ではない。もちろん、彼を《機関》に売るつもりなど、これっぽっちもない。

 それが分かっているから、紫於も気軽に診療所に立ち寄ってくれるのだろうし、今回のような事態に頼ってもくれるのだろう。

 その信頼を得るにはそれなりの時間を要したし、そうして交流を持つようになってから二年ほどが経つが、今回のような事態は初めてだった。

 つまり、紫於が治療目的で朔月を訪ねてきたのは。


 と言っても、ヴァンパイアである紫於には本来、人間にするような治療など必要ない。人間であれば命を落とすような傷であっても見る間に治癒してしまうほどの驚異的な治癒力が、ヴァンパイアには備わっているのだから。

 しかし、今日、朔月の許を訪れた紫於の左頬と左掌の皮膚を爛れさせた熱傷には、その治癒力が働いていなかった。

 見ているほうが顔を顰めたくなるほど痛々しく焼け爛れた肌を晒しながら、しかし紫於はいたって平然としていた。ヴァンパイアに突出しているのはあくまで治癒力であって、負った傷に対する痛みは、その傷が癒えるまで、相応に感じているはずなのだが、そこはさすがにヴァンパイアの原種と言ったところか。

「銀の十字架クロスだ。趣味の悪いことに」

 まったく癒える気配のない熱傷に不審を示した朔月に、紫於はそう吐き捨てた。平坦な中にも、確かに苦さを感じさせる声音で。


 ヴァンパイアに対して銀は、その治癒力を阻害する働きを持ち、銀によって負わされた傷は通常よりも癒えるのに時間がかかる(それでも、人間の場合よりは相当速いが)。加えて、原理メカニズムは不明だが、ヴァンパイアは神教の信仰対象物を嫌い、銀で生成されたそれは、その肌を焼く。

 銀の十字架クロスを押し当てられた左頬と、それを剥ぎ取った左掌の熱傷は、普通なら確実に瘢痕を残すだろう代物だったが、ヴァンパイアの治癒力は普通ではない。銀によるものゆえ治癒に時間はかかるだろうが、放置したとしても数日で、痕も残さず癒えただろう。

 しかし紫於は、その数日を待てずに朔月の診療所を訪れた。

 放っておいても自然治癒する傷を、できるだけ早く治したいと言う、その理由を聞けば、紫於はただ「うっとうしいから」としか答えなかったが。

 求められたからには応えたい。

 方法がないわけでもないのだから。

 とはいえ、その方法とて、とても治療と呼べるようなものではないうえに、果たしてそうまでして治癒を早める意味があるのかという疑いもある。


 銀によって負わされた傷は、ヴァンパイアが本来持つ治癒力が阻害されている。ならば、、本来の治癒が見込める。

 行為だけを見ればまったく本末転倒だし、銀による傷が癒えるまで痛みを感じ続けるのと、瞬間的とはいえおそらくは比べ物にならない激痛を耐えるのとではどちらがましかとなれば、まぁ、ひとによって意見は異なるだろうが。

 紫於は迷いなく後者を選び、自ら熱傷を負った皮膚を剥ぎ取った。まったくの無表情で。「なんなら手首ごと切り落とすか?」などと嘯きながら。

 そうして、今まさに真皮が再生されつつある紫於に、朔月は輸血の処置を施した。


 紫於が朔月に求めたのは、正確には熱傷に対する治療ではなく、早めた治癒によって消費される血の補充だ。

 ヴァンパイアの治癒力はその血に宿るとされ、傷を癒すことによって血が消費される。それは飢餓感となって表れ、彼らの精神を蝕むと言う。

 ヴァンパイアが血を消費した結果、味わう飢餓は、人間の飢えとは性質が異なるらしい。それは時に、理性的な彼らから理性すら奪うほどの、圧倒的な感覚。生皮を剥ぐ痛みなど比べ物にもならないとは、紫於の談だ。

 表情ひとつ変えずに自らの皮膚を剥いでみせた紫於が言うのだから、それは確かに、相当なものなのだろう。

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