4夜 その痛みで、煮え滾るような感情を冷ます

「させないよ。誰にも、狭霧は殺させない」

 囁くように宣言する男を目を細めて見やり、紫於は舌打ちを漏らした。

(眷族か)

 血の匂いが同じだから、これほど接近されるまで気づかなかった。己の失態に舌打ちし、僅かに思考を修正する。

 接近に気づかなかったのは、その血の匂いが狭霧のそれと同じだったからだけではない。男が完全に気配を消していたからだ。

 だが、原種である紫於の感覚を、狭霧の血を受けた眷族とはいえ格下の転化種が欺くことは容易いことではない。実際、紫於は狭霧の眷族の存在を失念していたわけではないのだ。

 狭霧は好んで眷族を持つ性格ではないが、同時に自らの手を汚してまで事を起こす性格でもない。今回の件は、狭霧の意思で起こされたものであっても、狭霧の手で行われたものではない、というのが、彼女の性状を鑑みて紫於が下した予想だった。

 今現在、狭霧に侍る眷族が一体以上存在することは予想していたし、そもそも、狭霧が成さんとしていることの障害たりえる紫於の前に、彼女が無防備に身を晒すはずがないのだ。

 狭霧の眷族が周囲に潜んでいることは予想できたし、紫於が狭霧に殺意を向ければ、従者が彼女に加勢するだろうことも容易に想像できた。予想し、想像し、警戒していた。にもかかわらず、男は紫於に気づかれることなく、ここまで迫った。

 その事実に、紫於は剣呑に双眸を細めた。


「誰にも、狭霧の邪魔はさせないよ」

 気負うでなく、その目元に微笑さえ浮かべて、男は言った。同時に、踏み込んでくる。

 鋭く振るわれた長剣を、紫於は短剣の刃で受け止めた。そして、目前で月光を弾いた刃の、銀の煌めきを見る。

 刃に銀が塗布されている。──ハンターが狩りに用いる剣だ。

 見合ったのは、一瞬。紫於が押し返す腕に力を込めた、その力に抗わず、男は後方に跳んだ。追撃する紫於の刃を、体捌きでかわす。

 その身のこなし、武器の扱いは、ヴァンパイアの突出した身体能力に頼ったものではない。明らかに訓練を受けた者のそれだ。訓練によって体に叩き込まれた動き、それにヴァンパイアの身体能力を上乗せしている。

 厄介な。

 苦々しい思いを噛み砕いて、紫於は男をひたと見据えた。その背後には、狭霧。すでに高みの見物を決め込んで、二人の切り結びを面白そうに見ている。

 その狭霧に、紫於は苦々しく言った。

「狭霧、貴様。ハンターを眷族に引き込んだか」

 吐き捨てて、紫於は床を蹴る。男に向けて、刃を繰り出す。


 原種たる紫於と狭霧の眷族とでは、紫於のほうが格上。ヴァンパイアの潜在能力は単純に血の格に依り、〝原種〟と〝原種の従者〟との間には、埋めようのない差が厳然と存在する。

 その格の差を、男は訓練された体術と剣捌きで埋めているが、訓練されているが故に、その動きは読みやすい。

 幾度か剣を合わせ、その太刀筋と動きの癖を読む。紫於の刃を避けようと半身を引いた男の動きの先を読み、間合いの内側、懐に入り込む。短剣のその薄刃を、躊躇いなくその左胸に突き立てる。

 男は咄嗟に身を捻り、しかし刃をかわしきることはできず、薄い刃は深々と、男の左肩に潜り込んだ。

「────っ」

 悲鳴も上げず、男は肉薄した紫於の顔に、なにかを押し付けた。瞬間、左頬に焼けつくような痛みが弾ける。短剣の柄を放して、紫於は大きく後方に跳んだ。

 再び対峙する。深々と突き立てた短剣は、根本まで男の肩に刺さっている。おそらく、刃は貫通しているだろう。しかし男は、苦痛の欠片も見せず、憎らしいほど平然としている。

 その姿を睨みながら、紫於は焼けつく熱を持って左頬に貼りついているなにかを、剥ぎ取った。

 ちらりと視線をやる。予想通りのものが掌に収まっていた。

 銀製の十字架クロス。こんなものを忍ばせているとは、ハンターとしては当然の備えなのかもしれないが、同族としては悪趣味だとしか言えない。埒もない物思いとともに、掌の皮膚を焼くその十字架クロスを投げ捨てる。


 互いに浅くはない傷を負い、しかし男も紫於も、僅かの呻きさえ零さない。

 重苦しい静寂。それを破って、

「痛み分けか?」

 笑みを含んだ狭霧の声が、投げられた。

 男の背後、数十メートルの空間を挟んで立つ同胞を、紫於は剣呑に睨んだ。しかし、視線は無力だ。悠然と立つ狭霧の、その白い肌を僅かに傷つけることさえできない。

 紫於の視線に嘲笑で応え、狭霧は踵を返した。

「舞台も役者も整うておらぬ。時を改めるとしようぞ。──退くがよい、雪斗」

 それだけを言い置いて、自らの従者を顧みることもなく、床を蹴る。鳶色の髪と漆黒のドレスに風を孕ませ、その姿はビルの谷間に消えた。

 カラン、と、硬質な音を立てて、血に濡れた短剣が床に跳ねた。

 雪斗と呼ばれた男は、肩から引き抜いた短剣を無造作に投げ捨てると、当然のように狭霧の後を追った。すでに紫於に仕掛ける気がないことを了解しているように、無防備に背を向けて。

 言葉もなく去る男を、紫於もまた、言葉もなく見送った。


 薄く白煙を上げている掌を見やり、焼け爛れた傷を握り込む。爛れた皮膚に爪が食い込み、激痛が走った。その痛みで、煮え滾るような感情を冷ます。

「…………」

 胸の中で渦巻く感情を吐き出そうとして、言葉にならずに奥歯を噛んだ。そのまま数秒、身内で荒れ狂う激情をやり過ごして、顔を上げた時には、その表情は冷静さを取り戻していた。

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