3夜 生まれたのは、ただ冷たい怒り
(なるほど、これは確かに──)
足下に横たわる物体を見下ろして、彼は胸中で吐き捨てた。
これは本来、彼が関わるべき事態ではない。少なくとも、彼のほうから首を突っ込む筋合いのものではないだろう。しかし、捨て置くこともできそうにない。
苦々しく、舌打ちした。
表通りから微かなざわめきが聞こえる、首都の路地裏。細い月の放つ光はビルの谷間の底には届かず、闇に沈んだ足下で、粘性を持つ液体が少しずつ、黒々とした面積を増やしている。
あるかなしかの風に、澱んでいた金臭さがほんの僅か、掻き回される。
停滞していた空気が揺らいだようなその瞬間に、ちりっと、痛みに似た感覚がうなじを撫でた。
それは視線。意思を持って投げられた──
それを知覚すると同時、死体から視線を外し、彼は地を蹴った。
左右に建つビルの壁面を足がかりに、僅かな助走と軽やかな跳躍で、数十メートルを上昇する。
遠いざわめきが静寂を強調する停滞した夜の底から、地上より僅かに風の強い夜空に躍り出る。
微かな月光を背に視線を巡らせ、彼が身を沈めていた路地から程近い、周辺で最も高いビルの屋上に視線を据える。人ならざる跳躍で夜空に躍り出た彼を、見失うことなく追い、刺さるほどの視線を投げてくる影に。
肉眼で相手の容姿を判別するには、やや距離がある。しかし彼の視力は、そこに立つ人物の姿を細部まで、明瞭に見て取った。
闇の澱む路地でその視線を感じた時から、あるいは首都で起きている事件を伝え聞いた時から、そこに立つ相手は予想できた。
はたして、予想通りの相手をそこに認めて、彼の心に生まれたのは、ただ冷たい怒りだった。
手近なビルの屋上に降り立つと同時、その床を蹴る。誘うように彼を見つめたまま動かない相手の許へ、一足飛びに跳躍し、
「やはり貴様か! 狭霧!」
叫びざま、懐から出した
相手にとって、それは想定内の反応だったのだろう。驚く様子も見せずに軽やかな身のこなしで白刃を避け、軽いステップで隣のビルへと跳び移った。
幅にして三メートルほどのビルの谷間を挟んで、対峙する。
「久しいの、
紅い唇を歪めて、狭霧が言う。
年の頃は二十代半ば。鳶色の波打つ髪を腰まで伸ばした、妖艶な女だ。
対する紫於は、十五、六に見える少年。
しかし互いに、その外見からは推し量れないほど永い時を生きてきた。そして、それに見合うだけの古い馴染みだ。
「そんなもので妾を殺せぬことは、承知であろう?」
紫於の手にある短剣に視線をやって、狭霧は嘲りを含んだ笑みを口元に浮かべた。
対して紫於は、冷やかに言い返す。
「心臓を突けば、貴様とて滅びるだろう」
「突ければの」
狭霧はあくまでも余裕含みに、嫣然と応えた。その余裕が癇に障る。紫於の声に険が宿った。
「これは、貴様の仕業か」
「これ、とは?」
「とぼけるな」
彼が置き捨ててきた、闇の底に残された死体。紫於が見つけた時、肌に温かさを残しながらもすでに息のなかった女は、おそらくは歓楽街のどこかの店で働いていた女だったのだろう。露出の多い衣服をさらに裂かれて露わにされた白い背には、刃物で文字が刻まれていた。
血溜まりの中、うつ伏せに、蒼白になった肌を晒した哀れな女の背に、生々しく刻まれていた文字。──同族殺しに告ぐ。止めてみよ。
「なんのつもりだ。こんな方法で〈同族殺し〉を呼び寄せ、なにをしようという」
「なにを、か。分かりきったことを」
紫於の怒気を含んだ声に、しかし狭霧は悠然と笑うばかり。
その姿に苛立つとともに、違和感を覚えた。
紫於の知る狭霧は、高慢で誇り高い女だ。そして(厄介なことに)愚かではない。その認識と、首都での派手な行動が、重ならない。
「なにを考えている、狭霧。首都には《機関》の本部がある。派手に動けば、我らの存在を感づかれよう。首都で不用意に《機関》を刺激すれば、同胞を危険に晒すことにもなるのだぞ」
彼らの同胞の多くは、人間に擬態し、人間の中に紛れている。殊更に自らの存在を誇示することは、人間の群れに溶け込んでいる同胞を悪戯に危地に陥れることに繋がりかねない。
互いの領域を認識し、領分を犯さない。それが、彼らが人間の中で生きていくために身につけた不文律。
しかし狭霧は、そんな紫於の忠告を嘲笑うように、冷たく吐き捨てた。
「知らぬな。そんなことは妾の知ったことではない。たかが人間のハンターに狩られる程度の者なら、遠からず滅ぶ運命であろ」
「貴様──」
「気に食わぬなら、止めてみればよかろう? 無理だろうがの」
余裕と侮りを滲ませた狭霧の笑みに、紫於は奥歯を噛んだ。
狭霧は、紫於と同じく原種。原初の血を持つ、最高格のヴァンパイア。その血が同格である以上、有する力も互角。一対一でやりあえば、決着は容易くはつくまい。──だが、
「必要とあらば、やってみせよう」
さりとて、永遠につかぬこともあるまい。
「ここで滅ぶがいい、狭霧!」
短剣を片手に、床を蹴る。
「──させないよ」
不意に、声が割り込んだ。声に続いて、姿も。
退く狭霧と追う紫於、その間に割り込み、紫於の刃をその手の長剣で弾く。狭霧を背後に庇うように、男は紫於と対峙した。
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