2夜 未練を握り潰すように、その手を握りこんだ

 意思も意図も感じられない、ただ本能のままに暴れているような──それでいて振り抜かれる腕が、蹴り出される足が、その一撃がひとのそれをはるかに凌駕する威力を持つ化物の攻撃を、紙一重でかわしていく。

 膂力や脚力はもちろん、握力も人間の比ではない。掴まれれば振りほどくことは不可能で、そのまま引き裂かれることさえありえる。近づきすぎることは身の危険を招き、かといって離れすぎれば、対象の秋羽への関心が薄れる。

 周囲の人々の避難が叶うまで、つかず離れず、対象の関心を引き続ける。それは、考えるよりずっと難しく、なにより神経が磨り減る。

 恐慌をきたした人々は滅茶苦茶に逃げ惑うばかりで、避難は一向に進まない。じりじりと時間が過ぎる中、焦りばかりが募っていく。そんな時、不意に、視界の外、背後に気配を感じた。風の動く気配を。


 咄嗟に飛び退いたその場所を、銀光が薙いだ。


 驚愕に静止したのは、一瞬。

 向けられる殺気に、体が勝手に反応した。鋭い太刀筋を描いて繰り出される白刃を、無意識の内にかわし、受け、弾く。

 その間、秋羽はただ瞠目し、目の前の光景を、信じられない思いでその瞳に映していた。

 思考は疑問で埋め尽くされ、まともに働かない。

 ただ、唇から疑問が零れた。


「なぜだ、雪斗」


 掠れた声は剣戟の音に紛れて、秋羽自身の耳にも届かなかった。相手には尚更、届かなかっただろう。

 しかし雪斗は──《機関》のハンターであり秋羽のバディである男は、その疑問が聞こえたかのように、その瞬間、僅かに笑みを深くした。

 どんな時でもほのかな笑みを絶やさない友の、その笑みが、その瞬間、仮面のように思えた。

 笑みの仮面を被り、言葉もないまま、確かな殺気を湛えて、雪斗は手にした愛用の剣を秋羽に向ける。そこには僅かの躊躇いもない。

 気づけば喧騒は去り、街並みすら消えていた。逃げ惑うひとの姿も、秋羽が剣を向けていたヴァンパイアの姿もなく、周囲は一面の闇。すべてが消え失せた中、秋羽は雪斗と対峙している。

(違う。これは──)


 これは現実ではない。


 頭のどこかで、そのことを知っている。これは現実ではなく、ただの妄想。過去の記憶でもなければ、未来を予見したものでもない。予感ですらない、ただの悪夢だ。

 だから、その問いは意味を成さない。

 分かっていても、言わずにいられなかった。

「なぜだ! 雪斗!」

 秋羽のよく知る笑顔で、拘りも葛藤もなさそうな彼らしい笑顔で、秋羽に向けて剣を構える雪斗に、叫ぶ。

 応えはない。雪斗は、秋羽の叫びなど聞こえなかったかのように、貼りつけたような微笑をほんの僅かにも崩すことなく、秋羽に向けて踏み込んだ。


          †   †   †   †


「雪斗!」


 叫んだ声で目が覚めた。

 目覚めて数秒、寝台の上で荒い呼吸を繰り返す。

 疾走していた心臓が鼓動を緩めるのを待って、身を起こした。掛布を握り締めて固くなっていた手を開く。背中にじっとりと汗をかいていた。

 詰めていた息を吐き出す。肺が空になるほど吐ききって、片手で顔を覆った。その手が微かに震えていることを自覚して、動揺している自分自身に舌打ちする。

(夢だ)

 あんなものは夢だ。たちの悪い、ただの夢。ただの悪夢。

 現実ではないし、現実にはなりえない。

 なぜなら、


(雪斗は、もういない)


 彼が背中を預けていた友は、すでにいない。

 ともに並ぶことも背を守り合うことも、剣を向け合うことさえも、ありえない。そんなことは、決して起こらないのだ。

 たとえ秋羽が、対立し互いに剣を向け合う関係でもいいから、再びまみえたいと願っても。

 そんな願いは、叶わない。

(雪斗はもう、いない。──いないんだ)

 自らに言い聞かせるように、胸中で繰り返す。

 軍の訓練生時代からの同期で、《機関》配属後もバディを組み、互いの剣を支え合い、背を守り合った友は、もうどこにもいないのだ、と。


 これまで何度も自分自身に言い聞かせ、納得できていると思うのに、それでもこんな夢を見てしまう。未練がましく。

 その未練を握り潰すように、秋羽はきつく、その手を握りこんだ。

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