第三話『鏡境界』前編
先生の帰りの合図と一緒に、同級生達は、ほぼ一斉にそれぞれ目的のために走り出した。夏の暑さでサウナのようになっていた教室に、開放感が訪れる。
女子高とは、もう少しおしとやかで、おとなしい子達が集まるかと思っていたけれど、こうして通い続けているうちに、私はその考えの誤りを正されていった。
私は、そんな同級生達から一歩遅れて教室から出た。今日は土曜日で午前授業で、掃除は休みだったから、みんな早く町に繰り出して遊びたいのだろう。
そんな種類の人間達とも私は思い切り外れていた。理由はもう笑いたくなるくらいわかっているので口には出さない。私は、誰とも話すことなく靴を履き替えて、校舎を出た。
校舎を出ると、早速部活動に勤しむ生徒達が見えた。それはとても人間にとって健全で良いことではないかと思う。でも、そんな彼女らの姿を拝もうと、鼻の下を伸ばして金網にへばり付いている隣の男子高校生達は、あまりにも場違いで目障りだった。
それを横目に見ながら、私は校門へと歩みを進めていた。すると、目の前に同級生達の集団が見えてきた、しかもよく見たら私に手を振っている。同級生の原崎さんだった。
「明智さーん! こっちー!」
そして私の名前を呼んでいる。無視するのも後で面倒になりそうだったから、私は小さく手を振り返して返事をした。でも、急げと言わんばかりに今度は飛び跳ねて手を振ってきたので、仕方なく私は走った。
人を急かしてくれたお礼に、私は少し病弱を気取って、とても疲れたような素振りを見せつけておいた。
「ごめんね、慌てさせちゃって」
そんな社交辞令から会話が始まった。なんでも、カラオケにこれからみんなで行くから、私も一緒に来ないかという話だった。
そういった誘いが嬉しくないわけではないし、興味もあるけれど、私は残念ながら歌が上手くない。それに、最近の曲にも詳しくない。金網にへばり付いて、健全に身体を鍛える少女達を品定めする男子達並に、場違いになるのは明白だった。
私は、僅かに残った好奇心をなんとか押さえつけ、失礼の無いような理由をつけて断った。みんな何故だか残念そうだった。
「だったらしょうがないけど、今度暇があったら明智さんと一緒に遊びに行きたいと思うからさ、今度どこか行こうよ」
「ええ、私で良ければ、いつか行けるといいですね」
特にいつと決めたわけでもない口約束だったが、それが嬉しかったらしく、原崎さんは絶対だといって私に無理やり指きりさせると、待っていたクラスメイト達といってしまった。少しそれを見送ったあとで、私も帰り道へ足を向けた。
三十分くらい歩いただろうか、私は、空き家が立ち並ぶ、住宅街の中でも廃墟と呼ばれるほど人のいない場所にある、狭い行き止まりにやってきていた。昔はごみ置き場として使われていたらしいけれど、今は場所が変わったというチラシが貼ってあった。つまり、今ここには何もないということだ。
何もない行き止まりを少しだけ見上げると、左右に二つの低い街灯が立っていた。いや、これは低いと一言で言い表せることが出来るような低さではない。まるで、子どもの背の高さにあわせて作ったような、通常の街灯の半分にも及ばないくらいの高さしかなく、私の目線よりちょっと高いくらいだった。
そもそも、その低い街灯のさらに上には、街路樹より高いくらいの街灯が立っていて、この低い街灯の存在価値を全て台無しにしている。
私は、それをしばらく黙って見ていたけれど、いい加減にしてあげないと“ちょっと可哀想”だと思い、ため息をつきながらそれに声をかけた。
「ただいま」
そう声をかけた途端に、二つの街灯は爆発するようにポンッという音を立てて煙と化し、その場からあっという間に消滅した。
煙はすぐに晴れて消え去って、その後に残ったのは、頭に枯葉を乗せた小さな子ども二人だけだった。だけどこの子達は、人間の姿をしていなかった。体中から小麦色の体毛が生えていて、顔つきは狐そのものだ。まるで、二本足で歩く仔狐のよう、と例えるのが妥当だろう。
「おかえりなさいませ。お待ちしておりました」
「おかえりなさいました。ずっと待っておりました」
二人が各々の言葉を重ね合わせるようにして、私に挨拶をした。それに私は苦笑いを浮かべながら答える。
「どうやら、随分とお待たせしてしまったようですね」
「とんでもございません。これが私達の役目ですから」
「滅相もございません。妖仙狐様のご命令ですから」
二人は揃って私にお辞儀をしてから、行き止まりの壁まで走りだしたかと思うと、壁に手を押し当てた。そして、スポッというような音がしたかと思った時には、その行き止まりの壁にはぽっかりと穴が開いていた。
私はその開かれた入り口に、手馴れた様子で入っていく。何せもう、ここは私の通学路の一つなのだから、手馴れているのも当然だった。
「誰にも見られていません!」
「誰にも発見されていません!」
「ありがとう」
仔狐二人の報告を聞いた後、私は改めて目の前に広がる薄暗い世界を眺めた。その穴の先には、今居た所とは、全く違う世界が広がっていた。外国や自然災害が起きた後、そこが別世界に見えたと大袈裟に話を大きくする人間は良くいるけど、ここはそれとは格が違う。
空を見上げれば、淀んだ紫色が広がっている。雲が少しかかった夕暮れ時に、紫色の空が見られることがあるらしいけれど、これは元々の色だ。つまり、この空の色は、永遠に明るくなることはないのだ。
別に、何かの悪影響でそうなっているわけじゃない。元々この世界は、こういう風に出来ている。辺りに立ち込めている嫌にひんやりとした肌触りの空気もまた、元々のものだった。
仔狐を引き連れて、私は自分の住処を目指した。といっても、目指すなんてご大層な言葉とは裏腹に、それほど距離はない。もう目の前に家屋は見えていた。
古ぼけてはいるけど、中はかなり広い二階建ての木造住宅が、私の現住所だ。といっても、私が所有する家ではない。むしろ、ここの本当の目的は人が住むことではなく、仕事をするための場所、つまり会社だった。
怪奇万能魂式会社。私が今住み込みで働いている企業の名前だ。
この“妖界”でもなかなかの知名度と、いくつかの支部を持ち、“怪社”という愛称で呼ばれているこの企業は、私達の特技や特殊能力を使ってありとあらゆる仕事を引き受けるのが特徴だ。
そんな企業で働いているはずの私がこうして学業に専念しているのは、将来を考えているからでも何でもない。ただの趣味だ。
「ただいま戻りました」
と、私がいつも社員達が集まる客間に戻ってくると、副社長である妖仙狐さんが、ソファーでくつろいでいた。この方はいつも暇そうだった。しかし仕事を進んでやろうともしなかった。
「おや
人間の世界での私は、
本当の私の名前は、鏡明華という。
鏡妖怪としては、自分で言うのもなんだけれどかなり格の高い存在で、これは妖仙狐さんのお墨付きでもある。だからこそここに難なく住んでいられるのだけれど。
「少々待たせてしまったようで、すいません」
「何がですか?」
「外で今掃き掃除をしている、あなたの“下僕さん”達のことです」
「ああ。何を気にしているんですか。下僕なのですから、いざという時は盾にして、使い終わったら生ごみの日に出しても良いんですよ」
そういう恐ろしいことを平然という妖仙狐さんは、本当に言ったとおりのことをやりそうだから怖い。創設メンバーで妖仙狐さんをよく知っているという銭鼬さんも、口で言うのも恐ろしいほどのことを、昔からやってきた方だと言っていた。
そんな人の下で働くのは、考えてるより酷なことだろう。彼等はこの社屋に入ることすら禁止されているし、それぞれの名前も存在しない。『
「そんなことより、人間の学校はどうでしたか? 本日も楽しみましたか?」
「毎日、何かしら関心を惹くことが起こりますからね、退屈はしなかったですよ」
「私も人間の姿になれたのなら、一度出歩いてみたいものですが」
「恐らく妖仙狐さんには退屈だと思われます。人を化かすよりは数倍つまらないことでしょう?」
「それも今では加減が効かなくて、つまらないのでやりませんがね」
妖仙狐さんは、ちょっと機嫌を悪くしたのか、拗ねた口調でつぶやいた。
私はよく知らないけれど、大昔の妖仙狐さんは、大妖怪と言われるほどあらゆるものを超越した、恐ろしい妖力を持った狐妖怪の人だったらしい。今だって少なくとも、この会社においては一番の戦闘力を持っているだろうけれど、話に聞く限り、明らかに昔と比べれば、それは大した力ではない。
そうなった理由は、銭鼬さんから暇つぶしに聞いたけれど、なんとも妖仙狐さんらしくない失敗が原因だった。
ある村を一つ困らせて遊んでいたところ、一人の僧がやってきて妖仙狐さんを封印するため挑んできたという。対抗した妖仙狐さんは、その力で軽くその僧を捻り潰したけれど、瀕死になった僧は、そこで厄介な呪いを残したのだ。命を賭けて。
僧の呪いは思ったより強く、かけられた当初の妖仙狐さんは、歩くのも大変なくらい弱ってしまったらしい。その呪いを少しでも解くために修行した結果、現在の弱体化した状態に至るというわけらしい。
もし、大妖怪だったら、妖仙狐さんがこの怪奇万能魂式会社の副社長になるどころか、この会社すら存在すらしなかっただろう。
「ところで、鏡明華さんは、要戒十くんとはもう対面されましたか?」
「いえ。噂で聞いたぐらいです。本当に純粋な人間なんかが勤務されているんですか?」
本当に会ったことがなかったので、私は皮肉めいたことを言った。
「あなたに冗談が通じないことぐらい、わかります。ただあの方はソファーで涎を垂らしてぐうたらしてる私とは違い、本当に真面目な新入社員さんですからね。早く信頼されるためなのか、他の社員の何倍も働いて客を得られていますよ。人間のね」
自分の働きが少ないことを理解してるのなら、働いて欲しい。一番強くて、かつ利口そうなのに。
「だから、会うことがないと?」
「彼が来て二週間は経ちますが、仮眠すら惜しんでいる時がありましたからね。そろそろちゃんとした部署をつけて銭鼬さんの下で働いて頂きましょうか」
「二週間も、私は彼に会ってないんですね。毎日ここで寝泊りするこの私が」
「挨拶をされてないとは意外でした。珍しく注意でもしてみましょうかね」
「別に良いですよ。忙しく真面目に働いているのでしょう? なら私が邪魔したら悪いから、このままで良いですよ」
私は、そう妖仙狐さんにさりげなく彼に対する拒否感を示した。人間界で普段勉学を遊びで学んでいるから、人間好きとは限らない。毛嫌いもしていないが。
妖仙狐さんは少し悩んだ顔になってから、「まあ状況に応じてですね」と曖昧な返事をして、またソファーでくつろぎなおしていた。いつも旅に出ていて会社に出てこない社長よりはマシだけれど、結局は五十歩百歩だと思う。
話を一通り終えた私は、ひとまず自分の部屋に戻って制服からいつもの服に着替えることにした。人間のように一つ一つ着替えるようなことはしない。人間は羨むかもしれないが、私はくるりと身体をその場で一回転させると、一瞬で服を変えることが出来る。いつも遅刻で呼吸困難を起こすような真似をして滑り込んできている同級生にこれを話したら、どれだけ歯軋りすることか。
そんな人間を面白がりながら、鏡である私が鏡の中の自分を眺めた。既に着衣は赤を貴重とした黄色いタンポポ柄の着物に変わっていた。腰に巻いた紫の帯が、私のお気に入りだ。この着衣が、半ば普段着のようになっている。他にも、服さえ手に入れれば、こうして瞬時に着替えることも出来るし、入浴したい時は瞬時に脱衣することだって可能だ。
「さて、妖仙狐さんの横に座って転寝でも致しましょうか」
と、誰も聞いてないのに、その気も無いことをつぶやいて、私はまた客間に向かった。妖仙狐さんと向き合う位置に座るのが私の定位置だった。別段場所に対する意味も思い入れも無いが、涎が私のほうに垂れて来たら嫌だな、というのがあるから、ずっとこうなのもしれない。
部屋を出てみると、見知らぬ人とバッタリであった。高校生くらいの少年だったが、私すら驚いたのにも関わらず、相手はわざとらしく身を引きつつ、私のことを眺めていた。
「始めまして。鏡明華さんはアナタ様ですか?」
少年は、いきなり馴れ馴れしく私に話しかけてきた。図が高いとは言わないが、少々図々しい。
「そうだったら、どうしますか?」
「僕は新入社員の要戒十と申しまして、人間のお客様からの依頼を受けてくるのが仕事です」
「そうですか」
私は、素っ気無く返事をする。妙に人を喰った喋り方と態度が気に入らなかったからだったけれど、少々大人気ない対応だったかもしれないと反省して、私も名乗った。が、相手もそれほど興味が無さそうだった。
とても気に食わない相手だが、私はそれほど要戒十との相性は悪くない気がした。それが逆に腹立たしい。
「あ、丁度良かった。鏡明華さん、少々お仕事のことでお話があるのですが」
「本日は決まった仕事はございませんから、死なない程度にいくらでも」
「ありがとうございます。とりあえず客間までお願いします」
私は、改めて客間に向かった。何故だか新入社員の言いなりになっているような流れが、少し癪だった。
「……こんにちわ」
「こ、こんにちわ」
客間のソファーには、また初対面の人間がいた。妖仙狐さんはもういない。
「鏡明華さん。こちらが今回の依頼人さんでございます」
「よ、よろしくおねがいします!」
精一杯強がっているかのような、甲高く威厳のない幼き声色。でもか弱く、簡単に捻り潰せそうな細く小さく脆そうな体系……中学生とまではいかないだろう。
「人間さんがここにいて大丈夫なのですか? 魂を払わず三時間以上いると、魂を取られますよ」
「知ってます。そうでなかったら、僕がずっとここに居られる訳無いじゃないですか。嫌だなあ、鏡明華さんってば、イジワルなことをおっしゃるんですね」
人を馬鹿にした物言いに相当頭に来たけれど、怒鳴っても仕方ないのですいませんと、誠意なく謝罪しておく。
「それはともかく。依頼人さんのご依頼を聞いて上げてください。あと二時間しかないんですから」
「わかりました。私に出来る仕事なら引き受けます」
そう言うと、少年がいきなり必死になってソファーから乗り出してきた。
「助けてください。鏡の中に、さらわれてしまった人がいるんです」
鏡の中にと聞いて、私はこれ以上無駄口を叩くのをやめることにした。
「僕はある夜中に、起きてトイレに行ったんです。その代わりに、部屋へ続く階段の横にかかった鏡から、変な細長い生き物が出ていて、僕と同じようにトイレに起きてきたらしい僕の父さんが、吸い込まれてしまったのを見たんです」
「妖怪に引き込まれたのでしょうね」
「その時に、何が父さんを連れ込んだか見ようとしました。暗くてわからなかったけど、動きが蛇みたいだったんです。そして、僕をケラケラと笑ってから、鏡に入って消えました」
そう依頼人が説明する中で、要戒十が横から注釈を入れてくる。
「実は似たような神隠しが最近よくありまして、調べたところ、鏡のあるところで失踪してるパターンが多いことを突き止めまして」
「それで、私の出番であると、そういうことですか」
「妖仙狐さんのお墨付きです」
まったく、自分でも出来る癖に、いつもあの方はズルイ。そう思ったけれど、実際私でないと容易な仕事とは言えないので、まあ妥当な采配ではある。
「神隠しの場所は、絞られているのですか?」
「はい。あるエリアを境に出ていませんね」
「それなら探しやすいですね。では、とにかく依頼人さんは、さらわれたお父さんを救いたいと」
「……」
何故か依頼人は黙ってしまった。すると、それらのタイミングを計画して計ったように、また戒十が横から注釈を入れた。
「というわけで、まずは事件の実態をより正確に掴むために、被害者失踪の目撃者にお話を聞いていきたいんですけれど、お時間良いですか?」
「今、聞いたではありませんか」
「そうではありません。他の被害者ですよ、こちらの依頼主さんの同級生に」
私は、また人間界へと出てきていた。一日に二回もこうして往復する羽目になったのは、なかなか珍しい。もう時刻はカラスが鳴く頃にまで迫っている。
まず向かったのが、依頼主の通う小学校だった。わりと歴史のありそうな小学校で、校庭には活気が溢れていた。失踪事件があったのにも関わらず、わりと周囲の状況は変わっていないらしい。
と思ったら、後者から出てくる報道関係のような人間の姿や、警察がウロウロしているのが見えた。中身は変わっていなくても、わりと周りは敏感に対応しているようだ。
私達は依頼主に、「現場を見た」と証言する同級生を呼びに向かわせていた。最近の人間の社会事情から、私達が入っていくと何かと問題になる故に、回りくどいけれど仕方なくそういう風に手を回すことになった。人間とは変に警戒心の強い生き物だ。
待っている間、私と要戒十は二人きりになった。人間とはこういう時に恋人だとか何だとかで冷やかしの目で見ることが多いらしいが、私からすれば心外も良い所だ。
「……」
要戒十は、待ってる間ずっと何を考えているとも知れない目で、遠くの空を見上げていた。私も暇だったのでそれを真似してみたが、面白いものは何もない。ただ、朝夕夜に色が変わるという、妖界にはない概念があるだけだ。今は夕方なので、もみじのように赤く染まっていた。
そんな要戒十に対して、私はまた暇つぶしの余興として、少し意地悪を言ってみることにした。
「もう人間の世界が恋しくなりましたか?」
「いいえ。むしろ僕は誘拐事件の被害者ということになっていますから、お尋ね者の気分です」
「それにしては、人間の依頼ばかりのようですね」
「それしか今の僕には取り得がありませんからね、ただその方が会社にとっても利益が倍に上がりやすいようですけれど」
「あなたが捕まって妖怪のことを洗いざらい白状しないか、私は少し心配ですが」
「世間はもう事件のことはほとんど忘れているようですから、今やこちらの失踪事件にテレビは釘付けですし。ですから僕は、自分の生まれ育った町以外に赴いて、こうして依頼を受けているだけです」
「でも確実ということはないでしょう?」
「その時は鏡明華さん、遠慮なく助けてくださいね。期待しております」
私は話すのをやめた。何をいっても、相手は全く動じない。これ以上は、私が足をすくわれるだけだ。
それからしばらく沈黙が続いた後、依頼主はその目撃者だという子を連れてきたので、私達を場所を変えて話を聞くことになった。
目撃者だという子どもは、内気そうな顔をしたショートヘヤーの女の子だった。風通しのよさそうな薄いワンピースに身を包んでいるためか、小枝のように細い身体が余計に目立ち、彼女をさらにか弱く見せていた。
「じゃあ、サキさんのことを話してください」
「……えっと」
「なんでもいいから。時間がないんだ」
「その、なんて言ったらいいか」
年上の私と要戒十を見て、彼女はかなり緊張していた。こういうとき、彼女の緊張を解いて話を円滑に進める方法を、私は知らない。人間より遥かに多くの時を生きていても、そういうことには疎い。実際、依頼主すら、困惑している。
すると、黙る私の横から、一番彼女に威圧を与えていそうな要戒十が、身を乗り出して彼女に話しかけた。
「少しお時間を頂くだけです。あなたのお友達を僕等がお救い出来るかもしれないので、どうかご協力下さい」
「……サキちゃんを、助けてくれるの?」
「はい。こちらの優しそうなお姉さんが、連れて帰ってきますから」
いきなり要戒十が勝手なことを言い始める。依頼は、依頼主の父親を助けることであって、こんな少女の依頼まで受けるつもりはない。
「本当?」
内気そうな彼女が笑うと、とても微笑ましい顔になるんだなと思った。いや、今はそんなことが問題ではない。どうして、私が契約外のことまでしないといけないのかということだ。
いくら子どもを宥めるためにしたって、子どもの気持ちを裏切ったという名誉と自尊心を傷つけられる結果になるのはゴメンだし。
返答に困っていると、要戒十が私の顔をじーっと眺めているのに気づいて、思わず顔を引いた。まるで私の事を非難するような目で、どこまでも憎たらしい。
「……ええ、本当よ」
追い詰められた私は、ついそんなことを言ってしまった。それを聞いた少女が微笑んだので、私も引きつった笑顔を返す。悔しいことに、まんまと要戒十にしてやられたと苦虫を潰したような顔になっていると、ふいに彼が私に耳打ちをしてきた。
「まあ、どの道その鏡妖怪を退治したら、生きてる人間はみんな助けることになるんですから、良いではないですか」
「サキという女の子が生きているとは限りませんよ」
「その時は、こちらの方を大いに泣かせてください」
「……」
結構この要戒十とは、妖仙狐さんに似ているかもしれない。人間の癖に、他に対して容赦がなかった。
「そういうわけで、どうぞ話してください」
要戒十は、コロッと態度を変え、少女にまた話すように促し始めた。まったく、どこまでも人を食って、自分を食わせない男だ。
私達は少女にお礼を言って別れを告げると、改めて依頼主の目撃談と照らし合わせることにした。
話によると、彼女が見たのは依頼主のように影ではなく、蛇の姿をした化け物だった。それでもう検討がついた。
要戒十が、わかったような顔ですね、と言いたげだったので、口に出して言われる前に私から話を進めることにした。
「恐らく
「同じ鏡妖怪なんですか? でしたら説得とか出来ないものですか」
「融和路線なんて円満な解決はありえないでしょう」
「それは残念。煩わしいことなりますね」
要戒十が居なければ、私的にはもう少し仕事が円滑に運んでゆけるような気がする。
「それでは、大体予定は決まったみたいですから、依頼主さんは適当に喫茶店か何かでお待ち下さい。もう夜だし、あまり小学生がウロウロしていると、世間はうるさいですよ」
といって、有無を言わさず要戒十は依頼主を連れて、町に出て行ってしまった。また待たされることになるのかと思っていたら、彼は五分も経たないうちに帰ってきた。
「じゃあ。これからのお仕事、よろしくお願いします」
「……随分お膳立てがお上手なのですね」
「大先輩のあなたに褒められるなんて、光栄です」
「それとも、妖怪退治の時にあなたでは役に立たないから、こうして頑張ってるんですか?」
「心外ですねぇ。僕だって妖怪退治に何かしらお役に立ちますよ」
「どうやって?」
そう聞くと、意外にも要戒十は即答せず、それどころかうーんと考え始めた。てっきり、もう答えを用意していたかとばかり思っていたのに、どこまでもわからない奴だ。
「蛇憎鏡を退治するには、何が必要なのでしょう?」
「鏡から出てきたところを抑えることです。さっき話しそびれましたけど、そもそも鏡の世界というのは、入り口が無数に存在する世界なんです。だからこの人間の世界とも、私達の住んでいる妖界とも違う……それはそれは広大な世界です。その入り口は、この世に鏡が生み出され、一つの場所に定着していく限り、延々と生まれます。ただ、入り口に入る事が出来るのはそこで生きるものか、私のように鏡として生み出されたものだけ」
「じゃあ、僕は入れないと」
「ならどうして誘拐された人達は吸い込まれていったんですか? 私達が鏡を移動すると、鏡に波紋が生まれるのです。波紋が消えないうちなら、人でも蝿でも象でも、世界にはいることは出来ます。ただし入り口が何分多くて、適当に入っても出くわせる可能性は少ないので、相手が出てきたところを狙うというわけです」
「そういうことなら、誰か囮役が必要ということですね?」
「ええ。でも私では妖気から人間でないことがバレて警戒されてしまうんですよね」
と、私が少し困ったように言うと、要戒十はわざとらしく胸を叩いて私に言った。
「なら、僕が囮を引き受けましょう」
「え?」
「他にいないでしょう」
「そうですけれど。死ぬかもしれませんよ? 蛇憎鏡は凶暴なうえに、この上なく肉食ですから」
「大丈夫ですよ。鏡明華さんが助けてくれますしね」
「……」
「助けてくれますよね?」
無感動に淡々と言う彼の言葉に、頼もしいと感じるべきなのか、胡散臭いと感じるべきなのか……今の私にはわからなかった。
私達は、捨てられて放置されているような鏡を探した。人のいる場所で考えると仕事がやり辛い場所が多いからだ。しかしそれに絞ると、なかなか条件にあった鏡は発見できなかった。
鏡は少しでもヒビが入ると、入り口は機能を失って消えてしまうので、所有者のないものを見つけても、ひびが入っていた等の理由で使えない場合ばかりだった。
私は眠くも無いのにあくびをしながら、要戒十に続いていったが、ついに飽きが来て、途中「疲れてしまいました」とまた病弱を気取ってベンチで休むことにした。
きっとこれで今日は諦めるだろうと思ったら、難しい条件の中で彼は、途端に気を利かせ、すぐに探し出してきた。もしかして最初から検討がついていたのではと聞くと、彼はしれっととぼけた。
私達がやってきたのは、小学校の裏に広がる、じめっとした庭だった。もう少し明るければ全貌がわかるのに、ここはほとんど隣接する住宅の灯りだけで照らされていて、薄暗かった。妖怪の私だって、こんな見通しの悪いところからは早く立ち去りたい。
しかし、学校に常駐しているいくら警備員も、まさかここで蛇を捕まえようとやってきている者がいるとは思わないのだろう。灯りが二回ほど見えたけれど、私達には気づかないで去っていってしまった。
肝心の囮役である要戒十は、鏡の前に座って呆けている。彼の背後には、古くなって取り外されたと思われる、巨大な鏡が置かれていた。鏡が最低一日くらい放置されていれば、そこに入り口が出来る。見たところ、実際にその鏡には入り口が生まれているようだったので、すぐこれに決まった。
そして私は今、囮役とは距離置いた場所でひっそりと息を潜め、鏡妖怪の襲来を待っていた。あまり近づきすぎて感づかれるとまずいから、こうして離れているのだ。
囮を買って出た要戒十は、さっきの意気込みとは裏腹に、随分と暇そうにして余計な動きばかりしていた。準備体操をしてみたり、地面に何か書いて見たり、大きく伸びをしてみたり……あまり自然とは言い難いことばかりしている。もし私の声が届くなら、散々罵倒しているところだ。
それからもなかなか蛇憎鏡は現れず、私は二日目に突入することを覚悟し始めていた。時刻はそろそろ八時、夏とはいえ体感温度はそれなりに寒い。日当たりが悪いせいか元々そうなのかはわからないけれど、囮役の体力が果たして持つのかどうかが不安だ。倒れたりされたら、確実に仕事は長引いてしまって、面倒なことになる。
「あっ」
そんなことを心配し始めていると、ふいに鏡から波紋が見えたような気がした。私は気を引き締め、改めて鏡を凝視した。
と、やっているうちに再びその波紋が現れて、すぐ中から徐々に鉄のような色をした生き物が現れた。手も足もなく、体だけで移動しており、その顔つきは蛇そのもの。こいつが蛇憎鏡であることは、ほぼ間違いないだろう。そのまま蛇憎鏡は、暇そうに腕を回していた囮役の要戒十に絡みついた。
「ぐへっ」
要戒十がとても間抜けな声で呻いたかと思うと、気づけば彼は全身を蛇憎鏡によって締め上げられている状況となっていた。縄を締め上げた時に出るような生々しい音が、彼の身体から悲鳴としてあがっていた。
「だ、れ、で、す、か」
そんな大袈裟なと言いたいぐらい苦しげな声で後ろの蛇憎鏡に要戒十は聞いた。名前を知ってる相手に対してわざとらしい反応だ。そんな彼の質問に、蛇憎鏡は下品な笑い声をあげながら答える。
「肉を食い尽くす時になったら教えてやるよ」
と、蛇憎鏡は、あっという間に鏡の中に要戒十を引き込んでいった。私も呆然としてられず、完全に相手が鏡の世界に入ったことを確認してから鏡へと走った。
鏡の中に入る直前、私は余裕を見せて、そういえば要戒十が地面に何を書いていたのか気になって眼を向けて読んで見た。
『僕の演技、なかなか上手かったとは思いませんか?』
私は、腹が立ってその文字を一蹴りで掻き消すと、自分でもわかるくらいイライラした様子で、改めて鏡の中に飛び込んだ。
厳密に言えば故郷ではないけれど、やはりこの鏡の世界は、己が故郷のように居心地の良い世界だった。
地面は、全て凍った湖のように煌いていて、眼下を見れば自分を見下ろして見ている自分が映っている。空は透明かつ無色で、どこまで上が空で、どこから空ではないのか、区別がつかない。辺りを見渡せば、時折人間世界と同じ土の色をした岩や山みたいな、変に盛り上がった場所が不釣合いに点在していた。
人間なら誰もが絶景と絶賛するだろうこの世界のうえで、私と蛇と、そして蛇に捕まっている囮役の三人が向き合っていた。私と蛇の両者はいきなり睨みあって、互いに牽制しあう。囮だけは蚊帳の外だ。
「お前、人間じゃないな、何者だ?」
「あなたと同じ鏡妖怪ですよ。蛇憎鏡さん」
「おお、嬉しいねえ。俺も鏡妖怪として名が挙がってきたのかな?」
「そうですね。あなたの汚名は、いろいろと聞いていますよ」
「はははっ! とりあえずお前とは平和的に話せないということがわかったぜ」
元々話し合いする気のない奴が何を言うかと思った。この程度の挑発で怒りを露にして敵対宣言するのも、その証拠だ。
「コイツ、お前の恋人か?」
「違います」
「どっちでも良い。とにかく知り合いなんだな?」
「今日知り合ったばかりで、私はその人のことをあまりよくわかっていません」
囮役は、絡みついてる相手に見えないことを良いことに、酷いなあと言いたげな顔をしていた。そんなこと私の知ったことではない。忠告はしたのだから。
「顔見知りだとしても、目の前でコイツが食われるのを見るのは嫌だよなあ? とりあえず、その場所から一歩も動くな。絶対だぞ?」
私は、とりあえず蛇憎鏡の言葉を無視して、ズカズカと前進した。コイツが死んでも怒るのはたぶん妖仙狐さんだけであって、私は別に悲しくもなんともない。
そんな私の行動に驚いたのか、改めて蛇憎鏡は自分の尻尾で囮役をギュッと巻いて、私の前に差し出した。でも、私は無視して進み続けた。
「テメエ、そんなことで俺が怯むと思ったら大間違いだぞ!」
といいつつ怯んでいる蛇憎鏡に対し、囮が口を挟んだ。
「弱い犬ほどよく吠える。あ、あなた犬だったんですか。よしよし」
「な……舐めるなガキがあ!」
そして私の心を、囮が見事に代弁してくれた。が、それは代弁した本人にとって良い結果にはならなかった。蛇憎鏡の怒りをかった要戒十は、慈悲なく地面に投げつけられた。
起き上がった彼の額から血が垂れていたが、苦痛に歪むどころか、片方の目を瞑るだけで平然としていた。
「出でよ
蛇憎鏡の号令とともに、その背後から蛇憎鏡より一回りほど小さな蛇達がざっと二十匹ほど現れて、宙に浮かびあがった。彼等には蛇憎鏡のように理性はないようで、その目には野生の闘志が漲っている。
そのうちの三匹が、先んじて私の方に飛んできた。それに気づいて、私は軽く身体を横に傾けて避けた。ふぅとため息をついた後で、私は鋭い牙が少し着物に掠めていることに気づいた。
が、それをゆっくり確認することは許されず、小蛇達は折り返してすぐにまた襲い掛かってきた。私はまた身体を傾けてそれらを全て避けた。今度は本当に当たらなかったらしい。
「よく避けるな小娘!」
「ありがとうございます。そちらも手下の扱いがお上手ですね」
という会話を交わしているうちに、要戒十は頭を抱えてフラフラしながら、私の後ろまでやってきた。顔では平然としているが、この世界の色合いのせいか表情が少し青白く見えた。
「その小僧と一緒に俺が食らってやる! そしてどんどん人間達も食らい続けて、俺は大妖怪“
「取らぬ狸の皮算用ってご存知ですか?」
「小僧ぉ、まだ痛めつけられたいのか!」
「ご存知だったんですね」
ただでさえ酷い目に合っているのに、要戒十は何を思ったか、相手をさらに憤怒させていた。怖いもの知らずなのか、度胸があるのか、ただのバカか。
「それじゃあ、僕はそろそろここに居るとマズイし、邪魔みたいなんで、どこかに隠れたいと思います」
「でしたら、捕まった人間達が貯蓄されている所を探してください。こんな眩しいところに似つかわしくない洞窟とかがあるはずです」
「わかりました。それじゃあ、あの王様気取りの蛇さんは全てお願いします」
「それと……」
と要戒十に何か言う前に、私は飛んできた小蛇の攻撃をまた避けた。さっきから振り子のように動いている気がする。今度は、袖のあたりを一部切り取られてしまい、その布が私の手の平にヒラヒラと舞い落ちてきたので、それを要戒十の額に巻いてやった。
この行動には流石の要戒十も驚いたのか、わざとらしく首をかしげながら私に聞いた。
「僕を介抱してくれるんですか?」
「途中で倒れられたら、回収を含めて私が面倒になるんです。妖仙狐さんに好かれているあなたが貧血で死んだとなれば、先輩である私が責任を問われるのですよ」
また小蛇が飛んできた、それを今度は左に避けた。要戒十も気づけば同じように動いていた。
「意外と厳しいんですね」
「妖仙狐さんが優しいのは新人相手だけですよ。では、次の攻撃が来たら、走って蛇憎鏡の横を走り抜けてください」
などと言っている側から、今度は二十匹全員が私に向かってきた。それを見るや否や、要戒十は少し屈みながら走ってそれらをやり過ごし、怯む蛇憎鏡の横をさっさと抜けていってしまった。
そして私は、総勢約二十匹の猛攻撃を、スレスレになりながらも、正確に避けた。今度は掠らなかった。
「小癪なことを、逃がさんぞ小僧!」
怒り狂った蛇憎鏡が、要戒十の後をすぐに追おうとする。が、私は仕事はサボらない真面目な社員だった。
「小娘は良いんですか?」
それを聞いた蛇憎鏡が、ゆっくりと私に振り返る。
「ほう? 殺してほしいのか?」
挑発すると、あっさり標的が私に移った。ここまで上手くいくと、相手も何か狙っているのではないかと勘ぐりたくなる。
「いいえ。でもあなた、何も気づいてないんですね」
「貴様も小僧も、随分と言うことがご立派だがな、反撃の一つも出来ない癖に偉そうな口を叩くな!」
「そうですね。では、少し歯向かってから偉そうな態度を取らせていただきます」
「なら歯向かう前に今度こそ殺してやる。ミンチなんかよりも、よっぽど酷く殺してやる、覚悟しろ!」
「あなたも減らず口はその辺りにして、攻撃させたらいかがですか。“下僕”さん達に」
「いい加減に黙れ!」
また二十匹の小蛇達が、一斉に私へ襲い掛かってきた。今度は、右に左にとタイミングをずらしながらやってきた。様々な牙が、私の着物を引き裂いていき、蛇憎鏡が高笑いをあげて勝ち誇る頃には、私の着物はみすぼらしくボロボロにされていた。
「ははははは。貴様、あれだけ俺に口答えしておいて、こうしてやったら避けられないか? そらぁっ!」
さらに蛇憎鏡は追い討ちをかけるべく、私に向かって小蛇を一匹差し向けてきた。今度の私は避けなかった。その代わり、手の平を縦に向けて出した。すると、その手にぶつかるようにして、小蛇の突進は止まった。否、私が止めたのだ。
「うっ!」
喉に何か詰まらせたような声を蛇憎鏡があげる。私が相手から始めて聞いた、弱音だった。
「どうした、早く喉元を噛み切れ!」
命令に従おうとはするものの、その場から小蛇は動けなかった。そして、私が少しその蛇を押すようにして圧迫してやると、小蛇は簡単に吹き飛ばされて落下し、割れて死んだ。
初めて明確な反撃をされたことで、蛇憎鏡は割と驚いたらしい。が、すぐに蛇らしい鋭い目付きになって、私の手の平を睨むと、刃物のような冷たく鋭い笑みを浮かべる。
「なるほど、確かに鏡妖怪のお仲間ってわけだ。手の平に鏡か」
「ようやく気づいてくださったのですね」
私の手の平には、この通り埋め込まれるようにして、丸い鏡がついている。人間の姿をしている私が、唯一人間ではないとわかるのが、この鏡だった。
「つまり、俺とアンタは同じということだな」
「同じ?」
「そうだ。俺達鏡妖怪は、鏡の中でこそ本当の力を発揮できる。水を得た魚とは正にこのことだ。貴様も本気を出したみたいだしな、俺もそろそろ加減するのはやめにしよう」
「あなたは、まだ勘違いしているようですね」
私の言葉をうるせえと遮って、蛇憎鏡はまた小蛇を私に襲い掛からせてきた。ただ、今度は牙を向けさせるだけではなく、尻尾による殴打、頭突き、拘束などそれぞれ多種多彩な攻撃方法で差し向けてきた。
「話は最後まで聞いたほうが良いですよ」
という私の忠告には答えすら返ってなかった。むしろ、主が直々に攻撃を仕掛ける準備も出来ているらしく、蛇憎鏡は鋭い歯をこちらに見せびらかせる。
仕方なく私は、向かってくる小蛇達の攻撃と向き合った。攻撃方法が変わっても、突撃の仕方はさっきと何ら変わらず、むしろさっきよりも余裕で避けられるように見えた。
実際そうだった。私は、着物を破られることも、殴られることも、そして自由を奪われることもなかった。ましてや、掠ることもなかった。
攻撃を全て外したことで怯むかと思ったが、蛇憎鏡はまたニヤリと笑い、自ら私に攻撃を仕掛けてきた。さらに、明後日の方向に突っ込んでいったはずの小蛇達も、私のところに折り返して戻ってきた。鬱陶しかったので、私はまた手の平を前に向けた。
「少し、黙っていていただきましょうか」
「はっ! 黙るのはお前……」
そして、さっきと同じように私が少し圧力をかけるようにして手の平に力をこめると、突っ込んできた蛇憎鏡は、殴られたようにして吹き飛んだ。そしてさらに、後ろから飛んでくる小蛇達も、さっきと同じように全て避けた。私はもしかしたら、本当に時計の振り子になれるかもしれない。
吹き飛ばされた蛇憎鏡が落ち着いたところで、私は息を吸いなおしてようやく話を始めようとしたが、小蛇達がまた私へ襲い掛かろうと、私に牙を見せびらかしていた。話の腰を折られるのはもういい加減面倒だ。
「“下僕”さん達が鬱陶しいので排除させていただきますね」
「排除されるのは貴様だ! お前等、今度こそあの女を噛み千切って殺せよ!」
飽きもせず向かってこようとする小蛇達に向かって、私はため息をつきながら左手の手刀を向けた。そして、左側の密集してる中心あたりを狙ったつもりで、シュッと左に横薙ぎする。
手刀は何もない空だけを切った。そして、左側にいた七体ほどの小蛇の身体を真横に両断した。
「お、おい、お前達!」
両断された小蛇達は、皆力を失って空を飛ぶ力を失い、地面に倒れたかと思うとパリンと音を立てて、割れた。
「何をした!」
「続いて……」
今度はその手刀を右側に向けて、密集してる中心に向かって、それを縦にビュンと振り下ろした。今度は小蛇達が縦に真っ二つになり、墜落して割れた。これで残った真ん中の小蛇達は、片方の指で数えられるまでにまでの数になった。
流石にここまでされると自分の置かれている状況に気づいたのか、蛇憎鏡は私に恐れの感情を抱き始めたようだ。でも、まだ威勢は衰えていなかった。
「聞こえなかったのか! 何をしたと聞いているんだ小娘!」
「何をしたって、これを」
私はまた手刀を向けた。今度は真ん中に
「こうしたんですよ」
そして袈裟切りするように振り下ろした。小蛇達は、斜めにズルッと身体がずれたかと思うと、パキッと音を立てて消えた。小蛇はこれで全て消え去った。
ついでに、それを今度は上に切り上げてやると、蛇憎鏡の尾の辺りが切り取られ、蛇憎鏡は今までにないほどの悲鳴をあげた。苦痛に歪んだ顔からは、もはや威勢も消えていた。
「桁が違う……桁が違いすぎる。誰なんだよお前は!」
「ようやくご理解して頂けたようですね。これでゆっくりと説明が出来ます」
私は、ようやく蛇憎鏡に向かって一歩一歩と歩き出した。すると蛇憎鏡は、私に噛み付こうとするどころか、尾を気遣いながら後ずさった。
「さっきあなたは水を得た魚と例えられましたね。それは確かに正解です。でも、あなたとは決定的に違うことが一つだけあります。あなたは水を得た魚における“魚”ですが、私は“水”そのものなのですよ」
「だ、だからそれがなんだって言うんだ!」
「もし、水に意思があって、自分の中にいるものの自由を司ることが出来たら、どうなると思います?」
と説明しながら、私は蛇憎鏡に手を向けると、今度はグーに握った。すると、蛇憎鏡が首をクネクネとよじりながら、息を詰まらせたように苦しみ始めた。
「こういうことになりますよね」
「グッガァァァァァッ……!」
「焦らさずに教えましょう。つまり私は“鏡そのもの”なんですよ」
「ガハッ」
そう説明して握り拳を離してやると、蛇憎鏡は地面に横たわったかと思うと、激しく咳き込んだ。
「とはいっても、私は“鏡を生み出した者”ほど影響力は強くありませんからね。侵入した入り口から定められた領域のことしか把握は出来ませんが、これだけの距離なら、余裕でこれからの行動予測も、隠し事の掌握もできてしまうというわけです。これで分かっていただけまたか?」
「ひ、ひぃぃぃぃっ!」
せっかく親切に説明してあげたのに、感謝の言葉もなく蛇憎鏡は私の横を必死に通り抜けていった。情けなく絶叫しながら蛇憎鏡が逃げていった先は、私が入ってきた鏡の出入り口だ。人間世界に逃げ込むつもりなのだろう。
そのまま蛇憎鏡は、出入り口に飛び込んでいこうとしたので、私はまた手を出して、何かを引っ張るようにして、空を掴んだ。
「おわああ!」
すると蛇憎鏡はバランスを崩してその場に躓くと、落ちるようにしてその門へと飲み込まれるようにして、落ちた。
「ぎゃああああああああ……」
最後の絶叫は、途中で途切れた。
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