第二話『怪奇な仕事』

 木造建築の客間で、三人の男達が話し合っていた。

「良いでしょう。まずは試してみようではありませんか」

 窓際の方で、容姿は影でわからないが、声からしてちょっとした気品や風格が漂う、背の高い男がそう言った。それを眺めていた一人の少年と二本足の鼬は、それぞれ男に返答した。

「ありがとうございます」

「ちぃと待ってつかぁさい!」

 納得した少年とは違って、鼬は必死に男の提案に食いついていた。そんな鼬のことを、少年と男はじっと見た。

「確かに、この戒十さんは優秀な人材じゃ。人間にしておくんは勿体無い……って妖怪になりたいと依頼されとるんじゃがのぉ。でも、やっぱり今は人間なんよ?」

「ですから、我々でそのうち使える妖怪にしてあげれば良いのです。簡単な話では決してありませんが、銭鼬さんが優秀な人材と言うほどの逸材なんだから、私としては、試すこともせずに手放すのは惜しくて出来ないなあ」

「まあ、ほうかもしれんが。うちゃぁ妖怪が運営して成り立っとる会社じゃぜ?」

「客が居なければこの企業は成り立ないでしょう。そこに人間というお客が増えている以上、使えそうな人はちゃんと確保しておかないと、いずれ後悔したら、どうするんです?」

「そ、そりゃぁ、一理あるんじゃが、じゃがねぇ!」

 まだ食い下がろうとする鼬に対して、男は仕方なく一言、簡単明瞭、単刀直入に告げた。

「副社長命令です。これで納得頂けたかな?」

「……はいはいっ! まったく横暴じゃの! わかった、じゃぁ使えるかどうか、これからとっとと試して参るんよ!」

 そう開き直って怒鳴ると、鼬は戒十なる“人間の少年”の手を引いてズカズカと部屋を出て行こうした。そんな鼬を、言い忘れていたことがあったと、男が呼び止めた。

「適当に彼を扱おうものなら、私の下僕と一緒に、一週間くらい床の雑巾磨きをやらせてあげましょうか。まあ、奴等はそのほうが喜ぶでしょうが」

「まさか。銭鼬さんほどのお方が、そんな大人気ないことをするわけないじゃないですか」

 男に返答したのは、戒十だった。不適な物言いながら、その表情は奇妙にも平然としたままだった。そんな彼の一言を聞いた銭鼬は眉を細める。

「あと、働かせるならこれも忘れずに持たせないと駄目じゃないですか」

 といって、男は戒十に向けて何かの硬い紙束を投げつけた。それは戒十のフルネームと、見習社員の文字が印字された、名刺であった。

 それを受け取って、もう準備は出来ただろうとばかりに、銭鼬はいきり立ってすぐにまた手を引いて出て行ってしまった。もはや戒十は、手を引かれているというより、引きずられている感じだった。

「今年度は、早速楽しいお仕事が出来そうで、何より」

 誰もいなくなった客間で、男はクスクスと笑いながら、客間の真ん中にあったソファーに座った。




 俺は妻を心から愛している。毎日一回、俺は風呂の中でそうハッキリと宣言する。それは自分で定めた日課のようなものだった。


 俺の名前は湯田正志という。あと一年で二十歳の境目を迎えるところまでやってきた、結婚五年目の男だ。子どもはまだ無い。仕事は、大して使えんサラリーマンをやっている。

 妻の美紀菜は、女っ気の無い俺のことをいつも会社で気にかけてくれていて、気づいたら交際を始めていたという間柄である。でも付き合いを申し込んだのは、惚れ込んだ俺からだけれど。

 自分の妻を自慢して惚気るわけではないが、俺の妻はかなりの美人だ。十人中九人は必ず振り向くような、極上のベッピンさんである。

 使えないサラリーマンだけれど、年収は貧乏と罵られるほどではなく、妻が専業主婦でもやっていける割と裕福な家庭を持っている。誰もが羨むほどではなくても、茶化されるくらいには、今幸せだ。

 子どもが居ないことが唯一の不満ではあるけれど、子どもが生まれるということは、それだけ生活も激変するということだから、あまり焦るのも良くないことだろう。今だって少し寂しい思うくらいで、不幸とまでは悲観しない。

 しかし、そんな俺の今の家庭にも、ただ一つ、どうしても拭いきれない不安があった。妻のことである。


 交際している頃から、俺達はとても仲が良かった。お前達こそ赤い糸で結ばれた二人だと、友人からからかわれるほどに。今だって、二人の仲は冷めるどころか、燃え上がってすらいるだろう。

 それだけ俺は妻のことを、何度もしつこく言うようだが愛している。それは自分が一番よくわかっていることだ。

 だが、それは自分の独りよがりなのではないか? そう思う時がある。

 もし本当は、もう妻が俺に愛想をつかしていて、知らないところで違う愛に目覚めてるのではないか? そういう不安に駆られるのである。

 俺は、そんな不安と結婚してからずっと戦っている。そんなことはないと言い聞かせたり、もしかしたら、次の人生を考え始めているんじゃないか、と疑ったり。

 特に妻が……美紀菜が友達と出かけると言って、休みの日に家から一人出る時、その疑心が一人残された俺の中で沸騰する。それで何度か、妻の後を一人でつけたことすらある。探偵だって何回か雇った。

 頼んだ探偵の中には、仕事の後で「こんな奥さんを疑えなんて。お天道様に背を向けて砂をかけるようなもんですよ」という感想を漏らした奴もいた。

 いや、俺だって妻のことは信じたい。だから、最近は出来るだけ妻のことを信じることが出来るように、毎日風呂の中であんな恥ずかしいことを大声で言ってるのだ。もう二回も本人に聞かれてしまった。

 だが何度やっても駄目だった。俺が仕事に行ってる間、トイレにいる間、寝てる間……常に妻のことが気になって仕方なかったのだ。


 ノイローゼになって発狂しかけた俺は、妻に弁当を貰っておきながら、嘘を言って近所をブラつく羽目になった。会社には夏風邪をこじらせたと、無茶なデタラメを吹き込み済みだ。これでまた貴重な有給を使ってしまった。

 夏の日差しに照らされたサラリーマン姿の俺は、果たしてどう映るのだろう? セールス営業しているとでも勘違いされるのだろうか、俺は自嘲した。

 いつになったら、どうやったら、この俺の疑心は晴れるのか、どうしたら俺はずっと妻と一緒にいられて、疑うことが無くなる生活が出来るようになるのだろう。誰か知ってるなら、是非とも教えてくれ。

 そう、心中で悲痛な絶叫をあげたところで何もならないと思っていたら、俺はこの時、どうにも不思議の扉を開いてしまったらしいのだ。

 扉を開き、足を躊躇無く踏み入れた結果、今はこうして近くの喫茶店でお茶を飲んでいる。一人の少年と向き合いながら。


「僕、この年でブラックが大好きなんですよ」

「はあ、そうなんですか」

 人が俺達以外全くいない、寂しげなオープンテラスで、少年が気持ち悪いくらい苦そうなブラックコーヒーをかき混ぜながら言った。好きなものを語るにしては、表情は感情に乏しかった。

 少年は、こんな時間になのにも関わらず、制服ではなく至ってシンプルな私服姿だった。紺色に近い青シャツの上に、黒いパーカーを着て、下はこれまた暗い色のGパンを履いている、明るい町ではよく目立つ格好をしていた。

「あ、そんなことより仕事の話をしたいという顔をされてますね。では改めまして、名刺を差し上げます」

 そう決め付けて強引に話を進めた少年は、俺に名刺を見せてきた。この年でこんなものを持っているとはませてるなと思いつつ、その内容を眺めてみる。そこには、『怪奇万能魂式会社、見習い社員・要戒十』と、そこには達筆な文字で印字されていた。

「え、見習い?」

「はい。実を言うとこれが始めてのお仕事なんです」

「にしては、随分慣れた口振りなのは、気のせいでしょうか?」

「お褒めに預かり、光栄ですよ」

 そう言う戒十少年の表情は相変わらず無表情で、背筋に寒気すら覚えたが、そこで弱腰になっては客の負けだと、俺は少し上手に出た。

「俺の依頼なんて、見習いで十分ということを言いたいのですか?」

「そんなことはありません。もし僕の手に余るようでしたら、正社員が控えておりますので、ご安心ください」

「そ、そうですか」

 絶対に初めてなんて嘘に違いない。俺はそう彼のセールストークを聞きながら、そう思った。そして次の質問に移る。

「ところで、この名刺に書いてある『何でも出来る』ってところ、どういう意味ですか?」

「大きい声では言えませんが……」

 と、戒十少年は俺に耳打ちを要求してきた。もったいぶる彼に少し苛立ちを覚えたが、子ども相手にそれでは大人の面目が立たないので、素直に従うことにした。そして、彼はいきなり変なことを言い出した。

「要人暗殺から地獄旅行まで、怪奇的な力でなんでもやれるんですよ」

「怪奇的な力?」

 そう聞くと、俺は鼻で笑った後で席を立つ。どうやら、なんとも馬鹿馬鹿しいことに時間を使ってしまったようだ。少年は高校生らしいが、そんな年にもなって、そんな御伽話ごっことは呆れたものだ。

「どうされました」

「悪いが、大人をからかうのはそれまでだ」

「まさか、怪奇的な力を御信用されないなんて、小さいことは申しませんよね?」

「何だと?」

 俺はその挑発的な一言に、足を止めた。戒十少年は、ブラックコーヒーを軽く口にした後、俺に向き直って話を続けた。

「僕、もう十七ですから。大人に言って良い冗談と、通じない冗談の判別くらいはつきますよ。でも、流石に物騒なものを例に出しすぎたかもしれませんね」

「……わかった。もう少しだけなら付き合おう」

 といって席につこうとする俺のことを、戒十少年は、相変わらずの無表情ながらも、上目遣いで鋭く睨んできた。ふてぶてしいという前に、強烈な威圧感を放ってた睨み方に寒気を感じ、思わず俺は身震いした。

「信じて、いらっしゃらないのですね?」

「い、いやあ。実を言うと、俺は妖怪とかそういうのを信じることが出来ない。つまりは、そう、非怪奇論者なんだ」

「なるほど、そういうことでしたら、まずはこちらからその証拠を見せたほうが良い、ということですね」

 不気味な上身遣いが終わってホッとしたかと思うと、戒十少年はブラックコーヒーを一気に飲み干すと、席を立った。

「では、証拠をお見せしましょう。そうしてからでも、依頼するかどうかを決めても遅くないですからね。せっかちなことをいって、申し訳ありませんでした」

 今度はとても礼儀正しく素直な謝り方をされたので、俺もどう返答して良いか悩んでしまう。全く持ってこの少年は、先の読めない男である。これが仕事上のビジネスマンだったら、俺は軽く捻り潰されていたかもしれない。

 戒十少年のいろいろな面に恐怖しつつつ、俺は彼の後をついていこうとした。すると、後ろから呼び止める声が聞こえた。誰かと思って振り返ると、そこには口ヒゲがよく似合った、中年男性が立ち尽くしていた。ここの店員である。

「ご注文の品なんですが、もう行かれますか?」

 店員の腕には、俺の頼んだウーロン茶があった。

「いいえ。それを頂いてからにします」

 俺が断る前に、戒十少年がそれを受け取ると、何故か俺達はまたオープンテラスに座ることになった。そして、唖然とする俺に、彼は頭を掻きながら言った。

「本当にせっかちですいません。僕の悪い癖だとよく言われてるのです。さあ、せっかくご注文なさったものですから、召し上がってください」

 表情が伴わない戒十少年の仕草に、可愛げは無かった。が、せっかくの申し出なので、俺はもう少し仕事について詳しく会話しながら、ウーロン茶を楽しんだ。


 俺と戒十少年は、住宅地の一角にある公園にやってきた。自然を利用して作られたそこは、周りが深い林で覆われていて、サラリーマンにとっても安らぎの場所として密かに人気である。妻に対する疑心で、俺が押しつぶされそうになった時も、ここでよく癒されたものだ。

 そんな公園に、俺を信じさせる証拠が待っていると言われて、することもなかった俺は全て言われるがままに動いていた。相変わらず、風に揺れる木々の葉の音は、脳に心地よい。

「すいません銭鼬さん。出ていていただけますか?」

 銭鼬とは、随分変わった名前だなと思いながら、俺は戒十少年の呼んだ人物を待った。相手は寝ていたのか、木陰でドッと音を立てた後、気の抜ける欠伸をしながら、寝惚けた声でそこから出てきた。

 一体どんな奴に会わせるつもりなのかと、思えば、随分とものぐさに見える男だなと思いながら待っていると、男は姿を現した。その姿を見て、思わず俺は腰を抜かして、女みたいな短い悲鳴をあげる。

「はあ、よう寝た……あら? もしや戒十さん、依頼人の方を連れてきたんか?」

「そうですよ。寝ながら待つなんて随分酷い話ですね、銭鼬教官」

「教官なんて皮肉をゆぅなぁ、やめてつかぁさいよ。じゃが、あまりにも寝心地がえかったんでついウトウトしてしもぉて、ようあるじゃろう? ほら、依頼人さんだって早速寝ようとしてるじゃなぁんか」

 と、銭鼬なる化け物は、俺を指差してきた。相手は化け物以外の何者でもなかった。白毛で覆われたその身体は、鼬そのものであったが、二本足で歩いているのだ。二本足で立ち上がるだけとは、訳が違う。

 おまけに、この化け物は身長からして、鼬としてはあり得ない。恐らく俺よりも高い。下手をしたら白熊にすら見えるかもしれないとすら思ったが、身体は屈強とは言いがたく、長細い。

 そして何よりこの鼬の姿で最も目立つのは、背中に背負っている巨大ながま口財布であった。何の皮で作ったかは知らないし、何の目的があってあんなでかい財布を背負っているかは知らないが、それがこの鼬の最大の特徴になっている気がした。だから銭鼬という名前なのかもしれない。

「ち、違う。お前に驚いたんだ!」

 俺は、銭鼬を見て感じた素直な感想をぶつけた。皮肉や気遣いなどのない、率直な感想だった。だが、それが相手には不服だったらしく、銭鼬は俺に大声で言い返してきた。

「何を驚くことがあるんか。ただ鼬が二本足で歩いてるくらいで!」

「図体も随分とデカイじゃないか」

「そがぁなん、取るに足らんことじゃ! ぬいぐるみゃぁ、あがぁな可愛がられとるんに、なんと心外な話じゃろう!」

 実物とぬいぐるみが違うのは当たり前だ。化け物にはそれは通じないのだろうか。

「まあまあ、お二人ともその辺りにしておいて」

「二人? 一人と一匹の間違いじゃないか?」

「申し訳ないのですが、余計な喧嘩が起きたら大変ですから、そういう挑発的な言い方は控えてください」

 お前が言うなと怒りたい気分だったが、確かに話がややこしくなりそうだったので、彼へ思うことも含めて、俺は口を硬く閉じた。

「そんなことより、これで信じていただけましたか?」

「あ、ああ……そうですね」

 確かに、ここまで見せられてそんなものは嘘っぱちだ、なんて、よほど往生際の悪い学者でも無い限り訴えられない。

 そんな化け物とこの少年が何故行動を共にして、仕事をしているかはわからなかったが、これだけ怪奇かつ、にわかには信じがたい存在ともあれば、確かに人間が軽率な心持ちで出来ないことを、朝飯前にこなすことも出来よう。気づけば俺は、彼のセールステクニックにまんまと落とされていた。

「それでは、俺が今まで出来なかった重大なことを、あなた方に引き受けて頂きたいのですが」

「分かりました。ただ、その前に御代の話もしなくてはいけません」

「金なら平気ですよ。家を買う金に近いくらいなら、なんとかして借金作ってでも、用意させていただきますから」

「いや、我々の求めるのはお金ではありません」

 戒十少年は、そう俺に告げると、こちらに近づいてきたかと思うと、握りこぶしで軽く俺の胸板をコンコンと叩いた。何をするのかと聞くと、彼は合いも変わらない無表情を保ったまま、最も重要なことを告げた。

「“魂”ですよ」

「たま……しい?」

「つまり簡単に言うと、“人の命”がいるんです」


 俺達は、詳しく依頼内容を聞いてもらうため、人目がつかないところを探していた。

移動するにあたって銭鼬がいたので、移動には気を使って人気の少ない道を通りながらだが。その道中、俺はお代についての話を改めて詳しく聞き直した。彼は、あっさりと答えた。

「命といっても、依頼者の命で無ければいけない、というわけではありません。要は、人の命が一つあれば良いのです。例えば殺人の依頼をした場合は、その標的の命を御代にしても構わないのです」

「なるほど、しかし、どうして魂なのですか?」

 それに答えたのは、こそこそと砂漠色の布を被りながら歩く銭鼬だった。はっきりいって、余計に怪しく目立つ格好になっているが、そこはあえて言わないのが、人情というものではないだろうか。

「妖怪が生きるんに必要じゃけぇ。妖怪は一応食事を食べて生きることも出来るんじゃがのぉ。でも、俗にゆぅところの霊力とか妖力をパッパと蓄えたいんじゃったら、魂が一番手っ取り早いんじゃ。それに、死神にも結構高く売れるんじゃ、じゃけぇ魂は怪奇世界じゃすごい価値が高いんじゃ」

「は、はあ。妖怪って方々も大変なんですね……」

「そりゃそうじゃ。食べ物を探そうにも、こがぁに家やビルが立ち並ぶ町で迂闊に妖怪は出られんし。おまけに日本は景気が最悪じゃろう。もはや残飯を漁っても、出てくるなぁ魚と肉の骨くらい。後は、腐った身体に悪い残飯ばかりでね」

 その生活はホームレス以下だった。ホームレスですら、金をネコババしたり、万引きをしたりして日々を過ごしているとはよくニュースで聞く。だが、妖怪は惨めにも、目立たないために、隠れて残飯を漁る以外に道は無い。哀れな話だ。

「漫画のような生活ですね」

 俺は、彼の機嫌を損ねないように、ホームレスという言葉を避けてあえて回りくどい言い方をした。相手は、涙目で身体を覆った布を俺にかけて肩を寄せ合いつつ、わざと震えた声で訴えてきた。

「お客さんはわかってらっしゃる。でもね、今や漫画だってここまじゃぁ描かのぉんよ。魚の骨だけを毎日嫌々ポリポリと食ぅて生きとる、壮絶な奴だっているんじゃ。ソイツ犬の妖怪なんにね、やんなっちゃうじゃろう?」

 同意を求められても困るが、少なくとも自分だったら三日も耐えられないであろう。人知れずに生きているというのは、思ったより困難がつきものらしい。彼等も列記とした生き物なのだ。

「あの辺りなら、銭鼬さんも目立たないでしょう」

 ふいに戒十少年が指差したのは、今時珍しい、土管のある空き地だった。よく俺の故郷でも、業者がしばらく使いどころの無い土管をひとまず買い手の無い土地に放置しておくなどということは、よく見かけた。そこに小さい頃、秘密の宝物を隠したのは良い思い出だ。が、今から隠しに行くのは思い出でも宝物でもない。

 それにしてもこの辺りは、そもそも人が存在しているという様子がない。見渡してみると、古くて今は使われてなさそうな木造家屋がいくつか見えた。中には屋根瓦が歪んで見えるものまである。きっとあそこに人は住んでいないだろう。

 なるほど、妖怪は歩くために、こういう人通りの少ない住宅街の道の知識を全て叩き込んでから行くのかもしれない。それでも確実性には乏しいが、例え出くわしても、布を被った銭鼬は不思議に思われようが、布を取られない限り、大騒動になることはなかろう。

 空き地に入ってから、銭鼬は布を被りつつ土管にスルスルっと入っていった。四つん這いになっているのを見ると、なるほど鼬だ、と納得して頷いてしまう。

「それでは改めて、何を依頼されるか聞きましょう。魂一個分に見合うご依頼でしたら、どんなことでも喜んで引き受けさせていただきます」

 早速戒十少年が促してきた。それを土管の中で布から頭だけ出した銭鼬が、ピクピクと静かに耳をすましている。

 俺は、いざこの場に立たされて、少しだけ後ろめたさと迷いが沸いた。だが、これを断ったら、また同じことの繰り返しになるに違いなかった。

 だから俺は、覚悟を決めて、彼等に依頼を告げた。

「俺の妻を、アンタラの手で殺してほしい」

 二人は、それを聞いて特に驚くこともなく、わかりました、と一言で簡単に承認した。


 俺はコンクリートの土管の上に座りながら、二人の話し合いが終わるのを待っていた。どうやって仕事をこなすか、土管の中でひそひそと相談しているというのだ。

「出来れば傷つけず、後腐れなく一思いに、やってほしいと、そういうことで宜しいでしょうか」

 ひょっこり顔を出してきた戒十少年に、俺は頷いて答えた。何度も言うが俺は妻を愛している。殺すのにそんなジワジワ苦しめたいと画策したくなるような、相手への憎悪などはないのだ。

「ということなのですが、どうしたら良いのですか?」

「少のぉても言えるこたぁ、ワシ達の手ばっかしじゃぁ、それを遂行出来ないっちゅうことじゃの」

「では、一体どうなさるんですか?」

「慌てん慌てん。もしや、社員がワシと副社長だけだとでも思うたんですか?」

「まさか」

 と、土管の中から反響して聞こえてくる会議を聞きながら、俺はぼーっと空を眺めていた。何を空に向かって思い描いていたのかはわからない。

 そうして、餌を持つ小鳥のようにぼーっと口を開けていると、一通りの話し合いが終わったらしい戒十少年が、土管から這い出てきた。銭鼬だけは、頭だけヒョコッと出しただけだった。

「支社からの社員をこちらで待つんじゃけぇ、あとしばらく、のんびりしょぉってつかぁさい」

 と、営業スマイルで銭鼬は話しかけてきたので、俺も会社で使う笑顔を返した。

 

数分後、ふいに空が騒がしくなった。何かと思ったら、思わず声を出して驚くほどの雀の大群が、大空を舞っていた。チーチーと細かい鳴き声と、パタパタと小刻みな翼の音がやかましい。そして集団は、そのまま俺達の前に降りてきた。

 人間が怖くないのだろうか? と思っていたのもつかの間、降り立ったはずの雀達は、まるでそこが折り返し地点だったみたいに、すぐ飛び立ってしまった。不思議に思いながら、俺はその集団を見送った。

「呼びました?」

 ふと足元から聞きなれない女の声がして、反射的にそっちへと視線が向いた。ここに女などいないはずだ。

「あれ? 呼んだのは誰? というか、見慣れない人間ばかりだけど」

 足元で、ポタポタと泥水を滴らせた小鳥が喋っていた。それが雀と気づくのに、数秒を要した。

「泥雀さん、こっちじゃこっち」

「え? あー、銭鼬さんじゃない。久しぶりー。儲かってる?」

「待った! あんたと世間話すると日が暮れるどころか年が明けちゃいますけぇのぉ。お仕事がお先じゃ」

「相変わらず失礼な男ね。それだから独身なのよ」

「ワシんような半妖怪が結婚してもね……って、仕事仕事仕事!」

「あーもう、ギーギーガーガーうるさい! わかったわ、積もるお話は本社に勤務表出してからで、ってそれでいいんでしょう?」

 二人の世間話のような会話に、俺ばかりでなく戒十少年もポカーンと置いてきぼりにされていた。彼のこんな間抜けな姿を晒すとは、それだけこの雀は強烈だということだ。

 それから銭鼬は、仕事の内容を非常に掻い摘んで説明した。すると、泥雀とやらは、いきなり活気付く。

「久しぶりねそういう仕事。ドーンとお任せあれ! で、どこなの場所は?」

「ああ、そりゃぁ依頼人の方に聞いてつかぁさい。っちゅうか、ワシもついていくんじゃけぇ」

 二人だけで勝手に話を進められていたが、どうやら俺に話す権利が回ってきたらしく、こちらを向いた雀にとりあえずお辞儀をした。

「ところで、依頼人さんは二人もいらっしゃるのかしら?」

「いいえ。僕は見習いの社員ですよ」

「見習いですって?」

 と思ったが、それより前に自己紹介するところがあったらしい。まあ、さっきからの会話からして、戒十少年と泥雀に面識があるとは思えなかったし、当然だろう。

「この人間の子どもが?」

「侮らんほうがええよ、ほんま、戒十さんはおっかんじゃけぇ。でも見習いどころかお試し社員じゃがね」

「フーン。まあいいわ。とにかく私のこれからの仕事振りを見て、感動なさいな!」

 と、胸を張る泥雀の言葉に、戒十少年は素直な態度で頷いて、「勉強させていただきます」とだけ答えて、あとは何も言わなかった。俺は、ひとまず依頼のことを改めて告げてから、宜しくと泥雀との握手を交わした。相手は翼を差し出してきたが、それには泥水がついていて、掴んだ俺の手には冷たい泥が纏わりついた。


「ここが、住んでいるマンションです」

「この時間じゃなけりゃぁ、ワシとっくに見世物になっとったね」

 俺は、まだ陽の高いうちに我が家に帰ってきてしまった。しかも、多くの奇怪な生き物達を連れている。まともな人間もいるが、その少年すらも、本当に人間なのか怪しいくらい、さっきから不気味な様子を醸し出している。ずっと泥雀を無表情のまま観察しているのだ。その姿は、はっきりいって気持ちが悪い。

 こんな面子を連れていたため、ここまで来るのには随分ヒヤリとさせられた。人通りのことを考えた道を選んで進んでいたが、流石に偶然はそこまで続かなかった。何回か人と出くわしたのである。

 砂漠色の布を被り、背中がやけに膨らんでいる奇妙な人物。その頭の上に乗っかっている変な雀。そして、それをあからさまに眺め続ける不気味な少年と、なんとも個性的である。

 そんな集団の先頭に立っていた俺に対する視線は、決して暖かいものではなかった。二人で歩いている主婦には、ひそひそ話までされてしまった。そこは、バレなかっただけ良しとしよう。

 ご近所どころか隣の住民の顔すらよく覚えていないが、もし同じ階に住んでる人にこの光景が見られていたとしたら、少し恥ずかしい。

「ほいじゃぁ参るんよ。心の準備はいかがか?」

「は、はい。いつでも」

 これが銭鼬なりの気遣いであったことに、後で気づいた。これが最後の意思確認だったのだ。俺は、全く躊躇わなかった。

 無意識に、俺の迷いなんてものは、消えていたのだ。


 俺が住んでいるのは五階だった。いつも運動不足には困らないが、この集団を連れていると、いつもの倍以上に疲れてしまって仕方ない。かといってエレベーターは迂闊に使えず、階段を上がるしかなかった。

 この時間は、子どもが学校から帰ってくる時間でもなく、買い物に行こうとする時間でもなく、ましてや社会人が仕事を終えて帰宅するような時間でもなかったおかげで、階段で人とすれ違うことは無かった。だが、俺と銭鼬だけ、警戒心を強くして歩いていたため、着いた時にはクタクタになっていた。

「全く、マンションの階段ってどうしてこう狭いんでしょうね」

「ここに住んどるアンタが、マンションなんてロクにない所で住んどるワシに聞かんでつかぁさいよ」

 最もな話だった。妖怪達が住んでいるマンションなんて、あったら是非とも拝んで見たい。

「それで、アンタの住んどる所はどこか」

 俺達夫婦の住んでいるのは、階段を降りたところから見た右から四つ目、端っこから数えると二つ目の504号室にあった。505以降の部屋は左側にある。そのことを教えると、今までおすまししながら黙っていた泥雀が、口を開く。

「今、奥さんはお家にいるの?」 

「ええ、この時間なら間違いなく家にいます。ほら、キッチン使ってるみたいですし、たぶん昼飯でも作ってるんじゃないですかね」

「わかった。それじゃあ後はお任せあれ」

 そう言って、どこにあるかわからない胸板を羽で叩くと、泥雀は銭鼬の頭から飛び立って、そのまま俺の家までいき、クチバシで呼び鈴を鳴らした。すると、急に死んでしまったかのように地へ落下した。驚いて駆け寄ろうとする俺だったが、それより前に玄関から「はーい」という妻の声が聞こえて、俺は姿を隠した。

 そして、もう一度廊下をこっそりと眺めて見ると、そこには落下したはずの泥雀がいなかった。いたのは俺の妻、美紀菜だけだった。美紀菜も、呼び鈴の主が誰もいないことに驚いて、辺りを不思議そうに見回した後、家に戻ろうとした。

 ところが、何かを玄関の前で発見したらしく、美紀菜はしゃがんでそれを眺め始めた。俺もそれが何か、目を凝らして確認しようとするが、それは銭鼬によって阻まれた。後ろから襟首を引っ掴まれたのである。

「そがぁな乗り出したらバレてしまいますけぇ、もっと慎重に」

「わかってますけれど、泥雀さんはどこに消えたんですか?」

「まあまあ、後でご説明するんじゃけぇ、落ち着いて」

 そう宥められた俺だったが、どうしても気になったので、今度は少し控えめに廊下を覗いてみた。

 が、そこには誰もいなかった。泥雀だけではない、美紀菜もいなかったのだ。扉は開いたままで、そのまま家に戻ったとも考えにくい。俺は、流石に我慢しきれなくなって、彼女がいたはずの場所まで、転びそうになりながらも走って向かった。

「ちぃと待った!」

 という銭鼬の言葉に、俺は我に返って止まった。そして、美紀菜が眺めていたその地面を、同じように見下ろして見る。

 そこには、雨が滴り落ちて出来たような、水溜りがあった。今日の朝、家から出た時には無かったはずの水溜りだ。そもそも、昨日も今日も天気は晴れていたから、こんなものは出来るはずがないのだが。

 俺は、不思議に思ってそれに触れようとしたが、それも銭鼬の制止の声によって止められた。

「それが泥雀さんなんよ。下手に触ると底なしの泥沼に吸い込まれて、死ぬんよ」

 と、銭鼬が説明しながら歩いてきたのを聞いて、思わず俺はあからさまに手を引いた。すると、それに合わせたかのように、水溜りから何かが出てきた。

 出てきたものが何かは、すぐにわかった。わからないわけがない、愛し続けた妻の姿は、例え死して泥水だらけになっていたとしても、一目でわかる。妻の亡骸は、まるで寝相で寝転がるようにして、水溜りの横に寝そべった。

 そして、死体を吐き出した後、その水溜りから今度は色の淀んだ水玉が一つ飛び出したかと思うと、地面に溜まっていた水溜りは、その水玉に全て吸い取られていった。

 気づけば、その水玉は、雀の姿に戻っていた。

「とりあえず、お家の中に運びましょうか」

 泥雀に促されて、銭鼬がとても手際よく淡々と妻の死体を家の中に運んだ。あまりにも短い間に起こった信じられない出来事の前に、呆然と立ち尽くす俺だったが、その肩を、今まで黙って見ていた戒十少年がさりげなく叩き、彼等に続くように示した。


「特に残してきたものはないわね」

「まああるとしたら、床に残った水気くらいじゃろうのぉ。大丈夫じゃ」

「全く、我ながらこの効率のよい仕事運びには、惚れ惚れしちゃうわー」

「毎度のことじゃが、本当にお見事じゃったよ。へ、ヘヘ」

 妖怪同士の会話の横で、俺は妻の死体と向き合っていた。眠ったように妻は目を瞑っていて、苦しさを感じさせる要素なんて微塵もない、安らかな顔だった。

 後悔はしていなかった。だが、何故だかもうこの世に妻はいないということが、猛烈に悲しかった。妻の顔を見ていると、交際している時の記憶や、新婚時代から今日までの幸せな生活が浮かんできて、俺は思わず目を逸らした。

 目を逸らした先には、戒十少年がいて、こっちをじっと見つめていた。俺はそれに驚いて、思わず小さな呻き声をあげてしまった。彼は、しばらく俺のことを見ていたが、チラッと妻の死体を見たあとで、淡々と俺に言った。

「後悔しましたか」

「いいや。ただやっぱりね、こうして妻の死んだ顔見てると、感慨深くて泣けてくるんだ」

「へぇ。そういうものなんですね、夫婦って」

 本当に人事のように言う彼が憎たらしくないわけではなかった。でも、怒る気も全く起きなかった。

 それからもう少しだけ妻の顔を眺めていたが、俺はふいに一つの心配事が沸いてきて、話に花を咲かせている銭鼬と泥雀の間に入って、質問することにした。

「あのすいません」

 話に割り込まれ、銭鼬はホッとした顔を、泥雀は、心底嫌そうなため息をついて、こっちを見てきた。

「なんじゃろう?」

「あなた方に魂を渡したら、死後の意志はどうなるのでしょう」

「ああ、それならご安心つかぁさい」

 と、銭鼬は卑しく手を揉み合わせながら語り始めた。

「ワシらがほしいなぁ魂の生気なんじゃ。天寿を全うした人間の魂からぁ何も獲られんが、こうして死んだ人間の魂っちゅうなぁ……ああ、依頼人さんにゃぁ見えんじゃろうが、ワシが奥さんの魂を持っとるんじゃ。で、生気が有り余っとる状態で人間の身体から抜けりゃぁ、生気をワシらが受け取ることが出来る。魂っちゅう器からそれを取り出して、意思の部分は地獄に飛ばすんじゃ」

「そうなんですか」

「っちゅうわけで、アンタの奥さんの魂をこうして御代として頂戴致したけぇ、これで契約成立じゃな」

「いや、ちょっと待ってください」

 疑問の晴れた俺は、勝手に話を進めようとする銭鼬を止めた。

「御代は、俺の魂で払わせてください」

 そう俺が申し出た途端、銭鼬と泥雀があからさまに驚いて俺を見た。そして、少しゴニョゴニョ話した後で、また銭鼬がペラペラ語り始める。

「いやじゃけぇ、別にあんたが支払わのぉてもいいんじゃってば」

「わかっています。でも、俺の魂で払いたいんです」

「どうして? それじゃあ殺した意味がないじゃあなぁんか」

「意味ならあります。ここで俺も死ねば、俺達夫婦は、一緒に地獄に行けるんですよね」

「まあ、ここで魂の生気を抜いて。えっと、このちさい袋に詰めてしまやぁ」

「それは願ったり叶ったりです。是非今すぐ始めてください」

 俺の言葉に、銭鼬は随分とオロオロしていた。泥雀も、銭鼬の肩に乗って、ヒソヒソと耳打ちを再開する。それが何故だか、俺には優越感を覚えさせた。

 ふいに、後ろの戒十少年はどんな目で見ているだろうかと振り返って見たが、彼は期待通りにはいかず、特に動揺した様子が無いどころか、平然とした顔をしていた。

 一通り話がついたのか、銭鼬は何かを取り出しながら俺に向き直って、俺の申し出を承認したことを伝えた。そして、俺の胸に金色の輪を当てて、説明を始める。

「こりゃぁばっこんりんっちゅう、魂をちぃとした圧力ばっかしで取り出すもんじゃ。あまりいとぉないじゃろうけど、ちぃとだけ不快感があるかもしれん。そこはどうか我慢してつかぁさいね」

 俺はそれに同意して、覚悟がついたように目を瞑った。俺もいよいよこの世とオサラバするというのがわかることが、なんだか不思議でおかしかった。

「あ、ちょっとお話させて頂いて良いですかね」

 魂をいざ取り出すという時になって、突然そこに戒十少年の待ったが入った。

「地獄で奥さんと一緒になったとしても、そこでは閻魔様の断罪検査が入るんです。今までの小さな罪から大きな罪まで、この世の全てがそこで清算されるという話です。そうでしたよね銭鼬さん」

 銭鼬が頷いた。そんなものがあるとは知らなかったが、俺は特に気にかけることもなく「それで?」と、ちょっと得意げになって答えた。

「断罪された後、その償いの度合いはそれぞれ違うそうです。つまり、あなたと奥さんは嫌でも一度は引き離されてしまうんですよ。それでまた一緒になれる保障があると思っているんですか?」

 戒十少年の素朴な質問に、俺は、なんだそんなこと、と言わんばかりに鼻で笑った後、笑顔で堂々と答えた。

「ちょっと臭い台詞だけど、保証が無くても俺達には愛があるんだ。保障なんかより、ずっと安心できる確約だよ」

「そうですか」

 格好つけて言ったのに、その相手は俺の台詞に対して、特に感動することも引くことも無く、「へぇ」と言いたいような口調で答えてきた。そして、満足ですとばかりに俺に一礼すると、また傍観者へと戻ってしまった。

 最後まで憎たらしい少年だった。

「じゃぁ、行くんよ」

 俺は無言で頷いた。

 同時に、俺の身体はフワリと宙に浮いた。

 よく見て見ると、身体自体が浮いたのではない。今まで俺が納まっていた身体は、眼下でバタリと倒れていたのだ。我ながら、妻の安らかな顔に負けないくらい、良い顔で死に絶えていた。

 それから俺は銭鼬に掴まれて、気づかないうちに生気とやらを全て吸い取られた後で、飼っていた野鳥を逃がすようにして、俺達を放した。

 俺の目の前には、まだ安らかな顔で眠っている妻がいた。自分が死んだことに気づいていないのだろうか。全く可愛い妻だ。

「起きろよ、美紀菜。俺達、今度こそ本当に一緒になれるんだよ」

 妻の返事は無い。だが、宙に上がって、身体が消えていくタイミングは一緒だ。

「地獄に行けば、お前のことを不信がることも、嫉妬することもしなくていい。死ねばずっと一緒だ、俺もお前も、裏切りを心配することが無くなるんだ。素晴らしいと思うだろ? だから美紀菜、起きて新しい門出を、俺と一緒に見よう、な?」

 そして俺の魂の存在はこの世から消えた。地獄に行くというのは、言葉の響きや印象とは異なってとても清々しく、オープンカーで走って風を感じるよりも気持ちの良い感覚だった。

 さあ、これで今度こそ俺は、本当の幸せ者だ。



 次の日、『マンションで若い夫婦二人が、首吊り自殺しているのを発見』というニュースがトップを飾った。

 記事には、あんな幸せそうな夫妻がどうして自殺なんか実行したのか理解し難いという近所や知り合いの声が、ニュースでも新聞でも報じられていた。

 そして奇妙なことに、夫の死因は窒息ではなく原因不明、妻は水死という検死結果が後に出たことも、世間を多少揺るがした。

 ニュースコメンテーター達は、この奇妙な事件を、「いよいよ現代社会崩壊の予兆」として捉え、厚く他の出演者達と議論をしているのが目立った。


「こんなに上手くいってしまうものなんですねえ」

 銭鼬と一緒に新聞を買って、怪奇万能魂式会社の社屋へ帰る道中、戒十がふいにそんなことをつぶやいた。銭鼬は、ヘラヘラ笑いながら答える。

「検死って言っても、よほど事件性が無けりゃぁ実際に解剖するこたぁなぃけぇのぉ。ある程度不思議でも、普通の人間なら少のぉても“妖怪による悪質な殺人事件”だなんて、考えることもないじゃろうよ」

 二人は、奇妙な空間を歩いていた。空はあるが紫色で、青空と正反対に、曇り空すら敵わないほどに、とても薄気味悪い空になっている。辺りに立ち込める空気も、どこか誇りっぽかった。

 しかし、そんな場所においても二人は特に障害を感じることもなく、無事に怪奇万能魂式怪社の門前に辿りついた。

 怪奇万能魂式会社、すなわち怪社の社屋は、一見するととても企業には見えない、ごく普通の家屋だった。ただ、現代的に見ると、古い木造立てのボロくなった家屋で、少々物珍しい感覚はあるが。

 瓦も所々欠けていて、少し玄関先で頭上が不安になりそうなところもあるものの、基本的には立派で広めの一軒家だ。

 そんな一見何の変哲も無い家屋だったが、それはとても異質なものとして映っていた。

 何故なら、辺りにはこれの他に家屋がどこにも無く、所々荒れてはいるものの、ほとんどが平地だったからである。背景の紫色をした空も、その異質さと、気味悪さを際立てていた。

「戒十さんは、そーゆやぁ妖界にゃぁ慣れた?」

「大好きですよ。こういういつ面白いことに出会えるかわからない、刺激的な世界ですから、期待は尽きませんよ」

「そ、そうか。気に入ってもらえて嬉しいんじゃ、こちらも」

 そんな愛想笑いと、何か恐ろしいものを感じられる不気味な笑顔の奇妙かつ絶妙な二人は、特に変わったことなく、怪社の門を開いた。

 怪社の玄関に入ってからすぐ右の部屋が、窓際に佇む男のがいた客間だった。扉を開けると、何か小さなものが飛び出してきた。

「あら、銭鼬さん。おかえりなさい」

「泥雀さんじゃなぁんか、来てたんじゃのぉ」

「ええそうよ。仕事の報告書を届けにきて、今帰るところ」

「そうかー、ワシゃぁこれから仕事の始末なんで。ま、また今度お話しましょう」

 という銭鼬の顔は、出来れば長話は御免こうむりたい、という顔だった。

「いくらでも、私の武勇伝から何もかも……」

「う、蛾女がめさんに宜しゅうお伝えつかぁさいね」

「ええ。でも、どうせまたあの人、本社にきて、わざわざ掃除していくでしょう?」

 などと言葉を交わしてから、二人と泥雀は別れて、そのまま客間に入った。そこの窓際では、腕を組みながらあの背の高い男が窓の外を見ていた。

 銭鼬は、戻ったことを伝えると、その男はうんと頷いて、窓際からゆっくりと歩き出して、ソファーにどっぷりと座り込む。

 男は人間に近い骨格で、神社の宮司が着るような服を着ていたが、人間の姿はしていなかった。銭鼬は、そのまま普通の鼬を二本足にしたような外見だったが、その男は動物の姿をした人間、と呼ぶのが相応しい姿をしている。

 まず男は、小麦色の綺麗な体毛に覆われていて、頭の上には犬のような二つの耳がピンと立っていた。口も前に突き出しているが、卑しい印象を受けさせる形はしていない。また、目は切れ長で細く、開いているのか閉じているのかよくわからない、糸目のようになっていた。それらを総合すると、その男はとても狐に似ている人間、と称するのが一番近いだろう。

「まあまあとりあえずお二人さん。ソファーにお掛けになってください」

「こりゃぁこりゃぁ、ご丁寧に妖仙ようせんさん」

「銭鼬さん、私とあなたの百年以上の長い付き合いです。他人行儀な話し方は控えませんか?」

「いえいえそがぁな滅相も無い……」

 互いに牽制し合う中、間に入って戒十が新聞を妖仙狐と呼ばれた男に渡した。それに一通り目を通して頷いたかと思うと、彼は指から火を出して、一瞬にして新聞紙を燃やしてしまった。でも、焼かれたそれは、燃えカスどころか、塵や火の粉すらもその場には残らなかった。

「とりあえず、報告通りなら依頼は成功したということですね」

「はい、そういうことになるんじゃ」

「でしたら、要戒十見習い店員さんは、合格ですか? 不合格ですか?」

「え? そうですねえ」

 銭鼬が考え込むと、急に、ゾクッという寒気が隣から襲ってきた。振り返るまでもなく、戒十のプレッシャーだった。

 いかにも、「これで文句ないですよね?」と言わんばかりの視線を感じ、銭鼬は尋常ではないほどの冷や汗を流す。

「成果からゆやぁ、依頼人もすぐ見つけてきて仕事も円滑にいきましたんじゃ。ただ……」

「じーっ」

「……はいっ! 文句の付けようの無い、完璧な合格じゃ!」

「ありがとうございます」

 戒十の、じーっというプレッシャーをかけた一言が利いたのか、銭鼬はあっさりと合格を認めた。それを聞いた妖仙狐は手を叩いて、戒十の合格を祝う。

「おめでとう。今日から君は、銭鼬さんの部下一号だ」

「え? 妖仙狐さん?」

 勝手に話を進めようとする妖仙狐を、銭鼬は止めようとしたが、無駄だった。

「嬉しいですね。僕、銭鼬さんと行動するのが一番動きやすいんです」

「願ったり叶ったりじゃないか。本当に良い人材を拾ってきたものですね」

「いやー。アハハハハー!」

 自棄になって苦笑いする銭鼬を差し置いて、戒十と妖仙狐は硬く握手を交わした。

「これからお願いします。妖仙狐さん」

「今後のご活躍に、大いに期待させていただきますよ。要戒十さん」

 そんな二人を背にして、銭鼬は反対方向を向いて、誰もいないのにも関わらず、誰かに耳打ちをするようにつぶやいた。本当に、二人には聞こえないような、小さな声で。

「ワシゃあ、とんでもない人とお近づきになってしもぉたかもしれん……!」

 焦る銭鼬を他所に、後ろの二人は、とても微笑ましく笑いあっていた。

 いつまでも、止め処なく、不気味なほどに絶えず笑い続けていた。

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