第一話『異住料』前編

 カーテンを開けたら「今日も清々しい朝だ」と笑顔で起床出来る人間は、清らかな人だ。

 カーテンを開ける前に散々抵抗した後、「今日も憂鬱だ」と起きる人間は、駄目な人だ。


 僕は後者寄りだ。ただ、致命的に寝起きが悪いわけではないとだけは自負出来る。私用のためなら体内時計だけで起きられるし、起こされるのも好きじゃない。

 僕は背中をスプリングで押されたみたいに、快活に身体を起こした。が、部屋を見渡した途端、またベッドに飛び込んで現実逃避したくなった。

 雑誌が散らばっていた。その近くには菓子ゴミも散乱している。また、端の方には、空き缶も一つ放置されていた。それが酒でないのが唯一の救いだ。酒飲みでもないのに酒飲み扱いはゴメンだ。

 昨日これを始末出来なかったのは、僕が猛烈に疲れていて、風呂から出たら片付けようとしたのに体力が持たず、気づいたら力尽きて眠っていたからだ。

 僕は悪友達を恨み、自分の根性の無さを嘆きつつ、雑誌をまとまった所に積んでから、クローゼットから制服を出し、手早く着替え終え た。

そして鞄を手に取って部屋を出ようとした時、ドタドタと忙しない音が廊下に響いてきたかと思うと、すぐに部屋の扉が威勢良く開け放たれた。

まさたか! 朝だ! 朝だ!」

「朝だね」

「なんだ、起きていたのか」

 朝っぱらから大声をあげなから、兄は僕の部屋へズカズカと入ってきた。来るなり「汚いなー」と冷やかしたので僕が無視すると、今度は勝手に落胆し始めた。

「大学の友達が、弟を朝叩き起こすのはとても気持ちが良くて清々しいというから、お前で試そうと思ったのにさー」

「それをやられて、僕が怒らないと思った?」

「勿論、だから想定して、頭の防御用に鍋も持ってきた」

 僕を起こしにきた兄の格好は、起こす人間としては、かなり不適切であった。服装は夜空のような紺色をした安っぽいパジャマのままで。髪もボサボサだ。

 極めつけは、左手にぶら下がっている、兄曰く“自己防衛”のための鍋だ。それを知らなければ、僕は殴り殺されると勘違いしていただろう。

 こんな兄も、列記とした大学生様である。家庭教師のアルバイトで稼げるほどの学力で、家族自慢抜きに良く出来た兄だと思う。正直学校で大衆向けにやっている授業より、兄の無料講義のほうがわかりやすい。

 が、そんな優秀な兄でも、普段の生活においては極めてだらしない。

 大学の付き合いで遅いからと本人は言うが、そうでなくても毎日のように寝起きが悪いのだ。起きると手に持った辞書で、買って来た目覚ましを悉く叩き壊す習性がある。今部屋にある時計は、腕時計のみだ。

 また兄は、異常な読書好きで、種類に関わらずたくさんの本を所有している。主が「本だけで一つの個室が作れるぞ」と、豪語するのだから、家族は頭痛を禁じえない。読書に事欠かない生活を営む兄は、毎日夜通しで読書し、朝寝坊するのだ。

 そんな不摂生極まりない兄が、道楽のために弟を起こしにくるなど、言語道断。

「はあ。もっと念密に計画を立てないと」

「なら僕は対抗策を講じないとね」

「兄と勝負するというのかい。宜しいよその意気込み。喜んで相手しよう」

 大きな鍋を持ちながら仁王立ちするその姿は、格好悪かった。何かに浸っている兄を無視して、僕は極めて冷めた態度で、それに返事を返した。

「残念。僕は勝負事なんかに時間を裂けるほど、余裕無い」

「なんだよ、クールになりやがって」

「僕は、日々の情熱を絶やさないことより、朝ご飯が冷めていないかが気になる」

「嘆かわしい! 昔のお前はもう少し可愛げがあったのに」

「昔の兄さんは、もう少し全面的に尊敬できたのに」

 そう返すと、余裕だった兄が、小石でもぶつけられたみたいに、苦笑いした。

「益々言うようになったな。このガキは」

「そりゃ僕も、もう高校生二年ですから」

そう返すと、兄は「そうか、もうそんな年か」と感慨深さを感じはじめて、また浸り始めた。部屋を出ようとしても、うんうんと頷く兄が行く手を阻む。邪魔だ。

「朝ご飯冷めるよ」

「うんうん」

「さようなら」

「うんうん」

 兄の横をなんとかすり抜けて、僕は食卓へと向かった。


 結局、兄を二階においたまま、僕は朝食にありついた。母さんは僕に兄のことを尋ねてきたが、寝ていると答えておいた。食卓では、父さんがつけっ放しにしていたテレビが、以前起こった雪山遭難事件を映し出している。

 いただきますと食べ始めたところで、母さんがそうだ、と台所からひょっこり顔を出した。うちは両親が共働きで朝早い。だから時間に余裕はないはずなのに。

「さっきニュースで見たけど、最近起こってる誘拐事件、近いらしいのよ」

「え、誘拐事件?」

 何のことかと思って、担任がホームルームで注意を呼びかけていたのを思い出す。

 最近、高校生が無差別にさらわれて、行方不明になっているらしい。近くの学校からも被害者が出たとかで、結構な騒ぎになっていた。

 無関係ではないが、実感の沸かないそれを聞き流しつつ、僕は手短に朝食を済ませて席を立ち、玄関へ向かった。靴を履いていると、何故か、兄に一言挨拶すれば良かったという後悔が、頭を過ぎった。

 帰れば、同じ住居に住んでいるわけだから、いつだって会えるのに……。不思議に思いつつ、二階に向かって「いってきます」とつぶやいて、僕は家を出た。


 僕が毎日通る通学ゾーンは、商店街に隣接した住宅街の道のりだ。ここは、通勤通学ラッシュ以外の時間だと、意外にも孤独に事欠かない場所になる。。

 だから最近の事件を受け、PTA役員が時間構わず巡回し、子どもが単独にならないようにしていた。こういう人がいるのは心強いと素直に思える。不良学生には、監視が増えて厄介な存在かもしれないが。

 登校風景に紛れると、同胞からの倦怠感が伝わってきた。僕もちなみにその発信源を担っている。思えば、今日は日曜日開けなのだ。特に僕とって、友達との会うためだけの場所である学校に、半日以上縛られるというのは憂鬱この上ない。

 故に気持ちはよくわかるが、学生が揃って猫背なのは、不気味な光景である。

 そんな中、一際背筋を伸ばして、逆にどこか異質さを醸し出している人間の背中が見えた。その人物は、僕がこの学校で一番よく知っている人間に違いなかった。

 どうやら僕には気づいていないらしい。年相応の童心から、僕は脅かしてやろうと、相手に忍び寄ることにした。登校風景の生徒に上手く紛れ、相手の位置を感覚的に把握しつつ、こそこそ進んでいく。相手はどれだけ面食らうだろう、楽しみだ。

「おはよう、雅」

「ぐはっ!」

 脅かす側の人間である僕が、逆に酷く驚いた。今正にターゲットに指定して、密かに狙っていた相手が、僕の背後に立っていたのだから。

「何? 僕の顔に何かついている?」

「……目と、鼻と、口と」

「脅かしたのならごめんよ。にしても、何か深く考え事をしていたみたいだね」

「……」

 この、ちょっと、というか同年齢にしては相当に変わった雰囲気を醸し出している男子学生こそ、僕が親友と胸を張って呼べる唯一の人物、要戒かなめ《かい》だ。

 一見真面目そうな男子学生だが、性格には相当癖がある。次に一体どんなことを言うか予測がつかないような無感動な顔をいつも保っている。だからといって、暗いわけでもなく、明るく気さくなわけでもない。 

「ところで雅、どうしてコソコソしていたんだい?」

「こ、コソコソ?」

「どう見ても、コソコソしていたよね」

 おまけに、こうしてズバズバと人の内心を遠まわしに当ててきて、そのくせ、自分の本心を表には絶対見せず、常に手札を隠している。よって敬遠している奴も多いが、たまにとんでもないボケを繰り出すことから、それで好く奴もいて、とにかく彼の友人の数は安定していない。

 僕は、そんな戒十と、彼が中学の時に引っ越してきた頃からの、親友である。

「なんていうか、戒十を見かけたから、後ろから脅かしてやろうと思ったんだ」

 僕は諦めて、自分の行動の意図をあっさりと白状した。

「期末テスト前に、そんなことで知恵を絞るのは頭が疲れるだけだよ」

「……ごもっともだね」

 手厳しいながらも、これも戒十なりの気遣いだ……たぶん。中学の頃から、こんな皮肉を聞いているので、僕は戒十の意図が他よりは理解出来るようになっていた。

「まあ定期テストなんて、公平でも何でもない状況で腕試しをさせるんだから、真面目にやっても意味は無いけどね」

「あの、戒十? その発言は学生としてどうかと僕は思うよ」

「僕はやっぱり、世渡りが下手糞なんだなあ」

「いつもほとんどの科目の成績良いのに、本当、罪な高校生だね、君は」

「追い詰められても、無料サービスで教えてくれる優秀な家庭教師がいるほうが、僕は羨ましいけどね」

「コイツ!」

「あ、もう校門へ着いたね」

 と、戒十が怒る僕を無視して指差した。校門の前には、いつも通り二人の教師が並んで立っていた。この教師二人は、遅刻監視を行っているのと同時に、もう一つの仕事がある。未だに歩道橋も信号もない校門前の横断歩道は、何度か学生の死亡事故が起きている危険な所だった。それを防ぐのが校門前の教師というわけだ。おかげで安心して渡れるのはいいが、遅刻の取締りが厳しくなるという側面もあり、素直には喜べない。

 何せ、うちの学校では、遅刻者が校門の前で晒し者にされて、数十分の間近隣住民の前で説教されるという、地獄の仕置きが存在しているからだ。僕も受けたことがあるが、あんな目に合う位なら、今度はもうサボる。

「今日も先生、生徒を睨んでるよ」

「遅刻者を取り締まるのが大好きだから、特に右の奴はさ」

「迷惑で趣味が悪いけど、逆の立場に立ったら楽しいのかもね」

 僕は、戒十の一言に苦笑いしながら、先生に形だけ挨拶して、教室へと急いだ。戒十とは別のクラスなので、教室の前で僕等はいつも通りに別れた。


「なんで眠っちゃったんだろう……」

 午前の授業を全て終え、昼休みが始まると同時に、僕は机の上で頭を抱えた。僕の席には、、分厚い数学の課題プリントが積まれていた。見る度に憂鬱感が募る。

 事件は四時間目に起こった。僕は、朝のホームルームを受けて以降深い眠りについていたが、そのままぶっ通しで寝続けて、四時間目を迎えてしまったのだ。そこに、居眠りに厳しい数学の鬼教師がきたものだから、僕も運が悪いというか、懐が甘いというか。

 怒った鬼教師は、僕に対して、この大量の課題プリントを繰り出してきた。この人は課題オタクとして有名で、うちの先生の中でも特に難しい課題を出してくるうえに、そのくせ量が多いのが特徴だった。だからこの教師の授業では、みんな眠いのを我慢して、なんとか一時間やり過ごしていたというのに。

 いつも教師に対して不遜な態度を取っている僕ですら、今日ばかりは真面目に反省の意を表した。

「先生、どうかお慈悲を」

「慈悲深いだろ? 寝なければ丁度終わるくらいの量だ」

 恐らく先生の生まれた土地の特殊な基準なのだろう、しかし僕が生まれたこの街で、これを慈悲とは言わない。

 改めて中身を見ると、吐き気を催すほどの問題がびっしりと詰め込まれていた。よくここまで問題を集められるものだ。夏休みのドリル級はある。

 しかも、これを毎度授業の始まる前に作ってくるのだから、アンタは普段の仕事をいつやっているんだ、と問い詰めたくなる。

 課題を持ってきた数学の連絡担当を勤める女子は、愛らしい笑顔で僕の席にやってきて、「明日のホームルーム前までね」と、極刑を告げて去った。きっと僕のことが嫌いなのだろう。

「自業自得とはいえ、同情するよ、雅隆」

「そんなに疲れてたのか?」

「別にそういうわけじゃないんだよ。ただ今日は日差しが暖かかったし、それで寝ちゃったのかもしれない」

「俺もヤバかったけど、課題嫌だからコンパスの針を左手にずっと刺してたぜ」

 絶望した数分の後、昼飯を食べるため僕の席を囲みにやってきた友人の一人は、血が少し滲んだ自分の左手の甲を、見せびらかせてきた。それを見た僕等は、みんな示し合わせてもないのに、「馬鹿じゃねぇの?」と、全く同じ感想をぶつけた。

 同時に眠ってしまった僕のことを、みんなは揃ってまた自業自得と批判した。僕は、それを昼食の間禁止ワードにすると宣言した。

「そろそろ飯にしてやろう」

 飯にするか、ではなくしてやるか、というのに不服を感じながら、僕は弁当を広げた。弁当箱を除いて全て母が作ったものだ。僕は学食が良いのに、絶対に栄養が偏ると健康オタクな母が、無理に持たせている。これは兄に対しても変わらない。

 不味くはないけれど、冷めているということは少なからず食事を味気なくする。

「それじゃ、俺等学食にいってパン買ってくるから、それまで食うなよ?」

「僕はお前等みたいに食べ物にだらしなくないよ」

「八つ当たりはするなよ。まあ、俺等が買いにいっている間に、課題でも進めておきな」

 人事だからって好き放題言い散らした友人達は、僕一人を置いて教室から猛スピードで飛び出していった。ちなみに、僕の部屋を荒らしたのは、今席を立ったコイツラ悪友軍団だ。アイツラのおかげで、帰ったらすぐにでも部屋を片付けないといけない。というのに……本当に薄情な奴等だ。

「おまけに、今日はこんなデラックスなおまけ付きってわけですか」

 改めて、僕は今日の課題と向き合った。僕は、目から水の出る仕掛けがある銅像になりたい気分になった。

「これは随分と厚い書類だね。どこかの会社に体験入社でもしたの?」

 悲しい気分になっていた僕を、親友は労わってくれることも、慰めてくれることもなく、皮肉をぶつけてきた。僕は、そんな彼に殺気をぶつけ返す。

「ごめんなさい」

 戒十は、相変わらず無表情だったけれど、その素直な謝罪にはちゃんと誠意は感じられて、悪友の半端な気遣いや冷やかしより、ずっと救いがあった。

「でもこの課題を出した先生は、よほど環境破壊が好きみたいだね。紙が勿体無くないかな」

「いや、よく見てくれよ。これ実を言うと、ほとんど使用済みのプリントの裏に印刷しなおした奴なんだ」

「あ、本当だ」

 と言いつつ、戒十は特に驚いた様子も呆れた様子もなく、プリントを一枚一枚めくってそれを眺めていた。本当に大方の用紙が、印刷に失敗したものや、余ったか何かしたものなのだから、そのリサイクル精神には頭が下がる。

「地球にやさしいのはいいけど、生徒にもっと慈愛をくれよ」

「免罪符としてはちょっと御高い値がついているね」

 とつぶやいた戒十が、課題のプリントの裏表を調べ始めて、僕がそれを眺めていると、もう一人客人がやってきた。さっきの悪友ではない。

ひらすがくん、大丈夫?」

 と、唯一僕を心配してやってきたのは、中学の時から一緒の学校だった都中となかさんだ。気丈そうに見えるストレートヘアが特徴的だが、優しく穏やかな性格をしている。今は僕と同じクラスだ。

「私の友達も授業中の携帯がバレて課題出されてたけど、平菅くんはその倍だよ」

「ということは、僕がこのクラスで一番課題を出された人間ってことか。初めてクラスの一番になれたってわけか。やったね!」

「ヤ、ヤケになったらいけないよ?」

 はっはっはと笑い始めた僕を、都中さんは気にかけてくれた。

「努力はするよ、ありがとう」

 優しい言葉をかけてくれる彼女に、僕は今だけ恋をしたい気分に陥る。しかし、それは叶わない話だ。

 彼女とは、中学から同じといっても、言うほど親しげな仲ではない。確かに、女子の中で一番話しかけやすいのは事実だし、近寄りがたい戒十に対しても、隔たり無く接してくれる、数少ない人物であるからして、僕も好意的に接すしやすい。ところがどっこい、実は何を隠そう彼女の思い人は、戒十だった。

「か、要くんも、平菅くんが心配できたの、かな?」

「いや、ただ雅に用事があったんだけど、このプリント見てたら何か忘れたよ」

「へえっ。結構戒十くんも、その、何ていうか、えーっと」

「若年性痴呆症の疑いあり?」

「そ、そんなことじゃなくって! どう言えば良いかわからなくて! その!」

 しかし悲しいかな、戒十の方はというと、昔からそういうのには疎いというか、興味を示していなかった。彼曰く、自分が必要とする時、あるいは求められたら考えれば良いとのことだった。つまり、来るものを拒まずが、戒十の恋の戦術らしい。

一方の彼女は、どちらかといえばおとなしいが、控えめではない。こんな大胆なアタックをかけていることからもわかるだろう。本当に言いたいことは、口ごもらずハッキリと言う。穏やかな気性にしてはすごくアクティブな女性だ。

 でも、色恋沙汰に関しては、どうしても口篭りやすく、彼女は中学の時から戒十の前ではずっとこんな調子だ。

「とにかく、僕と都中さんに出来ることは、雅がその問題に押し潰されて、くたばらないことを祈ることだけだね」

「……ははっ、どうも」

 そんな彼女の感情を横から楽しむ暇もなく、戒十は現実を突きつけてきた。

「大変だったら、少しくらい手伝っても良いけれど……」

 都中さんが、とても嬉しい申し出が出た。

「都中さんが、雅の罰を背負う理由はどこにもないよ」

「えっ」

 が、それはすぐに却下された。

「もし、都中さんのせいで雅が授業中に先生の逆鱗に触れることになってしまったならともかく、これは全て雅の責任だ」

「だ、だけれど」

 少し彼女の優しさに甘えようとした僕の心を察知するかのように、戒十はズバズバと本当のことを指摘してきた。これでは、「手伝って」なんて、とても言えない。

「良いよ、都中さん。うちには優秀な家庭教師もいるし、なんとかなるって」

 僕の言ったことに嘘はない。が、家庭教師は本日休業だ。そもそも、自業自得でこんなことになった以上、疲れて帰って来た兄にその天罰を押し付けられない。それほど僕は無神経じゃないのだ。

「それじゃ、勉強と昼食の邪魔にならないうちに、僕は戻るよ」

「……ごめんなさい、平菅くん。私もお昼食べてくるから」

 僕がちょっと殊勝な決断したところで、二人はそそくさと退散を決め込んだ。僕は、「そうだね」とだけ答えて、唖然と二人の背中を見送る。

 しかし、煮え切らなかった僕は、二人が去る間際に、ささやかな戒十への報復を試みた。同時にこれは、心配してくれた都中さんに対するお礼でもあった。

「僕はもう約束してるから無理だけどさ、せっかく集まったんだから、二人で一緒に食事でもしたらどうかな?」

「え? エエエエエッ!」

 都中さんが赤面しながら、わかりやすく動揺した。これで戒十に気がないなんて言われたら、僕は一生恋なんて出来ないだろう。

 目があったのか、都中さんは、戒十にじっと見つめられ、思考が停止し硬直しているようだった。どんな経緯で戒十に恋したかは知らないが、これは重症のようだ。

「ちょっと平菅くん、何を言って……あー、その、私なんかとそのえっと、なんていいますか!」

「いいよ。今日は誰とも約束してないし。たまには会話しながら学生生活を謳歌するのも悪くないかな」

「……へ?」

 さらに興奮するかと思った彼女は、ピタッと静止した。どうやら予想外の返答に思考が止まったらしい。オーバーヒートして真っ白になっているようだ。

 彼女が焦ったり止まったりを見ていた戒十は、首を傾げながら言った。

「彼女、一体どうしたの?」

「女性のことを、男の僕に聞かれてもわからない」

「何か知ってるような顔だね、これは気のせいで良いのかな?」

「その通り。気のせいだよ」

「声が笑ってない?」

「気のせいだって」

 といいつつ僕は、笑いを堪えるのが必死だった。

 彼女と手を繋いで歩く戒十。食事を食べさせてもらう戒十。デートにあくせくする戒十。親友としては、その滑稽な様を想像すると、笑いを禁じえない。是非とも都中さんには頑張ってほしいと思う。

 ポーッとしていた、彼女はふいに我に返り。そしてぎこちなく頭を下げた。

「ふ、フツツカモノですが、よろしくお願いしまス!」

「こちらこそ。ウツケものですが、どうぞよろしく」

 自嘲的な挨拶をされても彼女は全く引くことも焦ることもなく、むしろ喜んでいる様子だった。愛する相手の言葉なら、何でも良いといったところか。

 悔しいとも羨ましいとも思わないが、こんな風に自分を思ってくれる人が自分にもいたらなあ、となんとなく思った。

「ごめんなさい都中さん」

 と彼女に詫びながら、僕は面白がってその光景を眺めていた。そして、彼女が教室から出て行ったのと入れ替わりに、悪友達はパンを片手に帰って来た。

 待っていた僕がニヤニヤしていたせいか、絶望のあまりおかしくなったのか、本気で心配してきた。出来れば最初から心配して欲しかった。


 昼休みが終わってからの五時間目と六時間目は、授業も聞かずに延々と課題を終わらせていた。徹夜なんてごめんだから、今のうちに終わらせようという、悪い魂胆である。

 だから、聞かない授業を無為に過ごすくらいなら、課題をやったほうが有意義だと判断し、教師が見回りにきても良いように、課題のノートの前に教科書を立たせながら進めていった。

 しかし教師はチェックしていると口では言っていても、顔色を窺う限りはいつも黒板しか見ていない。ハッタリだなと思いながら課題を進めていると、結局目も合わさないうちに、五・六時間目もやり過ごした。

 これが陰湿な教師だったら、とっくにバレていたかもしれない。


 授業が終わったあと、僕はまだ半分くらいはある問題全てに目を通し、理解出来ないであろうと判断した問題にチェックマークを付け始めていった。どうしてこんなことをするかというと、これらの問題の解き方を、教師に聞きにいくためである。

 うちの学校の教師は、生徒が課題で困っている時に、答えまではいかないが、途中までの解き方を積極的に教えてくれる先生が多い。暇なのだか熱心なのだかはわからない。しかしありがたい話である。

 これなら、上手くいけば徹夜しないでも、せいぜい夜中の三時か四時くらいまでには終わりそうだと思っていると、担任がきたらしいという話を聞き、片付けを始めた。が、担任はなかなか来なかった。

 頭にきた僕は、担任がくるまでに、もう少し課題を進めていくことにした。五問ほど解いたところで担任はやってきて、そそくさと教壇に立った。 

「みんなもニュースなどで知っているだろうが、この近辺で起きている誘拐事件について、落ち着いて聞いて欲しい話がある。昨日、また一人うちの学校から誘拐の被害者が出た」

 いつもなら担任の話なんて聞き流しているクラスメイト達が、それを聞いてざわめき始める。名前も知らない街の、会った事も無い人が事件に巻き込まれるのとは、訳が違う話だ。

 それでも、このクラスでないともなると、なんとなく実感は沸かないが。

「これで十三人目の被害者だ。我々も巡回するが、帰るときは出来るだけ一人で下校しないで、人通りの多い道を選んで帰ること。行きも同じだ」

 僕は自分のことを省みた。よく考えたら、僕が一番この中で犯人の標的として、条件の整った獲物であった。

 友達と遊びに行ったり、家に呼んだりするときは別だが、普段の登下校は一人である。何せ僕が今住んでいる家は、どの友達の通学路からも、思い切り離れたところにあるからだ。

「いざって時に自分を守れるのは、自分だけだということを忘れないように」

 そんなことを言われても、僕は護身用の武器を持っていないばかりか、護身術もない。誘拐犯に対抗出来る術を、僕は何一つ持っていないのだ。

 一方で、親友の戒十が空手と柔道の有段者だということを思い出し、僕は彼を羨ましがった。いっそ、ボディガードとして雇ってみようかとすら思う。

 さらに僕は重大なことに気づいた。これより数学の教師に問題を聞きにいかないといけないのである。徹夜を避けるため、じっくりと。

「やめようかな……」

 僕は一瞬考えたが、解けなくて中途半端な状態で課題を提出しようものなら、次にどんな高山を越えるよう言われるかわからない。兄にも頼れないし、意地で解けるという自信もない。

 どうして眠ってしまったのだろうと、改めて自分を批難しつつ、僕はやけに慌しい職員室の扉をノックした。


「やっぱりこんな時間になっちゃった」

 陽の落ちかけた、夜といって差し支えない空の明るさに、僕は大袈裟に身震いした。もう部活の人間もほとんど帰っていて、学校に生徒の気配は薄い。

 これでは見知らぬ人に「家まで一緒に帰ってください」なんてふざけた真似も出来ない。それを確認した僕は、暗くなった空と何回か睨めっこしながら、帰路を歩んでいく。

 例え誰かと帰れたとしても、どちらかが危険に晒されることは必須であるから、こんなことを考えても無意味であった。


 朝こそ、人の行き交う商店街も、この中途半端な時間だとあまり人通りはない。どの道、ここを過ぎたら僕は間違いなく一人である。

 正にその時を狙われるに違いないと、僕は神経をピリピリさせながら進んだ。すれ違う人全員が、今の僕には悪魔にしか見えなかった。

 挙動不審な僕に対して向けられる視線を掻い潜り、家に通じる道まで到達した。ここからが、本当に人という人がなかなか通らない場所だ。

 しかし、ここは廃墟の街でも地下に帝国を築いている都市でもない。人が住んでいるはずなのである。しかし今は、その気配すら感じることの出来ない、不思議な空間へと変わっていた。肌に纏わりついてくるじめじめした空気が、僕の鳥肌を一層逆立てさせた。

 出来るだけ堂々とした態度を取っているつもりだったが、こんな根性では、簡単に見透かされてしまうことだろう。頼むから何も起こらないでと、僕は天に願った。

 ポンッ。

 すると、僕の肩に手が置かれた。

 思考が全て停止した。そして、それはすぐに爆発した。

「わあっ!」

「おおおぉぉっ!」

 僕は、大爆発を受けて吹き飛んだかのように、その手から飛び逃げた。すると、置いた相手も同じようにして吹き飛んで、身を引いた。予想外に驚いて、相手も怯んだのだろうか、と思っていたら、その相手から声がした。

「全く。脅かそうとした相手が脅かすなよ」

「その声、もしかして……?」

 呆れたように、僕の父さんはそのもしかして、と答えた。父さんは、僕と同じような体勢で、尻餅をついていた。

 少し禿頭の兆候が見え始めてきた頭。平凡なサラリーマンスーツ。そして、兄に似た、どこか人を小馬鹿にしたような話し方。父に間違いない。

 そんな、僕と兄と父さんの類似点を見て、親子だなあと、こんな状況で思ってしまった。

「腰痛と痔が再発したら、医療費はお前の小遣いから引いてやるからな、全く」

「自分が脅かそうとしたのが悪いんじゃないか!」

「父のお茶目に悪気は無い。よって罪も無い」

「無茶苦茶だ!」

 それを聞くと、父は呆れたようなため息をついてから、砂埃のついた尻を叩いた。

りょういちは自分の部屋を書庫にしちゃうわ、雅隆は父を虐めるわ」

「あべこべだ!」

「もうすぐ、ツルッハゲになるだ。定年だ、隠居だ。終いには灰になるだ。父さんの首を絞めるような冗談をさも当然と言う奴に、それを言う資格はない」

「冗談じゃないか!」

「俺のも冗談だったんだから、許されるべきだ」

 父さんには敵わなかった。しかし、同時に僕はこの人に救われたのだ。

 そのまま、父さんに終始引っ張られたまま、僕等親子は、随分と久しぶりに横並びになって歩いた。話しながら、ふいに見た父の横顔がどこか嬉しそうだったのが、僕にはなんだか照れくさくて仕方なかった。


 時刻は夜中の二時。

「よし、あと四ページだ。やっと、やっと四ページだ! 不吉な数字でも何でも、やっと四ページだ!」

 先生に聞いた甲斐あってか、気づけば地獄の課題が終わりを告げようとしていた。素直に嬉しいからって、馬鹿騒ぎする自分が恥ずかしく思えなくなるほど、今僕は猛烈に歓喜している。

 ここまで頭を捻ったのは、果たして何ヶ月振りだろう。そのおかげで、僕の脳は、横に常備している炭酸飲料を飲んでいるおかげで、ギリギリオーバーヒートを避けてる状態だった。 

 今まで、僕がどれほどくだらないことに頭を使っていたかということがよくわかる。

「今度のテスト、先生がどれだけ呆けた顔するか、楽しみだね」

 指南してくれた先生は、その最中、「こんなこともわからないのか」と、耳にタコが出来るほど、何回も罵倒してきた。僕はそれに対する憤りを、照れたような様子でごまかし乗り切ったが、この復讐はテストで果たせそうだ。

「残りやる前に、少し頭をスカッとさせるか」

 テンションがクールダウンした僕は、スパートをかけるために一息つこうと、窓を開けて夜の風を浴びることにした。それほど高くない我が家の二階から見える精一杯の住宅街風景を眺めながら、外気を感じた。

 やはり排気ガスの混ざった、都会らしい汚い空気だったけど、肌触りはそれほど悪いとは思えないない風が、部屋の中に吹き込んできて、僕は、この風が夏に来ることを切に願った。

「んっ?」

 途端に、色のないはずの空気が、不気味な色に変色したような、妙な錯覚を覚えた。

 同時に、今まで心地よく僕の身体を撫でていた風が、掌を返して不快極まりないものに変貌して、僕の肌にまとわりついてきた。僕はその気持ち悪い風に、吐き気すら感じていた。

 すぐに窓を閉めようとした僕だったが、眼下に見知った人間を見つけたて、それをやめた。

「戒十?」

 普段と変わらない様子で歩く、親友の戒十がそこに居た。何か僕に用でもあるのかと思ったけど、戒十はそのまま奇妙で薄暗い暗闇へ消えようとしていた。この先はあんなに暗かっただろうか、と少し疑問と不安を抱きながら。

 その不安が大きくなり、僕は身を乗り出して戒十のことを呼び止めようとした。が、それより前に相手が立ち止まり、キッと僕の部屋に眼光を向けてきたので、僕は慌てて部屋の中に引っ込んだ。

「あれ、何怖がってんだ?」

 親友の視線を怖がるなんてどうかしている。と僕は頭を無意味に左右へ振ってから、また窓へ顔を出した。

 もう戒十は、そこにはいなかった。包まれていた暗闇も無かった。そして空気は、いつもの通り、心地よい風に戻っていた。僕は、不思議に思いながらも、自分の頭を拳で二回ほど小突いてから、机に戻った。


 次の日の朝、十分に眠れなくて、寝起きがすこぶる悪かった僕は、フラフラしながら、身体を起こした。とても清々しくない朝だ。

 脳を起こすために、まずは身体を伸ばそうとしたが、あろうことか、昨日適当に積んおいた雑誌を踏み崩し、思い切り倒れてしまった。受身も取れず、床に直撃した僕は、あまりの痛さに蹲って、激痛に震えながら数分間座り込んだ。

 痛かったのは、防げなかった側頭で。虫歯にでもなったみたいに、頬の辺りから耳の所までが、弦で弾いたようにジンジンと痛む。だがそれに泣いている暇もなく、僕は這ってクローゼットへと向かい、さっさと着替えて鞄を乱暴にひったくる。

 食卓にいくと、僕はパンだけを母さんから貰って、さっさと登校することにした。まだ余裕があると思ったら、痛みに苦しんでいたのが余計だったらしい。急いでパンを焼いてバターを塗ると、それをくわえながら僕は玄関へと急ごうとする。

「行儀が悪いよ」

「ふぎゃっ!」

 そんな僕の進行を止めたのは、新聞を片手にヨレヨレのパジャマ姿で出てきた父だった。父は、僕の頬の赤みのことを問いただすと

「雅。そんな顔で学校に行ってもね、女の子にはモテないよ」

 といって、湿布を用意するまで待てと、遅れると騒ぐ僕を無視して薬箱を探し始めた。が、見つからず、その足で母さんのいる台所へ行ったり、引き出しを探ったり、随分遠回りしてようやく持ってきた。

「さ、これでは我が家の色男の復活だ」

 父さんが茶化すように言いながら、僕の頬に叩きつけるようにして湿布を貼り付けた。電流つきの鉄球でもぶつけられたような激痛が走る。

 気づけば時間的に完全なる遅刻だ。もうどんなに急いでも間に合わない。このまま行けば、僕は学校名物、近隣住民に晒し首の刑に処されてしまう。

 かなり憂鬱そうな背中を向ける僕に対し、後ろから父さんがそっと追ってきて、一言僕に声をかけてきた。

「この挨拶が、お前との最後の会話になるとは、夢にも思わなかった。なんて、マスコミの前で言いたくないからな。自分は関係ないなんて思うんじゃないぞ」

「……父さん」

「何度でも言うぞ。気をつけて、行って帰ってきなさい」

 僕は、うんと頷きながら、父さんが頬に叩きつけた湿布に手を置きつつ、家を出た。痛いけど、そこには温もりが確かにあって、何故だか安心できたのだ。


「おはよう」

「つおっ!」

 両親のささやかな愛情に感動していた僕の前に、予想外の人間が現れた。しかも、玄関の前で。今度は、見事に尻餅をついてしまった。

「どうしたんだい。バナナの皮なんて、僕は置いてないよ」

「戒十……?」

 そこには、昨日僕の心を煮え切らないものにした元凶である、戒十がいた。朝のこの時間に、僕の家に立っているというのは、あり得ない話だった。

 僕と戒十は、お隣さんでもご近所さんでもない。同じ町に住んでいるが、彼の家は、ここからかなり遠い位置にある。本当なら、既に学校に行ってなくちゃいけないような戒十が、どうして僕の家の前でドッキリを仕掛けてきたのか、サッパリだった。

「その湿布の貼り方、なんとなくワイルドだね」

「そんなジョークを飛ばしてないでさ」

「笑えなくてごめんよ」

「……ジョークの良し悪しでもなくて。どうして、戒十がここにいるんだよ」

「親友の家の前に居たら、いけないのかい?」

「……戒十くん」

「ごめんなさい」

 こうやって素直に謝る潔さは、やっぱり彼の長所だと思う。

「冗談を言ってる場合じゃなかった」

「ああ、このまま遅刻したら、また先生に晒し首にされるんだから。早く行こう」

「そうじゃないんだよ」

 と、僕の手を戒十はグッと引いた。いつになく、彼の表情は真剣だった。これだけ付き合いが長いと、彼が冗談を言ってるときの顔と、真面目な話をするときの顔の、微妙な見分けがつくようになる。

「遅刻より大事なこと?」

「皆勤賞を狙えるわけでもない僕等が、遅刻やサボりなんかを気にする意味はないと僕は思う」

「つまりえっと、暖かく見守られて家を出た僕に、学校をサボれという話?」

「もし、この僕の信じられないような話にお付き合いくださるなら」

 戒十は、わざと敬語を使った。ふざけているようにも見えるが、これは結構深刻な話だということが僕には伝わってきた。それもあまり他言したくない話みたいで、戒十はしきりに辺りを気にしている。

 今更、頑張って学校にいっても恥をかくだけで仕方ないのはわかっている。だったらいっそ、不良になってみるのも悪くはないかもしれない。後で学校に「風邪をひいてしまって出られなくなりました」と言えば、親への連絡は行かなくて済むだろう。

 第一に、親友という理由で、目立った才能もない僕を頼ってくれるのだ。無下に断れるほど、僕は不義ではない。両親には少し不義になってしまうが。

「君の言うことなら、なんでも信じるよ」

「いや、いくら何でも、今回のは、キツいと思う」

「ならまず、簡潔に一言で話して欲しい」

「わかったよ。じゃあここだけの話をするから耳を貸して」

 そういって戒十は、僕にこっそりと耳打ちをした。

「誘拐事件の犯人、それは“妖怪”だ」

「は?」

「そして都中さんが捕まったんだ。“妖怪”に」

 僕は、その突拍子もない簡潔な話に、見事度肝を抜かれてしまった。



「信じられないでしょう?」

 と戒十は説明をしめた。確かに信じがたい話だ。でも、戒十が嘘を言うとも思えないので、僕は本音をいいつつ、彼を信じた。

 警察には話したのかと聞くと、僕すら信じ難いと考えるものを、警察が信じると思うのか? と逆に問い返されてしまった。

 簡単に戒十の話を要約して説明すると、昨日誘拐犯が現れて、都中さんをさらっていったということが、彼の目の前で起こったらしい。ここで気になるのが、犯人が人間ではなく妖怪、化け物だということだった。

 にわかには信じられなかった僕も、戒十の冗談じゃない目に説得され、妖怪退治についていくことになった。果たして役に立つかはわからないが……。


僕等は、工場地帯にやってきていた。今では倒産して放置されてしまったここは、ボウフラの楽園と化しており、夏は、思わず声をあげてしまうほどの蚊がここから誕生し、人々を襲いにくるのである。

 そんな、ボウフラ養殖の一翼を担うドラム缶の上に、誘拐事件の犯人はいた。僕は驚愕のあまり、最初は呻き声もあがらなかった。

「確かに化け物だ」

 身長は僕達よりも高そうだった。ただ座高だけで見ているので、本当はもっと高いかもしれない。しかし、それだけでは相手の身長を判断しかねるものがあった。何せ相手は、人間の骨格と体形をしていなかったのだ。

 一言で例えるなら、化け物は、全身白い毛に覆われたフェレット、すなわち鼬のような外見で、それを強引に人と同じ姿勢に矯正したような、とにかく奇妙な体形だった。しかも、目つきには可愛げがない。

 何より相手の外見において異様さを感じるのは、その背中に縄で括って背負っている、巨大なガマ口財布であった。しかもそれは、薪を運ぶ籠に似たもので、ちゃんと固定してあった。ガマ口を背負った鼬……化け物と言うには十分だったが、それに値する迫力には欠ける相手だった。

「着ぐるみじゃないのか」

「まさか。着ぐるみは瞬きもしないし、あんなところにも座れないよ」

 ごもっともな話だった。さて、まずは相手を取り押さえなくてはいけない。例え威厳がなくとも、何をしてくるかわからない、異形の存在だ。

 僕は、酷く緊張していた。冷や汗も、脳に止めろと命令したいぐらいに滲み出ていた。だからその時、僕の足元に古い空き缶が落ちていることなんて、気づかなかった。

 缶を蹴ってしまった僕はさらに動揺して、それを処理しようとした。これが大間違いだった。僕の姿は、丁度それに気づいた化け物の目に、バッチリと映ってしまったのだ。

「あっ! なんだワレ達は!」

 荒い言葉遣いだが、どことなく頼りない声をした化け物がこちらに気づいたらしく、相手はドラム缶から降りてこちらにやってきた。

 僕は逃げようとしたが、缶を拾おうとして、地面にしゃがんでいたのが失敗であった。すぐに立ち上がれなかった僕は、すぐに追いつかれた。

「仕方ない。こっちから仕掛けてやる!」

 と、僕は今回の失敗の原因を作った缶を苦々しく取ると、化け物に向けて投げつけた。化け物には利かないだろうと駄目元で投げたそれは、予想外に効果が抜群であった。

「うわっ、きしゃない! このガキ、なんて面倒なことするんで!」

 化け物は、その異様な見た目とは裏腹に、どこか緊張感の無い訛りのある話し方をするらしく、ついでに潔癖症のようだ。これは好機と、一時僕は後ろに下がって戒十と合流した。すると、入れ替わりに戒十が突っ込んでいった。

 戒十が突撃してくるのを見た化け物は酷く驚いている様子だった。見た目とは裏腹にコイツ、案外気も力弱いのかもしれない。それなら勝てると一瞬確信しかけたが、その予測は脆くも崩れさった。

「あっ」

 なんとも運の悪いことに、戒十が化け物を前に転んでしまったのだ。彼はそのまま化け物の懐へ、無防備に体重を預けた。預けられた方は、殴られると思っているのか、頭を短めな両手で隠して、少し震えていた。良かった、戒十が反撃されることはない。

「あっ。これ、結構肌触り、良いね」

「え?」

 が、戒十も追撃することはなかった。なんとあろうことか、相手の毛の触感の虜になっていたのだ。僕は口をあんぐりと開けて、絶句した。

「フカフカだなあ」

「い、命ばかりゃぁお助けつかぁさい! ど、どうかお願い致するんじゃぁーっ! ……って、こ、こりゃぁチャーンス!」

 化け物はそう言って今までの弱腰から一転、物凄く強気になって戒十のことを捕まえた。そして、急いで両手を擦ったかと思うと、そこから青い光の刀を生成し、それを戒十の首に向けた。

 あっという間に、僕等二人は不利な状況に陥れられていた。当の戒十は、ようやく自分の危機に気づいたらしく、少しだけ目をギョッとさせる。

「これで逆らえんじゃろう! さあて、そちらさんもワシのところに来てもらいましょうか」

「くそっ! なんてこった!」

 僕は地団駄を踏みつつ、両手をあげてひとまず抵抗の意思がないことを示した。いつでも相手は、戒十の首をとれる位置にいるのだから、こうするのが一番安全だろう。

 苦虫を潰したような顔で悔しがる僕を見て、戒十は酷く申し訳なさそうに、でもこう言った。

「ごめん。フカフカの魅力に負けてしまった。ほら、触って見て」

 そして、一応フリーになっている手で、僕のことを化け物のほうに引っ張ってきて、その毛を触らせた。羽毛布団よりずっと肌触りが良かった。

「あ、これ良いね本当……って、戒十!」

「……あの、そろそろワシのゆぅこと、聞いてくれんか?」

 優位に立っているはずの敵は、何故だか未だに腰が低い様子だった。


「僕等をどこに連れて行くつもりだ?」

「ぼちぼち見ていんさいって。そりゃぁもう驚く所じゃけぇよ」

 誘拐犯たる化け物は、刀さえなければ、一発で言い負かせられるような、気の小さい奴に思えた。おまけに、変に訛っているおかげか、緊張感が全く無い。

 こっちはあくまで強気なのに対して、相手は急に陽気になり始めて、なんだか調子が狂う。一方の戒十は、意気消沈するわけでも、開き直るわけでもなく、いつもの平然とした顔で捕まっていた。 

「さてと、準備しましょうかね」

 と、化け物は工場裏手の行き止まりへと走っていった。それを追った先では、工場で作られたのか、工場の機械なのかよくわからない鉄の塊の部品が散乱していた。そして、そのまま化け物は、本当に行き止まりの端までいくと、今度は壁を手でペタペタと触り始めた。化け物のすることは到底理解がし難い。

 しかし、こんな時にでもちゃんと刀だけは握っているのだから抜け目がなく、僕は一向に手が出せないでいた。そして、何かを探し当てたのか、上手くいったというような顔をすると、化け物は散歩ほどそこから下がり始めた。

「腰なんて抜かしたら、その辺りの鉄片が尻に刺さるけぇね、十分に気をつけるんで」

「誰が!」

 と、僕が強がっている側から、奇怪な現象は、僕の目の前でさも当然のように起こり始める。

 今まで気にも止まらなかったような、緩やかな風が急に音を立てて激しくなり、辺りの空気の色も変わり始めた。まるで、閉め切った風呂の湯気が、開放されて流れ込んできたよう感覚だ。僕は、先程化け物が触っていたところを薄目で観た。

 大穴が開いていた。といってもそれは、強烈な打撃などで意図して開けられたものじゃなかった。何故なら、穴の先に見える風景が、日本では絶対に有り得ないものになっていたからだ。蹴破ったら溶岩が見える塀なんて、あるはずがない。

「それじゃあここからぁ一緒に来てもろぉょう。お友達を晒し首にされたくのぉたらね」

 僕は、心底悔しそうな顔を奴に向けてやった。化け物は、そんな僕が面白かったのか、キキキと笑いながら、穴のほうへと向かっていく。戒十の首筋では、ずっと刀が血に飢えながら、刃を光らせている。戒十を今奪還するのは無理だと考えた僕は、そのまま言うことに従うことになった。

 いつだって僕は逃げることが出来た。正直目の前に広がる光景に、臆しているのも事実だ。でもあいつは僕の親友だ、見捨てることなんて出来ない。

 僕は化け物に続いて、全く知らない別世界へと、足を踏み入れた

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