第3章 彼は伝説を残した
4月。中学の入学式の翌日、恵子は孝志とともに美春を門前で見送ることにした。担任は願った通りの真佐子先生だったが、美春は昨日からずっと不安そうにしている。
「美春、ほんとに似合ってるぞ」
可愛い可愛いと孝志が連発した。
「プリンセス・オブ・セーラー。世界一だ」
「え~、それじゃだめだよ」
目立っちゃいけないんだから、と美春が父親の極上の賛辞に口を尖らせる。
「ねえお母さん、わたし普通に見える?」
緊張気味に言うのが愛おしくて、恵子は娘をそっと抱きしめた。
「大丈夫よ。すごく可愛いけど変に注目されるって感じじゃないわ」
「ほんと? 良かった」
「おい美春」
呼びかけた父親に、
「いいじゃん、もうちょっとお母さん貸してよ」
美春は恵子にしがみついたまま、兄妹でおもちゃの取り合いをしていた幼い頃そのままのような声を出した。
「いや、離れろってんじゃなくてさ。おれも美春を元気づけてやろうと思って」
おちゃらけバージョンと真面目なの、どっちがいい? と言う。
「じゃあね」
普段おちゃらけてばかりだから、と美春は“真面目な方”をリクエストした。
「よし、分かった」
母親から体を離した美春と向き合うと、孝志は長身を屈めて、娘と視線を合わせた。言葉に違わず真剣な表情だ。
「学校、やっぱり不安か?」
「ちょっとだけ、ね」
表情は“ちょっと”どころではなさそうだ。何だか可哀想になってきた。
「迷ったら“基本”に帰る。分かってんな?」
父親の言葉に、美春はうなずいた。
「“わたしがかっこ悪い、おかしいと思うことはやらない”」
孝志がうなずき返す。
「もしそれが面白くねえって言う奴がいたら、ブチ切れていいぞ」
好きなだけ暴れろ、と12歳の娘にふさわしからぬ助言をしている。
「うん」
孝志の掌がそっと娘の頭に置かれた。
「大丈夫だ。美春には、勇者たかさまと世界最強の家族がついてるんだからな」
真剣な面持ちで言う父親に、美春の表情がふっと緩んだ。
「今の美春は、これ以上ねえってくらい守備力上げてあるから」
中ボス程度の攻撃じゃ、びくともしねえはずだ、と孝志は真面目な表情を崩さない。
「こないだお父さん、あっけなく全滅してたけどね」
「あれか? 次の日、15秒でぶっ潰してやったぞ」
がっつりレベル上げしたからな、と得意気だ。
「ねえ。これ、ほんとに真面目バージョン?」
「ふざけてるように見えるか?」
「ごめん。ありがと」
にっこり笑うと、美春はいってきまあす、と両親に手を振り、駆け出して行った。
* * *
その日、勤めから戻った恵子が玄関のドアを開けると、足音高く美春が駆け寄ってきた。
「お母さん、どうしよう!」
「どうしたの?」
まさか、入学2日目から暴れたの?
「お兄ちゃん、とんでもないことになってた
よ!」
飛び跳ねながら興奮気味に言う。
「健太が、とんでもない?」
聞き返しつつ辺りをうかがったが、当の健太はまだ帰っていないらしい。
「あのね、先輩たちが言ってたの」
とりあえずリビングに移動して娘をソファに座らせ、恵子もその隣に腰を下ろした。
「ごめん。はじめから話してくれる?」
穏やかに促すと美春はうなずいて、その日中学校で仕入れてきた話を始めた。
身の周りの何もかもが新鮮なのと、クラスに何人か気の合いそうな友達を見つけたことで、先輩や学校生活の不安を忘れかけていた美春だったが、担任が教室を出た後、クラスの女の子たちと話をしていると、2年か3年とおぼしき男女の一団が教室に入ってきた。
何事かと思っていたら、“おっかなそうな女の先輩”が別の生徒に“竹中美春ってどの子?”と尋ねるのが耳に入った。そのまま窓から逃げ出そうかと思った美春だったが、“勇者の娘がそんなかっこ悪い真似できるか!”と勇気を振り絞り、椅子の上で体を固くしていたのだと言う。
美春の机を取り囲んだ5、6人の先輩連中のうち、今度は男子生徒が“健太さんの妹?”と声をかけてきた。美春がうなずいた直後、彼らの口からお~っという声が漏れ、そこで初めて美春は上級生たちの愉快そうな様子に気づいた。
「卒業式の日、お兄ちゃん手が腫れて、風邪引いちゃったでしょ?」
「ええ」
「どうしてか、分かったよ!」
ようやく健太の話が出てきた。
きっかけは、卒業式の後、後輩の男子生徒が“学生服を譲ってもらえないか”と健太にもちかけたことらしい。
健太が返事をする前に、周りにいた他の生徒達がそれを聞きとがめ、自分たちもと騒ぎ始めた。さらには制服のボタンを狙っていた女子生徒たちも集まって、にわかに“制服&ボタン争奪戦”が勃発してしまった。
“もめるんだったら、誰にもやらない”
健太だったら、きっとそう言っただろう。恵子は思い、実際健太はそう言ったらしいが、周りが承知しなかった。そこで、その場を収めるべく乗り出してきたのが、チクタクバンバンだった。
「まあ、お兄ちゃんが竹(チク)だから、正確にはタクバンバンなんだけどね」
「前にも言ってたけど、それ、何なの?」
美春の解説によると、同学年で仲の良かった竹中、宅間、番場、坂東の頭の字を取って一緒くたにした呼び名なのだと言う。そう言えば、そういう姓の子が時々家に遊びに来ていた。
健太を除いて前生徒会の役員だったタクバンバンの三人は、騒ぎを利用して“伝説”を残すことを思いついた。
「くじ引きで順番決めて」
希望者に上着とボタンの分割販売を始めた。
「分割って、どうやって?」
「ボタンはどうしようもないけど、布のとこはハサミで」
「切っちゃったの? 制服を?」
「うん。それだけじゃ足りなくて、シャツまで取られちゃったんだって」
切り出した制服は大きさや場所によって、数十円から数百円までの値段をつけた。
「ちょっと待って」
女子生徒がボタンをほしがるのは理解できるが、制服やシャツの切れ端を手に入れてどうしようというのだろう。
「すっごい尊敬してるとか、いいことありそうとかいろいろ言ってたよ。先輩たちが買った切れ端も見せてもらった」
分割販売には、男女学年を問わず多くの生徒が集まった。もちろん、単なる冷やかしやイベントには乗っておこう的な人間もいたが、何らかの形で健太に世話になった、窮地を救ってもらったなどと、恩義を感じてやってきた生徒がかなりいたらしい。
「そうなの」
健太の人柄が認められてのことなら、素直に喜んでいいのかもしれないが、母としては複雑だ。目の前で制服を切り刻まれ、本人はどんな思いだっただろうか。
「健太、よく許したわね」
「なんかね、その時、お兄ちゃんタクバンバンに借りがあったんだって」
「借り?」
「マンガ返し忘れてたとか、そんな感じの。それに」
健太も呆れながら笑って応じていたというので、少し安心した。
「でも」
さすがに学校で“商売”はまずいのではないか。教師は誰も気づかなかったのだろうか。恵子が疑問を口にすると、美春は笑った。
「面白がって、先生たちも何人か買ったらしいよ」
「何ですって?」
母親の声音に、美春が飛び上がった。
「ごめん、言うの忘れてた」
チクタクバンバンの四人は売り上げの9万1440円を全額母校に寄付した。
「それにしても、シャツまで切ることないのにね」
美春が呆れたように言った。同感だ。ズボンは健太が(当然のことながら)死守したらしいが、シャツまで提供したなら、販売が終わって別宅に駆け込むまでは、その下に着ていた長袖Tシャツだけだったということだ。風邪を引くのも当然だ。
もう一つ気になっていたことを思い出し、恵子は尋ねた。
「手は、どうして腫れたの?」
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