第2章 彼は手を腫らした

 その後、ウニを頼んではイカを口に入れられたり、イクラという名のタコを食べさせられたりと、父親の悪ふざけに散々付き合わされていた健太だったが、大騒ぎしながらも無事に一家で二十人前を完食した。

「やっぱ、食うと元気でるよね」

 健太に笑顔が戻った。冷ましたお茶の湯飲みを両手で挟み、そろそろと卓上で傾けて啜っている。鼻をぐずつかせながらでは味わうどころではなかっただろうが、それなりに満足してくれたようで良かった。

「そういや、ちゃんと残してきたか?」

 先に席を立って食器洗いを始めていた孝志が、健太の方を振り返るようにして話しかけた。

「残すって、何を?」

 不思議そうな息子に父親は、今度は背を向けたまま答えた。

「決まってんだろ。S中の竹中健太伝説だよ」

「伝説? そんなのいらねえって」

 健太は呆れている。

「平穏無事が一番いいんだから」

「平穏無事だ? つまんねえこと言うなよ」

 不服そうな父親に、

「だいたい屋上バンジーとか、放送室ジャックとかオレにやらせてどーしたいの」

 誰が喜ぶわけ? と健太は言った。

「ほんとガキみたいなことばっか言ってんだから」

「ガキで結構。おれにとっちゃ褒め言葉だ」

 孝志は振り返って長男をじろりと見やると、

「あ~あ。情けねえ」

 大げさな口ぶりで言い放ち、肩を落とした。

「伝説の一つも残してこねえなんて。ほんとがっかりだ」

「お父さん、安心して」

 お兄ちゃんの代わりにわたしが伝説作るから、と美春が手を上げた。来月からは健太が卒業した中学に美春が通うのだ。

「お、頼もしいな」

 さすがは我が娘、と孝志が笑顔を向けた。それまで夫と息子のやりとりをおかしく思いながら聞いていた恵子は、少し驚きながら美春に尋ねた。

「バンジージャンプって、美春怖くないの?」

「やだ、お母さん」

 さすがにバンジーはやらないよ、と美春は笑った。

「わたしね、中学に入ったら、図書室の本を全部読んじゃおうと思ってるんだ」

「マジで?」 

 健太が目を丸くした。

「全部って、お前どんだけあるか知ってんの?」

「知らなーい」

「棚に並んでるのだけで、何千って数だぞ。3年間じゃ……」

 “無理だ”とは言わない。健太が優しい性格なのもあるが、それが我が家のルールだからだ。

「いいの」

 要はね、と美春が微笑んだ。

「何かやってやろう、って気持ちが大事なんだから」

「美春、えらい」

 孝志が、拭いた寿司桶を食卓に置きながら嬉しそうに言った。

「健太も見習えよ」

 健太は返事代わりに片手を上げたが、すぐにその手を湯飲みに戻した。

「でも高校生編はハードル高いぞ」

 二つ目の桶が重ねられた。

「やることにもよるけど、中学までは“おもしれえ奴”で済んでも、高校だとただの変人っていうか、下手すりゃ“ちょっと可哀想な人”だもんな」

「なんだよそれ」

 可哀想な人って、と健太は苦笑している。

「ねえ、じゃあお父さんは?」

 何かやったの? という娘の問いに、孝志はにかっと笑った。

「おれか? もちろんだ」

「どんなこと?」

「それは、言えねえな」

 そして四段重ねの寿司桶を抱えると、台所を出ていこうとした。

「言えないって、どうして?」

 孝志が足を止め、顔だけを振り向けた。

「てめえの伝説てめえで語るほど、かっこ悪いことねえからな。なあ?」

 そう言うと、そのまま桶を置きに出て行った。最後の“なあ?”は誰に言ったんだろう。

「お父さん……」

 父親の背中を見送りながら、美春がしみじみとつぶやいた。

「お寿司の桶さえ持ってなかったら、今のすごくかっこよかったのに……」


* * *


 桶を置いて戻ってくるついでに孝志は風邪薬を取ってきた。

「ほら、口開けろ」

 ダーツでも投げようかという構えの父親に、

「いいよ。自分で飲めるから」

 健太が掌を差し出した。

「なんだよ、つまんねえな」

 せっかくあーんが面白くなってきたのに、と孝志は錠剤を健太に渡してやりながら言った。

「そういや、健太や美春がちっちゃい頃は、口の中に薬放り込んでやってたな」

「私も思い出しちゃった」

 美春には最近までそうやって飲ませていたような気がするのに、その子がもう中学生になるなんて。早いものだ。

「そうだ、さっき美春が言ってた“伝説”だけど」

 いい考えだと思う、と恵子は美春に言った。図書館勤めの母親としては、娘が本好きに育ってくれただけでも嬉しい。

「誰にも迷惑かけないし、何より美春の財産になるわ」

 楽しみねと微笑みかけると、美春はうなずいて笑顔を見せたが、少し複雑な表情を浮かべた。

「ほんと言うとね」

 何か自分なりに楽しめることを考えておかないと、中学生活が不安で仕方がないのだと言う。

「どういうこと?」

「他の小学校の子も入ってくるしさ」

 よっちゃんと一緒のクラスだったらいいけど、と声が急に小さくなった。

「それに、中学の先輩って怖そうなんだもん」

 小学校と違って、一つ上の学年というだけで天と地ほどの開きを感じるという。

「目付けられたら、体育館の裏とかに呼び出されたりするんだよ。女の先輩なんかひどいことするって」

“よっちゃんが言ってた”らしい。

「大丈夫。心配ねえって」

 S中は平和だよ、と健太が慰めるように言った。

「普通に制服着て、普通にしてりゃ呼び出しなんかねえから」

 少なくとも自分の知っている限り、後輩に美春を怯えさせるような人間はいない、と健太は受け合った。

「お兄ちゃんには、分かんないんだよ」

 今日卒業したばかりのOBを前に、美春はきっぱり言い切った。

「ケンカとかいじめとか、嫌いでしょ」

「好きな奴がいるかよ」 

「友達だってさ、どうせ松沢君とかチクタクバンバンみたいな人ばっかりなんだから」

「どうせって何だよ。失礼な奴だな」

「そういう、のんびりした人たちには分かんない裏の世界があるの」

 まるで見てきたかのような言い草だ。

「裏の世界、か」

 孝志がつぶやいた。

「まあ、あるとこにはある」

「ほら、やっぱり」

「でもS中はどうだろな」

 孝志は別の中学に通う自分の友達が、S中のことを羨ましがっていたと美春に話して聞かせた。

「健太や健太の友達がのんびりしてられたのは、それだけ学校が居心地良かったってことじゃねえのかな」

「うん……」

 美春は少し考えていたが、やがて小さくうなずいた。

「美春も会ったと思うけど、先生だってあそこはのんきなもんだぞ」

「そっか、そうだね」

 確かにそうだ。健太の担任たちを思い浮かべて恵子はおかしくなった。

「わたしの先生、ゴロー先生か、真佐子先生だったらいいな」

 美春の声に明るさが戻ってきた。が、

「お兄ちゃん、先生はどう? 怖い先生いない?」

 心配は尽きないらしい。

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