Dragon-Jack Co. 卒業

千葉 琉

第1章 彼は風邪を引いた

(おことわり:かつて、卒業式の日に憧れの人から制服の第2ボタンをもらうという風習がありました。本編の終盤にちらっとその話題が出てきます)


 卒業祝いは寿司がいい、という長男・健太のリクエストで、その晩、竹中家には五人前の特上寿司を盛った桶が四つ届けられた。

 その日、一番先に帰宅していた美春によると、夕方卒業式から戻った健太は“寒気がするから晩飯まで寝てる”と言い置いて、自室で休んでいるらしい。

 他の家族は揃っているし、出前も届いたので、後は今日の主役を待つだけだ。どのタイミングで息子に声をかけようかと恵子が考えているところへ、健太が二階からリビングに下りてきた。

「具合どう? 大丈夫?」

 恵子が尋ねると、健太は熱っぽい目をして、

「やっぱ風邪引いたっぽい」

 と答えた。

「ぽいって、カンペキ鼻声じゃん」

 お兄ちゃんめったに風邪なんか引かないのに、と読んでいた本から顔を上げて美春が言った。

「今日寒かったもんね」

 確かに、3月に入って春らしい暖かな日が続いていただけに、今日の寒の戻りは恵子も少し残念なような気がしていた。卒業式には恵子も出席したが、式の間、足元が冷えて困った。

「帰ってきた時、お兄ちゃんすっごいあったかそうなの着てたのに」

「え、そうなの?」

 朝、家を出る時は学生服だけだった。

「うん。けん兄に借りた」

 健太が通っていた中学校の近くには、健太の従兄が一人で暮らすマンションがある。勉強部屋として自由に使っていいと合鍵までもらっている健太の“別宅”だ。帰る途中、寒さに耐えかねて寄ったのだと言う。

「でも風邪ウイルスの方が強かった、ってことだね」

「まあな」

 健太がうなずき、ティッシュ、とつぶやきながら辺りを見回していると、

「やべえ、死ぬ。死んじまう!」

 テレビの前から悲痛な声が上がった。

 何事かと家族が見守る中、勇者たかさま率いる一行は魔王の手下によって、あっという間に全滅してしまった。

「ちっくしょ~!」

 コントローラーを放り出し、頭を抱えて引っ繰り返った孝志が、妻と長男長女の視線に気付いた。

「同情の言葉なんか、いらねえぞ」

少し恥ずかしそうに言いながらイヤホンを外す。

「同情?」

 美春が眉を寄せた。

「そんなレベルで戦うなんて、敵に失礼だよ」

 容赦ない娘のもの言いに、孝志はぐうと唸った。それから鼻をかみ終わった健太に顔を向けた。

「おう、大丈夫か?」

「いや」

 それだけ言うと、いつものように鼻紙を放ろうとした健太だったが、顔をしかめて手元を見ると、くずかごのところまで捨てに行った。

「風邪より」

 こっちの方がやばいかも、と家族の前に両手を差し出す。

「痛え。じんじんしてきた」

 見ると、手首から先が赤く腫れて手袋を何枚も重ねたようになっている。美春がすぐに救急箱を取ってきた。

「お前、ツッコミの練習もいいけど」

 こりゃやりすぎだろ、息子の右手に湿布を当てながら孝志が言った。

「でも、ツッコミって普通は片手でやるんじゃないの?」

 左手に包帯を巻き終えた恵子が不思議に思って問うと、

「練習なんかするかよ」

 健太が弱々しく言って、ため息をついた。

「お兄ちゃん、お母さんは狙ってるわけじゃないからね」

 傍で見ていた美春が笑っている。

「分かってる」

 親父だけならスルーしてた、と健太は言うと、父親に右手を預けたまま、二度大きなくしゃみをした。


* * *


「で、ほんとは何で腫れてんだ?」

 夕食のテーブルにつきながら、隣の席の健太に孝志が尋ねた。健太が自分の手を見ながら、首をかしげる。

「別に何もしてねえけどなあ」

 そう言った後で、あ、と何か思い出したような顔をした。

「どうした?」

「いや、なんでもない」

「何だよ、言ってみろ」

 何かしら。息子の回答を待ちつつ、恵子は箸や小皿をめいめいに配った。それをきっかけに、

「あ」

 今度は四人が同時に発した。視線も一点に集中している。おそらく考えていることも同じはずだ。家族を代表して健太が言った。

「オレ食えねえじゃん」

 両手に包帯をしているので、箸を使うことはもちろん、手で寿司を摘まむこともできない。

「健太の取り分は?」

 孝志に聞かれ、恵子は十人前だと答えた。残りの十人前を恵子と美春が三、孝志が七の割合で分けるつもりで注文した。

「おれと健太で十七人前か」

 楽勝だな、と孝志が微笑んだ。

「安心しろ、残さず食ってやるから」

「マジかよ!?」

 特上十人前~! と健太が哀しげに叫んだ。

「オレの卒業祝いなのに!」

「お兄ちゃん、落ち着いて」

 健太の向かいから美春が手を伸ばした。

「お父さん、冗談きつすぎ」

「冗談? おれは本気だぞ」

 孝志は言ったが、笑っている。まったくもう。この家ではよくあるやりとりだが、今日は健太が弱っている分、可哀想になった。

 恵子は苦笑しながら腰を上げた。

「孝志、場所かわって」

「ん?」

「私が健太の隣に座るわ」

 そして口まで寿司を運んでやればいい。

「健太、それでいい?」

 母親の提案に、15歳の息子は決まりが悪そうな顔をしたが、包帯を巻いた手から食卓に積み上がった寿司桶に目を移すと、うなずいた。

「ちょっと待った」

 孝志が眉を寄せた。

「だめだ、そんなの」

「だめって。そうしないと健太が食べられないじゃない」

「嫌だ。目の前で恵子があーん、ってやってやるのを黙って見てろっていうのか?」

 恵子のあーんだぞ、となぜか繰り返した。

「いくら卒業祝いだからって、そんなぜいたく許せるか」

 困ったものだ。夫が自分を大事に思ってくれるのは嬉しいのだが、時々こんな風に冗談とも本気ともつかない妙なことを言い始めることがある。

「いい加減にして。母親が息子を助けるの、当たり前でしょ」

「じゃあ、父親のおれがやる」

 孝志が箸を取り上げた。横を向いて、

「文句ねえな?」

 と健太に言うと、向き直って恵子に眩しいほどの笑顔を投げてきた。

「その代わり、おれにあーん、てしてくれ」

「え?」

「ほんとしょうがないなあ、お父さんは」

 美春が呆れながら笑っている。

「わたしはもう待たないからね」

 いただっきまあす! の後、お兄ちゃん卒業おめでと! とおざなりに叫ぶ。

「大トロ、もーらい!」

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