月影
仕事柄、眠りは浅いほうではある。だが長旅の疲れというものは、毎日きちんと睡眠をとっていてもすっかり取れるものではない。それを旅人を自称する彼女、コーネリアは一番よく分かっていた。だからこそ、屋根がある寝床を手に入れた運の良い今夜は早く寝たいというのに、妙に寝つきが悪い。先程まで眠くて仕方がなかったし、現に今も何度も欠伸をしているのに、脳が眠ることを嫌がっているかのように意識は覚醒を続けていた。それはそれなりに豪華なこの客間に泊まっているせいなのか、それとも――と思いながら、コーネリアは静かに体を起こした。人一人が通れるほどの隙間を開けて隣に置かれているベッドの上では、道連れが静かに寝息を立てている。目が冴えたと言っていたのに簡単に寝落ちてしまうとは、やっぱりガキだねぇと思いながらコーネリアは皮肉っぽく笑い、そっとベッドを降りた。足音を極力消して歩いてしまうのは、もう何十年も前に体に染みついた習慣だ。特に鍵などはかけられていなかったドアを細く開け、彼女は廊下に音もなく滑り出た。
眠れなかったコーネリアがとった次の行動、それは屋敷内の探索だった。先程の脳の覚醒は、得体の知れない場所で眠るなど出来ない、という、脳からの本能的な警告だったのかもしれない。そう、足音を殺して歩きながら彼女は思った。その昔、彼女はグリーゼ区に住んでいたことがある。だが、ここまでしっかりした作りの建物に足を踏み入れたことはなかった。
廊下のろうそくがすべて消されているから、廊下に人工的な光は無かった。窓から差し込む月光が妙に冴々しく、寒々しく、床の上に窓枠の形を映し出していた。長い廊下は、月光だけでは最奥が見えないほど長く、広かった。空中の塵が時折星のように瞬いている。ふっと目をカーペットに落とした時、少し向こうで月光を通す窓の光が、黒い人型に切り取られているのをコーネリアは見た。
古い煉瓦造りの廊下の壁にずらりと並んだ大窓。その中でもひときわ大きい明り取りの窓際に佇んでいたのは、白と金色の衣をまとった人影だった。気配がしたのか、コーネリアがある程度近づくとそれは彼女を振り返った。
「眠れないか?」
「寝床用立ててもらっちまって寝ないのは野暮かい?騎士サマよ」
軽くコーネリアが言葉を返すと、ラシードは少し気分を害したように眉根を寄せた。元々顰め面の人間ではあるが、それでもその形のいい眉の傾斜がきつくなったような、と彼女は心の内で思う。
「……その呼び名は気分が乗らん。名で呼べ」
「えぇ?あたしみたいな平民が呼んでいいモンなんかい」
「自分を面白半分に卑下するのはやめろ。この国の国民はすべて神龍様の臣民だ」
「はいはい分かりましたよ騎士サマ。…えーとラ…ラ…」
「ラシードだ」
「そうそう、ラシードサンね」
不服そうな二度目の自己紹介を聞き、コーネリアは少しだけ皮肉っぽく笑った。ラシードはあまり口が上手い方ではないのか、会話はそこで途切れてしまう。半分欠けたままの大きな蒼い月を見ながら、コーネリアは自分から言葉を投げかけた。どうせ眠れないのだ、だったら同行者の情報を得る時間としても損はあるまい。
「アランはあんたの知り合いなんだろ?昔っからああなのかい」
「ああ、とは?」
「馬鹿正直に突っ走る感じ」
「そうだな。あれは生来の性格だ、死んでもで治らんだろうな」
「誤魔化しゃいいとこを正直に答えちまうからねぇ。見てて飽きないもんさ」
面白がるように声を忍ばせてコーネリアが笑うと、ラシードはわずかに眉を上げた。隣の女のように、銀の月光に染められた緑の庭を眺めながら、男は言う。
「あれはまだまだ未熟だが、努力と気概だけは人一倍だ。よろしく頼む」
「なぁんであんたが頭なんか下げんのさ。ずいぶん大事そうにするもんだね、ただの知り合いにしては」
「……忘れ形見だからな」
「は?」
よく通る声をしているラシードにしては、その声はひどく小さく、消え入りそうなものだった。思わず聞き返そうとしたコーネリアの言葉を遮るようにして、ラシードは台詞を重ねた。まるで先程のものは聞かれたくなかった言葉であったというように。
「旅の目的は?」
「なんだってまたそんなこと聞くんだい」
「答えられないというのか」
「いーや、違うけどさ。騎士サマと話してるとなんか取り調べされてるみたいでねぇ」
「……それは失礼した」
素直に謝られるとは思わず、コーネリアは拍子抜けしてからからと笑った。途中から怪訝な目でラシードがこちらを見下ろしているのに気づき、下手な咳払いをして誤魔化す。なるほどこの知り合い同士は似た者同士らしい。取り調べ云々の意見を思ったよりも重く受け止めたのか、ラシードは「早く寝た方がいい」とだけ言い残し、暗い廊下の奥の奥の方へ戻っていった。
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