始まりの始まり

 果たして、あれは夢だったのだろうか。

 柔らかな声と儚い笑顔で、凛として此方を見据えた、知性を湛えた青い瞳は、現だったのだろうか。


 世にも突飛なあの出来事から、数刻の時間が過ぎた昼下がり。首都シュトルーフェの町外れの、住宅街に聳える一本の白樺の樹の下に人影があった。

 今はまだ早朝。ひんやりと冷たい空気が漂う中、紙の束を広げるアランは、時たま懐中時計を眺めつつ書物に没頭していた。いつも通りの黒い軍服に身を包み、腰にはレイピアを提げている。変わっていることといえば、いつもなら動きづらいと言って着用しないマントを羽織っていることくらいだ。


 あの後、かなり遅くなってから帰宅した。仕事が仕事なので叱られるような事はなかったけれども、危うく夕飯抜きにはされかけた。

 身内への説明はほぼとんとん拍子に進んだ。退魔師と神官という家族構成上か、"詳しいことは言えないが神龍様の命で旅に出る"と言うが早いか、怪しいほどあっさりと受け容れてもらえたのだ。ただやはり心配はされているらしく、鞄に色々と物を詰め込まれたのは記憶に新しい。その結果が、今彼女が肩から提げている膨らんだ革鞄である。重いからいいと言ったが、持って行かなくては家から出して貰えそうになかった為仕方なくここまで持ってきたのだ。

 それにしても、一体幾ら持ってきただろうか。地域でそこまで物価の変動に差はないが、途中でお金が尽きたら笑えない。


 紙を時折捲り、ぼんやりと空を眺める。そんなことを幾度も繰り返した後、漸く服についた埃を払って立ち上がった。

 いつもの笑顔が消え、浮かない表情をしているのは、先程の家族とのやり取りも含め、世界の危機に比べればほんの些細なことを考えあぐねていたためである。というのも、彼女は国防を担う騎士団―陸軍、と言えば読者の皆様には馴染み深いかもしれない―テール第一部隊の副隊長だ。隊長ほど重要なポストではないが、幸か不幸か役職持ちなのである。当然、副隊長が抜けた穴は埋めておかなければならないゆえに、一応だが部下に後を頼んできたのだ。だが、何故自分は一番信頼しているとはいえ、あの胃痛持ちの部下を選んでしまったのか。自分の去り際に心配そうな顔を向けていた部下の姿が頭から離れない。まあ隊長がどうにかしてくれるだろうとようやく割りきって、彼女はまた紙束に目を落とした。


 全く、ひどい茶番だとは思う。茶番で済めば何よりの話だったのだが、既に物語の歯車は回り始めているのだろう。歯車に咬まれて潰されたくなければ、ありったけの力で足掻くしかない。


「…それにしても、手がかりがこれだけっていうのは…はぁ。」


 しかしそう決心したところで、彼女もごく普通の感性を持った生き物である。ほとんど手がかりもなく、救世主という未知で膨大な存在を捜せと命ぜられても困ったとしか言いようがないのだ。

 手にしている古ぼけた本を眺め、静かにページをめくった。


 救世主。神龍からのその言葉で電撃のように自分の脳髄を貫いたのは、遥か昔の記憶だった。兄に毎日のようにせがんで呼んでもらっていた、古ぼけた、難しい文字の並んだ本。それがまさしく、今手にしている『救世主の神話』なのである。自分の家に、もう記録も記憶も薄れるほど昔から伝わっている伝承に、その救世主は現れるのだ。

 救世主の神話とは、簡単に言えば創世記の事である。ドラテオトールの地がこの世に誕生し、文字が誕生するまでの暗黒時代を初めて文字に綴ったものかこの本とされている。著者は初めて神龍の声を聴いた者らしいが、今となっては真偽は闇の中だ。

 本に目を通すのも、もう何度目か知れない。無論新たな情報が得られるわけでもない。だが、救世主捜索の唯一の手がかりがこの本なのだ。出発前、両親と使用人に協力してもらい自宅の書庫の本を片っ端から調べたのだが、救世主という単語すら他の本には記されていなかった。記述がないということは、これすなわちそれ以上の情報はないということ。とどのつまり、この国が創られてから長い長い間、救世主は一度も呼び出されたことがないのだ。未体験のものは神話や伝記として記しようがないのだから。

 邪な心を持つ者の手に渡らぬよう、異空間へと何百年も、何千年も前に封印された聖なる八つの宝石、それが秘宝の正体だ。全てが一つになった時、それは救世主を呼び出す鍵となる…神話の内容をざっくりと纏めるとそうなる。

 生半可な捜索でどこにもありませんでした、で済む話ではなく、かといってのろのろ捜していれば最悪の結末にこの国という指針が傾いてしまいかねない。必要以上に急ぐことはなくとも、しっかりと捜索すべきなのだろう。


 一度本を鞄に仕舞い、本の間に挟まっている地図を彼女は広げる。

黄ばんで隅が擦りきれている地図には、この国の全体像が記されていた。現在も独立した区として機能している十三の区、そして八つの秘境――この国の者なら一度は皆聞いたことはあるだろう、魔境の場所の位置が記されていた。


 八という数字を鍵として考えると、秘宝は秘境に隠されているとしか考えられない。勿論明確な記述は何処にもないが、異空間などというだいそれたものが本当にあるならば、他人が迂闊に近づける場所では困るだろう。秘境はそういった意味でも、秘宝の隠し場所としてはうってつけなのだ。


「俺はそう考えたけど、皆はどう思う?」


 そんな言葉を虚空に問いかけたところで、返事はない。

 分かっている。この旅の目的は、迂闊に他人に漏らしてはならないと。昨日の自分のように何も知らず、幸せに生きている人々がこれを知ったならばどうなるか、考えるだけでも恐ろしい。


 自分の愛する国が、国でなくなるかもしれない。それだけは絶対に避けたかった。


 だからこそ、自分がやらねばならぬのだ。

選ばれた理由は分からない。万里を見通す百発百中の占いとは名ばかりで、もしかしたら無作為なのかもしれない。それでも、やれと言われたのだ。一度了承したならば、最後までやり遂げる。それが騎士として、自分個人としての決意だった。


 決意を新たに、また地図を眺める。目に飛び込んでくるのは、八つの秘境を示す赤い印だ。幻惑の森、哀歌の海、鎮魂の湖、忘却の泉、夜想やそうの洞窟、嘆きの花園、慟哭どうこくの古城。不穏な噂ばかりがつきまとう秘境の名を目で追っていく。だが八つめ、最後の秘境は、名と印共々インクで塗り潰されている為分からない。詳細を記したページも失くしたのか、破り取られたのか抜けており、全く詳しいことは分からずじまいだ。

 だがいずれ向かうのだ、向かえば詳細などいくらでも分かることだろう。旅が終わったら詳細を書き足そうか、なんて冗談のように考えて、彼女は本を鞄にしまいこんだ。


 彼女は目を上げる。

 初めの目的地、幻惑の森へと続く一本道が、長く長くその身を大地に横たえていた。果たしてこれからの旅路には、一体何が待ち受けているのだろう。

 使命感と高揚感、内心燻る二つの感情を抱えながら、彼女は脚を踏み出した。生まれ育った街を、振り返ることはせずに。


 彼女の旅は、ここから始まったのである。

これから出会う者、起こる事。それを、今の彼女は知る由もない。

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