決意
初め神龍様から『頼み』という言葉を聞いた時、もっと度肝を抜くような内容が来るのではないかと内心構えていたが、思いの外軽く済んだ気がする。とは言っても普通に考えてすぐに飲み込める事ではないし、安請け合いすることもできない事柄だ。当然だ、もう覚えている者などいないほど昔の神話に記された救世主、そんな突飛な存在を捜せと命じられ、はい分かりましたと一瞬の逡巡もなく引き受けられる方が可笑しい。それを理解した上の言葉だったのだろう、神龍様はどことなく苦い笑みを浮かべているように見えた。
だが、神龍様が神話の話を出した時点で、何を言われるかは想像がついていた。それ以外に有効的な策があるのなら彼等はとうの昔に試しているだろうから。策が元よりないか、もしくは試しつくしたからこそ、このお伽話に縋ることを神龍は思いついたのだろう。その辺りの一般人に言われたなら鼻で笑ってしまいかねないほど突飛な話だが、その神話を創り上げた張本人に言われたのでは笑うことは出来ない。遠い昔の出来事を直接見たわけではないにしろ、だ。
仮にも神話と名がつくのだ、簡単に見つかるようなものではないのだろう。神話の記された本の内容を記憶の底から引っ張り出しても、勿論容易に成し遂げられるような内容は記されていなかった。
ほんの数刻前、街に居た時間がまるで夢の中の出来事の様に遠く思えた。
まだ暗いうちに起き、食事を摂る。出勤し首都の巡回を行い、終われば事務仕事。そして日課の鍛錬を行い家路へとつく、そんな変わりばえのない日常がひどく懐かしく感じた。
只今この時より、日記に綴ることにも事欠くような平凡なものから、天変地異が起きたかのような摩訶不思議なものへと自分の日常は変化してしまったのだ。それは最早確定事項であり、覆すことも消すことも出来ない。
"此処に留まっていたら、もう二度と戻れなくなる。"
クレイグにその名を呼ばれた時、胸騒ぎと共にふと思ったあの言葉は現実となってしまったのだ。
走馬灯のように脳裏を過ぎ去っていったのは、家族の、友人の、部下の姿。平凡な日常に生きる彼等を、影が食い潰そうとしているのなら、自分がやるべきことは一つしかないのだ。この国の脳であり心臓であり、全ての源点が今眼前におわす方ならば、その頼みをどうして断ることなど出来ようか。仮にも世界樹が倒れればこの国も倒れ、他国に呑み込まれ影も形も無くなる。或いは影に食い滅ぼされる方が先かもしれない。それが分かっていながらノーと言えるほど不人情でもなければ、この国を好いていないわけでもない。
話を一度聞いた時から、心は決まっていたのかもしれない。故にもう一度、考えなおす必要は皆無だった。繰り返される言葉を聞くまでもなく、また、もう一度問い直すこともなく、言葉は口から滑り出た。
「……貴方様の為とあらば、この身朽ちるまで闘いましょう。」
恭しく跪いたままの姿勢と、静かだが強い声。騎士道だとかお国の誇りだとか、そんな考えは頭の片隅に追いやられていた。ただ強く思ったのは、"何としてでも崩壊を防がなければならない"ということだけ。自分を産んでくれた両親、日々切磋琢磨し高め合う友人、今までに出会った大勢の人々。彼等との思い出が、無に還るなど耐えられる筈がなかった。例え無意味な行動に終わったとしても、何もやらないより何百倍ましなことか。台詞は家訓の受け売りだが、これ以上なく本心を表していた。
「…ありがとう。」
項垂れていた神龍様が笑う。そこに一瞬在ったのは、まるで普通の龍の子のような笑みだった。
「君に頼んだのは正しかったね。…何を勝手に、と怒るかもしれないが。」
微笑んだまま、冗談かのように口にする言葉は柔らかな響きをもって此の空間を満たす。他人を無条件に落ち着かせるような、甘く温かい声。もしかしてこれは、何かの魔法なのかもしれない。
無言のまま話を聞きながら、彼女は思う。
もう二度と戻れない。なら、前へ向かって進むしかない。例えその先がどんなに絶望に塗れていようとも。なんだ、いつも自分がやっていることをやればいいんじゃないか。そう思うと、すとんと一気に気持ちの整理がついた。
「実際、君は理不尽だとは思っているだろう。…それが当然の反応だ。」
跪いたまま一切物を申さない炎の龍の子を眺めながら、神龍はまた一つ、苦笑を溢す。一国の存亡を左右する存在として、迂闊に臣民に真実を話すことは出来ずに苦しんだ結果、更に酷い事態を招いてしまった。事実を曝け出せば、大混乱が起きることはまず避けられない。更にその混乱に乗じた周辺諸国が攻め入ってきては、今の自分では対処できないと分かっていた。故にこの道を選んだ。自分が最も忌み嫌ってきた、無責任にも最後の最後の手段として他人を頼るという道を。
だがそれは、本当に正しいのだろうか?
不祥事を招いた原因の一端は自分であり、彼女にその後を押し付けることは、何があろうと褒められるべき行為ではないのだ。
痛い程、神龍はそれを分かっていた。
「任せておいて誠に恐縮だが、私は祈ることしか出来ない。…どうか君に、星々と神の加護があらんことを。」
「はい。」
アランの表情は依然無のままだったものの、真紅の瞳の奥には炎が燃え広がり始めていた。これから始まる旅路への不安、そして期待。その両方がぶつかり合い、火花を散らす。自分に出来ることを、自分に出来得るだけの速さで。自分が今まで積み重ねてきた過去、そして、普段と同じ様にすれば良いのだ。自分の手に余る程のものをこなそうとしては潰れてしまう。一歩々々、確実に出来ることをやっていけばいい。
例え独りきりであろうとも。
何とも彼女らしい結論を出した後、彼女は返事で冷たい空気を震わせたのだった。
きっと、なるようになる。時には不愉快なくらいに前向きな彼女は、例に漏れずそう思っていた。
返事を聞き、神龍は微笑む。零れた水が器に戻らないのと同じように、起きてしまった出来事は今更取り消すことは出来ない。
だが、未来は過去と違って変えることができる。故に今は、唯一の希望である彼女に託した望みが潰えぬように尽力するのが自分の役目だ。
「……ありがとう、アラン君。……君の成功を、祈って…いるよ。」
段々と途切れ途切れになる声が、謁見の間に小さく木霊する。須臾にして、柔らかな笑顔が不意に力を失う。
まるで話終えることが合図だったかのように神龍様はゆっくりと寝台に倒れ込み、淡い光が散って消えた。
「神龍様!?」
驚きから炎の龍の子が上げた声は、小さな悲鳴のようで。
思わず踏み出した脚を静止する前に、クレイグとソフィアが寝台に駆け寄るのが見えた。二人は二言三言言葉を交わし、何かを行っている様子だ。ここまで会話の内容は聞こえないが、何をやっているかは予想がつく。
使者を遣わし自分を呼び出し、願いを述べた神龍様。今は役目から解放されたような、静かな寝顔で寝台に横たわっている。謁見の間に足を踏み入れた時に訊いた、クレイグとソフィアの会話の意味が漸く分かった。元々が
今この国が、世界樹が、神龍様が置かれている現状を、初めて目の当たりにしたような気がした。
世界樹の化身は、役目から逃げることを許されない。世界樹と一体化し、この世の終わりまで永遠に生き続ける存在だという。世界樹が、自らが
改めて感じた責任感は、失敗すればこの国は滅びるというあまりにも重すぎるものだった。
いつか神龍様に、またお目通りを願う事は叶うだろうか。次にあの透き通るような声に、笑顔に、お目にかかることは出来るだろうか。
どれくらいの歳月がかかるかは分からない。だが成し遂げる責任と義務は確かに存在していた。それが国防騎士団の役目でもあり、この国に生まれた者としての使命でもあるのだから。
旅に出るのなら家族へ連絡を入れなければならないことは勿論、副隊長という自分の立場上誰かにその立場を任せねばならない。適当な部下を何人か頭の中で挙げながら、隊長へ如何に説明するかを考える。突然にいなくなってしまったら事態を大事にしてしまう、それは誰が対象であろうと同じ事だ。
加えて準備も念入りにせねばならない。自身の記憶を手繰っても、もしもあの方法で本当に救世主を捜すとしたら長いながい時間がかかる。中途で行倒れたりしては洒落にならない。加えて危険な場所へ向かわなければならないことは決定済みなのだ、しっかりとした準備をしてもしすぎることはないだろう。
「…降りるかい、外へ。」
アランが考え込んでいるのが分かったのか、遠慮がちに声をかけながらクレイグが歩み寄ってくる。神龍様の容態は良いとは言えないのか、困ったような心配そうな顔をしながら彼は微笑んだ。
クレイグにお願いします、とアランは頭を下げる。
またひとりでに開いた白亜の扉の向こうへと向かう使者の背を追いながら、無意識にぽろりと言葉が零れた。
「……さようなら。」
何故その言葉が零れたのかは、分からなかった。
強いて言うならば、自分の中にいる自分ではない何かが、喋った言葉だったのだ。
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