祈り

紅音

第1話

 月の輝く境内に、ごった返す人々。コートやマフラーで防寒対策はしているが、吐く息は白く寒さに足踏みが止まらない人もいた。

 年の終わりで年の始まりのこの日は、人が一番集まる。


 家族にカップル、独り身に学生。楽しそうな笑顔を浮かべ、金が鳴るのを待っている。それぞれが願いを心に持ちながら。

 境内がずっとうるさいのは嫌だが、時々なら穏やかに見ていられる。

  

そんな時、1人の女性に目が留まった。特に目立っているわけではない。腰が曲がって杖をついて歩いている普通の老人だった。

屋根に寝ころんでいた白(しろ)は、そっと地面に降り立ち、その老人に近づいてゆく。

 あぁ、この人だと、白は確信した。


 

 

 夏の夜、礼儀知らずの子供がよく肝試しにやってくるほど、この神社の夜は暗い。肝試しをするのはいいが、お菓子などのゴミをポイ捨てする者がいるのだ。そんな奴らには脅かして少し痛い目を見てもらう。

 その日も、神社の見回りをしていた。

 紐に結ばれたおみくじを見ながら、それを引いた家族の顔を思い出し口元をほころばせていると、こちらに向かって走ってくる子供が目に入った。


 また来たか、とため息をついた白だったが、違和感に気づき、目を細める。徐々にはっきりしてくるシルエット。子供かと思ったが背の低い女性だった。

 随分と走ってきたようで、息は切れ、前髪は汗で額に張り付いていた。しかし、顔色は真っ青だったのだ。


 白の横を通り過ぎ、境内にまっすぐ進んだ彼女は、倒れ込むように社の前で両膝をついた。その小さな背を追いかけ、狛犬の台座に寄り掛かる。

 

“お願いします。どうか、どうか、彼の命だけは取らないでください。何も持っていない私ですが、この命を差し出しても構いません。だからどうか…”


 顔の前で両手を握り、目を瞑っている。必死に祈るその心の声に、白も目を閉じる。

 彼女の想いが、神社に、白に流れ込んでくる。真っ白な病室で、呼吸器をつけて目を閉じている男性。隣には必死で涙を堪えて手を握っている彼女がいた。


 白は、そっと目を開けて、祈っている彼女を見つめる。汗の伝う頬、乱れた髪、それらを気にすることもなく、一心に願い続けている。

 彼女のような人が訪れることは珍しくない。病気の家族をどうか、そう神に慈悲を求めにやってくる。

 そのときだけ神頼みする傲慢な人間たち。そんな彼らを嫌う神もいるが、白はそうではなかった。神とは違い、寿命が決められ、その短い一生のうちに何をするのか。様々な生き様を見ているのが楽しいのだ。


 だからこそ、口惜しい。自分は確かに、この神社に祭られている神だ。でも、人の願いを叶えることはできない。

 どんなに彼女が祈ろうと、白にはなにもできないのだ。


 ふと、彼女が立ち上がった。祈り終わったようで、深呼吸すると、自分の両頬を叩いた。

 そして驚くことに、彼女は笑顔になっていた。やれることはやったと。そして、服や髪の乱れを直し帰って行くのを、白は視線で見送った。


 数日後の昼間、日傘を片手に、炎天下の中彼女は再び現れた。真っ黒な礼服に身を包み、社から少し離れたところで祈る。

 穏やかな表情。願いを叶えてくれなかった神に、文句を言いに来たのだろうと、白は思った。


“ありがとうございました。彼は、安らかに最後を迎えることができました”

 聞こえた声に、耳を疑う。やはり、目を閉じる彼女の顔は穏やかで、口元に微かに笑みを浮かべていた。

 ほとんどの人間は、万能ではない神にやはり、と失望するか、願いを聞いてくれなかった神に怒りをぶつけてくる。

 しかし、彼女は怒っておらず、逆にお礼を言ってきた。何に対してのお礼なのだろう。


「どうして、お前は、怒らない」


 聞こえるはずのない呟きが、ついつい口から零れ落ちた。

 聞こえないはずが、彼女はふいに顔を上げた。視線が合ったかと思ったが、その目は白を通り過ぎ、辺りを見渡していた。

誰もいないことを確認すると、もう一度目を閉じて、彼女は帰っていった。


“彼を、お願いします”


 その言葉に、白は思う。託された想いくらい、届けてあげたい。死んだ者にこそ、優しくある天であって欲しいと。

 神ながらに、白は祈った。



 それから、彼女を見ることはなくなったため、忘れかけていたことだった。思い出し、懐かしさに笑みがこぼれる。

 今の彼女の周りには、家族がいた。はしゃいでいる子供やそれを叱る母親。その光景を、彼女は優しく微笑んで笑っていた。

 幸せそうな彼女に、心から安堵する。

 

そして、白は1人願う。


 どうか、彼女が最後の時まで、穏やかに過ごせますように。と。

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祈り 紅音 @akane5s

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