6

 川井先輩のミスと高橋先輩の思い付きにより急遽決まったテントでの一夜は、私にとって苦しい物だった。

 隣に新田の呼吸が聞こえる、それだけで悪い事をしている気分になって、私は寝袋から逃げ出した。


「……トイレか?」

「……起こしたか? 悪い」

 問いには答えずに出て行く私の背中を新田の視線が突き刺していたが、振り切るようにテントを抜け出した。テントの布程度の薄い壁など容易く突き抜ける視線に漸く、最初から視線など関係なかった事を私は知った。


 隣に並んだ低い三角の中に気配を探られないように、私は天体観測会場となっていた名残を残したままのその場所に腰を下ろした。他に人がいないのを良い事に出したままだったビニールシートは、地面の夜露を温度だけで私に伝えてきた。空には土に還ることの無いビニールすらも、祝福するかのようにキラキラと星々が瞬いている。


「佐藤。寒いだろ」

 テントから抜け出してそれほど時間は経っていない。にも関わらず私を追ってきた新田は小声で、しかし、苛立ちを隠さない声で言った。


「……俺を湯たんぽ代わりにするな」

「……はぁ」

 厭きれて出ていく溜め息。新田が心配してくれている事は解っていた。でも、いや、だからこそ、私は彼の傍にいる事が出来ないのだ。


「風邪ひくぞ」

 言いながら、なぜか私の隣に座る新田の横顔をチラリと見る。それはやはり父とは全く違う他人の顔だった。血縁関係など無いのだから当たり前だ。当たり前で、酷く寂しくなる。


 私は新田が一人でテントに戻るようにと心の底で祈った。

 その一方で、願いを叶えてくれるだろう天上の人に声が届かない事も願っていた。天界が本当に存在するのなら、父もそこにいる筈だから――。


「……佐藤。また泣いてるぞ」

 デリカシーのない言葉を無視する。そんな私に新田は溜め息こそ吐くが、離れて行こうとは、その気配すら見せない。


「……ほら」

 その声に私は思わず目を向けていた。


 新田という男は記憶に残るような顔立ちや出で立ちではない。良くも悪くも平々凡々。そこら辺にいる普通の高校生だ。そして、その「普通の男子高校生」が綺麗なハンカチを持っている確率は高くない。潔癖症か親が過干渉であれば別だろうが、新田はそのどちらでもない。公共のお手洗いには使い捨てのペーパータオルもあり、ハンカチ自体を不要の物と認識している者も多いだろう。新田はまさしくそのタイプだった。

 そんな男が何かを差し出すように「ほら」と言えば、大抵の人が驚いて反応してしまうだろう。


 そして、私は頬に触れた物に今以上に驚いて固まる事になった。


 私の大きく見開かれた目の端に、新田の指が映り込んでは消えて、また映り込む。頬に触れた布は綿素材のようで、新田は上着のダウンジャケットと手首の間から、中に着ているパジャマかその上に着ていたフリースの袖を引っ張り出してハンカチ代わりにしたのだ。


「感動って顔じゃねぇよな……。それに夏はもっと目をキラキラさせて眺めてたしさ」

 新田の呟く声で我に返った私は彼の手を弾くように払った。非難の目が私を映す。が、その顔はすぐに情けなく眉を下げた。


「そんなに驚かなくても……。ほら、左も……」

 私の顔は、情けなく下がった新田の眉よりももっとずっと情けない状態なのだろう。悲鳴のように出て言った声が私の状態を私自身に知らせてくる。


「やめてくれ!」


 驚きで止まっていた物が、堰を切ったようにボロボロと流れ落ちていく。


「頼むから……、放っておいて……」

「なんで?」

 新田の問いは幼子の疑問のように純粋な声で発せられた。しかし、その純粋さが私を凍りつける。鑿を体に打ったような、鈍く、それでいて強烈な痛みを食らわせる。


「なんで、って……」

 泳ぐ目は何も映していないかのようで、私の脳すらグラグラと揺らした。


「子供扱いされて嫌って? 風邪引いたら周りに迷惑かける訳だし、迷惑掛けられる可能性がある俺には説教する権利もあると思うけど。それに、そんな顔で泣かれたら放っておけない」

「顔って……」

 そんなに酷い顔かと袖で頬を拭った。その手を引き剥がそうとする新田の手に抵抗する事が出来なかった。


「そんな強く擦ったらダメだよ」

 子供に言い聞かせるような声。それが、私の思考を奪ってしまったのだ。


「お父さん……」

「は?」

 新田の目が上目遣いに私を映す。それで漸く声に出ていたと気付き唇を噛んだが、もう遅い。


「お父さん……? 俺、親父っぽい?」

「いや、あの……、間違った……」

 どう間違うの、と問いたげな新田の顔を見ていられず、私は俯いた。


 間違いようがないのだ。新田はごく普通の男子高校生で、老け顔という訳でもない。


 それでも、新月を――父を探し求めていた私にとって、新田の体温は思わず探し人を呼んでしまうだけの安らぎがあったのだ。


「佐藤のお父さんに似てるの、俺?」

「いや、だから間違ったって……」

「つーか、高校生にもなって「お父さん」って……」


「だから! 間違たんだって!!」


 空を突き抜けるように私の声が夜を割いた。何かを言い掛けていた新田はぎょっとして体を跳ね上げたが、その口は小声で「それだけ……」と続けていた。


「仲良いなんて、羨ましいなって……」

 そう解釈したか。と、私の心には感心か安堵か曖昧な、けれど温かいと言い切れる物が、じんわりと広がった。だが、それを塗り潰す現実に、表情は歪んだまま凍り付いていた。


「仲良いだろ、小学生の頃だったら大抵……」

 ぽつりと零してから、はっとして新田を見上げたが、友人を映す筈だった視界は一瞬でぼやけた。


「小学生?」

 デリカシーがない、と、苦情を言う余裕など無い私は、新田の顔から目を逸らして俯く事でしか逃げられなかった。


「……話せば気持ちが軽くなるかも知れないよ?」

 柔らかく包まれる手。私の両手は未だに新田に握られたままだったのだ。


 叫んで、拒否して、それでも、久しぶりの体温に甘えていた。その体温は父のそれでは無いと言うのに……。


 私は重たい、それでも勝手に動く口で言葉を紡いでいった。

 父の死を、父と見た星空を、言葉にすれば陳腐になるような何でもない日常が、もう戻ってこない事を。


「父さんは俺にとって月だった。強過ぎる太陽の光を、柔らかくして届けてくれる月」

 もし父がいなければ、私の人生は今とはまるで違うものになっていただろう。

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