　中学（ちゅうがく）の体育教師（たいいくきょうし）の父（ちち）と、小学校教頭（しょうがっこうきょうとう）の母（はは）を持（も）つ中学生（ちゅうがくせい）の司（つかさ）は、金銭的（きんせんてき）な苦労（くろう）は特（とく）になかった。しかし、彼女（かのじょ）の毎日（まいにち）は実（じつ）に味気（あじけ）ないものだった。目立（めだ）たない彼女（かのじょ）には、つるむような友達（ともだち）もいない。中一（ちゅういち）の夏（なつ）に転校（てんこう）してきた彼女（かのじょ）は、部活（ぶかつ）に勧誘（かんゆう）されることもなく、中三（ちゅうさん）の今（いま）までずっと帰宅部（きたくぶ）だった。部活（ぶかつ）の指導（しどう）には熱心（ねっしん）な父親（ちちおや）も、娘（むすめ）に対（たい）しては無関心（むかんしん）だった。むしろ年頃（としごろ）の女子（じょし）ということで避（さ）けていたのかもしれない。母親（ははおや）は教頭（きょうとう）になってからというもの、ほとんど家（いえ）に居（い）なかった。朝早（あさはや）く家（いえ）をでると、夕方遅（ゆうがたおそ）く帰（かえ）ってきた。

「面倒（めんどう）は起（お）こさないでね。」

　これが、母（はは）の口癖（くちぐせ）だった。成績（せいせき）のことは二（に）の次（つぎ）。とにかく学校（がっこう）から呼（よ）び出（だ）されるようなことがあると、その日（ひ）は一日不機嫌（いちにちふきげん）だった。

　家（いえ）に帰（かえ）ると、宿題（しゅくだい）もそこそこに、彼女（かのじょ）は自室（じしつ）のベッドの上（うえ）で本（ほん）を読（よ）んでいた。誰（だれ）も居（い）ない家（いえ）で、コンビニ弁当（べんとう）を食（た）べる日々（ひび）。それでも、本（ほん）の中（なか）に入（はい）れば、豪華（ごうか）なディナーをほおばり、にぎやかな家族（かぞく）に囲（かこ）まれることができた。あるときはプリンセスに、またあるときは女剣士（おんなけんし）として荒野（こうや）を駆（か）け回（まわ）ることもできた。こうして、読（よ）んだ本（ほん）をSNSで紹介（しょうかい）。彼女（かのじょ）の的確（てきかく）だが斬新（ざんしん）な解説（かいせつ）は、一目置（いちもくお）かれ、フォロワーもそれなりについた。SNSの中（なか）では彼女（かのじょ）も注目（ちゅうもく）される存在（そんざい）でいられた。

　三年（さんねん）になり新学期（しんがっき）が始（はじ）まったある日（ひ）、彼女（かのじょ）は市内（しない）の図書館（としょかん）にいた。小説（しょうせつ）の類（たぐい）はほとんど読（よ）みつくしてしまったが、たまに入（はい）る新刊（しんかん）が目当（めあ）てだった。電子書籍（でんししょせき）は便利（べんり）だが、嫌（きら）いだ。彼女（かのじょ）は紙（かみ）の手触（てざわ）りとインクの臭（にお）いが、たまらなく好（す）きだった。さらに関係（かんけい）があるのか、便秘（べんぴ）もしたことがない。

　小学校（しょうがっこう）の頃（ころ）は、送迎（そうげい）を母方（ははかた）の祖父（そふ）がしていた。司（つかさ）という名前（なまえ）はその祖父（そふ）がつけてくれたものだ。家族（かぞく）のまとめ役（やく）となって欲（ほ）しい。そんな願（ねがい）いが込（こ）められていたようだ。祖父（そふ）はよく本（ほん）を読（よ）んでくれた。司（つかさ）は、一度聞（いちどき）いた話（はなし）は、すぐに覚（おぼ）えてしまう。そんな彼女（かのじょ）の能力（のうりょく）を見越（みこ）してか、二度目（にどめ）からはすぐに、他（ほか）の本（ほん）の内容（ないよう）に脱線（だっせん）する祖父（そふ）に

「ちがう！」

　と、突（つ）っ込（こ）みを入（い）れるのが、二人（ふたり）のささやかな楽（たの）しみだった。中学校（ちゅうがっこう）に上（あ）がると、ほどなく安心（あんしん）したかのように祖父（そふ）は亡（な）くなった。それまでは祖父（そふ）の家（いえ）から通学（つうがく）していたが、両親（りょうしん）の家（いえ）の近（ちかく）くに転校（てんこう）せざるを得（え）なくなった。彼女（かのじょ）が読書（どくしょ）にのめり込（こ）むようになったのも、その頃（ころ）からだ。

　ふと目（め）を上げると、一人の老人（ろうじん）が本棚（ほんだな）をよじ登（のぼ）り、最上段（さいじょうだん）の本（ほん）を取（と）ろうとしていた。年（とし）を取（と）ると肩（かた）が挙（あ）がらなくなるものだ。

「取（と）ってあげるよ。あぶないから降（お）りな。」

　普段（ふだん）は人（ひと）のことなど構（かま）わない司（つかさ）だったが、その老人（ろうじん）はどことなく死（し）んだ祖父（そふ）に似（に）ている気（き）がした。

　クラスでも背（せ）の高（たか）い彼女（かのじょ）は、いとも簡単（かんたん）に棚（たな）から本（ほん）を引（ひ）き抜（ぬ）き老人（ろうじん）に渡（わた）そうとしたが、老人（ろうじん）はどこにもいなくなっていた。

　数日後（すうじつご）、司（つかさ）は自宅（じたく）への道（みち）を足早（あしばや）に歩（ある）いていた。後（うし）ろから薄気味悪（うすきみわる）い老人（ろうじん）がつけてきていた。春（はる）の夕方（ゆうがた）。まだ周囲（しゅうい）は明（あか）るかったが、車（くるま）の入（はい）れない細（ほそ）い路地（ろじ）の抜（ぬ）け道（みち）は、近所（きんじょ）の人（ひと）でもあまり通（とお）らないところだ。

　路地（ろじ）を抜（ぬ）けて、そっと後（うし）ろを覗（のぞ）くと老人（ろうじん）はいなかった。脇道（わきみち）のないはずの路地（ろじ）。引（ひ）き返（かえ）したのだろうか？そう思（おも）って前（まえ）を向（む）いた瞬間（しゅんかん）、心臓（しんぞう）が止（と）まるほど驚（おどろ）いた。後（うし）ろにいたはずの老人（ろうじん）が目（め）の前（まえ）に立（た）っている。

「じいさん、何者（なにもの）？」

　これが司（つかさ）と徳司（とくじ）との出会（であい）いだった。

　その週（しゅう）の土曜朝早（どようあさはや）くに、『死（し）なない老人（ろうじん）と死（し）にかけの若者（わかもの）』を読（よ）みに、郊外（こうがい）にある例（れい）のデイサービスに向（む）かった。帰宅部（きたくぶ）の彼女（かのじょ）にとっては土日（どにち）は完全（かんぜん）なオフだった。両親（りょうしん）はすでに部活（ぶかつ）やPTAの打（う）ち合（あ）わせで朝（あさ）から出（で）かけてしまっていた。今日（きょう）はまだ、誰（だれ）も読（よ）みに来（き）ていない。職員（しょくいん）は迷惑（めいわく）そうだったが、事務所（じむしょ）から本（ほん）を持（も）ってきてくれた。所有者（しょゆうしゃ）がわかるまで、事務所（じむしょ）で預（あず）かっているらしい。閲覧名簿（えつらんめいぼ）に住所（じゅうしょ）と氏名（しめい）を記入（きにゅう）すると、窓際（まどぎわ）の静（しず）かな席（せき）でその本（ほん）を読（よ）み始（はじ）めた。そこには彼女（かのじょ）の知（し）らない世界（せかい）の話（はなし）が広（ひろ）がっていた。まるで、魑魅魍魎（ちみもうりょう）が蠢（うごめ）く地獄（じごく）のような世界（せかい）。鬼（おに）のようなわがまま老人（ろうじん）と、理不尽（りふじん）な責（せ）め苦（く）にあえぐ若者（わかもの）。

「こんな大変（たいへん）な仕事（しごと）なら、さっさと転職（てんしょく）すればいいのに。バッカじゃね？」

　その後（ご）、徳司（とくじ）が告（つ）げた印刷所（いんさつじょ）に向（む）かい、健次（けんじ）たちと出会（であ）った。

　このころの司（つかさ）の家（いえ）では両親（りょうしん）の口論（こうろん）が絶（た）えなかった。コネも無（な）く苦労（くろう）して郊外（こうがい）の学校（がっこう）の教頭（きょうとう）になった母（はは）は、親（おや）が校長（こうちょう）というコネだけで中央（ちゅうおう）の学校（がっこう）に勤（つと）める父親（ちちおや）を筋肉（きんにく）バカと蔑（さげす）んでいた。父（ちち）は、家事（かじ）をしないくせに小言（こごと）の多（おお）い母（はは）にうんざりしていた。

　健次（けんじ）たちとの集会（しゅうかい）は、家庭（かてい）から逃（のが）れられる、初（はじ）めての友人（ゆうじん）たちとの楽（たの）しいたまり場（ば）だった。SNSとは違（ちが）い、本当（ほんとう）の自分（じぶん）が認（みと）められた充実感（じゅうじつかん）があった。

　しかし、健次（けんじ）が借金（しゃっきん）を抱（かか）えて、奔走（ほんそう）しているころには、司（つかさ）の両親（りょうしん）は離婚（りこん）。彼女（かのじょ）は母親（ははおや）に引（ひ）き取（と）られることになった。中三（ちゅうさん）の夏（なつ）。進学（しんがく）は絶望的（ぜつぼうてき）だった。