夢の印税生活ー死者の原稿ー

第1話 見える人（健次の場合）

　健次（けんじ）は今日（きょう）も４時間（じかん）のサービス残業（ざんぎょう）をして帰（かえ）りの電車（でんしゃ）に乗（の）り込（こ）んだ。彼（かれ）の勤（つと）める居酒屋（おざかや）は有名（ゆうめい）なブラック企業（きぎょう）だ。『準備（じゅんび）と片付（かたづ）けは時間外（じかんがい）』が社訓（しゃくん）。残業代（ざんぎょうだい）がつかないだけならまだいい。いきなりのシフト変更（へんこう）に、連続（れんぞく）シフトはざら。バイトが休（やす）めば、連帯責任（れんたいせきん）としょうし緊急（きんきゅう）呼（よ）び出（だ）し。さらにはクレームがあれば即（そく）減給（げんきゅう）。正社員（せいしゃいん）として入社（にゅうしゃ）したはずが、実態（じったい）はパート社員（しゃいん）。保険（ほけん）だってまとにかけてはいないだろう。明日（あした）こそ辞（や）めようと思（おも）うけど、中卒（ちゅうそつ）の彼（かれ）を雇（やと）ってくれるような職場（しょくば）は滅多（めった）にない。いつかは地方（ちほう）の工事現場（こうじげんば）でただ働（ばたら）きさせられるんだろうなと感（かん）じる日々（ひび）。

　やっと、いすに座（すわ）り自宅（じたく）のある終点（しゅうてん）まで寝（ね）ていこうと思（おも）った矢先（やさき）、一人（ひとり）の老人（ろうじん）が入（はい）ってきた。満席（まんせき）の終電（しゅうでん）。誰（だれ）も立（た）ち上（あ）がるものはいない。健次（けんじ）はしかたなく腰（こし）を上（あ）げると隣（となり）に立（た）つ老人（ろうじん）に席（せき）を譲（ゆず）ろうとした。そのとき

「ラッキー！」

　といって駆（か）け込（こ）んできた金髪（きんぱつ）の若者（わかもの）が、健次（けんじ）の空（あ）けた席（せき）にどっかと座（すわ）った。

　健次（けんじ）は「ムッ」としたが、飲食業（いんしょくぎょう）ということで上司（じょうし）から余計（よけい）なトラブルは避（さ）けるように言（い）われている。

「爺（じい）さんごめん。」

　彼（かれ）は老人（ろうじん）に囁（ささや）いた。

「わしが見（み）えるのか？」

　老人（ろうじん）の言葉（ことば）に健次（けんじ）はぎょっとした。周（まわ）りを見回（みまわ）すと他（ほか）の乗客（じょうきゃく）は老人（ろうじん）に気（き）がついた様子（ようす）はない。もっとも、終電（しゅうでん）の客（きゃく）など寝（ね）ているかスマホをいじっているかである。ガラケーもどきの携帯（けいたい）しかもたない健次（けんじ）は普段（ふだん）は寝（ね）ているだけだった。

「どいうこと？」

　健次（けんじ）と老人（ろうじん）は終点（しゅうてん）で降（お）りた。老人（ろうじん）は有人（ゆうじん）の改札（かいさつ）を素通（すどお）りした。

「ついに、年寄（としよ）りは電車（でんしゃ）もタダになったのか。」

　健次（けんじ）はうらやましく感（かん）じた。いつも自宅（じたく）に向（む）かう途中（とちゅう）にある小（ちい）さな公園（こうえん）に立（た）ち寄（よ）る。ここに来（く）ると、保育園（ほいくえん）に通（かよ）っていた頃（ころ）を思（おもい）い出（だ）す。その頃（ころ）は両親（りょうしん）と双子（ふたご）の兄（あに）との四人（よにん）で、よく近（ちか）くの公園（こうえん）に行（い）ったものだった。小（ちい）さいころは自分（じぶん）の名前（なまえ）がいやだった。兄（あに）は健一（けんいち）。何（なに）をやっても兄（あに）の次（つぎ）。高三（こうさん）の夏（なつ）、進学（しんがく）か就職（しゅうしょく）かでけんかして家出（いえで）してからは両親（りょうしん）と連絡（れんらく）をとったことはない。できの良（よ）い兄（あに）がついているから大丈夫（だいじょうぶ）だろう。親父（おやじ）は地方（ちほう）のＦラン大学出身（だいがくしゅっしん）のしがないサラリーマン。母（はは）は内職（ないしょく）をしながらの専業主婦（せんぎょうしゅふ）。

「父（とう）さんの学歴（がくれき）がないばっかりに・・・。」

　母（はは）の口癖（くちぐせ）だった。高校中退（こうこうちゅうたい）。彼（かれ）には、中卒（ちゅうそつ）という肩書（かたがき）きしか与（あた）えられなかった。甘（あま）かった。思（おも）い返（かえ）せば、隣（となり）の就職組（しゅうしょくぐみ）の連中（れんちゅう）が勉強（べんきょう）もせず遊（あそ）びほうけているのがうらやましかっただけだった。せめて高校（こうこう）だけでも出（で）ていれば、もう少（すこ）しマシな扱（あつ）いを受（う）けられたかもしれない。いまさら、世間知（せけんし）らずだった自分（じぶん）を悔（く）いてもしかたがない。公園（こうえん）の一番高（いちばんたか）い、たこ型（がた）の滑（すべ）り台（だい）の上（うえ）から周囲（しゅうい）を見回（みまわ）すと、ちょっとだけ自分（じぶん）が偉（えら）くなった気持（きも）ちになれる。そうやっていると今日（きょう）の出来事（できごと）を忘（わす）れ、明日（あした）も頑張（がんば）れる気（き）がしてくる。

「ちょっといいかな。」

　いきなり横（よこ）から声（こえ）がした。さきほどの爺（じい）さんだ。健次（けんじ）は答（こた）えなかった。

「やはり、見（み）えるのか。年寄（としよ）りの世迷言（よまいごと）だ。ちょっと聞（き）いてくれ。実（じつ）は、わしはすでに死（し）んでいる。」

　健次（けんじ）はうんざりしていた。いるんだよな、身寄（みよ）りが無（な）く死（し）んでるのとおんなじというやつが。

「君（きみ）が信（しん）じようが信（しん）じまいが、本当（ほんとう）に死（し）んでいるんだ。死（し）にたてじゃ。俗（ぞく）にいう幽霊（ゆうれい）じゃな。怖（こわ）くないじゃろ。君（きみ）に見（み）えている半数（はんすう）の人（ひと）は死人（しにん）じゃ。関（かか）わりが無（な）いから気（き）に留（と）めることもない。わしは文次（ぶんじ）、『死（し）なない老人（ろうじん）と死（し）にかけの若者（わかもの）』の著者（ちょしゃ）の一人（ひとり）じゃ。」

　年寄（としよ）りの話（はなし）はくどい。爺（じい）さんの話（はな）をまとめると、仲間（なかま）がみんな死（し）んで本（ほん）が出版（しゅっぱん）できなくなったため、代（か）わりに残（のこ）り３巻（かん）を含（ふく）め全巻（ぜんかん）世（よ）に出（だ）して欲（ほ）しいとのことだった。その後（あと）どうやって帰（かえ）ったのかわからないが、目（な）が覚（さ）めると健次（けんじ）は自分（じぶん）の部屋（へや）の玄関（げんかん）で寝（ね）ていた。

「冬（ふゆ）じゃなくて良（よ）かった。」

　顔（かお）を洗（あら）って鏡（かがみ）を覗（のぞ）き込（こ）んだとき、そこに老人（ろうじん）の顔（かお）が映（うつ）っていた。目（め）をこすりもう一度（いちど）見直（みなお）す。そこにはぼさぼさぼの髪（かみ）のさえない自分（じぶん）の顔（かお）があるだけだった。健次（けんじ）は昨夜（さくや）のことを思（おも）い出（だ）した。

「夢（ゆめ）だったのかな。」

　もう一度（いちど）寝（ね）ようとベッドに入（はい）るも、昨夜（さくや）のことが頭（あたま）の中（なか）をぐるぐると回（まわ）り、寝付（ねつ）けない。

「ここだったよな。」

　その日（ひ）はシフト明（あ）けの休（やす）み。夕方（ゆうがた）になって健次（けんじ）は一件（いっけん）の工場（こうじょう）の前（まえ）に立（た）っていた。

「あ、鍵（かぎ）がある。」

　二重底（にじゅうぞこ）になった郵便受（ゆうぶんう）けから細長（ほそなが）い無骨（ぶこつ）な鍵（かぎ）が出（で）てきた。恐（おそ）る恐（おそ）る中（なか）に入（はい）ると、がらんとした鉄骨（てっこつ）むき出（だ）しの部屋（へや）の中央（ちゅうおう）に、古（ふる）ぼけた機械（きかい）が一台（いちだい）あるだけだった。どうやら活字式（かつじしき）の印刷機（いんさつき）らしい。すでに電気（でんき）は止（と）まっているようで、灯（あか）りはつかなかった。

「爺（じい）さんの言（い）ったとおりだ。」

「ここだ、ここだ。」

　そういいながら、見知（みし）らぬ三人（さんにん）が次々（つぎつぎ）入（はい）ってきた。一人（ひとり）はスエット姿（すがた）のみすぼらしい老人（ろうじん）。もう一人（ひとり）はやけに小（ちい）さい。ランドセルをしょっている。最後（さいご）の一人（ひとり）は学生（がくせい）だろうか。セーラー服（ふく）を着（き）ていた。四人（よにん）は顔（かお）を見合（みあ）わせるとしばらく立（た）ち尽（つ）くした。

「もしかして、みんな見（み）える人（ひと）？」

　長治（ちょうじ）、祐二（ゆうじ）、司（つかさ）。三人（さんにん）とも老人（ろうじん）の幽霊（ゆうれい）と遇（あ）ったらしい。

「例（れい）の本（ほん）、わたし読（よ）んだよ。」

　司（つかさ）がスマホでSNSをみながら口（くち）を開（ひら）いた。

「で、どうだったのさ。」

　祐二（ゆうじ）はものおじせず聞（き）く。彼（かれ）はタブレットで宿題（しゅくだい）をしている。

「久々（ひさびさ）に笑（わら）えたし、泣（な）けた。じいちゃん思（おも）い出（だ）した。」

　司（つかさ）は、じいちゃんっ子（こ）だったのだろうか？

「で、ここにきたということは皆（みな）同（おな）じ思（おも）いということでいいのかの。」

　還暦（かんれき）ぐらいだろうか、少（すこ）し背中（せなか）の丸（まる）まった長治（ちょうじ）が問（と）いかける。

「年寄（としよ）りはせっかちだな。とりあえず来（き）てみただけさ。」

　司（つかれ）はちょっとふてくされていた。

「あの～。」

　健次（けんじ）はおそるおそる口（くち）を開（ひら）いた。

「なに！」

　三人（さんにん）は異口同音（いくどうおん）に聞（き）き返（かえ）す。

「いや、とりあえず自己紹介（じこしょうかい）しない？」

「無理（むり）！」「だめ！」「バカ？」

　三人（さんにん）に否定（ひてい）されて健次（けんじ）は、ますます萎縮（いしゅく）した。

「他人（たにん）に簡単（かんたん）に個人情報（こじんじょうほう）を教（おし）えることはできません。」

　最年少（さいねんしょう）の祐二（ゆうじ）に諭（さと）されてしまった。

「わしは、同（おな）じ老人（ろうじん）の思（おも）いをかなえて成仏（じょうぶつ）させてやりたくてな。」

　長治（ちょうじ）がぼさぼさの顎鬚（あごひげ）をさすりながら、ぼそりと言った。

「僕（ぼく）は世（よ）の中（なか）を騙（だま）すってのが面白（おもしろ）いかな。」

　祐二（ゆうじ）はタブレットをランドセルにしまった。

「わたしは続（つづ）きが読（よ）んでみたいだけ。」

　司（つかさ）もスマホをしまった。

「ぼ、ぼくは、今（いま）の仕事（しごと）を辞（や）められるかと思（おも）って。」

　健次（けんじ）はやっとまわりに聞（き）き取（と）れるくらいの小声（こごえ）でうつむいてぼそぼそと話（はな）した。

「へえ～、お兄（にい）さん素直（すなお）だね。」

　祐二（ゆうじ）は、健次（けんじ）をからかうように覗（のぞ）き込（こ）んだ。

　そのとき、止（と）まっているはずの電気（でんき）がつき、部屋（へや）の中央（中央）の印刷機（いんさつき）が動（うご）きはじめ、一枚（いちまい）の紙（かみ）が出（で）てきた。

　司（つかさ）が拾（ひろ）ったが、一目見（ひとめみ）るなり

「ムズ、これ何語（なにご）？」

　といって長治（ちょうじ）に渡（わた）した。

「眼鏡（めがね）をなくしてしまって、よう見（み）えん。」

　健次（けんじ）も覗（のぞ）いたが、見（み）たことの無（な）い漢字（かんじ）だらけで読（よ）めない。

「これは、死者（ししゃ）からの手紙（てがみ）ですね。」

　最後（さいご）に手渡（てわた）された祐二（ゆうじ）が告（つ）げた。

「旧字体（きゅうじたい）ですね。要約（ようやく）すると、例（れい）の本（ほん）は見本（みもん）の１冊（いっさつ）だけで、出版（しゅっぱん）することなく関係者（かんけいしゃ）四人（よにん）とも死（し）んでしまったらしいです。作品（さくひん）は全（ぜん）４巻（かん）、すでに原稿（げんこう）は完成（かんせい）しているようです。せっかくの作品（さくひん）が世（よ）に出（で）ず埋（う）もれるのが悲（かな）しいと四人（よにん）は死（し）に切（き）れずにいる。かれらの代（か）わりに作品（さくひん）を出版（しゅっぱん）して欲（ほ）しいそうです。」

　話（はなし）を聞（き）いていた司（つかさ）が

「見返（みかえ）りは？」

　とたずねた。

「報酬（ほうしゅう）は、かれらに入（はい）るはずの印税（いんぜい）。ただし、赤字（あかじ）のリスクもありますね。」

　四人（よにん）の間（あいだ）にしばしの沈黙（ちいもく）が走（はし）った。

「ゲラ刷（ず）りの終（お）わった原稿（げんこう）は、この部屋（へや）の奥（おく）の金庫（きんこ）にあるそうです。やってくれるなら暗証（あんしょう）を教（おし）えるとのこと。」

　四人（よにん）は一週間後（いっしゅうかんご）にまた集（あつ）まることにした。健次（けんじ）は迷（まよ）っていた。売（う）れれば魅力的（みりょくてき）な話（はなし）だ。夢（ゆめ）の印税生活（いんぜいせいかつ）。だが、老人（ろうじん）と子供（こども）とJC（じょしちゅうがくせい）。どうみても戦力（せんりょく）にならない。

　健次（けんじ）は決断（けつだん）できずに集合（しゅうごう）の日（ひ）を迎（むか）えた。職場（しょくば）には有給（ゆうきゅう）を申請（しんせい）してある。さて、自宅（じたく）を出（で）ようとした時（とき）、携帯（けいたい）がなった。

「自宅（じたく）にいるんだろ。すぐシフトに入（はい）ってくれ。久々（ひさびさ）の大人数（おおにんずう）の客（きゃく）だ。・・・休（やす）み？。それは自宅待機（じたくたいき）ってんだ。６時（じ）には入（はい）れよ。」

　無茶苦茶（むちゃくちゃ）な店長（てんちょう）の電話（でんわ）に健次（けんじ）はいらついたが、集合（しゅうごう）は５時（じ）だ。とりあえず、集合（しゅうごう）してからでも間（ま）に合（う）うだろうと思（おも）った。

「おそーい！」

　健次（けんじ）が到着（とうちゃく）するなり、司（つかさ）が文句（もんく）を言（い）う。時計（とけい）を見（み）るとすでに３０分（ぷん）ほど過（す）ぎている。

「電車（でんしゃ）が事故（じこ）で遅（おく）れた。」

　嘘（うそ）ではなかったが本当（ほんとう）でもなかった。実際（じっさい）に健次（けんじ）の乗（の）った電車（でんしゃ）は１０分（ぷん）ほど遅（おく）れた。それは待（ま）ち構（かま）えているバイト仲間（なかま）に見（み）つからないように、遠回（とおまわり）りをして乗（の）り継（つ）いできたからでもあった。

「ぼくは、暇（ひま）だしやってもいいけど、小学生（しょうがくせい）だからお金（かね）はないよ。」

　祐二（ゆうじ）が真（ま）っ先（さき）に口（くち）を開（ひら）いた。

「わたしも、学生（がくせい）だから。でも、SNSで拡散（かくさん）することはできるよ。」

「さしづめ広報部長（こうほうぶちょう）だね。」

　司（つかさ）の言葉（ことば）に長治（ちょうじ）がふざける。

「そうゆう爺（じい）さんは何（なに）ができるのさ。」

　司（つかさ）がくってかかる。

「銀行員（ぎんこういん）だったから、座（すわ）って金勘定（かねかんじょう）ぐらいかな。」

　長治（ちょうじ）が札束（さつたば）を開（ひら）いて数（かぞ）えるまねをする。

「ところで、そっちの兄（にい）ちゃんは何（なに）ができるんだい。」

　長治（ちょうじ）が健次（けんじ）に向（む）かって薄笑（うすわら）いを浮（う）かべながら問（と）いかける。

「しがないバイト生活（せいかつ）で、これといって出版関係（しゅっぱんかんけい）は。」

　健次（けんじ）が言（い）い終（お）わらないうちに、

「つまり、ど素人（しろうと）の集団（しゅうだん）ね。」

　祐二（ゆうじ）が、時計（とけい）を見（み）ながらあきれたようにしゃべる。おそらく、塾（じゅく）の時間（じかん）でも気（き）にしているのだろう。

「いきなり、出版社（しゅっぱんしゃ）に持（も）ち込（こ）むのも無理（むり）だから、まずは一巻目（いっかんめ）をネットに載（の）せて様子（ようす）を見（み）よう。どこかの出版社（しゅっぱんしゃ）がくいつけば紙（かみ）にすればいい。」

　祐二（ゆうじ）の小学生（しょうがくせい）ならぬ発言（はつげん）に一同（いちどう）は目（め）を丸（まる）くしたが、あまりの正論（せいろん）に誰（だれ）も反論（はんろん）できなかった。

　そのとき、健次（けんじ）の携帯（けいたい）が激（はげ）しく鳴（な）った。

「あ、今日（きょう）は無理（むり）です。今（いま）ですか・・・病院（びょういん）です。え？ちょっと熱（ねつ）が・・・先生（せんせい）にですか？忙（いそが）しそうなのでちょっと・・・。」

　見（み）かねた長治（ちょうじ）が携帯（けいたい）を取（と）り上（あ）げると

「はい、院長（いんちょう）の小石川（こいしかわ）です。あ、職場（しょくば）の方（かた）ですか。本日（ほんじつ）の出勤（しゅっきん）は無理（むり）ですね。検査途中（けんさとちゅう）ですがね、どうやらインフルのようです。一週間（いっしゅうかん）は出勤（しゅっきん）できませんよ。」

　勝手（かってに）に店長（てんちょう）からの電話（でんわ）を切（き）ると、携帯（けいたい）を健次（けんじ）に返（かえ）した。

「一日（いちにち）で治（なお）せって。できなきゃクビって。おまえさん、あのブラック企業（きぎょう）、ほったぐり食堂（しょくどう）で働（はたら）いてんだな。」

　さずが、元銀行員（ぎんこういん）、その手（て）の話（はなし）には詳（くわ）しいらしい。

「良（よ）かったじゃん。もっといいとこあるって。」

　司（つかさ）が慰（なぐさ）めてくれた。

「『ひとつ上のサービスを』といいながら、ひとつ上（うえ）の利益率（りえきりつ）の良（よ）い商品（しょうひん）を勧（すす）めてくる、通称（つうしょう）、ぼったくり食堂（しょくどう）。未払（みばら）いの給与（きゅうよ）や退職金（たいしょくきん）の話（はなし）をされても、のこのこ行（い）っちゃだめだよ。難癖（なんくせ）をつけて逆（ぎゃく）に何十万（なんじゅうまん）も支払（しはら）わされるってさ。」

　タブレットの上（うえ）にすばやく指（ゆび）を滑（すべ）らしながら、祐二（ゆうじ）が付（つ）け加（くわ）えた。最近（さいきん）のネットは、そんなことまでも簡単（かんたん）に解（わか）るらしい。

　いつまでも今（いま）の理不尽（りふじん）な仕事（しごと）を続（つづ）けるわけにはいかない。わかってはいても踏（ふ）ん切（ぎ）りがつかないでいた。

「これで、兄（にい）ちゃんがフリーになったわけだ。とりあえず、代表（だいひょう）で小説（しょうせつ）サイトに登録（とうろく）してもらえばいいんじゃないか。」

　勝手（かって）に無職（むしょく）にされた怒（いか）りより、なぜか悪（わる）い夢（ゆめ）からさめたような爽快（そうかい）さが健次（けんじ）にはあった。

「爺（じい）さんのほうがよかない？」

　健次（けんじ）の問（と）いに長治（ちょうじ）は苦笑（にがわら）いした。

「わしゃ、住所不定（じゅうしょふてい）の身（み）じゃ。」

「いわゆるホームレスってやつですね。」

　老人（ろうじん）特有（とくゆう）のとぼけた答（こた）えに、祐二（ゆうじ）がすかさず反応（はんのう）した。

「エー、はじめてみた。」

　司（つかさ）が鼻（はな）をつまみ眉（まゆ）をひそめる。

　健次（けんじ）は、店長（てんちょう）に連（つ）れ戻（もど）されるのを恐（おそ）れて、引越（ひっこ）しした。家賃（やちん）も節約（せつやく）したい。四人（よにん）の中（なか）で唯一（ゆいいつ）、住所（じゅうしょ）が決（き）まっている成人（せいじん）の健次（けんじ）の契約（けいやく）で、『死（し）なない老人（ろうじん）と死（し）にかけの若者（わかもの）』を無料（むりょう）の小説投稿（しょうせつとうこう）サイトに載（の）せることとなった。

　原稿（げんこう）は祐二（ゆうじ）がスキャナで読（よ）み込（こ）んでアップした。司（つかさ）は、ネットではちょっとした有名人（ゆうめいじん）らしく、SNSのフォロワーが千人（せんにん）ほどいるらしい。彼女（かのじょ）の書（か）き込（こ）みによって徐々（じょじょ）に本（ほん）の存在（そんざい）が広（ひろ）まっていった。

　長治（ちょうじ）は空家（あきや）となっていた印刷所（いんさつじょ）に寝泊（ねとま）りし、原稿（げんこう）の番（ばん）をしている。

　四人（よにん）は週一回（しゅういっかい）の集会（しゅうかい）を続（つづ）けた。お互（たが）い名前（なまえ）も住所（じゅうしょ）も知（し）らないままだったが気（き）にならなかった。無職（むしょく）の健次（けんじ）にとっては生活（せいかつ）がかかっていたが、ほかの三人（さんにん）はお金（かね）には困（こま）っていないようだった。

　梅雨（つゆ）も明（あ）けようというころ一巻目（いっかんめ）の評価（ひょうか）が出（で）た。

「最近（さいきん）、いくつかの出版社（しゅっぱんしゃ）からメールが届（とど）くよ。」

　メールは司（つかさ）が受（う）けて、みんなに配信（はいしん）していた。ただ、端末（たんまつ）を持（も）たない長治（ちょうじ）を除（のぞ）いて。内容（ないよう）は作家本人（さっかほんにん）に会（あ）いたいってもので、明（あき）らかに引（ひ）き抜（ぬ）き目的（もくてき）だった。

「この出版社（しゅっぱんしゃ）がいい。」

　長治（ちょうじ）は健次（けんじ）の携帯（けいたい）を覗（のぞ）き見（み）ながら、おもむろにいった。

「こことは昔（むかし）、取引（とりひき）をしたことがある。小（ちい）さいけど作家（さっか）を大事（だいじ）にするところだ。」

　長治（ちょうじ）に勧（すす）められた出版社（しゅっぱんしゃ）に赴（おもく）いた健次（けんじ）の前（まえ）に出（で）てきたのは、羽振（はぶ）りのよさそうな若（わか）い男（おとこ）だった。高（たか）そうな腕時計（うでどけい）に、金（きん）のブレスレット。接客業（せっきゃくぎょう）をしていた経験（けいけん）から、信用（しんよう）の置（お）けないと感（かん）じた健次（けんじ）は、トイレに行（い）くふりをして急（いそ）いで帰（かえ）ってきてしまった。

「そうか、先代（せんだい）が亡（な）くなって今（いま）は息子（むすこ）が継（つ）いでいるのか。残念（ざんねん）だったな。」

　作者不明（さくしゃふめい）の話題性（わだいせい）もあってか、本（ほん）の人気（にんき）は落（お）ちなかった。学校（がっこう）が夏休（なつやす）みになると四人（よにん）で集（あつ）まる回数（かいすう）も増（ふ）えた。

「そろそろ二巻目（にかんめ）を出（だ）さないと、夏（なつ）が終（お）わっちまう。」

　出版物（しゅっぱんぶつ）にとって季節（きせつ）は大事（だいじ）だ。夏（なつ）の話（はなし）を冬（ふゆ）に出（だ）しても売（う）れない。そんな折（おり）、彼（かれ）らの投稿（とうこう）サイトが経営不振（けいえいふしん）で閉鎖（へいさ）されるとの情報（じょうほう）が流（なが）れた。

「別（べつ）のサイトを探（さが）すか、自費出版（じひしゅっぱん）をするか。」

　彼（かれ）らに突（つ）きつけられた究極（きゅうきょく）の選択（せんたく）だった。

「自費出版（じひしゅっぱん）で行（い）こう。」

　長治（ちょうじ）が行（い）った。彼（かれ）が年金（ねんきん）が出（で）るまでの生活費（せいかつひ）にと持（も）っていた退職金（たいしょくきん）の一部（いちぶ）を元手（もとで）として出（だ）してくれることになった。格安（かくやす）の印刷（いんさつ）サイトを見（み）つけた健次（けんじ）は早速（さっそく）注文（ちゅうもん）した。まずは様子見（ようすみ）で百部限定（ひゃくぶげんてい）の出版（しゅっぱん）、送料別（そうりょうべつ）で原価（げんか）のまま千円（せんえん）でネット販売（はんばい）をすることにした。そして代金（だいきん）として表示（ひょうじ）された１０万円（まんえん）を指示（しじ）に従（したが）い前払（まえばら）いした。納品（のうひん）当日（とうじつ）、長治（ちょうじ）と健次（けんじ）がいつもの印刷所（いんさつじょ）で待（ま）っていると早速（さっそく）一台（いちだい）のワゴン車（しゃ）がやってきた。

「百冊（ひゃくさつ）だからあれくらいだろう。」

　ドライバーは宛名（あてな）を確認（かくにん）し、ガランとした印刷所（いんさつじょ）の中（なか）を確認（かくにん）すると、すぐに無線（むせん）でどこかに連絡（れんらく）しはじめた。やがて、一分（いっぷん）とったたないうちに大型（おおがた）トラックが砂（すな）ぼこりを巻（ま）き上（あ）げながら入（はい）ってきた。一台（いちだい）、二台（にだい）・・・五台（ごだい）の４トントラックが並（なら）ぶ。運転手（うんてんしゅ）たちは、呆然（ぼうぜん）と立（た）ちつくす長治（ちょうじ）と健次（けんじ）を尻目（しりめ）に、手際（てぎわ）よく次々（つぎつぎ）とダンボール箱（ばこ）を建物（たてもの）に運（はこ）び込（こ）む。

「こちらが明細（めいさい）と残（のこ）りの請求書（せいきゅうしょ）になります。入金（にゅうきん）は五日以内（いつかいない）にお願（ねが）いします。」

　ドライバーはそういい残（のこ）すと急（いそ）いで去（さ）った。

「ええと・・・前金（まえきん）１０万（まん）、残金（ざんきん）が９９０万円（まんえん）・・・一万冊（いちまんさつ）？」

　唖然（あぜん）とする二人（ふたり）のもとに、一台（いちだい）の自転車（じてんしゃ）が勢（いきお）いよく突（つ）っ込（こ）んできた。

「届（とど）いた？」

　祐二（ゆうじ）だった。その問（と）いに二人（ふたり）はただ建物（たてもの）の中（なか）を指差（ゆびさ）すだけしかできなかった。しばらくして中（なか）から叫（さけ）び声（ごえ）がした。

「やられたね、兄（にい）ちゃん。悪質（あくしつ）サイトにひっかかったんだ。単位（たんい）が、１００冊（さつ）１部（ぶ）になってる。金額（きんがく）も頭金（あたまきん）１％の表示（ひょうじ）だね。ま、兄（にい）ちゃん頭悪（あたまわる）そうだし、ひっかかっても仕方（しかた）ないか。」

　健次（けんじ）は反論（はんろん）するだけの語彙（ごい）を持（も）ち合（あ）わせていなかった。

　どうやら、１００冊単位（さつたんい）での注文（ちゅうもん）に気（き）づかず１００と打（う）ち込（こ）んでしまったらしい。おかげで一万冊（いちまんさつ）届（とど）いたってわけだ。さらに頭金表示（あたまきんひょうじ）を全額表示（ぜんがくひょうじ）だと思（おも）わせる紛（まぎ）らわしさ。一冊（いっさつ）あたり千円（せんえん）と飛（と）びついたのが失敗（しっぱい）だった。

「詐欺（さぎ）じゃないのか？」

　長治（ちょうじ）が尋（たず）ねる。

「納品（のうひん）はあるし、単価（たんか）も法外（ほうがい）ってわけじゃない。さらに、残金（ざんきん）があった場合（ばあい）は、後日請求（ごじつせいきゅう）ともあるね。残金表示（ざんきんひょうじ）は特（とく）にないけどね。」

　祐二（ゆうじ）が注文（ちゅうもん）サイトの内容（ないよう）を解説（かいせつ）した。こんなことなら、祐二（ゆうじ）に頼（たの）めばよかった、健次（けんじ）はいまさらながらに思（おも）った。

「１万冊（まんさつ）の在庫（ざいこ）。どうする？」

「今予約（いまよやく）は約（やく）８０冊（さつ）だね。」

　長治（ちょうじ）と健次（けんじ）の手持（てもち）ちをあわせても４００万（まん）。

　とりあえず、４００万（まん）を入金（にゅうきん）し、支払期限（しはらいきげん）を十日間（とおかかん）延（の）ばしてもらった。

「十日（とおか）で５９０万（まん）か。」

　支払（しはら）えなければ、せっかく印刷（いんさつ）した本（ほん）の販売権（はんばいけん）が取（と）られてしまう。著作権（ちょさくけん）までとられないのがせめてもの救（すく）いというところか。

　うだるような残暑（ざんしょ）の中（なか）、健次（けんじ）は近所（きんじょ）の本屋（ほんや）に飛（と）び込（こ）み営業（えいぎょう）を始（はじ）めた。いくら話題性（わだいせい）があるといっても、どの本屋（ほんや）も数冊程度（すうさつていど）しか置（お）いてくれない。しかも、代金（だいきん）は売（う）れただけで、さらにマージンとして１０％ほどを要求（ようきゅう）された。数日間（すうじつかん）、足（あし）を棒（ぼう）にしても５０冊程度（さつていど）しかさばけなかった。大型（おおがた）のチェーン店（てん）は雇（やと）われ店長（てんちょう）なので相手（あいて）にもしてくれない。

　これなら、ブラックでも前（まえ）の職場（しょくば）のほうがマシだったな、などと感（かん）じたが、愚痴（ぐち）ってる暇（ひま）もない。

　本（ほん）の売（う）れ行（ゆ）きとは別（べつ）に、ネットでは作者（さくしゃ）についてのさまざまな憶測（おくそく）が飛（と）び交（か）っていた。

「ヤバイやつで表（おもて）に出（で）れないんじゃないか？」

　とか、果（は）てには

「あの内容（ないよう）からすると相当（そうとう）の年寄（としよ）りだろう。もう、生（い）きてないんじゃないか？」

　などまで。ま、当（あ）たっているんだけど。

　あれから祐二（ゆうじ）も司（つかさ）も打（う）ち合（あ）わせに来（こ）ない。新学期（しんがっき）が始（はじ）まり、忙（いそが）しいそうだ。が、借金（しゃっきん）から逃（のが）れたいだけなんじゃないかと、健次（けんじ）の耳元（みみもと）では悪魔（あくま）が囁（ささや）き続（つづ）けた。