　官僚（かんりょう）エリートの父（ちち）と専業主婦（せんぎょうしゅふ）の母（はは）。一流大学（いちりゅうだいがく）へいって国家公務員（こっかこうむいん）。周囲（しゅうい）の期待（きたい）を一身（いっしん）に背負（せお）った小学生（しょうがくせい）にとって、将来（しょうらい）には何（なん）の希望（きぼう）もなかった。レールの敷（し）かれた未来（みらい）。親（おや）のエゴを満（み）たすだけの道具（どうぐ）。そんな想（おも）いがつのり成績（せいせき）も落（お）ち始（はじ）めた。母（はは）は、近所（きんじょ）の手前（てまえ）、恥（は）ずかしいと怒鳴（どな）るが、勉強（べんきょう）を教（おし）えてくれるわけでもない。父（ちち）の帰（かえ）りは、ほぼ午前様（ごぜんさま）。でも、さすがに一流国立大出身（いちりゅうこくりつだいがくしゅっしん）だけあってか、休（やす）みの日（ひ）には勉強（べんきょう）を教（おし）えてくれた。もっとも、小学生（しょうがくせい）には高度（こうど）すぎる内容（ないよう）で。資格至上主義（しかくしじょうしゅぎ）の母親（ははおや）は祐二（ゆうじ）が小六（しょうろく）になると漢字検定（かんじけんてい）２級（きゅう）を取（と）らせた。彼女（かのじょ）は赤（あか）ん坊（ぼう）の弟（おとうと）を公園（こうえん）に連（つ）れていっては、近所（きんじょ）にそれとなく自慢（じまん）げに言（い）いふらしている。長男（ちょうなん）なのに祐二（ゆうじ）。不思議（ふしぎ）に思（おも）って、父（ちち）に尋（たず）ねたことがある。成功（せいこう）には、一（いち）に努力（どりょく）、二（に）に運（うん）も必要（ひつよう）だから、と答（こた）えた。祐（ゆう）には神（かみ）の助（たす）けという意味（いみ）があるらしい。

　祐二（ゆうじ）は時折（ときおり）、塾（じゅく）をさぼっては近所（きんじょ）の老人（ろうじん）の家（いえ）に上（あ）がっていた。少（すこ）しぼけた老婆（ろうば）が一人（ひとり）で暮（く）らしている。祐二（ゆうじ）のことを、離（はな）れて暮（く）らす息子（むすこ）と勘違（かんちが）いすることもある。ただ、祐二（ゆうじ）にとって老人（ろうじん）の昔話（むかしばなし）は新鮮（しんせん）だった。貧（まず）しい時代（じだい）を苦労（くろう）して生（い）きてきた話（はなし）。古（ふる）ぼけた写真（しゃしん）を見（み）ながら、パイロットの資格（しかく）があったばかりに零戦（ぜろせん）乗（の）りとなり最期（さいご）は特攻（とっこう）で戦死（せんし）したつれそいを思（おも）い出（だ）しては涙（なみだ）する老人（ろうじん）の姿（すがた）は、どこかほっとするものがあった。人（ひと）はいないもののそこには家族（かぞく）の暖（あたた）かさや絆（きづな）が今（いま）でも感（かん）じられた。

　しかし、そんな老人（ろうじん）もやがては姿（すがた）を消（け）した。どうやら、転倒（てんとう）した際（さい）の骨折（こっせつ）が悪化（あっか）し、入院先（にゅういんさき）からそのままどこかの施設（しせつ）に入（い）れられたらしい。自分（じぶん）の親（おや）は素直（すなお）に施設（しせつ）に入（はい）るだろうか？おいぼれの面倒（めんどう）はみたくないなと祐二（ゆうじ）は想（おも）うのだった。塾（じゅく）の帰（かえ）りに久（ひさ）しぶりに、空家（あきや）になったその老婆（ろうば）の家（いえ）の前（まえ）を通（とお）りかかると、ぼんやりと青白（あおじろ）い光（ひかり）が磨（す）りガラスの向（む）こうに見（み）えた。

「空（あ）き巣（す）？」

　家（いえ）の間取（まど）りは熟知（じゅくち）している。仏壇（ぶつだん）のある居間（いま）ではなく、台所（だいどころ）のほうだ。そこには特攻服姿（とっこうふくすがた）で敬礼（けいれい）をする、戦死（せんし）した爺（じい）さんの大（おお）きな似顔絵（にがおえ）があったはずだ。終戦後（しゅうせんご）、遺骨（いこつ）代（が）わりに送（おく）られてきたものだそうだ。祐二（ゆうじ）は裏（うら）へ回（まわ）ると、欠（か）けたガラスの穴（あな）から中（なか）を覗（のぞ）いた。見（み）たことの無（な）い老人（ろうじん）が一人（ひとり）、絵（え）の前（まえ）に立（た）っている。灯（あか）りがついてないのに、中（なか）の様子（ようす）が良（よ）く見（み）える。老人（ろうじん）の体（からだ）の回（まわり）りがぼんやりと青（あおく）く光（ひか）っていた。

「見（み）たな～。」

　祐二（ゆうじ）は人生（じんせい）で始（はじ）めて腰（こし）を抜（ぬ）かした。人（ひと）は恐怖（きょうふ）で本当（ほんとう）にちびるものなんだと初（はじ）めて知（し）った。その幽霊（ゆうれい）が源二（げんじ）だった。祐二（ゆうじ）にとって未知（みち）の幽霊（ゆうれい）は実（じつ）に興味深（きょうみぶか）いものだった。親（おや）の知（し）らない世界（せかい）がある。それはすなわち、親（おや）の価値観（かちかん）が絶対（ぜったい）ではないということだ。祐二（ゆうじ）にとって、退屈（たいくつ）だった毎日（まいにち）は一変（いっぺん）した。目（め）の前（まえ）に、初（はじ）めて自分（じぶん）の力（ちから）で登（のぼ）れる山（やま）が現（あらわ）れた。山頂（さんちょう）にはどんな景色（けしき）が広（ひろ）がっているのだろう。考（かんが）えただけで、わくわくしてくる。

　しかし、楽（たの）しいときはいつまでも続（つづ）かない。やがて、塾（じゅく）をさぼっていたことが両親（りょうしん）の知（し）るところとなった。人（ひと）は、やりたいことがあると集中力（しゅうちゅうりょく）が増（ま）すらしい。時間（じかん）の使（つか）い方（かた）も効率良（こうりつよ）くなる。祐二（ゆうじ）の成績（せいせき）は上（あ）がっていた。いかに、口（くち）うるさい両親（りょうしん）でも文句（もんく）は言（い）わないだろうと、たかをくくっていた。祐二（ゆうじ）の希望（きぼう）は、すぐに打（う）ち砕（くだ）かれた。エリートの父（ちち）は、

「役（やく）に立（た）たない塾（じゅく）ならやめてしまえ。」

　と静（しず）かに言（い）うだけだった。しかし、母（はは）は

「恥（はず）ずかしい、塾（じゅく）をさぼるなんて。不良（ふりょう）とか噂（うわさ）になったらどうするの。」

　相変（あいか）わらず、世間体（せけんてい）を気（き）にしている。近寄（ちかよ）りがたい父（ちち）だったが、母（はは）よりも祐二（ゆうじ）のことをわかってくれていたらしい。

　結局（けっきょく）、塾（じゅく）への送（おく）り迎（むか）えを母（はは）が行（おこな）い、父（ちち）は許可（きょか）した人間以外（にんげんいがい）とは連絡（れんらく）がとれないようにタブレットに保護者制限（ほごしゃせいげん）をかけ、外出時（がいしゅつじ）はタブレットのGPSで監視（かんし）することで落（お）ち着（つ）いた。