【編ノ三(下)】“貴方を忘れない” ~面霊気、あるいは人形の霊~

 “面霊気めんれいき”とは、優れた作品の面が古くなって魂を宿した付喪神つくもがみ(器物が変化した妖怪)だ。

 古くなった面の化けたもので、夜になると動き出し、持ち主に対して大切に扱ってくれるよう頼むなどの逸話がある。

 いま、泉屋いずみやの目の前にいる怪人…怪盗“サーフェス”は、その妖怪の名前を名乗った。


「どういうことだ!?」


 サーフェスの正体を知り、思わず声を上げる泉屋。


「何で特別住民ようかいが泥棒なんかしてやがる!?い、いや、それよりその人形は、お前が操ってたんじゃねぇのか…!?」


 泉屋の視線の先には、一体の少女人形が、不気味な駆動音をたてて佇んでいる。

 両手の出刃包丁が、人形の無機質な鬼面を冷たく映していた。

 サーフェスは、苦笑を浮かべた。


「泥棒とは人聞きの悪い。まあ、やってることはその通りですし、事情を知らない人間あなた達にはそう思われても仕方ないんですが…せめて『怪盗』と言って欲しいですね」


 昨今、姿を見せたばかりの特別住民…妖怪が犯罪に関わっていたなどと世間が知ったら、大問題だ。

 とりわけ、今は市民権を得た一部の妖怪が、公共機関に在籍する時期にも来ている。

 とにかく、今は人間と妖怪の関係がとてもデリケートな状態にあると言っていい。

 このサーフェスにも、それは分かっている筈だ。

 当のサーフェスは、正体がバレたことは意に介した風もなく、少女人形に向き直った。


「私は“保護”をしているのですよ」


「保護…!?」


 意外な一言に、泉屋が聞き返す。

 サーフェスは頷き、


「例えば…この人形ですが、彼女は見ての通り普通の人形ではありません。“人形にんぎょうれい”という妖怪の一種です」


「こいつが…妖怪…!?」


 驚き、少女人形を見やる。

 人形…鬼女“黒塚くろづか”と銘打たれた機巧人形は、先程の美しい少女の顔から、鬼女の顔に一瞬で変化し、包丁で襲い掛かってきた。

 その様を見れば、サーフェスの言葉にも頷くことは出来る。


「ええ。古くから、人間の姿を模した『人形ひとがた』には、魂が宿りやすいとされています。昔、魂を宿した浄瑠璃じょうるり人形が、持ち主になった娘と相思相愛になり、娘の結婚式に現れて、嫉妬から固めの杯を叩き落としたという話もあるくらいでね」


 それが本当なら、この人形にも魂が宿っていて、自ら動き出したというのか。

 サーフェスが操ったのではなく、自力で強化ガラスを破り、警官達を蹴散らしたのか。


「ですが、人間あなた達はそんなモノも美術品として保存してしまう。そうして収集されたモノの中には、人間あなた達にとって脅威となるものや呪的な貴重品も多い。私はそれをなるべく穏便に確保し、保護しているのですよ」


「じゃあ、前回盗んだ石仏も…」


 頷くサーフェス。


「あれは、とある凶悪な妖怪を封じている危険物でした。そのままにして、迂闊うかつ人間あなた達が封印を解いてしまわないように回収させてもらったんです」


「ってことは、この人形を盗もうとしたのもそのためか…?」


「ええ。それには私と同じ器物の妖怪同士。いわば、親戚みたいなものなのでね」


「嘘つけ!なら、何で襲い掛かって来たんだ!?」


 思わずそう叫ぶ泉屋。


「この娘の外殻がいかく…つまり人形のモデルがまずかったんです。よりによって、あの『安達ヶ原の鬼婆』の人形ですしね。加えて、作者が稀代の天才、火毘鬼ひびき 九源汰くげんたでしょ?そりゃあ、魂も宿れば、人も襲いますよねぇ」


 あははは、と呑気に笑うサーフェス。

 泉屋は眩暈めまいを覚えた。

 「いわくつきの呪いの人形」と言っていた冗談が、まさかの本物だったのだ。

 持ち主が謎の死を遂げていたのも、十中八九この人形のせいだろう。


「んな物騒なモンを所蔵してたのか、ここは…って、ちょっと待て!それなら何でコイツは今まで動かなかったんだ!?」


 サーフェスはポリポリと頬を掻いた。


「あー、それなんですけどね…実は警備機器類を黙らせるために、一時的に通電を断ったんですが、どうもそれがマズかったようです」


「何でだよ?」


 サーフェスは、天井を見上げた。


「この博物館、どうやら呪術に詳しい人間が建てたようでして。意図的なのでしょうが、この人形の配置も、照明で生じる影で描かれた十以上の封魔の紋の真下にありましてね」


 そこで仮面の怪盗は、肩をすくめて見せた。


「予備照明まで落としたら、あっという間に自由の身になったようでして…」


「…よく分からんが…とどのつまり、貴様のせい、だと…?」


「はい。面目ありません」


 泉屋は盛大な溜息を吐いた。

 こんな状況でなければ、サーフェスの胸倉を掴んでいただろう。

 だが、今はそれどころではない。

 こんな物騒な人形を野放しにしたら、大事になる。

 それこそ鬼婆の様に、この町に住む妊婦達の生き胆を狙って凶行を行うに違いない。


「で、どうすんだよ?コイツ」


「破壊はしません。当初の予定通り無力化して確保します」


「無力化して確保、だぁ?」


 泉屋は人形に目を向けた。


「…破壊…解体…する…捕獲して…殺害…」


 手の包丁を舌で舐めながら、何やら物騒な単語をブツブツ呟く少女人形。

 どうやら、火毘鬼とかいう天才は、その才能を無駄なギミックにも費やしたようだ。


「…やっこさんの方針は正反対のようだぞ?」


「彼女は人形です。外殻たる伝説の鬼女“黒塚”としての思考・行動を演じロールしているに過ぎません。本来は無害な存在なのです」


 サーフェスの言葉とは裏腹に、人形は両手の出刃包丁を閃かせ、ジリジリと間合いを詰め始めていた。


「私に策があります」


 サーフェスは小さく呟いた。


「魂はあっても、彼女は所詮人形です。駆動システム…機巧からくりを封じれば、身動きはできなくなる。私が彼女の動きを止めている間に、貴方が機巧を止めてください。主動源となる歯車が、心臓のあたりにある筈です。そこに何か異物でも押し込めば、停止すると思います」


 再び溜息を吐く泉屋。


「警察が泥棒の手助けとは…情けねぇ」


「なら、止めますか?」


 サーフェスがチラリと泉屋を見る。

 泉屋は頭をガシガシと掻いた。


「~ッ…やるよ、やってやらあ!しゃあねぇだろ!俺じゃ手に負えねぇんだから!」


「聞き分けの良い男性は好きですよ。えーと…」


「泉屋だ。泉屋 銀七ぎんしち。いいか!?これが終わったら、テメエを逮捕する男の名前だ。よく覚えておけよ…!」


 もっとも、生きて帰れれば、だが。

 サーフェスはクスリと笑った。


「善処しましょう、ミスター泉屋。では、始めますか…!」


 仮面に手を当てるサーフェス。


「【百科幻装ひゃっかげんそう】“鈿女うずめ”!」


 そう声を上げると同時に、今度はサーフェスの身体も変化する。

 仮面は、たおやかな乙女のかんばせの面へ。

 シルクハットに燕尾服だった衣装は、ヒラヒラのシースルー風の踊り子服に変化し、その髪も艶やかに伸びる。

 一瞬後、そこには肌も露わな女性の踊り子が立っていた。

 唖然となる泉屋の視線に気付き、ウインクするサーフェス。


「あは♪人形むこうはともかく、踊り子さんには手を触れないようにね☆」


「…ぬかせ、このオカマ野郎」


「あ、ひどーい。今は正真正銘の女よ」


 そんなやり取りをしていると、少女人形は不意に空中へと飛び上がった。

 天井の照明を蹴りながら、ましらの如き身のこなしで二人の頭上を取る。


「解!体!」


 流星の如き速度で落下する人形。

 逆手に持った出刃包丁が凶悪に光る。

 狙いは、どうやら泉屋だ。


「ほらほら、こっち~」


 身を強張らせる泉屋の横で、サーフェスが陽気な声を上げる。

 同時に手足をしなやかにくねらせ、何とも色っぽい仕草で舞い始めた。


「…!」


 すると、泉屋に狙いを定めていた人形が、壁を蹴り、軌道を変えてサーフェスに襲い掛かる。


「あはん♪」


 繰り出される刃を、文字通り舞う様にかわすサーフェス。

 不思議な事に、人形は泉屋の存在を忘れ、執拗にサーフェスを追い回す。


「殺…害…!」


「あらん、残念♪」


 上下、左右と物凄い速度で繰り出される刃だが、サーフェスはほんの僅かの差で逃げていく。

 まるで彼女(?)の舞いに魅惑された様に、人形はサーフェスを追い回した。

 その攻防の最中で、サーフェスが再び泉屋にウインクを寄越す。

 泉屋は我に返った。

 どういう手際なのかは分からないが、サーフェスが意図して時間を稼いでくれている事に気付く。


「異物、異物か…何かあったか」


 懐をまさぐるが、煙草の箱や警察手帳、飲み屋のレシートくらいしか出てこない。


「ああもう!」


 イラついていると、足元に散らばった木片に気付く。

 先程砕け散った、あの人形の展示説明板だった。


「こいつなら!」


 手頃な大きさのものをポケットに突っ込み、サーフェスに向けて、大きく手を振る泉屋。

 サーフェスは、それに頷くと仮面に手を当てた。


「【百科幻装】“火男ひょっとこ”!」


 途端にサーフェスの姿が変化する。

 艶やかな乙女の姿が変わり、小柄で愛嬌のある口の尖った男の面がそこに現れた。


「ヒヒ、少し熱いでやんすよ…!」


 言うや否や、口から大量の炎を吐き出す。

 これにはさすがの人形も、攻め手を止めた。

 あまりの熱量に、泉屋も思わず顔を背ける。


「どこ…だ…?」


 炎にサーフェスの姿を見失った人形が、周囲を見回す。

 その瞬間。


「“清姫きよひめ”!」


 背後をとっていたサーフェスが、姿を現し、再び変身する。

 今度は恐ろしい形相をした人面蛇身の大蛇だ。

 あっという間に七重に巻きつかれ、動きを封じられる少女人形。


「今じゃ!早う!」


「分かってるよ!待ってろ、この一人お化け屋敷め!」


 恨みに満ちた凶悪な面構えでかされ、泉屋は走る速度を上げた。


「…解」


 目の前で、人形がそう呟く。

 人面大蛇…サーフェスは目を剥いた。


「ぬぅ!?こ奴、まだこんな力を…!?」


 サーフェスの蛇身から、肉の裂ける嫌な音が響く。


「…体!」


「ぎええええええええぇッ!!」


 信じがたい事に、少女人形の全ての関節から、無数の刃が飛び出し、サーフェスの身体を切り裂いた。

 堪らず拘束を緩めると、少女人形は全身凶器と化した姿で、元の燕尾服に戻ったサーフェスへと襲い掛かる。

 床に投げ出されたサーフェスは、避ける事も叶わない。


「この野郎、これでも喰らえ!」


 それは、咄嗟の判断だった。

 サーフェスが身体を裂かれていく瞬間、泉屋は通路にあった消火器を掴んでいた。

 そのまま安全弁を引き抜き、人形の顔に向けて中身をぶちまける。


「!?」


 ものがものだけに何ら殺傷効果は無い。

 が、人形は思わぬ横槍に視界を阻まれたようだった。


「サーフェス!」


「!」


 人形が顔を押さえてひるむ隙に、展示説明板の欠片をサーフェスに投げ渡す泉屋。

 それを受け取ると、サーフェスは再び仮面に手を当てた。


「【百科幻装】“頼政よりまさ”…!」


 仮面が凛々しい武者の若者へ変化する。

 同時にその手に弓矢が現れた。

 矢じりに板の欠片を突き刺すと、サーフェスは人形に向けて弓を引き絞る。


「痛覚が無い事を祈るぞ、同胞よ…!」


 そして、矢は放たれた。

 不安定な形状ながら、矢は一直線に飛び、人形の胸を穿つ。


「…が…かカ…か…い…イいィ…」


 徐々に動きを鈍らせる人形。

 やがて、その動きを止めると、人形は硬直したまま床へ倒れた。


「…やった、か…」


 息を切らせる泉屋に、サーフェスはウインクした。

 全身傷だらけで、最初の優雅な雰囲気は台無しだったが、仮面だけはしっかりと素顔を覆い隠している。


お見事グッジョブです、ミスター」


 そう言いながら。

 仮面の怪盗は、親指を立てて微笑んだのだった。


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 開け放したままの窓から、爽やかな風が吹き込んでくる。

 語り終えた泉屋は、疲れたのか、口を閉ざした。


「…で、結局その後はどうなったんです…?」


 泉屋の身体をおもんばかりながらも、権田原ごんだわらはそう聞かずにいられなかった。


「どうもこうも、変わらねぇよ」


「変わらない…?」


 泉屋は皮肉気に笑った。


「人形は奴が持って行っちまった。再教育するんだとか抜かしてたな」


「はぁ…再教育、ですか」


「で、その後は元通りだよ。奴はちょいちょい予告状を出して、俺らが警備に当たる。んで、まんまと盗まれて、逃げられる。たまにいい所まで追い詰めていたから、お陰で俺は奴専用の対策班の元締めになった。ま、出世と言ったら出世なのかもな」


 サーフェスの目的を知ってはいたものの、立場的にはサーフェスと敵対せざるを得ない。

 そんな微妙な関係に、二人はなったのだろう。


「その後、サーフェスはどうなったんです?」


「知らんよ。ある時を境にパッタリ姿を見せなくなった。お陰で奴に手錠ワッパをかけるチャンスも無くなった。くそったれが。どっかで野たれ死んでるならいい気味だ」


 不思議とねたような顔になる泉屋。

 権田原は、ふと笑った。


「一つ聞いてもいいですか?」


「何だ」


「おやっさんは、今でも奴を…怪盗“サーフェス”を捕まえたいんですか?」


 権田原の言葉に、泉屋は頷いた。


「決まってんだろ。俺は警察で、奴は泥棒だ。どうあっても盗みは犯罪。そういうこった」


 正論を述べながら、泉屋は闘志と…何か推し量ることの出来ない感情を浮かべていた。


「でも、そいつももう叶わねぇ…なあ、ゴン。お前、奴がまた現れたら、俺の代わりに捕まえてくれねぇか?」


 権田原は苦笑した。


「おやっさん、それは…」


「無理だよな。何しろ、本人に向かって『自分を逮捕しろ』って言ってるんだからな」


 権田原の台詞をそう遮る泉屋。

 病室に沈黙が落ちる。


「そうだろ、サーフェス?」


 泉屋は権田原を見ていた。

 沈黙の中、そよ風がカーテンを揺らす。

 苦笑を浮かべようとして、権田原は目を閉じ、泉屋の視線を受けた。


「…参りましたね。私の変化も、衰えたということですか」


 権田原の口から、別人そのものの中性的な声が出る。

 額に手を当てると、その姿は一瞬で歪み、シルクハットに燕尾服、マントと白い仮面をつけた怪盗の姿に変わっていた。


「いいや。そんなことは無いと思うぜ」


 ニヤリと笑う泉屋。

 白い仮面の人物…怪盗“サーフェス”は、不思議そうな顔になる。


「では、何故私だと…?」


ゴンには、俺が骨の髄まで刑事の性根を叩き込んである」


 そこで、泉屋は得意げに続けた。


「本物の奴なら、まかり間違っても交通課の仕事なんかに『やり甲斐がある』なんて言わねぇよ」


「これは…私の完敗ですね」


 サーフェスが微笑む。

 再び病室に沈黙が落ちた。


「あいつは…」


「…はい?」


「あの人形は…どうなった?」


 泉屋の問い掛けに、サーフェスは答えた。


「私の隠れ家で、専属のメイドをしてもらっています。会ったら、きっと驚きますよ」


「今の台詞で、十分驚いたぜ」


 そこで、そっと続ける。


「それに…もう会いには行けそうにねぇな」


「…」


「同情でもしてんのか、コソ泥」


 沈黙するサーフェスに、泉屋は続けた。


「勘違いすんな。俺が居なくなるからって安心すんなよ?いま言った通り、権の字には俺の魂を叩き込んである。いつか必ず、テメエを捕まえるぜ?」


 挑発的に笑う泉屋に、サーフェスは眼をしばたたかせた後、ウインクした。


「いいでしょう。そう簡単には捕まりませんよ?何せ…」


 あの日。

 あの時の様に。

 仮面の怪盗は親指を立てて笑った。


「私は、名刑事・泉屋 銀七から逃げおおせた怪盗“サーフェス”ですからね」


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「ね、ねぇ!今の女性ひと、見た?」


「見た見た!すっごい美人だった!プロのモデルかなぁ?」


 病室を確認し、ナースステーションで一礼した後、そんなヒソヒソ声を背後で聞きながら、黒塚くろづか 姫野ひめのは、白い廊下にハイヒールの音を響かせ、目当ての病室を目指した。

 今日、黒塚が遠く降神町から離れたこの病院に来たのは、古い知人の見舞いが目的だった。

 かつて、妖怪が人間社会に再び姿を見せ、紆余曲折を得て市民権を獲得した頃。

 降神町役場に、特別住民ようかい専用の窓口が開かれた事がある。

 そこに着任した黒塚は、とある出来事を切っ掛けに、一人の刑事と出会った。

 妖怪が犯罪に関わる事を懸念し、警察が創立した特別班の主任だったその刑事は、黒塚と会うなり頭を掻きながらこう言った。


「何だ。の方が美人だな」


 黒塚には意味不明な一言だったが、その刑事とは何故かウマが合い、現在も交流を続けていた。

 だが、定年を迎えたその刑事が、病に倒れた事を知り、こうして見舞いに来たのだった。


「黒塚です。失礼します」


 目当ての病室を見つけ、扉をノックする。

 応えは無かったが、気心知れた仲だったので、遠慮なく扉を開けた。


「お加減は如何ですか、泉屋さ…ん…」


 黒塚の声が小さくなる。

 病室の窓が開いていた。

 そこから入る爽やかな風が、カーテンを揺らす。

 その風の中、泉屋は静かに目を閉じていた。


「…寝ているのか?」


 黒塚は思わず微笑んだ。

 いかめしいしわが刻まれた顔が、見た事も無い穏やかな顔になっている。

 この老人にしては、珍しい表情だった。

 ふと、花の香りが黒塚の鼻孔をくすぐる。

 室内に目を巡らせるが、花瓶は無かった。


「む?」


 ふと、黒塚は泉屋の枕元に置かれた物に気付いた。

 それは小さな花束だった。

 可憐な、薄紫の花がひと房、まるで泉屋に寄り添うように置かれていた。

 誰が置いたのだろうか。

 泉屋には家族は居ない筈だ。


「良い香りだ…これは、確か『十五夜草』か」(※シオンの別名)


 記憶を頼りにそう呟きながら、黒塚は目を閉じてその香りを楽しんだ。


(ああ…懐かしい野山の香りがする)


 黒塚は更に記憶を手繰り寄せた。


「そうだ。この花には花言葉があったな。確か…」


 『貴方あなたを忘れない』…と、黒塚が花言葉を口にする。

 それを、風が花の香りと共にを老人の元へと運ぶ。

 穏やかな日差しの中、風が伝えたメッセージを受け取った老人は、尽きないまどろみの中、満足そうな微笑みをいつまでもたたえていた。

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