第9話
アンジュの案内した家は、広い敷地にだだっ広い平屋の屋敷だった。
「ルー先生!居る?」
ノックもせずに玄関を開けると、長い廊下をも通って奥の部屋へとズンズン入って行く。
そこには、沢山の医学書に埋もれてソファに横たわった男が、静かに寝息を立てていた。
ノックをしても聞こえないわけだ。
「ルー先生!起きて!」
「…おや…アンジュ?」
まだ微睡の中のようで、両目を擦って起きる。
長い銀髪と、糸のように細い目が印象的な中年だった。
「あぁ…また勉強中に寝てしまったみたいだねぇ」
のんびりした口調で、のんびりと立ち上がる。
「全く!ちゃんと食べて寝ないと、先生の方が倒れちゃうわよ!」
アンジュは持っていたバスケットをルーの前に突き出す。
お昼のお弁当かと思っていたが、どうやら先生への差し入れだったようだ。
「あぁ、いつもすまないね。ところで今日は…後ろの彼は?」
やっとヴェルトを見止めた。
「彼はヴェルト。今日は彼を診てもらいに来たの」
アンジュのサンドウィッチを頬張りながら、これまでの経緯と記憶喪失らしい事を告げられたルーは場所を診察室に移した。
最初、ヴェルトの頭部を隅々まで髪をかき分けながら観察する。
「頭部には異常なし…外傷的な要因ではないのかな…」
ブツブツと呟きながらカルテに書き込んで行くと、次は問診が始まった。
「名前は?」
「ヴェルト」
「それは本当の名前じゃないだろう?」
「…解らない」
「歳は?」
ヴェルトは首を振った。
ルーは顎の下に片手を当てて、フムと考える。
「ゆっくりでいいんだ。落ち着いて考えて。君はどこから来た?」
穏やかな声音に引き寄せられ、ヴェルトは7日前迄の記憶を遡った。
「…暗い所…小さな穴がある…本も沢山」
身を乗り出して何かを発しようとしたアンジュを、ルーは素早く手で制した。
「そう。そこで君は何をしていたんだい?」
「…本を読んでいた」
「それから?」
「…それだけ…。ずっと本を読んでいただけ」
「ずっとっていつから?」
「…解らない。先生が来なくなってから、ずっと…」
「先生はどんな人?」
「…目が、見えない人だった…。でも、文字と数を教えてくれた」
「先生は君の事をなんて呼んでたんだい?」
「…ルー先生と同じ。君」
「先生の他には誰か居た?」
「…他には誰も来ない。食事と本が届くだけ…」
「誰かが届けてくれたんだね。どんな人?」
「…解らない。…話をした事もないし、顔も知らない」
ルーは少し間を置いて、何かしら考え込んだ。
「じゃあ、リヒトに来るまでの事を聞こうか。君はどうしてその暗い所からリヒトまで来たのかな?」
ヴェルトは牢での出来事を蘇らせた。
「…ナイアードの兵が来て、仮面を外した」
「仮面…どんな?」
「…鉄の仮面。自分では外せない。でも…外してくれて…外に出してくれた」
ヴェルト自身、意識せずに饒舌になっていた。
「外の様子はどうだった?」
「…初めて見た。広い空、森や道……大きな塔があった」
そこまで聞いて、ルーはポンと手を打った。
やっとアンジュを見ると、何だか難しい顔をしている。
「アンジュ。彼は記憶喪失じゃないよ」
「…どういう事?」
「彼が言った通りが事実」
アンジュはまだ得心がいかない。
「つまり、彼には名前が無かった。ずっと牢に閉じ込められてたんだ。鉄仮面を付けられてね。大きな塔とは、多分クラトスの森の先にあるゴルゴーンの塔の事だと思うよ」
クラトスの森はブリゾから20㎞程離れたガラティアの郊外にあり、ゴルゴーンの塔とは、主に国事犯を収容する監獄だった。
牢に入れられていたという事は、ヴェルトは犯罪者なのだろうか。しかし、とてもそのようには見えなかった。
「…ゴルゴーンから…何で…ヴェルトが…」
「あぁ、アンジュ。多分だけど、彼に罪は無いと思うよ」
「…どうして?」
「ウ〜ン。記憶を辿っても解らないくらいの年月って事は、子供の頃からって事だよね。それも物心つく前から。そんな幼子が国事犯っておかしいだろう?」
「…確かに…でも!」
「うん。理由は解らない。仮面の件もね」
アステリアでは国事犯は重罪で、どんな大貴族であっても、家族諸共処刑されるのだ。
裁判の僅かな期間、ゴルゴーンに収監させる。
例えば、ヴェルトの親が国事犯だった場合、両親と共に首を跳ねられるのが通例だ。
長い年月、閉じ込められたままというのは聞いたことが無い。
しかしそれよりも、幼い頃から牢に閉じ込められ、仮面を付けさせられた彼の生い立ちを思うと胸が締め付けられた。
「……ヴェルト…」
「そう!彼の名前はヴェルト。歳は解らないけど、まぁ生活に困るわけじゃなし。…けど、アンジュ。この事は秘密にしといた方がいいね」
アンジュは涙で潤んだ瞳を瞬かせた。
「ブリゾの住人は良い人ばかりだけど、噂好きなのが玉に瑕きず。噂ってのは怖いからね。どこでどう変化して、ヴェルトや君達に禍が起こらないとも限らない。まぁ、クロトやヘリオスは大丈夫だと思うけど、その辺で留めておいた方がいいよ」
「…解った!ヴェルトはこのまま、記憶喪失って事にしとく」
ルーは細い目を更に細めて頷いた。
「ヴェルトもそれで通してよ!」
「…いいのか?」
「何が?」
「…俺がこのまま…リヒトに居ても」
アンジュは腕組みして胸を張った。
「何言ってんの!そんなの当たり前じゃない!理由は解らないけど、ヴェルトは何も悪くないんでしょ?」
「…………」
悪いか悪くないかと問われても答えられない。
何が自分の境遇をそうさせたのかは、結局解らないままだ。
「うん。僕も君が犯罪者だとはとても思えないよ」
「ほら!先生が言うなら何も問題なし!この話はこれで終わり!」
強引に話を切ったのは、アンジュの優しさ故であったが、ヴェルトはどことなく気持ちが落ち着かなかった。
「…何か、気になるのかな?」
「……俺は……何で」
「牢に入っていたか?」
頷くと、ルーは少し考えてから静かに問うた。
「その理由を知りたいのかい?」
「…知りたい」
「本当に?それがどんな残酷な真実だったとしても?」
ヴェルトはルーの瞳を見つめて、しっかりと首を縦に振った。
「…そう…まぁ、確証はできないけど、少し調べてみるよ」
こうして、理由の調査はルーに任せて、診療所を後にするのだった
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