第7話
店は10時に開店する。
今日も皿洗いかと思ったら、アンジュから接客を教えられた。
「いい?先ずは料理を運ぶんだけど、運ぶ先は伝票に書いてあるから、席の番号を覚える事。後はニッコリ笑って[お待たせしました]って配膳すれば良いからね」
言い終わってアンジュは腕組みをする。
「ヴェルト、笑って」
「…笑う…」
師が居た頃は、褒められる度に笑みを浮かべた事はあったが、長い間表情を動かす事をしてこなかったヴェルトにとって、笑顔を作る事は至難の業だった。
心が動いた時に自然に出る表情を作る事が出来なかったのである。
アンジュはヴェルトの頬を摘む。
「こうやって口角をも上げて!」
(細くて柔らかい指だ)
「このままの形で!」
柔らかく冷えた指が離れていく寂しさを感じながら、ヴェルトはアンジュが作った顔を留めようと努力した。
しかし、目が笑ってない。
「……不気味ね……」
「アンジュ…取り敢えず練習させるって事で、今日の所はいいんじゃないか?」
ヘリオスはヴェルトの作った笑顔に引き気味になって作業を止め、クロトも溜息をも吐いた。
「昨日の今日だ。そんな焦って仕事を覚えさすな」
「…しょうがないなぁ。じゃ、基本は皿洗いで手が空いた時に接客って事で」
「…ヴェルトなら笑わなくったって問題無いと思うけど?」
ヘリオスはどこか悔しそうに呟いた。
昼時の忙しさはそれこそ目の回るような勢いだった。
店の前には10m程の行列ができ、リヒトの繁盛ぶりが伺えた。
昨日と同様、店終いの頃にはヴェルトの手がふやけた状態になっている。
丁度その頃、コルタナが店に顔を出した。
「店終いでしょ。4人共今からウチに来てよ!」
突然に来て突然の誘い。4人は呆気にとられる。
「…どういう事?」
「ヴェルトの歓迎会をやるのよ。もうご近所集も来てるから」
「あんた達…勝手に話を進めて…」
「いいじゃねぇか、歓迎会。どうせ何やかんや理由を付けて飲みたいだけなんだからよ」
「父さんもでしょ!」
「まぁまぁ。皆で飲み食いって楽しいじゃない。じゃ、待ってるからね、ヴェルト」
本人の了承を無視して、またウィンクで名指しして去っていく。
「じゃ、今日は賄い要らないね」
ヘリオスは嬉しそうに厨房の片付けに入った。
展開に着いて行けないのはヴェルトのみ。
コルタナの店はリヒトから4軒先で呑み屋を営んでいた。
両開きの扉の中は、7つのテーブルとカウンター席が5つ設けられている。
ヴェルトの噂は今朝の騒ぎで一気に広がり、コルタナの店[アグライア]は貸し切り状態である。
今朝見た顔も並んでいた。
ムサが1つのテーブルに4人を呼ぶ。
「どうせお前ぇの企画だろ?」
案内されるままクロトはムサの隣に座すと、3人はそれに続く。
隣のテーブルにはロランと数人の若者が居た。
コルタナは忙しそうに店内を動き回って酒等を運んでいたが、ヴェルトを見止めると配膳を無視して近寄って来た。
「ヴェルト!いらっしゃい!何飲む?」
するとその後方から文句が飛んだ。
「ちょっとコルタナ。せめて運んでから注文取って頂戴」
おっとりした声の主はコルタナと同じ美しい金髪をお団子に纏めた女だ。
吊り目がちのコルタナとは違い、少し下がった目尻の、淑女を思わせる優雅さを漂わせた女はコルタナの頭をコツンと小突いた。
「ゴメン姉さん。ヴェルト、ちょっと待っててね!」
コルタナが配膳に向かうと、先程の女が丁寧に頭を下げた。
「皆さん、いらっしゃい。ヴェルトさんとは始めましてね。私はコルタナの姉でウェスタというの。宜しくね」
大人っぽい微笑みでムサ達の注文を取っている。
ヴェルトも問われたが、酒類の知識はあっても味が解らない。と、ヘリオスが助け舟を出す。
「先ずはビールっしょ。ウェスタ、あと適当にツマミをお願い」
ニコリと頷いて去って行くウェスタに、[あたしが注文取りたかったのに]とコルタナが文句を言っていた。
ウェスタはそれを無視してカウンターの奥に居る人物に注文を伝える。
ウェスタよりもかなり年上なのは分かるが、イマイチ年齢不詳のこれまた金髪美女が酒やツマミを用意していた。
ここの女主人でウェスタとコルタナの母親である。
ブリゾでは3美人で評判の呑み屋だった。
暫くして酒とツマミがコルタナによって運ばれて来たのは彼女の計算だ。
ツマミは生ハムと数種類のチーズ、ツナと白インゲン豆のサラダに海老のガーリックソテーがテーブルに並べられた。
酒が運ばれて来た所で、ムサが音頭を取る。
「じゃあ、皆!新しくブリゾの仲間になったヴェルトを祝して、乾杯‼」
店中に乾杯の掛け声と、グラスをぶつけ合う音が鳴り響く。
ヴェルトは促されて初めてのビールを口に付ける。
(苦っ‼)
今朝のコーヒーよりも苦かった。もしかしたらこれもミルクや砂糖を入れたりして飲む方法があるんじゃないかと様子を伺うが、どうもその気配はない。
ヘリオスがビールを見つめ続けるヴェルトに気付く。
「ビールは口に合わなかったか?クロトさんからイケる口だって聞いたんだが」
「……ワインなら」
「オイ、コルタナ!赤ワイン1本頼む」
すかさずムサが注文をしてくれた。ロランが隣のから口を挟む。
「ビールが呑めねぇたぁお子様だな」
と、ヴェルトのグラスを奪って、美味しそうに喉を潤した。
「そう言えば、コーヒーもミルクと砂糖を入れてやっと飲めてたね」
アンジュのトドメで、その場は爆笑に包まれた。
酒も入ってか、何でも可笑しいらしい。
ヴェルトには何が可笑しいのかイマイチ理解出来なかったが、大勢に囲まれての宴会に、驚きと共にどこか高揚感もあった。
「楽しんでる?」
アンジュの問いかけに、これが楽しいという感情なのかと認知すると、軽く返事をして頷いた。
「沢山の人の笑い声…賑やかだ。こんなに多い音…初めて」
「初めてだぁ?お前ぇ何処の山奥から来たのよ!」
ロランの台詞は昨日ヘリオスに言われたのと同じだ。
[ちょっとコッチに来いよ]とロラン達のテーブルに誘われる。
若者達はそれぞれ、魚屋だったり青果店だったり服屋と、皆何かしらの商売をしている店の息子達だった。
「俺も混ぜてよ」
ヘリオスが自分の椅子とグラスを持って、ヴェルトの隣に陣取ったのは彼なりの気遣いである。
いつの間にか、女達·若者·中年と席が別れてそれぞれにワイワイと、ヴェルトの歓迎会というのはただの名目と化していた。
ヴェルトの居る独身男達の塊の話題は、自然と色事に移っていった。
お盛んなヘリオスの武勇伝やら彼女の有無、女の落とし方等々。
そうしたうち、誰かがロランをからかい始める。
「お前、いつになったら告白するんだよ」
「……うるせぇ」
「何年越しの片想いだっつうの!」
「だから、うるせぇって!」
「これじゃ、賭けが成立しなくなる」
「人の恋路を賭けんなよ!」
ヴェルトには何の事やら解らない。不思議そうに喧騒を眺めていると、ヘリオスが囁いた。
「ロランの奴、ウェスタに惚れてるんだよ」
ロランとウェスタを交互に見る。
「…何で、言わない?」
ヴェルトの一言に一瞬静まり返った後、大爆笑が起きた。
「そりゃ、ロランが腰抜けだからよ!」
「フラレるのが怖いんだよな!」
「違ぇよ‼俺は…時期を待ってるだけだ…」
「ハハハッ!何の時期だよ。待ってる間に白髪が生えらぁ!」
ヘリオスはもう一言付け加えた。
「男気ある奴なんだけどねぇ…奥手なんだ。もっと気楽にいけば良いのによ」
「ヘリオス!お前は節操が無さ過ぎんだよ!」
「何言ってんだよロラン。人生1度きり、楽しまなくてどうする」
「言ってやるなヘリオス。ロランは想うだけで幸せってぇマゾなんだよ!」
「マゾじゃねぇ!人聞き悪い事言うな!」
恋愛の何たるかは書物から得ていたが、今迄人との関わりが無かったヴェルトには、まだ本当の意味で理解出来なかった。
若者達の大騒ぎは店中に広がっていたが、誰も彼も特に気にする様子はない。
ロランがウェスタに恋をしている事は、実は周知の事実であり本人も知っていた。
が、告白は男からという風習の強いアステリアである。
ウェスタとしても控え目な性格から、どうにも出来ずにいた。
ロランが自分を想っているという事を知らされてから数年が経っていた。
男気に溢れ、仲間達にも慕われる。硬派な事もあって、女性人気は高かった。
遊ぶならヘリオス、結婚するならロランと言った所だろうか。
しかし、初婚の女性の姦通は不謹慎とされているので、ヘリオスが相手にするのはもっぱら商売女か未亡人が主だった。
最も、何処にでも例外はあるが…。
ウェスタもロランを意識はしていたが、コルタナ程積極的にはなれずにいたのである。
そんなこんなで、ヴェルトとブリゾの住人達の顔合わせ兼人間関係のあれやこれやを知る宴会は、それなりに円満に終わった。
翌日から朝の掃除の際、ヴェルトに挨拶する声が増えた。
まるで昔なじみに声をかけるように、気軽な感じがヴェルトを包む。
ブリゾの住人達は皆温かく、義理人情に厚い人物が多かった。
「おぅ、ヴェルト。おはよう」
「おはよう、ロラン」
大あくびをしながら店から出てきたロランに、昨夜の醜態?を気にした様子はない。
ヴェルトも特にその話題に触れることなく、掃除に従事した。
昨日よりも早く終わったので、洗濯の手伝いをする為に裏に回ると、大きなタライでゴシゴシと布を揉んでいるアンジュに近づく。
「掃除が終わったから手伝う」
「ありがとう!じゃあ干してくれる?ちゃ〜んとシワを伸ばしながらね」
絞った衣類を受け取ると、アンジュと手が重なる。
夏の熱気に冷えた手が気持ち良かったので、そのまま手を握った。
「……ヴェルト…?」
「アンジュの手、気持ちいい」
感じたことをそのまま伝えられたアンジュはかなり動揺した。
子供の頃は男の子と手を繋いで歩いたり、今は亡き兄の手を握った事はあったが、年頃になってから異性にやんわりと手を包まれたのは初めてである。
ヴェルトが自然に手を離した後も、大きく骨張った感触は残っていた。
アンジュは思いっきり首を左右に振って照れを吹き飛ばすと、意地で洗濯に集中した。
いくら不慣れなヴェルトでも、2人で作業すればその分早く終わる。
仕込みでも洗い物は出るのでヴェルトはそれも手伝うと、9時には作業を終わらせることが出来た。
「開店前にこんな余裕が出来るとはなぁ」
「ほら!雇って良かったでしょ!」
「ソレ結果論。でも、実際助かるよな」
4人でテーブルに座してコーヒーを囲む。勿論、ヴェルトだけはカフェラテだ。
「時間があるなら…部屋に行っていいか?」
「どうかした?疲れちゃったとか?」
「本を読みたい…。昨日は読めなかった」
「おぅ、行ってこい。開店になったら呼ぶからよ」
クロトがハエでも払うかのような仕草で促すので、飲みかけのカフェラテを持って2階に移動する。
「…本、好きなのかな…」
「みてぇだな…」
3人はソルを思い出していた。
ソルは物静かで読書が好きな、穏やかな性格だった。
優しいばかりで声を荒げた事も無く、争いを嫌う。誰からも好かれた男だった。
ソルの服を着ているせいもあるかもしれないが、顔つきは全然違うのに、漂う雰囲気が似ていたのである。
部屋に戻ったヴェルトは、彼の中では珍しく恋愛小説に手を伸ばしていた。
それは貧しい人形造りの青年と貴族の娘のありがちな物語。
昨夜のロランに刺激されたのか、異性を好きになるその心の動きを知りたかった。
青年の造った人形を気に入った娘、出会いはそこからだった。
読み進めるうちに、互いに思い遣る優しさや会えない時の焦燥、会えた時の歓喜、身分差に苦しむ様が細かに描写されているのが分かる。
最後は駆け落ちをしてハッピーエンドで終わる物語を、そんなに厚い本では無かったが、1時間弱で読み切ってしまった。
丁度、開店の時間である。
ヴェルトは小さく息を吐いて本を閉じると、階下に降りて行った。
いくら読んで知識を溜め込んでも、実感が無かった彼の心を動かす事は無かったようである。
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