第6話
石畳に20cm四方の穴。ベッドは藁をシーツで包んだだけの粗末な物だった。
しかし、今のヴェルトに与えられた部屋には大きな窓にしっかりとした机と椅子。
ベッドには綿のたっぷり入った清潔なマットと上掛けのシーツ。
燭台の点け方を教えてもらった時はいたく感動した。
ソルは読書を趣味としていたらしく、本棚にはビッシリと書籍が並んでいる。
ヴェルトは高揚した。
牢の中では本を読む事しか出来ず、それも陽がある内だけ。
「好きに使って良いからね」
案内したアンジュは[お休みなさい]と声をかけて扉を閉めた。
お休みと言われたが、ヴェルトは燭台を持ち本棚に歩み寄る。
見れば小説の類が多く、ヴェルトの読んだ事の無い物ばかりだった。
というのも、実はヴェルトに与えられていた書物の殆どが外国の物、多くは隣国からの輸入物だったのだ。
それはそれで、庶民の読書家からすればヨダレが出るほど欲しがる高価な物だったのだが、その事実をヴェルトは知らない。
1つの本を手に取る。
少年の冒険を描いていた勇者モノの短編ファンタジーであり、ドラゴンとの戦いには心躍った。
時間も忘れて読み耽ふけり、気が付けば21時の鐘が鳴っていた。
ヴェルトは今は無い後ろ髪を引かれる思いで、燭台の灯りを消してベッドに横になると、いきなり爆睡した。
それも当然である。
今日の今迄、ずっと牢で本を読むだけの生活。
師に教えられ、身体を鍛える事は毎日行なっていたが、歩き尽くした挙げ句の立ちっぱなしでの皿洗い。
初めてだらけの経験に、その身体と精神が悲鳴をあげていた。
その日は夢を見ることも無く、睡魔に吸い込まれて行った。
今は夏である。夜風が気持ち良く、窓を開けたまま寝ていたので、7時の鐘の音で飛び起きた。
眩しい朝日と小鳥の囀りが、牢から出された昨日の出来事が事実である事を認識させた。
それにも5分は要しただろうか。
寝間着から着替えた頃、3回のノックが響いてアンジュの声が聞こえた。
「ヴェルト、起きてる?朝食出来てるんだけど」
ゆっくりと扉を開けると、昨日と同じ目鼻立ちの整った女性が立っていた。
今は肩甲骨まで届く程の長い髪を下ろしている。後ろ髪を纏めた姿は仕事仕様だった。
「おはよう!ヴェルト!良く眠れたみたいね」
「…おはよう、アンジュ」
朝の挨拶がこれ程新鮮に感じる人間はそうは居ないだろう。
階下に降りると、テーブルにはソーセージにオムレツ、パンとコーヒーが人数分用意されていた。
クロトが染み入るような様子でコーヒーを飲むので、ヴェルトも琥珀色の飲み物を一口含む。途端に咽むせた。
(何だ!この苦い飲み物は!)
アンジュも平気で、というより至福の表情で飲んでいるので、もう一度口に入れるが苦くてとても飲めた物ではなかった。
ヴェルトの渋い表情を物珍し気に見たアンジュが、ミルクと砂糖を入れてまた勧めた。
訝しながら恐る恐る口を付けると、まろやかな甘さと芳ばしさが広がる。
この変化に驚いたヴェルトを2人は可笑しそうに見つめて、[お子様め]等と言っていた。
昨日よりは明らかにヴェルトの表情は豊かになりつつあった。
ゆったりとした朝食の後、クロトは仕込みに入り、ヴェルトとアンジュは掃除と洗濯である。
「じゃあ、ヴェルトは店内と店前の掃除ね」
まず店内を掃いてテーブルを拭き、次は店前の道を掃くのであるが、ほうきを渡されても使い方が解らない。
アンジュはそれに素早く気付いてくれて、丁寧に指導してくれたおかげで、辿々しくはあったが店内を終わらせる事が出来た。
店前を掃いていると、多くの視線を感じる。
いつも店前の掃除はアンジュの仕事で、隣近所では元気な挨拶が交わされていた。
この界隈はブリゾと呼ばれる商業地区で多くの店が軒を連ねているので、道を掃除する姿がチラホラある。
食事処[リヒト]は近所にも観光客にも評判の店だった。
そのリヒトの前を長身の若い男が掃いている。
と、隣から出できた白髪混じりの大柄の男がヴェルトを見止めてから店に入って行くと、仕込み中のクロトに声をかけた。
「アンジュはどうした!この男は?」
「アンジュなら裏だ。ソイツは昨日から雇ったヴェルトだ。宜しくしてやってくれ」
男はクロトとヴェルトを交互に観る。
「へぇ〜、えらく男前を雇ったもんだな。お前さん、ヴェルトってぇのかい。俺は隣で鍛冶屋をやってるムサってんだ。宜しくな」
ムサはニカッと笑って右手を差し出した。
昨日のやり取りで、握手の何たるかを教えてもらっていたヴェルトは、差し出された右手を握り返す。
「で、何処の出だい?」
「……」
答えられずにいると、クロトが店内から大声を上げた。
「そいつぁ記憶が無いんだとよ!」
「何⁉記憶喪失か!そいつぁ難儀なこった。…歳は?」
「そいつも解らねぇ!」
ムサは気の毒そうにヴェルトを見ると、自分の店に向かって大声を張り上げた。
「おいロラン‼降りて来い‼」
何事が起こったのか理解出来ないヴェルトは、それでも掃除の手を休めることが無かった。
「何だよ親父!朝からでっけぇ声出しやがって!」
ロランと呼ばれた青年は、赤い髪の頭をボリボリ掻きながら出てきた。
大きな瞳が童顔を思わせたが、背格好はヴェルトに引けを取らないどころか、腕まくりした袖からは逞しい腕が覗いている。
「ヴェルト、コイツぁロランっていって俺の息子だ。歳は19、アンジュの幼馴染みってやつだ。おいロラン!コイツ記憶が無いんだとよ。歳も近そうだし、世話焼いてやれや」
「はぁ?いきなり呼び出して訳分かんねぇよ!」
表の喧騒にわらわらと近所の住人が集まって来た。
ヴェルトを囲んで何やかやと言っている。
「まぁ、記憶が…可哀想に」
「あたしで良ければ力になるよ」
「あの先生に診て貰えばいいんじゃないか?」
「あぁ、ルー先生なら間違いねぇ」
等々、リヒトの前は人だかりが出来てしまった。
ヴェルトはどうしたら良いのか解らずに佇んでいると、裏からアンジュが出て来る。
「何の騒ぎなの?コレ」
「おぅアンジュ。おはよう!」
「ロラン…おはよう…この騒ぎは何?」
「親父がでっけぇ声で騒ぐから、近所中が集まっちまった」
というロランの声もかなり大きかったのだが。
「記憶喪失の男を雇ったって?またお節介か」
「……否定はしないけど…まぁ、コレで近所への紹介が一気に済んだから結果オーライ?」
ロランは後頭部に両手の指を組んで騒動を眺めていると、後方からのんびりした声がかかる。
「おうおう、えらい人気者になってるなぁ」
「あ、ヘリオス。おはよう」
ヘリオスは懐に手を入れて腹をボリボリと掻きながら近づくと、ご近所集を掻き分けた。
「ハイハイ、ゴメンよ。皆自分の仕事しろや。ヴェルトなら暫くリヒトに居るんだからよ」
と、店内に入って行くとクロトの仕込みを手伝い始めた。
ヘリオスに追い払われた人々はそれぞれに話をしながら自らの店や家に戻って行った。
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