第5話

風呂とトイレは離れにあり、ヴェルトは初めに通されたダイニングに脚を運んだ。

彼が店に訪れたのは昼前で、現在は丁度昼時の一番店が忙しない時間帯であった。

客の喧騒と、キッチンにはクロトとヘリオス。

アンジュの姿は見えないが、元気な声が注文を謳っている。

ヴェルトは静かにその様子を見ていたが、内心はかなり高揚していた。

どうも、感情を表情に出すのが苦手というか、長い間鉄仮面を装着していたせいで表情筋が鈍っているようだった。

師と多くの書物のおかげで知識だけはあったが、知ってる事と実際に眼にする事の差は余りに大きい。


慌ただしさから一段落したアンジュとクロトがヴェルトを見た時の驚愕を、ヘリオスは面白そうに眺めていた。

瞳の輝きから老人で無い事は解っていたが、目の前の男は、通った鼻筋と形の良い唇。吊り目がちの大きな瞳、少し頬は痩けているが端正な顔立ちをしていた。

ヘリオスによって刈り上げた短髪もまた似合っている。

アンジュは口を開けたまま、20歳前後に見えるヴェルトを上から下まで凝視していた。


「コイツぁ驚いた…こんなに男前だとはなぁ…」


クロトは二の句が告げない。


「でしょ?俺も驚きましたよ。まさかこんなに若いとはね」

「…歳は…解らんか?」


ヴェルトは頷く。長い牢獄生活は年月を数える気力を失わせていた。


「と、取り敢えず…溜まってる洗いモンでも片付けて貰おうか」


クロトがエプロンを手渡す。3人と同じ、腰から下を巻く仕様のそれを一通り眺めて見様見真似で身に着けるが、ちょうちょ結びが出来ない。

アンジュの指導で漸く店の手伝いに入ることが出来た。

昼は過ぎたが、客はチラホラ現れる。

ヴェルトは黙って初めは拙い手つきだった皿洗いも段々と手慣れた様子になっていく。

ヴェルトにとっては何もかもが新鮮だった。

洗剤を泡立て、綺麗になっていく食器類に気持ち良ささえ感じ、特に水に洗い流される様が最高だった。

その時、勢い良くアンジュとは別の女の声が店に入ってきた。


「アンジュ、今日のランチ頂戴」

「コルタナ。今日はやけに遅いじゃない」


コルタナと呼ばれた金髪をポニーテールにした女は、常連らしく店の奥に歩を進める。


「ちょっと買い出しに手間取っ……キャ〜‼」

突然の悲鳴を上げるコルタナは一気に店中の視線を集めた。


「ビックリした…いきなり大声上げないでよ」

「……ア、アンジュ…。誰よその男前…」

「…あ、あぁ…今日から働いてもらう事になったヴェルトっていうの」


コルタナは厨房越しのカウンターにズンズン迫り、ヴェルトを凝視する。


「こんな男前、何処で見つけたの?」

「…店前で…拾った的な?」

「拾ったって、こんな美形おいそれと落ちてないでしょ!」


コルタナは刹那、満面の笑みを作る。


「あたしコルタナ。アンジュとは幼馴染みで、ここの4軒先で酒屋の看板娘やってるの」

「…自分で看板娘とか言っちゃう?」


彼女はアンジュのツッコミを無視してヴェルトに握手を求めた。

が、ヴェルトはコルタナの行動が何たるかを知らなかった。

[握手]という単語が挨拶のための儀式である事は知っていたが、彼女が求めたものが何を示しているのか解らない。


「俺…ヴェルト」


と言ったきり、目さえも反らして黙々と皿洗いを進めた。


「………」


右手を宙に浮かせたまま呆然とするコルタナにアンジュが助け舟を出す。


「あ、あのね、ヴェルトは記憶が無いらしいの…だから」


しかし、別段それを気にした様子もないコルタナは更にテンションを上げた。


「記憶喪失!…謎の男…カッコイイわ!」


うっとりとヴェルトを見つめるコルタナにヘリオスが声をかける。


「コルタナ!ランチ上がったぞ。自分で持ってけ」

「何よ、サービス悪いわね」

「何言ってんだ。お前に出すサービスなんてねぇよ」

「スケベのくせに!この前、また違う女と歩いてたでしょ!」


見られてたのか、と舌打ちするヘリオスはこの界隈でも有名なタラシ男であったのたが、当のコルタナも惚れっぽい性格だった。

カウンターに座してヴェルトを見つめながらランチをかき込む。


「さてと、ご馳走さま。店の準備しなくちゃ。また来るね、ヴェルト」


と名指しで店を去って行く。ウィンク付きで。


(嵐の様なとはこういう事を言うのだろうか?)


ヴェルトに驚きはあったが、その表情に変化は無かった。


街には朝は7時から21時迄、3時間毎に鐘が鳴り響く。

この鐘の音はヴェルトの居た塔には聴こえなかった。

18時の鐘で今日の営業は終わりである。

多少の休憩は挟んだものの、ずっと皿洗いをしていたヴェルトの手はすっかりふやけてしまっていた。

アンジュが暖簾のれんを片付けに行き、ヘリオスは4人分の賄いを作り始める。

夜の賄いは、残った野菜のフリットと多少のチーズ、麦と魚介をトマトで煮込んだペスカトーレだった。

どれもヴェルトには初めての料理である。

3人の様子を伺いつつ、やはりゆっくりと食べ進めた。

そのどれもにいちいち感動し、ヘリオスの胸を張らせる。


「普通よ」

「アンジュ…その言い方無いだろ。こんなに喜んで食べてるのによ」


というヴェルトの表情はあまり動かないが、[美味しい]を連呼する処をみるとやはり喜んでいるようだった。


「取り敢えず、お前ぇの寝床を作らねぇとな」


クロトは現在物置きとして使っている部屋を多少片付けて使うように提案したが、アンジュは首を振った。


「…ソルの部屋が空いてる…」

「……お前ぇ……良いのか?」


重苦しい雰囲気の中でアンジュが頷くので、ヴェルトの部屋は[ソルの部屋]と決まった。

空気を変えるように、ヘリオスが席を立つ。


「ごっそさん。じゃ、俺帰るわ」

「お疲れ」

「…ヘリオス…何処に帰る?」

「俺はこの近くに実家が有るんだ。小間物屋だが、兄貴が継いでるから俺はコッチに世話になってる。じゃ、また明日な、ヴェルト」


ヘリオスは振り向かずに片手を上げて、軽い調子で裏口から出て行った。

クロトが風呂に入ってる間、ヴェルトは皆の食器の片付けである。と言ってもたった4人分の食器はすぐに片付き、アンジュと入れ替わりで風呂から上がったクロトにワインを勧められた。

1年に3回、何かの記念日だとかで牢にも1杯のワインが施される事があった。

ヴェルトは勧められるまま、クイッと一口、喉を潤した。


「お!イケる口か?」

「…イケる?」

「酒が飲めるって事だ」

「…ワインは、飲んだことがある」


クロトはテーブルに肘を付き、顎に手を当てて考え出した。

知識はそれなりに有るらしい。何せ他の国の言葉も知ってる程だ。しかし、日常生活やら世情となるとてんで無知である。


「…一度、医者に診てもらうか」

「……ソル…誰?」


先程は何とも聴きづらい雰囲気だったが、自分が使う予定の部屋の主が気になっていた。

突然の質問に、クロトはワインを一口含んでひと呼吸置いた。


「俺の息子だ…アンジュの4つ上の兄貴だった…」

「…だった?」


クロトは追加のワインを自分のグラスに注ぐ。


「2年前にな…死んじまったんだよ」


それを今度は一気に流し込む。


「王族の馬車に轢ひかれてな……馬車の前に飛び出した子供を庇ったんだ」

「…王族…」

「王の親戚って奴らしい事までは解ったんだが、名前は知らねぇ……奴は馬車を停めもせずに走り去りやがったってよ」


クロトに勧められて、人生で初の2杯目を受け入れる。


「だから、俺達は王族が嫌いだ。滅んで清々してるぜ」


ヴェルトの読んだ書物の中では、侵略された国は悲惨だった。

物資は略奪されて家は焼かれる。男は殺されて女は陵辱の憂き目に合うのだ。

子供は他国に売られ、厳しい労働や一部の金持ちの愛玩用になったりもする。

しかし、ナイアードではそれを禁じていた。

勢いある国ではあったが、民の反感を買っては統治に問題が生じ、治安も悪くなる。

民に傍若無人な行為を行った者は、見せしめに公開処刑をする程に徹底していた。

なので、絡め取られた国々の国民は、比較的好意を持ってナイアードを受け入れていたのである。


「…ソルの部屋…使って良いのか?」

「……どうせ空いてんだ。…使った方が物も痛まねぇ」


と言いつつ、ソルの部屋は毎日アンジュが手入れしている事をクロトは知っていた。

近所でも評判の仲が良かった兄妹だった。

ソルに彼女ができる度にアンジュはムクれた程だ。

その部屋をアンジュが提供した事には驚いたが、ヴェルトのどことなく物静かな瞳はソルを思い出させた事をクロトも解っていた。

この無表情で不器用な青年の正体を知るのは、まだずっと先の事である。

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