第4話

「これがあたしの父さんのクロト、こっちはヘリオス。あたしはアンジュって言うの。ピチピチの18歳だよ」

「クロト…ヘリオス…」


男は少し間を開けた。


「…天使か」

「は?」


アンジュは素っ頓狂な声を上げた。


「ある国の言葉…アンジュの意味…天使だ」


アンジュは少し照れくさそうだ。


「…それは、アンタの国の言葉なの?」

「…俺はこの国の人間…だと思う…」

「少しは記憶が残ってるのかな?」

「でも、何でカタコト?」


ヘリオスが不思議そうに問うた。


「ずっと…喋ってなかった…」

「どんな山奥に居たんだよ……しかし、名前が無いとな…」

「父さん、何か考えてよ」

「俺かよ‼」


結局の処アンジュに言いなりのクロトが腕組みをして考えてる時、男が不意に口を開いた。


「…ヴェルト…」

「思い出したのか⁉」


男は首を振る。


「天使が世界をくれた…世界の意味…ヴェルト」


天使という単語や言い回しがいちいち照れくさかったが、[ヴェルト]という響きは男に合ってる様な気がした。


「…ヴェルト…良い名前じゃない!決まりね!アンタは今日からヴェルトね!」


男は鷹揚に頷き、僅かな満足感を感じていた。

ヘリオスは空になった皿を回収しながら、ヴェルトの様子に眉をひそめてクロトを見た。


「取り敢えず、風呂に入ってもらったらどうです?裏方するにしても、客商売にこの格好じゃ…」


こうしてヴェルトは初の風呂に入る事になるのだが、勝手が全く解らなかった。

牢に居る時は3日に一度、身体を拭くための湯とタオルが渡されたが、髪の洗い方から湯に浸かる行為、石鹸の使い方等解るはずもない。

ヘリオスに案内された風呂で呆然とするしかなかったのである。


「…何だ?風呂の入り方も忘れちまったのか?」


仕方がないとばかりに、人1人がゆったりと入れる四角い湯船の湯を思いっきり頭に被せる。

初めての経験に目を開けたままのヴェルトは驚いて身を捩よじった。

目は閉じろと怒られ、石鹸を泡立てて先ずは長い髪を洗われた。


「こうしてゴシゴシ頭を掻くんだよ。…汚れが酷くて1回じゃ泡だたねぇな…」


ヘリオスは2回3回と湯を流しながら頭を洗い上げると次の作業に入った。

少し荒目の手ぬぐいに石鹸を馴染ませると、身振り手振りで身体を洗うように指示する。


「耳の裏から足の指までちゃ〜んと洗うんだぞ」


全身綺麗になった所で、今度は散髪と髭剃りだ。

いくら何でも老人のように伸びた長髪や髭は、客商売においてはいただけない。


「任せろ!俺は散髪も得意だ!」


ヘリオスは自信たっぷりに胸を叩くと、早速ハサミを閃かせる。

髭の剃り方も丁寧に教えてやるが、徐々に露あらわになるヴェルトの顔を見ると驚きを隠せなかった。

清潔な身体を湯に浸かって温まるよう伝えるが、その間もヴェルトの顔から目が離せない。

当のヴェルトは初めての湯船にいたく感激していた。

その心地良さに思わず尿意を催したが、これは身体を清潔にする儀式だと認識したヴェルトは必死で堪えた。


「…オシッコ…」

「何⁉湯船でするんじゃねぇぞ!早く出ろ!え〜い仕方ねぇ、そこの排水口でしろ!」


本当はトイレでするもんだぞと、少し怒り気味のヘリオスに促されて用を足すと、流してまた湯船に入れられた。


「身体の疲れが取れる。ゆっくり温まったら身体を拭いて、そこの服に着替えろ」


そう言うと、ヘリオスはヴェルトの着ていた薄汚れてあちこち破れた白い長衣を持って風呂を出ていった。

充分に湯船を堪能したヴェルトは言われた通りに棚の上のタオルで身体を拭い、用意された服に袖を通した。

洗剤の香りが漂い、それにもまた感動する。


アステリア国の城下町はガラティアという。この街は水の都と呼ばれる程水源が豊富であった。

ケルミス川という大川と温泉が出るこの街は、アステリアでも有数の大都市で、王城もある為に観光で栄えていた。

今は既にナイアードに支配されていたが、各地の温泉施設はナイアード人にも大変好評だった。

トイレには溝が掘られ、その溝を水がゆるりと流れて汚物を処理する仕組みである。

各家にも温泉が引かれ、人々の生活は他の国よりも清潔感に溢れていた。

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