第3話
アンジュと呼ばれた女はズンズンと男を店の裏に連れて行くと、1つの部屋に通した。
店兼家屋であったその部屋は、厨房を挟んだダイニングにはテーブルと椅子が4脚置いてあり、その奥は2階に続く階段が見えた。
厨房では先程顔を覗かせた男が小型のナイフを持って野菜を切っており、どうやらこの店の料理人のようだった。
「ヘリオス、悪いけど何か賄いをお願い」
「…ハイよ」
ヘリオスは椅子に腰掛ける酷く汚れた男を一瞥してから何やら作り始めた。
と、2階から中老の男が降りてくる。190cmはあろうかという長身に立派な体躯の厳いかつい顔をした男だった。
「どうかしたか?アンジュ」
「父さん…」
アンジュは殊更気不味い雰囲気を醸し出し、男を小さな背に隠すように立った。
しかし、ヘリオスの一言が父の眉を釣り上げる。
「クロトさん、また嬢ちゃんの悪い癖ですよ」
アンジュの父であるクロトは、店まで響く程の怒号を響かせる。
「またか‼今度は何を拾ってきた!犬か!猫か!」
「男っすよ」
ヘリオスにアンジュはキッと視線を送るが、当の本人は何喰わぬ顔で作業を続けている。
「男だぁ‼」
クロトはアンジュを勢い良く横へ飛ばすと、椅子に腰掛ける男が1人、彼を見上げている。
長い髪をざんばらに垂れ下げ、髭は鳩尾みぞおちまである。
何処かの仙人の様な佇まいに思わず。
「…爺さんか…」
しかし、クロトは男の若々しい瞳の輝きを見逃さなかった。
「…お前ぇ…何モンだ。何処から来た」
「………」
男には答えようが無かった。あそこは何と言ったら良いだろうかと悩む。
「…名前は?」
「……解らない」
デジャヴのような会話が蘇る。
アンジュがヘリオスの作った、麦を細かな野菜と煮た簡単な賄いを男の前に置く。
「…記憶が無いの?」
記憶喪失という単語も知っていたので、男は首を左右に振った。
それを、そうであると捉えたのか、店の3人は互いに目を合わせた。
「…また厄介なモンを拾いやがってからに」
クロトは大きく溜息を吐いた。ヘリオスは肩を竦すくめて、アンジュは顎に手をやり少し考えてから一言。
「早く食べなよ。で、食べたらうちで働くんだよ」
『何⁉』
クロトとヘリオスがシンクロする。
「だって、タダ飯食べさす訳にはいかないじゃない」
それがアンジュのお節介と優しさであったのを2人共解っていた。
記憶を無くし、路頭に迷っている男を放っておけない故の言葉だった事は間違いない。
クロトは頭を抱えて、言い出したら聞かない娘をジロリと睨む。
「お前ぇ、世話好きも大概にしろよ」
「何よ、父さんだっていろんな処でいろんな事に首突っ込んでるでしょ。暫くの間でも迷い人雇ったって、うちは潰れないわよ」
「…諦めましょ…クロトさんの娘なんですから」
ヘリオスの困ったような面白がるような表情に、クロトは大きく舌打ちをした。
「よし!決まりね!」
男に笑みを向けたアンジュはある事に驚いた。
腹を空かせて店の前に佇んでいた割には、男は随分とゆっくり食事をしていた。
「…えらく上品に食べるんだねぇ…」
「?」
(そうなのだろうか)
男にはその意味が理解出来ず、小首を傾かしげながらそれでもそっとスプーンを口に運ぶ。
それが男の食べ方だった。鉄仮面に当たらないように、こぼさないようにそっと。
「…これ、美味しい…。初めて食べた」
「初めてぇ⁉ただの麦と野菜のスープだよ!…よっぽど貧しい所から来たのかな?」
こうして、男は食事処〈リヒト〉で世話になる事になった。
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