Ⅱ:ただそれぞれの日常を終える


 この場所は人工的に作られた場所では無い。必然的に、そうなってしまったのだ。風に揺れる草原も、洗濯物を吊るすロープも、住居となっている学舎も。澄み渡る青も、何処までも広がる蒼も。島のように頭だけ出している丘も、やはり自然現象によってもたらされたモノだった。

 それらの中で。初めから存在していたモノの中で。唯一学舎の中だけが、人工的情緒を感じられる場所。

 そのとある一室で、二人の少女が机を睨んでいた。より正確に言えばその机上。四角い板状のものを、ただ黙って見つめていた。


「……なに、やってるんだ? カフカ、ナズナ」


 椅子に座り、黙考している二人に声を掛けたのは男。金色の髪に耳にはピアス、黒色のスーツを着崩している彼は、どこか近寄り難い雰囲気を出している。見た目と纏う空気から、関わってはいけない人種であることが、目に見えて分かってしまう。

 ただ、少女二人に怯んだ様子はない。寧ろ好意的な視線をもって、カフカと呼ばれた少女は応えた。


「おお、園長先生じゃないですか。見てくださいよこれ。何か分かりますか?」


「オセロだろ。二人用のボードゲームだな。どうしたんだ、そんなもの。まさか自作したってわけでもねえだろ」


「昨日、調査しに行った他の子から、貰った。でも、面白くない」


 一方で、ナズナと呼ばれた少女は不慣れな手つきで、白い駒をひっくり返す。男が覗いてみれば、形成は五分といったところだ。始めたばかりなので仕方の無い事だと言えばそうだが、駒を置く場所よりもいかに数を取れるかを重視しているらしく、単調なゲーム運びになっているようだった。確かに、これでは面白味も何もあったものでは無いだろう。


「オセロだって面白いからな? ただお前らが何も知らないってだけで」


「嘘。ただ白と黒を並べるだけ。そんな遊びが、面白いわけない」


「そうですよー。というか園長先生そんだけ言うんだったらさぞかし得意なんですよねー」


「アホかお前ら。俺はアレだ。物凄く強いからな。俺より強い奴を求めていたからな」


 単純な問題として。ボードゲームというのは知識を得たからと言って必ずしも勝てる物では無い。運や実力、経験が当然絡んでくる。だから必然的に、二人と比べれば男が劣っている道理はない。


「じゃあ、今からやりましょうよー」


「ああ、だがその前にやるべきことはしねえとな」


 わいわいと、訴えるように挑発するように話し掛けてくる少女二人。普段ならば、双方暇ならばその安い売り言葉に乗っかっても良かったが、男の用事はそれではない。


「仕事だ、二人共」


 出来る人間は、仕事とプライベートのスイッチ切り替えが上手い。休む時はきっちりと休み、しかし仕事に支障を来さない。それがプロの人間。人として必要とされる能力でもある。

 仕事、という言葉に呼応して、その場の空気が張りつめたものになった。

 かと言えばそんなことは微塵も無く。


「ええー、オセロしましょうよ。仕事よりも過去の娯楽を追求ですよー」


「そう。私もそれに賛成。きちんと過去と向き合うこと。それが今の私達には、足りない」


「お前らさっき面白くないとか言ってたよな……」


 見事に手のひらを返していた。呆れ溜め息を吐いている最中も、二人は文句を垂れている。

 本当ならば。

 男としても、未だ成長し切っていない彼女らに仕事をさせるのは気が引ける。学舎と呼ばれている場所らしく、学校教育をさせるのが、ここでは正しいのかもしれない。

 もっと自由にさせてやりたい。

 そんな思いが男の胸中を渦巻いている。

 まあそれはそれとして。


「ほらとっとと準備しろ。いつまでも寝間着だと怒られるぞ」


「そんな……、園長先生は私達のことが大事じゃないんですか。私達を自由にさせたいって思ってるんじゃないですかっ?」


「エスパーかよお前は……。まあそれは思ってねえこともねえけど」


「でしょっ。目に入れても痛くない、可愛くて愛らしい娘同然の私達に、園長先生は甘々ですよね」


「お前、自分で言ってて恥ずかしくねえの? ……まあ大方間違ってねえから俺としても反応に困る」


「ですよねっ。じゃあじゃあ」


「まあ俺からすりゃ、だから何、って感じだわ。ほら、あんま時間掛けさせんな。とっとと終わらせりゃあそれでもう済むんだからな」


「えー……」


 不服を連ねた怨み言が雨のように降り掛かるが、男に気にする様子はない。早々に少女二人の首根っこを捕まえて、無理矢理部屋から引きずり出す。


「いやいや、あれですよ? 別に我が儘でこんなことを言っているわけじゃなくてですね。こう、その。心の準備的な何かがですね……」


「そう。意外と現場はシビア。もう少し、ゆっくりと慣らしていった方が、いい」


「……」


「そもそも仕事ってなんでしないといけないんですか。意味が分からないんですけどっ」


「そう。働く意味を、教えて欲しい。それさえあれば、多分喜んで仕事、する」


「……」


「あ、あいたたたたー。とつぜんずつうがいたいー」


「そう。カフカちゃんもこう言ってる。無理な仕事は、他にも影響してしまう」


「……」


「えーっと、というか園長先生も仕事してみてくださいよ。私達の苦労分かりますから」


「そう。園長先生は、まだ本当の恐怖を知らない」


「……」


 頭が痛くなってきた。カフカの言うような、仮病ではなく、歴とした心労から来る鈍痛だ。溜め息を吐くのも億劫になる。


「全くもう、私達実地で働いている他の子は丁重に扱うものですよね。だから中間管理職止まりなんですよ」


「ほんと。だから性格、歪んでる」


「……」


 世の中には言っていい言葉と悪い言葉がある。他者から見れば大したことが無くても、本人からすれば許し難い言葉というものは、往々にして溢れかえっている。人間関係など、その辺りを窺いながら形成されていると言っても過言では無い。

 それを如何にして気付かせるか。そこをどのように分からせるか。

 答えは明瞭。

 男は掴んでいた服の襟首を離し、自分でも分かる最大の笑顔を見せた。


「おいお前ら。働かざる者食うべからずって言葉、知ってるか?」


 それから小一時間、二人は説教を食らった。やれまともな人間形成だの、やれ責任だの。なんとなく意味が分からない事ばかりだったので、その間適当に頷いた記憶しかない。


「もう園長先生は休息の大切さを分かってないんですよねー。如何に私達が正しくて、働くことが馬鹿らしいって、そこんところ分かって無さげですよ」


「でも、園長先生も苦労してるし。あまり疲れさせるのも、嫌」


「そうですね。じゃあ園長先生と私達の休息のために、早く終わらせちゃいましょう」


 青が広がる。何処までも澄み切った、透明感のある色彩。

 二人がいるのは丘の底。自分たちの住む丘を下りた、その先。

 続く青色の中で、二人は朽ちた道を歩いていた。


「ねえ、カフカちゃん」


「なに?」


「この世界、どうなると思う?」


 ひび割れた道を歩きながら、ナズナが尋ねる。道は黒く舗装されており、今やその面影は無いが、元々は綺麗で平らな道路だったことが窺える。

 その割れ目を元気よく飛びながら、カフカは首を横に振る。


「そんなこと、分かるはずないじゃないですか。そもそも私達にとって、この世界が当たり前なんですし。今更これ以上どうなったって変わらない気がするんですけど」


 舗装されていた道は時に左右に分かれ、時に坂道になったりしている。昔の人間はこの通路が当たり前だと感じて、過ごしていたのだと、カフカは思い考えた。


「ここには昔、人がいた。それも、多分私達と変わらない普通の。それが、壊れた。今度は私達も……」


「だ、大丈夫ですよっ。きっと壊れませんっ」


 不安気に足を運ばせるナズナに、カフカは過剰なまでに元気よく返した。

 彼女の言葉に裏付けは無い。確証は無い。根拠なんて微塵も無い。

 だからその勢いは、消極的な思考を吹き飛ばすためのものなのだろう。


「私達の世界は、きっと今のまま何も変わらずに続くと思いますよっ」


「そう、かな。ここみたいに、ボロボロの。バラバラの。全部壊れた世界に、ならないかな」


 巨大な建物がある。そこら中に穴が穿たれ、その形はひび割れ歪んでいる。

 細長い棒。人よりも高いその棒は倒れ、そこに張り付けられている金属製の板は曲がっている。

 四角い鉄製の箱。窓は割れ、前方半分がひしゃげ潰れている。

 横に幅広い建築物。自分たちの住む学舎よりも遥かに大きく、その前には広大な更地が設けられている。正面に時計が掲げられているが、それももう動いていない。

 全てが全て、何もかも、朽ちていた。

 人が作り出したものは、壊れていた。

 自然に恩恵を預かるものは、止まっていた。

 動くでも無く、成長するでも無く。

 その世界は、活動を止めていた。


「私達は、何も知らない。私達は、何も知れない。オセロだって、知らなかった」


「本当ですよね。何を思ってオセロだなんて名前付けたんですかね。というか、前に過ごしてた人達はモノに囲まれてますよねー。多分全部に名前がついてるんでしょうけど……」


 例えばそこに落ちている長方型のプラスチックケース。開け口となっている部分は萎んでおり、その穴から何かを入れていたのだろう。また至る所にそれを大量に保存している大きな箱も見られたが、これの名称も使い道も分からない。

 例えば地面に埋められている円形の金属。初めは穴が開いているのかと思ったがそんなことはなく、寧ろ穴を塞いでいるのだと、理解出来た。ただ何故塞いでいるのか、それの名称も使い道もまた、分からない。

 知ることが出来ないのだ。折角人間が何かを作りだしても、それを壊されてしまえば、結局後には何も残らない。

 それは、恐怖と言えた。

 誰にも知られない。滅びた後に誰かがやってきたとしても、それは誰にも伝えられることは無い。

 そこにあるのは、無だった。

 そこに広がるのは、死だった。


「もしも、こんなことになったらって。私は、ずっと考えてる。きっと、私が生きた証なんて、何一つ残らないけど。それが、意味の無いことだって、分かってるつもり、だけど」


 凹凸が激しい道を、ただ歩く。時折辺りを見回しながら、目的地と言える目的地も無く、二人は歩き続ける。

 それが仕事だからだ。それが、今自分たちに出来る事だからだ。

 少女たちは、あるものを探し歩く。


「そんなに難しく考える必要なんてないと思いますけどねー。ナズナちゃんはそういう癖があるから仕方ないかもしれませんけど。私なんてどうやって仕事サボろうか、常に考えてることってそれぐらいですよ?」


「それは、私もだけど」


 歩けど歩けど探し物は見つからない。景色が変わり映えする分、苦痛ではないが、つまらない。

 隆起した道を慎重に行く。所々に垣間見えるのは破壊の爪痕。天地をひっくり返したかのような破砕が、延々と続く。

 そこで何が起きたのか、少女たちは知らない。気になりはするものの、誰も教えてくれないのだ。かと言って、究明する気にも、またなれない。少女にとってはそれが当たり前。二人にとってはそこが日常だった。

 ただだからこそ、不安を抱く。

 だからこそ、自分たちの世界を気にしてしまう。


「そうですっ。私達も何か持って帰りませんか? オセロとか持って帰ってるじゃないですか。今度は私達も」


「なに、言ってるの。早く仕事終わらせて、休息にあてる。毎回そんな感じで、仕事してる」


「甘いですね。甘いですよナズナちゃん。時代は如何にスタイリッシュに余暇を過ごすかですよ。これまでみたいにただ自堕落にぼんやりと過ごしてたら駄目だってことに、私は気が付いてしまったのです」


 世界の心理に辿り着いたかのように、胸を張り主張する。一方のナズナはと言えば、半分聞き流しながら適当に相槌を打った。

 ただしかし、言わんとしていることはナズナにも理解出来る。つまりもっと有意義に時間を過ごしたいということなのだろう。それに関しては全面同意なので、視線と共に言葉を投げる。


「スタイリッシュに過ごす、のは良いけど。具体的に、何をするの? オセロ?」


「オセロはもう時代遅れですからね。別のにしましょう別のに」


「別の?」


「それをこれから探すんですよー。私達の日々の生活に潤いと活気を取り戻すんです!!」


 意気込んでいるカフカの隣で、ナズナはそっと溜め息を吐いた。

 カフカとナズナは仲が良い。それはどの視点から見ても、その判断を下せるだろう。ただし、それは馬が合うという規模での話。本質的に見れば、彼女カフカとナズナは正反対なのだ。

 自分のしたいことに対しては好奇心旺盛に表立って先行するカフカに対して。基本的にナズナは無気力だった。

 やるべきことに関して、やらなければならないことに関して、とことん億劫に思い、ひたすら面倒臭いと考える。

 だからナズナは頑張りどころを極力少なく、一時的に仕事をさぼりたいと策を講じているカフカとはやはり相対で。そもそもの根本から頑張りたくなかった。


「元から、輝かしい生活なんて、送ってた覚えない。……ほら、カフカちゃん、あそこ」


 目敏く、彼女は発見した。少し離れた場所に浮いている、それを指差す。


「あ、本当ですね。目当てのモノ見つけちゃいましたね。……あれ? 私達の潤いと活気は?」


「あれを見つけたら終わり。ほら、早く帰ろう」


「えー……、そんなあ。私もっと見て回りたいですよー、色々お持ち帰りしたいですー」


「早く、帰るよ」


 半ば強引に、ナズナは腕を引っ張り渋る彼女をそこまで連れて行く。

 仕事の達成条件が目の前にあるのに、わざわざ無視して遊ぼうとするカフカ。それを止めるナズナ。

 彼女二人は同調もするが、それ以上にお互いの暴走を引き留める。

 それが二人の特徴であり関係性だった。

 カフカも、二人共恐らくそれを理解しているのだろう。ナズナに無理矢理連れられ諦めたのか、あっさりとそれの前に立つ。


「まあそうですよね……。よく考えれば探す機会なんてまだあるわけですし、別に今日無理しなくてもですよね。分かりましたっ。本日のこの決意は秘めたる思いとして胸にしまって、今日のところは引き下がります」


「そういうの、いいから。終わらせよう」


 改めて、二人は眼前に浮遊する球体を見る。

 黄色いようで、金色に輝くそれは、時折光をその内側から漏らし、その表層を優しく揺らす。まるで布をはためかせているように、滑らかに波打つ。

 漂っている、わけでもなく。飛んでいる、わけでもなく。

 自己の存在を主張するかのごとく光を放ち、ただそこに留まり続けている。

 暖かい光、だった。寂しい場所にいた。

 カフカがそっと、それに触れる。

 水を掬うような動作だった。


「……帰りましょうか。ナズナちゃん」


「うん」


 停滞を続けるその煌めきを、胸に抱き。そして二人は元来た道を引き返す。

 金色で、揺らめき、光り輝く球体を。

 魂と。少女たちは呼んでいた。




 丘を登り切ると日は落ちかけていた。朱色の世界が宙一面に広がる。


「遅かったじゃねえか。心配したぞ」


 飛び込んできたのは男の声。この丘にある学舎を取り仕切る園長のものだった。

 歩み寄ってくる男に、カフカは喜びに満ちた声音を上げる。


「わあ、本当ですか!? 私達のこと心配でずっと外で待っていてくれてたんですね!! そんなに心配なら仕事させなきゃいいんですよっ。決まりですね、次の仕事は無しということで」


「アホか、アホだなお前。誰がお前らを待ってるって言ったんだ。まあきちんと仕事はして来たみたいだからな、その辺りは流石だ」


「素直に、感謝すればいい」


 そのやり取りの間も、カフカの腕に収まっている魂は輝きを失わない。

 彼らの仕事は魂を回収しそれを良い方向へと導くこと。つまり迷えるそれらの昇天、成仏。それらの類を、彼らは仕事と称していた。

 給与を特定の誰かから与えられていないので、それを仕事、と言ってしまっても良いのかは判断が曖昧な所だ。

 人を幸せにするわけでは無く、既にいない人間を安心させる。慈善事業に他ならないが、それが自分たちに与えられた役目なのだと、そこにいる少女たちは漠然とだが感じていた。


「他の奴らの様子見てくるから、ちょっと待ってろ。どっちみちあいつらは夜にならねえと来ねえからな。ゆっくりしてくれてても良いぞ」


「ゆっくりって言ったってですよ。どれぐらいゆっくりしてて良いんですか? ご飯は? お風呂は? 睡眠はどうですか? そうですっ、いっそのことずっとゆっくりするというのは」


「お前の脳は休むことしか詰まってねえのかよ……。まあその辺適当でいい。寝ても飯でも風呂でも読書でも何でもだ。あとカフカは説教が足りてねえみたいだから終わったら部屋まで来い」


「えー。何でですかー?」


「分からないなら説教二倍だ全く……。それじゃあちょっと行ってくるぞ」


 そう言うと男の姿は屋内へと消えた。

 入り口前で残された少女二人は、唐突に降りかかった暇の潰し方について思案する。

 この丘には娯楽と呼べる娯楽はない。あるものは個々の部屋にある趣味セットぐらい。後は狭い敷地内を走り回るか、隠れ回るかの二択ほどしかないだろう。正直二人でしていても空しくなるものばかりだ。

 本格的に選択肢が、先程男が挙げたものしかなくて、思考が路頭に迷い始める。


「何をして過ごせば……。私の求めるスマートな余暇とは一体……?」


「知らない。さっきからスタイリッシュとか、スマートとか、うるさい。時間、無駄にしたくないなら、何でもいいからしよう。……あ、そうだ」


 ナズナが静かに柏手を打った。何か思いついたのかもしれないと、カフカの表情に元気が戻る。


「な、何か思いつきましたか!?」


「うん、やろう。オセロ」


「―え?」


 たっぷり間を開けて数秒。思考すること数十秒。声に出すまでまた数秒。カフカは泣く泣くその案を受け入れた。

 結果として。

 暇は確かに潰せていた。

 二人は、学舎入り口前で盤上を睨んでいる。

 カフカが持っていた魂は、離せばその場で留まって浮いていてくれるので、心配する必要こそないが、そこから目を離すわけにもいかない。

 よって玄関前。

 仕組みにも慣れたのか、カフカは手早く駒をひっくり返しながら、口をとがらせて言った。


「どうしてこんな面白味にも欠ける遊びをしないといけないんですかー。そりゃやること無かったですけどー」


「カフカちゃん、さっきからそれ、ばっかり。ゲームに集中」


「どうしてナズナちゃんはやる気なんですかね……。今朝私と一緒に馬鹿にしてたはずなのに」


「事情が事情。これはこれで、面白い」


 それからしばらく、交互に駒をひっくり返し続けていると、やがて扉が開いた。


「よう。待たせたな……って、なにやってんだ?」


 扉に手を掛けたまま男は視線を落とし、訝しむようにそう尋ねる。

 カフカは一旦その手を止め、男を一瞥。しかし再び盤上に目を向け自分の手番を進めた。


「無視かよ」


「黙っててください。今とても真剣なんです。仕事なんて手につかないぐらいに、いや本当にですよ?」


「……」


 次にナズナへと視線を移す。一瞬、目を合わせたが、すぐに逸らされてしまい、持っていた黒の駒を盤上に置いた。

 どれほど戦況が拮抗しているのか試しに盤上を見てみれば、真っ黒だった。


「勝つ見込みゼロじゃねえか!! なにが真剣だよ!!」


「な、何言ってるんですかっ。見ていて下さいよ。今からこの戦況をひっくり返してやりますからっ。オセロだけに!!」


「お前の駒申し訳程度に端の方で固まってるだけじゃねえか。最早解放してやれよ、可哀想になってきた。あと次つまんねえこと言ったら飯抜きだからな」


 軽く頭を叩いてから、男は玄関口を抜ける。


「とっとと準備しろ。もうじき夜だ」


 頭を抑えながらカフカは見上げ、盤上を片付けながらナズナは視線だけを後方に向ける。

 既に視線の先は暗く、今にもその濃紺が振ってきそうなほど、闇が近くに姿を現していた。

 朝方、昼間のような明るさはない。あるものはただ宙に佇む円い白球のみ。煌々と周囲を照らすその闇に開いた穴は、均等に少女たちにも光を与える。

 これから始まるのは、その穴を眺める会合でも、お祭り騒ぎでもない。

 これはその日一日を終えるための、儀礼。

 それはこの世界を確認するための、日常。

 男が顔を宙へ向ける。それに倣い、少女たちもまた見上げる。

 世界は暗い。闇に満ち、紫紺に埋もれたその円環以外に、見える物は無かった。

 それがこの世界。

 一昔前には見えていたであろう星が、今では見えなくなっている。

 少女たちは見つめている。

 もちろんカフカも。

 ただカフカは。その何も無い吸い込まれてしまいそうな空間に、僅かな恐怖を抱いた。

 何も無い。

 無。

 昼での探索で言っていた、ナズナの言葉が蘇る。

 壊れた後の世界。

 そんなこと、想像もしていなかった。想像する必要も無かったというのが、正しいのかもしれない。

 その、何も無い空間を見て、自分たちもいずれこうなってしまうのではないかと。漠然とだがそう思ってしまった。


「来たぞ、お前ら」


 闇に、色が付着した。

 それは白。疎らに、それも微細な大きさ。砂粒のような小ささだ。

 そして男の示す言葉の通り、それは向かって来ていた。

 右へ左へと移動しているその謎の点は、気付けば闇へ無数に溶け込んでいた。十や百では数えられない程。それらはやはり同じように左右へフラフラと揺れ、そのまま何処かへと飛び回っていく。


「ほら、お前ら準備しとけ」


 その言葉を受けて、少女たちは持っていたそれから手を離す。

 魂。

 丘の下、既に滅んだ世界を漂っているモノ。

 それらはやはり、手から離れてもただその場に浮かんでいるだけ。逃げも飛んで行きもしない。


「ねえ、ナズナちゃん」


「なに?」


「私達のこの仕事って、役に立ててるんですかね」


 珍しく不安の色を見せながら、カフカが尋ねた。この仕事をして一年経つ。その間、何も思わなかったわけではない。カフカもその元気な一面の内で、色々考えていた。

 ただそれを表には出さなかっただけで。

 ただそれから逃避を続けていただけで。

 この世界に、自分に、疑問を抱かなかったわけではない。

 質問すること自体が、怖かったのかもしれない。

 知ってしまえば、今ある環境が壊れるかもしれないから。もう元には戻れないかもしれないから。

 無意識で、そう結論付けていたのかもしれない。

 そんなカフカの心中を、知ってか知らずか。ナズナはいつも通りの声音で、応える。


「分からない、けど。きっと役に、立ってる。直接、私達に分かるわけじゃ、ないけど」


「そう、ですかね」


 悩み事などは言葉に出せばすっきりする。例え根本的な解決には至らなくても、多少精神的負担は軽くなる。

 ただカフカの胸中には、未だ靄のようなものが掛かり。疑問はその形を崩さないまま、彼女の心に残り続けていた。


「お前ら無駄な話するな。とっとと終わらせるぞ」


 何時の間にか、遠くに見えていた白い点は、その姿を視認出来る距離にまで近づいていた。

 姿を端的に特徴づけるとすれば、魚という他挙げられないだろう。

 魚、という特徴通り、眼窩はそれぞれ離れており、尾ひれ背ひれを動かしている。その様は、それ以外に例えようもない。

 ただその容姿は、少し違う。何処までも魚ではあるが、根本的にそれらは、限りなく生命としての魚では無かった。

 骨、だった。

 存在を構成する肉や内臓、体液全てが空っぽで、骨格だけで成り立っている。

 生命活動を続けられるはずの無い身体で、しかしそれら数匹は少女たちの前へ降り立った。


「……相変わらずいつみてもよく分からないですね」


 それらは何も言わず、何も反応せず。ただ目の前に降りて浮いているだけ。口元をだらしなく開けている様子は、可愛らしくも見えるが、やはり不気味だった。


「そう言うな。ほら、早く食わせてやれ」


 男の指示通り、少女たちは魂を掴みそれらの口元へ持って行く。

 少女たちよりも数十倍の大きさのそれらは、口の大きさもまた規格外。下手をすれば自分たちが食われるのではないかと、幾分怯えながら、目の前に差し出した。

 魚たちの口が開く。目の前に出された餌を、それらは躊躇なく吸い込んだ。

 感覚としては、食べるというよりも飲むに近く、吸い込まれた魂は骨格の中で変わらず浮いている。

 これが一日最後の仕事。見つけた魂を、魚たちに食べさせる。本日はこれにて終了だった。

 少女たちは力んでいた肩を、僅かに緩める。

 誰だって、緊張はするのだ。一年間続けてきた少女たちも、男でさえ身構えていたように見えた。


「園長先生」


「なんだよ」


「あの魂は、何処に行くんでしょうかね」


 餌を食べ終えた魚たちは、それからくるくると丘周辺を回遊し、何事も無く飛び立った。


「……さあな、俺たちの知ったことじゃねえだろ。それは」


 飛び立ち、宙に広がるその光景は。

 夜空に瞬く星々を。光届ける恒星を。知識としてだけ知っているカフカに、そんな情景を連想させた。



 満足していると言えば、それは嘘になる。けれどこれ以上はどうしようもない。現状を変える事が、この上なく恐ろしい。今でこそ成り立っているが、初めてそこを見た時、また失敗したのだろうと思ってしまった。だから、それ以上は求めない。完璧であるままに終わらせる。

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