Ⅲ:白にも黒にも成りきれない


 人々には魂が宿っている。

 そしてそれはモノにも宿っていると言われている。

 森羅万象ありとあらゆるもの、全てに魂と呼ばれるモノを心にしている。

 それが何かは分からない。それは目に見えないとされていたのだから、当然だろう。空想で描かれ、想像で書かれることがあっても、誰一人としてそれを実際に見たという人間はいない。

 ただ誰にも確認されていない魂というモノは、それでも全員に等しく知られていた。在るか無いか、根底としてその論争は起きるものの、その存在について、そういう考え方があることは全員が知っていた。

 ならば仮に魂というモノがあるとして。

 それは何処に向かうのか。

 俗に天国と呼ばれている場所か。

 それともその場で消滅霧散するのか。

 やはりこれもまた誰にも分からない。時代が幾ら進んだところで、それに対する答えは、誰も得ることが出来なかった。

 魂が目に見えて知覚出来る人間は当然発見されていない。発見されたとしても、それもまた誰にも理解されること無く、淘汰されていく。

 人類はそうして発展を続けていった。

 人類はそうして最適化に力を注いだ。

 人類はそうして滅亡を。人類はそうして破滅を。人類はそうして壊滅を。

 知らず知らずに選び歩んでいた。

 そして因果なことに。

 彼らが信じず否定してきた魂に、自らが昇華された。

 そして魂が何処へ向かうのか。

 それらを知覚出来る人間がいても。

 その疑問が解消されることは無かった。




 この世界にも朝というものは訪れる。当然昼も夜も区別をつけることが出来る。

 カフカの日課は、朝の散歩。毎日誰よりも早く起きて、丘を二、三周している。年より臭いと、ナズナに何度言われようが、この早朝特有の涼しさ、爽やかさは好きだった。

 そんな明け方。いつも通りの早朝。

 少女は、少年と出会った。




「で、朝方散歩しているとそいつが倒れてたってわけか」


「そうなんですよー。いやー、参っちゃいますよね。折角人が気持ち良く散歩してるって言うのに」


「そうだな、お前は少し黙ってろ」


 ひ、酷い……と。落胆しているカフカを横目に、園長は目の前にいる存在を睨む。

 通常、他の人間は余程のことが無い限り、この地には足を踏み入れる事が出来ない。それは可能不可能というレベルでは無く、そもそも足を踏み入れる存在がいない、という次元での話だ。よってここに男と少女たち以外に、他者はいない、のだが。


「てめえは、どうやってここへ来た?」


 低く、冷たく、それでいて鋭い声を向ける。

 目の前の存在、目元を髪の毛で隠している少年は怯えたようにカフカの背後へ隠れた。


「ああっ!! またそうやって泣かせようとするんですからっ。もう少し節度というものをですねー」


「頼むから、お前はホントに黙っていてくれねえか……」


 重苦しかった空気が、一気に軽くなってしまった。男は大きく溜め息を吐き、先程とは違う方向で質問を試みる。


「悪かったな、いきなり怖がらせてよ。まずは名前からだな、俺はキザキだ。お前は何て言う名前なんだ?」


 出来るだけ柔らかく、且つ的確に、男は訊きたいことを訊き出そうとする。


「あ……」


「なあ、名前だけでいい、教えてくれねえか?」


「…………えと」


「おい、名前は」


「あ、その………………」


「おい。聞いてんのか?」


「あの…………えと…………」


「てめえ、いい加減にしやがれ!! 人が下手に出てりゃあ良い気になりやがって!! 口も利けねえのか!?」


「……っ!? ―っ!!」


 男の何かが爆ぜた。それは堪忍袋だったかもしれないし、思考回路だったのかもしれないが、いずれにせよ対話は目に見えて失敗していた。

 勢いよく立ち上がり罵声を浴びせた男に対し、少年は先程以上に身を縮こまらせ、カフカの服を力一杯に握っている。


「もう……、園長先生は短気なんですからー。すっかり怯えちゃって。可哀想だと思わないんですか?」


「いや、もう面倒臭え……。カフカ、お前が訊いてくれ。こういうの得意そうだしな」


「さっき黙ってろって言ってたのは何処の誰さんでしたっけ。困ったときにだけ利用しようとするのは、あまりにも虫が良い話だと思うんですけどねー」


「ちっ。分かったよ、悪かった。お前を蔑ろにしたのは反省してる。だからちょっとだけ手伝っちゃくれねえか」


「本当ですか? 本当に反省してますか?」


「ああ、してるしてる」


「私のこと好きですか?」


「ああ、好きだ好きだ」


「……愛してますか?」


「愛してる愛してる」


「むう……、さっきから適当に返事してません? まあもういいですけど」


 男は頭を抱え、少年との会話を放棄した。そもそも外見が適していない男に、年端六やそこらの少年の相手をしろというのが土台無理な話だ。それに恐らく性格も合わないのだろう。何事にも即断即決で済ませようとする男と、思案し口を中々開かない少年とでは水と油。

 そういった意味では、ここでカフカに役目を押し付けたのは正しい判断だと言えた。

 カフカは横目で、少年を見る。

 見た目は人間とは変わらない。推測出来る年齢通りの仕草だ。

 未だに警戒しているのだろう、ワンピースの裾をずっと握り、様子を窺っている。

 カフカは一瞬考え、そしてその掴んでいる手を優しく手の平で包んだ。

 裾から手が離れる。


「ごめんなさい、園長あんな人ですけど、根っこの部分は優しいですから。あんまり怖がらないであげて下さい」


 身体を僅かに屈ませ、目線を少年と同じ高さにする。瞳は髪で隠れて見えない。それでも、それだけで少年は安堵したように、力を抜いた。


「私はカフカって言います。あなたの名前、聞かせてもらっても良いですか?」


「…………分からない」


 ようやく開かれた口。耳に届いた声。しかしそこには何も情報は無かった。

 困ったように、カフカは尋ね返す。


「えーっと、分からないんですか? それとも、憶えてない、とか」


 少年は首を縦に振る。どうやら憶えていないようだった。

 カフカは指示を仰ぐように、男を見る。男も男で、困り顔で腕を組んだ。


「何処から来たか、それぐらいは憶えてねえのか? あとどうやってここまで来たかとか」


 適当に訊きたいことを述べてみるが、しかしそれも功を奏さないだろう。現に、カフカがその質問をしても、少年は首を横に振るばかり。会話が出来たと思えば、その中身がほとんど無かった。

 しばらく、質問と中身の無い解答、そのやりとりが続くも、やはり進展はない。


「園長先生ぇー……」


 ついには助けを求める、泣きそうなカフカの顔が向けられた。ただ、男としても解決策を思いついたわけでもない。

 だから男は苦し紛れに、その場しのぎにこう言った。


「カフカお前、しばらくそいつの様子を見てくれねえか。時間を掛けて思い出させてやってくれ。よろしく頼んだぞ」


「へ?」


 男は早口にそう言い残し、足早にその部屋から立ち去って行った。

 カフカはただ呆然とその光景を見つめていただけ。見届けた後、まず少年を一瞥。その後、男が出て行った扉に視線を戻しそして遅まきながら、全てを理解した。


「ちょっと園長先生っ。なんで私なんですかあっ!!」




「ちょっと酷くないですか!? 信じられませんよね? 今度という今度は園長先生のこと、見限りました。あそこまで仕事をしたくないなんて」


 自室に戻ったカフカは、椅子に座り読書をしていたナズナに開口一番愚痴っていた。隣にはもちろん、例の少年がいる。

 結局。

 カフカは男との追い駆けっこの末、少年のお守り役を任せられていた。

 そして、当の少年はと言えば所在無さげに俯いている。時折視線をあちこちに向けている様子だが、瞳が隠れているので、その真意は分からない。


「まあ。適任だと、思ったんだと思う。そのおかげで、探索に行かなくて済むから。こっちの方が、楽じゃない?」


「楽ですけどー。そうなんですけどね……。正直面倒臭いと言いますか、なんと言いますか……」


 栞を本に挟み閉じるナズナに、カフカは幾分疲れた声で返すが、今更何を言ってもどうせ変わらない。


「もうっ。こうなった以上は、ナズナちゃんも協力者ですからね。自分だけが安全地帯にいると思わないで下さいっ」


「分かってる」


 ナズナは椅子から立ち上がり、少年に近寄る。相変わらず、少年の心境は窺い知れない。怯えているようにも見えるが、それは挙動だけでの判断。実のところはどうなのか、それを確かめるためにも、ナズナは俯くその顔を覗きこむ。


「私は、ナズナ。あなたは?」


 尋ねる少女に狼狽したように、少年の身に力が入るが、ゆっくりと首を横に振り対話の意を示した。

 見ず知らずの、それも幼年期とも少年期とも判断付かない人間との対話に必要なのは、何よりも受け入れられること。つまり第一印象で決まる。

 その辺り、男は失敗していたのだが、ナズナはきちんと心得ていた。


「そう……、じゃああなたの名前、決めよう」


「名前……?」


「そう。あなたが生きている、証」


 幾ら世界が変わろうと、社会が滅びようと。名前を付けるという文化は変わらない。特徴付けだと、そう言ってしまわれればそれまでだが、その一つ一つに意義がある。

 名前を付けられるというのは生を得るということであり、それが無いということは死んでいるも同然である。と、少なくともナズナはそう考えていた。


「もう打ち解けたんですか。さすが瞳を隠す者同士ですね……。それにしても名前、ですか。良い案ですけどそれってどうなんですか? 今は忘れてるだけって感じですし、名前思い出したら面倒臭くなりません?」


「思い出すのが、目的でしょ。それならそれで、目標達成良い感じ。それに、呼ぶ時、名前無いと困る」


 下手に名前を付けると愛着が湧く、らしい。そこまで長期化するとも思えないが、このまま何事も無ければここに住み着くという事になるだろう。それならばやはり、名前はあった方が都合が良い。


「そうですっ。名前はカフカ二号にしましょう。私が見つけたんだから私の名前を付けるという方向で」


「新種の生物じゃ、ないんだから。それにカフカちゃん、壊滅的にネーミングセンス無い」


 と、そこで。彷徨っていた少年の視線が一つに定まっていることに気付いた。瞳が隠れているので、分かるはずも無いのだが、そこは勘だった。

 少年が興味を示しているそれを、ナズナは話題に挙げる。


「オセロ、知ってるの?」


「え? う、うん」


 やはり初めに見せるのは動揺。しかし会話不可能というレベルでは無い。そして言葉は手掛かりに繋がる。

 ナズナは慎重に言葉を選ぶ。


「やってみる? オセロ」


「……いいの?」


 不安そうに、そう尋ねてくる。誰の許可を得て、どういった理由で聞いているのか。少年の心中は把握出来ないが、これを契機と出来るのならばそれに越したことは無いだろう。

 ナズナは威圧感を与えないように、笑顔で応えた。


「もちろん。ここにいる、カフカちゃんが相手をするから」


「そうですそうです……って私ですか!?」


 驚愕の様相を呈するカフカだが、ナズナはそれに取り合わない。早速、対戦出来るように盤上を整える。


「ま、まあこんな小さい子相手に負けるはずありませんし。ここは、格の違いというものを見せつけてやりますよ」


「やる気になるのは、良いけど。これは思い出すための実験、だから。それを、忘れないで」


「分かってますよ。私、そこのところ分別つく大人なんでっ」


 大人は子供相手に本気を出さないだろう、という突っ込みを飲み込んで。ナズナは少年を席に着かせる。


「ルール、知ってる?」


 少年は力強く頷いた。どうやら無用な心配だったらしい。

 それを受けたカフカは少し目を泳がせる。


「な、なるほど。相手にとって不足無し、ということですね。それなら加減はしませんよー!!」


 そして今。十代前半の少女と。六、七歳の少年。その戦いが始まった。





「負けましたーっ!!」


 十分後、そこには盤上に顔を突っ伏しているカフカの姿があった。


「まあ、予想。出来てたけど」


 盤面は見事に黒一色。パーフェクトゲームだった。少年はと言えば、素直に喜ぶわけでもなく、本気で悔しがっているカフカの姿を見て戸惑っている。負けてしまった彼女のプライドを傷つけないようにしているのかもしれない。

 ただ、元気だけが取り柄なカフカにはそのような配慮は必要無かったりする。


「うがー、もう一度ですっ。このままじゃ引き下がれません」


「ムキになってる。大丈夫、カフカちゃんは。何回やっても、勝てないと、思う」


「何ですと!? やってみないと分からないじゃないですか!!」


 案の定、勢い良く顔面を持ち上げたカフカが再戦を持ち掛ける。納得出来ないことは放っておけない性質なのだろう。カフカの瞳には闘志が宿っていた。

 こうなると非常に面倒なので、ナズナは半ば強引に机から引き剥がす。


「ちょ、ナズナちゃん? 今から私、決闘するんですけど!?」


「手段と目的を、見失ってる。最早ただ、遊んでるだけ。駄目」


 ウダウダとごね始めるカフカをまたもや放置して、様子を見舞っていた少年へと向き直る。


「強い、ね。オセロ。得意なの?」


「うん。お父さんとやってたんだ」


 口調に未だ警戒の色は残っているが、幾分まともに話せるようにはなった。ナズナはそのことを確認すると、微笑み、また返した。


「そう。好きに使っても、いいから」


「本当に!? やったあっ」


 思い入れがあるのだろう。少年は目に見えて喜び、盤上の駒を片付け、再び並べ始めた。そのまま、再びゲームを始めるつもりなのだろう。チラチラと、少女二人の様子を窺っている。


「……カフカちゃん。もう一回、やる?」


「ふふふ、やっぱり私の出番のようですね。ようし、やってやりますよ!!」


 カフカの反応が過剰気味で、思わずナズナは辟易してしまう。それほどまでに負けたことが悔しかったのだろうか。

 少女は、相変わらず元気一杯で勝負を挑む。


「見ててください。私の超絶テクで震え上がらせてやりますよ」


「そういうの、良いから」


 果たして。

 彼女が再び盤上に額を打ち付けるのは、それから約十分後のことだった。





「それにしても強いですよね、あの子。この私を負かすなんて、ただ者じゃありません」


「カフカちゃんが、弱いだけという、可能性もある」


 一仕事終えたかのように、額の汗を拭うカフカ。それに対するナズナの返答はいつも通りさっぱりとしたものだった。


「いやいや、マジモノですよあの子は。まるで手の平に踊らされているかのようでした」


「多分、比喩表現じゃなくて。その通りなんだと、思う」


 しかし、カフカの言う通り、少年の腕前は見事だった。基本的戦略はもちろん、カフカを誘導さえして全ての駒を自軍の色に染め上げる。一朝一夕で身につくものではないだろう。

 カフカ曰く、マジモノの少年は、彼女との対局が終わった後、一人で黙々と盤と睨めっこをしていた。二人用だとばかり思っていたナズナにとって、今彼がしている行為は理解に欠ける。何もしていないように見えて、ただ時折思い出したように、駒を盤に置く。

 余りにも真剣な表情なので、それが何なのか、訊くに聞けない状態だった。


「ねえ、カフカちゃん。どう思う?」


 窓際から少年を眺め、ナズナは尋ねる。


「どうって、何がですか?」


「あの子の、こと。普通の人間か、そうじゃないか」


 何も思い出せない少年。名前も何処から来たのかも、どのようにここへ訪れたのかも。一切を覚えていない彼は、けれどオセロについては憶えていた。


「浮浪者、なのかもしれませんけど。今の段階ではなんとも……。運よく生き残った人が、これまた偶然にここに来ることが出来た、なんて。夢物語ですけど、有り得無い話でも、ないと思いますし」


「そう。それで、問題は。あの子が、オセロの記憶だけを、有していること」


 単なる記憶障害なのか。

 それとも。


「それが強く印象に残っていたから、じゃないんですか?」


「名前も、移動手段も、それよりも、大事なこと? あの子の記憶。何処かおかしい」


 少年から目を離さず、その仕草を観察し続けるが、そこから得られるモノは特にない。


「難しく考え過ぎじゃないんですか? きっと路頭に迷った憐れな子なんですよ。私たちが優しくしてあげないと!!」


「……そう、かもしれない」


 日常を生きていて、これは単なるイレギュラーに過ぎない。そこまで重く見るべき事態ではないのかもしれないし、彼は何の変哲も無い少年、それ以上ではないのかもしれない。

 なんにせよ、これに対して決定権を持つのはこの丘を取り仕切る園長だ。下手に、動くことも出来ない。


「まあ、思い出すまで、という指示だから。私たちは、ゆっくりと思い出させる、それだけ」


「そうですっ。難しいことは園長先生に投げればいいですよ!!」


「誰に投げるって?」


 声と共に扉が開き、人影が入り込んできた。姿を全て確認するまでも無く、園長だ。

 それと同時にカフカの顔色が変わる。具体的には青紫。不健康な色そのものへと、変貌する。


「いや、これはあれですよ? 言葉の綾的な?」


「聞くな、俺が知るか。というか、ご褒美貰う代わりにこいつの面倒を最後まで見るって言ったのは、何処のどいつだったっけか?」


「あはは、もちろん冗談に決まってるじゃないですかー。いやですね、園長先生は冗談が通じない」


「汗、大丈夫?」


 呆れたように男はカフカから視線を外す。その先は、件の少年。

 こちらを見たまま、ピクリとも動かない。随分と嫌われてしまっているようだった。


「まあ、何でも良いけどよ。お前らメシだ」


 それから。

 つつがなく食事は終わった。少年の自己紹介や、質問攻めこそあったものの、それもまた何事も無く終えた。

 そして施設の案内。簡単に言えば、これから少年が住む部屋と、水場の案内。これもまた特筆することなく、終了した。

 そうして時間は。あっという間に過ぎ去って。


「わあ……、こうなってるんだ」


 日は次第に傾き始め、平等に差し込む光は、やがて細長く消えていくだろう。

 そんな昼とも夕方とも取れる時間帯。

 カフカとナズナ、そして少年は学舎の外に出ていた。もうすぐ日が暮れるこの時間。眼下に広がるその光景に、少年は息を飲んでいた。

 朱色の灯かりが、丘の下を覆っている。青かったそれは、色を変え、何処までも遠く、橙色に塗り潰される。そして、それは宙も同じ。炎のように燃える緋色が、続いている。

 幻想的であり、哀愁的だった。


「初めて、見たの?」


「うん。記憶、無いから……」


 結局。

 この一日では少年の記憶が戻ることは無かった。唯一分かったことと言えば、オセロが好きなことぐらい。ただそれだけでは、仮説こそ立てられるが、そこに留まってしまう。

 具体的な解決にまでは至らなかった。


「ゆっくり思い出せば良いんですよ。あなたさえよければ、何時までだってここに居ても良いですから」


「うん、ありがとう。カフカ。それと、ナズナも」


 仰々しく、少年は頭を下げる。ここにいても良いと、許可をしたのは園長なので、その感謝の言葉は筋違いだ。けれど少年は重ねて、続ける。


「今日は、楽しかったよ。こんな僕に、優しくしてくれて。今までで一番、楽しかったかもしれない」


 日の光を受けて、その表情に影が差す。しかしその声色で、その音の調子で、彼が喜んでいるという事が伝わってくる。


「そこまで言ってくれると、なんか照れますね。素直に嬉しいです」


「僕は今まで黒の世界だけを見てきた。一つだけあったのはオセロのそれだけ。でも、今日は真っ白な世界だった。本当に、ありがとう」


 それを見たカフカもまた、頬を綻ばせる。面と向かってお礼を言われるというのは、気持ちいいものだ。少なくとも、真っ直ぐに生きている人間にとっては、それが当然。

 けれど、ナズナは。

 その表情を曇らせた。


「今まで、ということは。他の記憶が、あるの?」


 呟くように発せられた言葉でも、音も無いこの世界では嫌でも耳に残る。それは必然的に、少年にも届いていた。


「今日だけにしか、記憶がないのなら。そんな言葉はきっと、出てこないはず。何か、思い出した?」


「……えと」


 空気が硬いそれに変わった。

 もうじき、夜が訪れる。既に宙に穿たれた白円は昇り始めており、後は空間の色を染めるだけ。それが終われば、夜が来る。

 しばらく無言が続いた。


「その……」


 初めに口を開いたのは少年。それと同時に彼の表情が、俄かに強張る。そして放たれた声もまた、調子を落としたモノに変わっていた。


「思い出せたっていうか、元からあった記憶って感じ、かな。それでも、詳しくは憶えてないんだけど」


「どんな記憶?」


 間髪入れず、ナズナが尋ねる。若干戸惑ったように、けれど力強く、少年はそれに応じる。


「何もかも、物も家もぐちゃぐちゃで。他の人なんか誰もいなくて。いても倒れてたりしてて。僕、ずっとお父さんを探してた。綺麗な青色の中で。ずっと歩き回ってた。それから、えっと。上から何かが降ってきて……」


 曖昧で。要領を得ない。目的は父を探していたというただそれだけ。そして、その記憶は恐らく、彼が見た最後の記憶なのかもしれない。オセロを覚えているのというのも、元からあった記憶、そこから引っ張って来ていたのだろう。

 尚も、少年は必死に思い出そうとしている。これ以上黙って待ち続けても、少年を苦しめるだけだ。

 ナズナはお礼を言い、思い出させることを止めさせた。


「ごめんね。辛い思い出、だったのに……」


「ううん。僕も、思い出せなくて……。カフカもナズナも頑張ってくれてるのに」


「そんなことありませんよっ。一番頑張ってるのは君じゃないですか!!」


 カフカの真っ直ぐな言葉に、照れたように笑う。


「じゃあ、私たちは仕事をしますか」


 既に日光は途絶え、闇が宙を覆っていた。今日も魚に魂を喰わせなければならない。

 その準備に向かう為、踵を返したカフカたちの背中に、弱々しい少年の声が掛かった。


「……あの。一つ、ううん。二つだけ」


 歩みを止め、振り返る。少年の瞳が見えない。表情が、読めない。怯えているのかもしれないし、疑問を解消したかっただけなのかもしれない。

 ともかく、声は続く。


「カフカとナズナ。それに他のお姉ちゃんたちは、何者なの? それにここって、どういう……」


 それは、当然と言えば当然。疑問に思うべき点だった。豹変した世界。丘に住む謎の集団。少女たちにとっては、これが当たり前となっている中、しかし少年にとってはそうではないのだろう。声には多分の戸惑いが含まれていた。


「えーっと……、なんて説明すればいいんですかね。私たち自身、自分たちが何者かって、はっきりと分かってるわけじゃないんで……。ナズナちゃん、どうしましょう?」


「別に、カフカちゃんの、言った通り。私たちにも、分からない。ただ、迷っている魂を。供養してるだけ」


「……たましい?」


 小首を傾げ、少年が尋ね返す。現状陥っている世界を知らないのであれば、魂にもまた馴染みが無いのかもしれない。


「魂っていうのはですね。球体の、金色に光る浮遊物なんですけど。それは後で見れますよ」


 疑問符を並べているであろう少年に、カフカは言葉だけで説明する。


「ともかくですね。私たちはその魂ってやつを持って行ってもらってるんですよ。それが、私たちのこの世界での役目、と言いますか。割り振られた仕事って言いますか」


「持って行って……? 誰に?」


「それも言葉で説明するのは……。あ、丁度いいところに!!」


 魚の骨です、と言っても信じてもらえないだろう。困り果てたように天を仰いだカフカは、そこで声を張り上げた。少年もそれにつられ、上を向く。

 骨が、飛んでいた。

 それも一匹二匹ではなく、数えきれない数で。

 宙を泳いでいた。

 唖然と。空いた口を塞がないまま立ち尽くしている少年に、カフカは笑い掛ける。


「これに魂を持って行ってもらうんですよ。どうです? 驚きました?」


 その問いかけにも少年は返すことが出来ない。確認するように辺りを見渡してみれば、他の少女たちもまたそれが当然であるかのように。光る球体をそれらに食わせている。


「これが。私たちの、今いる世界」


 何時の間にか隣に並んでいたナズナが、変わらない口調で呟いた。

 ただ見続け、驚くことしか出来ない少年を気にした様子も無く、ナズナはさらに言葉を紡ぐ。


「あれらの魂は。あれが何とか、してくれる。どうなるのか、何処に行くのかは。分からないけど。……そうそう。ここが、どういう場所か、だね。私も、園長先生に、教えてもらっただけ、だけど」


 謎の個体はやがてその場を離れ、しばらく回遊した後飛び立った。個体は群れを成し、それそのものが大きな塊のようにも見える。

 黒に映える、光り輝く白骨は。

 軌道を描き天に舞った。


「―ここは。世界が、一度滅んだ後。その世界。もう少し、詳しく言えば、逆転した世界」



 迂闊だと言えた。慢心していたと評価されてもおかしくは無い。それほどまでにこの事態は予測されるべき点で、回避出来る問題だった。ただもう遅い。やはりまた失敗だった。ここに来て生じるその手の現象には、もう慣れた。しかし、何も得られないまま悲嘆に暮れるのも馬鹿らしい。要因や起点となった部分が分かれば、改善の余地が生まれるだろう。

 本当に。

 何処からおかしくなってしまったのだろう。


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