人情と視線

 料理の美味しそうな匂いが漂う、ヒッセニア領依頼斡旋所。

 モカは絶え間ない喧騒を耳に、鼻から目一杯の息を吸い込むと、そのまま深呼吸した。かと思うと、両目をカッと見開き、吐き出しがてら一気に言う。

「えぇぇぇぇぇぇぇぇどうすんのどうすんの頼んじゃったじゃんなんなら別注でパンもつけちゃってたよね」

「いや、落ち着いてモカ」

「えっと? えっと? 鹿角兎ジャッカロープのトマト煮込みとパンと林檎酒シードルでいくらだった? あああもうメニュー持ってかれちゃったし値段わかんないわかってもわたしそんなすぐ計算できない」

「あー……俺の言い方が悪かったかな……。モカ? 聞いて?」

「あっ、そっか。これもう食い逃げコースだ」

「いやほんとに落ち着いてモカ。俺が悪かったから」

 達観した顔で無銭飲食を宣言するモカに、ノロが慌てて待ったをかけた。兄として、こんなことで妹の手を犯罪に染めさせるわけにはいかない。

「ここの代金は払えるし、今日の宿代も贅沢ぜいたくしなければなんとかなるんだ。でも、汽空艇きくうていに乗るお金がないんだよ」

「へっ? なぁ~んだ、じゃあ悪いことしなくて済むんだね! わたしたち、まだお日様ひさましたを歩けるんだね!」

「あ、うん、大丈夫。……モカ、本気で食い逃げしようとしてた?」

「まっ、まさか! 冗談だよ冗談! それで、一択しかないっていうのはどういうことなの?」

 ごまかされ、ノロはモカに疑いの眼差まなざしを向けながらも、話を続ける。

「それはもちろん、依頼を受けるんだよ」

「えっ!? 依頼っ!? 依頼を受けるのっ!?」

 ガタンと椅子を鳴らし、モカが立ち上がった。倒れそうになった椅子がギリギリのところで踏みとどまって、倒れずに戻る。

 それを見て、大きな音が出なかったことに胸を撫で下ろしながら、ノロも会話に戻った。

「う、うん。じゃなきゃお金が稼げないからね」

「ほんとぉっ!? ぃやったぁ依頼だ依頼だぁっ! ねね、どんなの受けるのっ?」

「そりゃあ……なるべく報酬がいい案件かなぁ……」

 興奮したモカに気圧けおされるノロ。モカを落ち着かせるため、負けじと咳払いをひとつして、真面目な顔を作った。

「その前によく聞いて? 汽空艇きくうていに乗るお金がないってことは、しばらくこのヒッセニア領に滞在しなくちゃならないでしょ? となると、汽空艇きくうていの搭乗料金だけじゃなく、生活費も稼がなくちゃいけないんだ」

「……はぁ、うん、なるほど?」

 言われて、モカは胸の前で握り拳を構えたまま、きょとんとする。ノロはそれに、軽い危機感を覚えた。

「……え? モカわかってる? 搭乗料金を稼ぎながら、生活費も稼がなきゃってことなんだけど」

「ええ? うん。わかってるけど……そんなに大変なことなの?」

「…………。まぁ、ご飯食べ終わったら依頼を見てみよう。そのときにまた説明するよ」

 そうすれば、モカだって少しは焦ってくれるだろうと、ノロは淡い期待を抱く。もしそれでわからないようであれば、ここの支払いの計算や宿代の精算をさせれば、嫌でもわかってくれるはずだ。

「はーいお待たせ! 鹿角兎ジャッカロープのトマト煮込みとパンと林檎酒シードルね!」

 ちょうどいいタイミングで、あの女店員が料理を運んできた。今度は黒板の代わりに、両手にひとつずつお盆を持っている。

 注文したものは、モカもノロも一緒のメニューだ。それらはひとつのお盆につき一人分のセットになって分けられていて、女店員はそのお盆ごと二人の前に置いた。

「さぁ、冷めないうちに召し上がれ! っと、その前にお会計、しめて千九百アスルね!」

「はいモカ。練習だよ」

 チャンスとばかりに、ノロが財布を取り出してモカに渡す。モカは入領時と同じように四苦八苦しつつ、ノロと答え合わせしながら支払いを済ませた。

「まいどあり! どうぞごゆっくり~!」

「あの、ちょっといいですか?」

 立ち去ろうとする女店員を、ノロが引き留める。

「はいはい? 追加注文かしら?」

「いえ、すみません、ここらでいい宿を知りませんか?」

「あぁなんだ、宿屋の紹介ね。そうねー、予算は?」

「予算は……できるだけ安く」

「ふふっ、わかったわ。それならここを出て……。もしかしてあなたたち、宿屋を探してるってことは、この街には初めて?」

「ええ、今日初めて来ました」

「そう。じゃあ地図を書いたほうが早いわね。待ってて、黒板を持ってくるわ」

 そう言って、女店員はパタパタと小走りで厨房のほうへ。まったくもって、気さくで親切な人柄である。

 彼女が再び黒板を抱えて戻ってきたとき、ノロはついでに教会の位置も訊いた。日没までにはまだ時間があるが、依頼を見たり、宿に都合をつけたり、買い物もしておきたい。やることは山積みなのだ。

 だから人に尋ねたほうが早いことならば、片っ端から手早く処理していかないと、知らないうちに十九時になっていて、フィオナとの待ち合わせに遅れた、なんてことにもなりかねない。

「あら、教会なら、大通りから鐘楼しょうろうが見えなかった?」

「ええ、見えました。でも、路地に入ったら見えなくなってしまって。この街は広いだけじゃなくて、建物も高くて困ってしまいます」

「うふふ、それならしょうがないわね。上ばかり見ていて、転んだりしたら大変だわ」

「助かります。このお礼は、きっとここをつときまでに」

「いいのよ、そんなの。教会に行ったときにでも、このことをレムリア神様しんさまのお耳にちょこっと入れておいてくれれば」

 女店員はいたずらっぽく笑いかけると、黒板に書いてある品書きをよけて、隅の余白に小さな地図を描いた。簡略化されてはいるものの、ご丁寧に目印となるものまで書き込んでくれたおかげで、存外わかりやすかった。

「ごちそうさま! とっっってもおいしかったです!」

 ノロと女店員が話し込んでいるすきに、ペロリと料理をたいらげたモカが言う。トマトソースで口の周りを赤くして、満面の笑みだ。

 女店員は驚いた口もとに手をあてて、ノロは呆気にとられた目を点にして、モカの皿を見た。いずれも綺麗になくなって、皿の底が見えている。

「あら、もう食べたの?」

「はいっ! 我慢できなくてつい!」

「えっ、モカ、いつの間に……」

「いつの間にって、わたしちゃんといただきますって言ったよ? ほらノロ! ノロも早く食べて! 依頼を見に行こ!」

「あはははっ、ほんと、おもしろい子。じゃあ、私はそろそろ仕事に戻るわね」

 そのキラキラとした瞳にかされて、ノロは女店員にお礼を言うと、すっかりぬるくなった料理に手をつけた。

 そんな二人を、柱の影からじっと観察する者がある。

 視線は酔っ払いたちをすり抜けて、モカの横顔をたっぷりと眺めたあと、ノロの背中に移った。そしてしばらく熟視すると、不意に見えたノロの右足に注目する。

「……見つけたぞ」

 もう一度、じろじろと品定めでもするかのように二人を見て、つぶやく。

 微かな声は喧騒にまぎれ、誰の耳にも届かずに、誰にも気付かれないまま、掻き消された。

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