連盟擾乱篇第一章 ヒッセニア領

第一節 入領

恩と恩返し

「ほはぁ~……たっかぁ~……」

 モカが、分厚い日陰で感嘆の声を漏らした。彼女は今、そのまま後ろにひっくり返ってしまいそうなほど身を反らし、目の前の壁を見上げている。

 無論、壁とはヒッセニア領の囲壁のことである。

 山を下る途中、森を抜けた高台の、視界が開けたところから見たヒッセニア領の街並みは、オルタナ領とは比べ物にならないくらい、恐ろしく広大であった。

 だからそれなりの心構えはしていたつもりだったのだが、実際に間近にすると、やはり圧倒される。なにせ、燦々さんさんと降りそそぐ太陽光を遮るこの壁は、まさに巨大な行き止まり。反り立つ壁だ。

 囲壁との距離は約五歩程度。その至近距離から見上げる、高さ五十メートルを誇るヒッセニア領の最外壁は、下からでは壁上にあるであろう歩廊さえ見えない。

 撫でればヒヤリと冷たい石造りのそれは、田舎育ちのモカからすれば、とてもじゃないが人工物だとは到底信じられなかった。

「モカ、首痛くなっちゃうよ?」

 馬車からノロが降りてきて、口をあんぐりと開けたまま、長らく呆けているモカに言う。

 ドルイドから分けてもらったパナケアの効能は凄まじく、あれからまだ二日しか経っていないというのに、まともに歩けなかったノロの足は、すでにやや跛行はこうするくらいまでに回復していた。

「間もなく南城門です。そこからは、貴族と一般、商人受付と、検問窓口が別れておりますので」

 御者台からエイモンが話しかけると、ノロはひとまずモカから目を離し、答える。

「ああ、わかってる。ここまででいいよ。乗せてくれてありがとう」

「いえ、南城門まではお送り致します。せめてものお詫びなのですから。……しかし、道中でお話した通り、ヒッセニア公領は……」

「うん、そうだね。フィオナさんには……どうしようかな。荷物はあらためられるだろうし、やっぱり夜にこっそり入ってきてもらうのが一番かな……」

「ほんっとーに、了見の狭い領主よね、ヒッセニア公爵って」

 自分の名前が聞こえたことで、ノロの外套のフードから、フィオナがぴょこんと顔を出した。一目でわかる不満顔だ。

「公爵ともなればその影響力も伊達じゃない。領内にいる貴族家は当然――恐らく領民たちでさえ、只人サリード至上主義に染まっていると考えるのが妥当だ。気をつけろよ」

 ヘンリーがぶっきらぼうに、フィオナをおもんぱかって言う。

 そしてやっと首の痛みを自覚したモカが再び馬車へ乗り込むと、壁に沿って日陰を進み、一行いっこうはヒッセニア領への入り口である、南城門へと向かった。


「次の者、前へ」

 検問官にふてぶてしく促され、ノロとモカが歩み出た。木造の窓口から、検問官の男にじろりと睨まれる。その両脇に二人、槍を持った番兵が立っている。

「他領からの移住希望、脱領、亡命ならば納税のみ。ロアマならば認識票タグプレートを提示したのち、納税せよ」

 検問官は頬杖をついて言った。きっと、貴族受付ならばこんなにも横柄な態度ではないのだろう。

 ノロとモカの二人は、言われた通り首飾りから認識票タグプレートを抜き出し、検問官に渡した。

 認識票タグプレートには、まずギブンネームが大きく打刻され、続いて小さくファミリーネーム、そして交付地が打ち記されている。

 検問官はそれをじろじろと見ながら、入領審査を開始した。

「モカ・キッサー、ノロ――。なんだ? 男のほうは失姓者か。両名ともオルタ……」

 そこまで言ったところで、検問官の言葉が途切れた。真っ直ぐ前を向いていた番兵が、両側から何事かと検問官を振り返る。

「……これは、貴様らの認識票タグプレートの背景に刷られているこれは、オルタナ伯家の家紋だと思うのだが、いったいどういうことだ?」

 検問官の不審な目に、ノロは「あのタヌキめ」と舌打ちしそうになった。

「滞在していたオルタナ領の非常時に、微力ながら領主様のお役に立てたようで。それで頂戴したものです」

「……なるほど……。ここへは何で来た? 徒歩か?」

「いえ、嘴鴕かくだで。ですがトラブルがあって逃げられてしまったので、途中からは馬車に相席させてもらいました。なので荷物もこの鞄だけです」

「ほう、オルタナ領の方角からすると、ピヒフ山でゴブリンにでも襲われたか? なんにせよ、野垂れ死にだけは避けられたのだから、運がよかったな。あそこは迷う者が多い」

「ええ。こんなにも早くここへたどり着けるとは、思ってもみませんでしたね」

「そうだろう。では指環を。照合と検問録のために拓を取らせてもらう。身体検査と荷物検査は同時に行うから、荷物をこちらに渡したあと、番兵に背を向けて腕を水平に保て」

「はい」

 二人は検問官に従ってその通りにした。オルタナ領とは違って、しっかりと検問が行われる。フィオナと別れて正解だった。

 いくつかの質問に答えながらそれらが済むと、入領まではあと一歩だ。

「では最後に納税だが、現金と現物、どちらで納税する?」

「現金でお願いします」

「わかった。入領税は一人につき三千アスルだ」

「はい」

 本来ならば、ここで三頭のディアトリマを入領税として納める手筈だったのだが、ないものを払うことはできない。

 ノロは惜しい気持ちを抑えつつ、袈裟懸け鞄にある革の小袋からお金を取り出そうとして、やっぱりやめた。

「はい、モカ。俺の分も合わせると? いくらになる?」

「えっ!? えっ……、えー…………。………………六千アスル?」

 モカが指折り計算して答えると、ノロはモカの頭を撫でた。

「正解。じゃあ、六千アスルはどれを何枚払えばいい?」

 そしてモカに財布を渡す。モカは突然始まった算術の実地試験に、目を白黒させた。

「えっ、えっ、えっ、えっ。えーっと、えーっと……」

 モカは汗々と、財布のなかからノロの手のひらに硬貨を一枚二枚と取り出しては、また引っ込めたりする。それに番兵の二人は笑いを堪え、検問官は呆れた様子だった。

「……あってる?」

 やがて計算し終えたモカが涙目で言った。最終的に、ノロの手のひらには一等アシュエル銀貨が一枚、三等アシュエル銀貨が二枚、一等アシュエル銅貨が二枚あった。これでぴったり六千アスルだ。

「うん、これであってるよ。よくできたね、モカ」

 ノロがそう言うと、モカは頬を桃色に染め、屈託のない笑顔を浮かべた。検問官が咳払いをして、「さっさと払え」とせっつく。

「……いいだろう、貴様らの認識票タグプレートと入領税、確かに受け取った。以上で入領検問を終える。これが滞在証ステイプレートだ。ようこそ、ヒッセニ――」

「なんだと!? 貴様! もう一度言ってみろ! 父上への侮辱は許さんぞ!」

 検問官が言い終えるか否かというタイミングだった。遮ったのは、ほんの少し前まで聞いていた、聞き覚えのある声だ。

 番兵たちが素早い反応を見せ、そしてそれにつられてモカたちもそちらに目をやると、やはり間違いなく、怒鳴っていたのはヘンリーだった。

「どうしたのかな?」

「さあ」

 二人が道の反対側にある貴族窓口に注目すると、そこには今にも受付の検問官に掴みかかろうとするヘンリーが、エイモンに押さえられているのが見えた。

 しばらく収まりそうもない様子に、一般窓口の番兵が応援に向かう。と、モカも当たり前のようにそれに続いた。

「あっ、ちょっとモカ、どこ行くの」

「行ってみよーよ。わたしたちも馬車に乗せてもらったんだし、困ったときはお互い様だよ!」

「いやモカ、あれはどう見ても困ってるんじゃなくて、あいつが一方的に――あっ、モカっ?」

 もはや番兵を追い抜かし、たたたっ、と駆けていくモカの背中に、ノロは頭を掻いた。そして振り返り、受付してもらった検問官から「知り合いか?」などと問われるのを笑ってごまかして滞在証ステイプレートを受け取ると、その背中を追いかける。

「取り次げないとはどういうことだ! 直接ヒッセニア卿にお目通りするのは叶わずとも、カーベル子爵家は父上に恩義があるはずだぞ!」

「そう仰られましても……申し訳ございませんが、これはそのカーベル子爵家からのお達しでございます」

「どうしたの?」

「どうしたもこうしたもないっ! あの恩知らずめ! ――って、娘、なんだ? 僕を笑いにでもきたのか?」

「若様、どうかおやめください」

 あまりに滑らかに検問官との会話へ混ざってきたモカに、ヘンリーが食って掛かった。だが、モカはそんなヘンリーの八つ当たりにもムッとすることなく、事情を聴く。

「入れてくれないの?」

 それに、エイモンが答えた。

「入領できないわけではありません。ただ、招待や紹介状がない場合、納税しなければならないのです」

「うん、わたしたちもさっき払ったよ? あっ! そう! わたしが計算して、わたしが払ったの!」

「は、はぁ、それは大変素晴らしいですね」

 少々話が逸れつつも、続く。

「お金払えばいいんじゃないの? 何か物でも大丈夫って言ってたよ?」

「それが、貴族は一般よりも多く払わねばならないのです。ですが生憎、緊急事態だったために支払いに足りるほどのお金を持ち出せておりませんし、残念ながら納税額に見合うほどの物も持ち合わせていないのです。通常、貴族家が他領に赴く場合、招待を受けているものなので……。若様の側付きとしたことが、許されざる失態です」

「そんなもの、あとでいくらでも払ってやると言うのに……カーベル卿の恩知らずめ、一時いっときだけの都合すらつけようとせず、あまつさえ知らん顔をするとは……!」

 ヘンリーの怒りに、エイモンもどうしたものかとうつむいた。

 ここヒッセニア領には、物が溢れている。裕福な貴族も沢山いるし、その要望に応える商人や職人連中も富んでいるのだ。だから、ヘンリーたちの持っている金目の物を手離そうとも、大した額は見込めない。

 むしろ家紋入りの品だということで、売り場に出すにはその手直しをしなければならず、その分の加工費用と手間賃を差し引けば、相場よりも低い取引額となってしまうだろう。

「ふーむ……なるほど……。結局このままだと入れないってことだよね?」

 モカの問いかけに、ヘンリーとエイモンの二人は、バツが悪そうに答える。

「……まあ、そうなるな」

「……お恥ずかしながら」

「わかった! わたしに任せて!」

「え? モカ? 言っておくけど、俺らも貴族の入領税なんて大金、払えないよ?」

 ヘンリーが「はっきり言うな、娘め……」とつぶやくのを掻き消して、モカが大きく胸を張った。今回ばかりは、ノロもモカが何をしようとしているのか読めず、困惑している。

 そんな一同を尻目に、モカはゴソゴソとコルセットベルトの背中側をいじり、そこからベロンと一枚、何かを取り出した。

「はいっ! おじさん! これで二人を通してあげてくださいっ!」

 窓口に勢いよく提出されたそれは、ゴツゴツと硬そうな、漆黒の皮革片だった。

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