第三節 落着

静かな不安

 一夜明け、木漏れ陽が眩しい午後。

 柔和な陽気に誘われたモカは、金髪の小人フェアリーを肩に乗せ、ふらりとそこらの散策へ出た。

 場所はあの巨樹のそびえる落雷跡地から移動し、美しい泉のほとりである。

 森を抜ける道中や満天の星空を見たときにも思ったが、この山には見る者を感動させる景色が多い。

 その中でも、ここはまさに秘境と呼ぶに相応しく、誰もがついつい蹴伸びして、さらに無意識に深呼吸もして、ついでに水浴びまでしてしまいたくなること間違いなしだ。

「……ねー、やっぱりダメー?」

「ダメよ。ノロくんに怒られちゃう」

「どーしてもダメー?」

「……あのね、モカちゃんはコカトリスの毒を甘く見過ぎよ?」

 モカのおねだりも虚しく、肩の友人がピシャリと制する。

 その声は、思うに多分、泉の水温よりも冷ややかな声音だったんじゃなかろうか。

「だって水浴びしたいんだもん……こんなにキレイなら大丈夫だよ……」

 モカは渋々欲求を引っ込めると、ぷうと口を尖らせた。

 確かに、水の透明度はこれでもかというくらいに高い。

 地下の湧水がなみなみと湛えられた水面みなもには、奥の崖から染み出る岩清水が苔むした岩肌をつたってはしたたり、ぴとぴとと静かな波紋を作って透けた影を落としているほどだ。

 それに泉の大きさにしても、直径にして約六メートルくらいだろうか、水浴びするのに充分な広さがあり、集まってくる小鳥の会話が途切れないものの、耳にうるさい音はなく、むしろ清涼感があって心地いい。

 辺りに林立する樹々もそんな泉を見守るように距離を空け、かたわらに近付く草花だけが慎ましげに色を飾って、透ける紺碧の水底みなそこをより趣深くえさせていた。

 陽光を迎える空気でさえ、ひだまりをそこへ集めている気がして、すべてに泉を愛でるような一体感がある。

 これはもう、ロケーションとして申し分ないどころじゃないのだ。だからそれだけに、モカは水浴びがしたくてしょうがなかった。

 オルタナ領を出て四日目、これまでおよそ川とも言い難い、ただのせせらぎと言ったほうがマシなくらいの浅く細い水の通りはあっても、こういった水源地はなかった。だから湿らせた布で身体を拭くばかりで、なんというか爽快感が足りない。

 もしもここで水浴びが出来たなら、あの水で顔だけでも洗えたら、どれだけ気持ちいいことだろう。

 だがそれも、コカトリスとかいう雄鶏おんどり蜥蜴とかげが混ざったみたいな妙ちくりんなやつに先を越されたせいで、浄化が済むまでは岩清水生活だという。まったくふざけた話だ。

 モカは今すぐ服を脱ぎ捨て泉に飛び込みたい衝動をぐっとこらえ、心の中でコカトリスを罵倒するのであった。

「でも、ほんと、連れてきてくれてありがと」

 想像のコカトリスに散々っぱら罵詈雑言を吹っかけた後、気を取り直してモカが言う。

「お礼を言うのはあたしのほうよ、モカちゃん。本当にありがとうね」

 返ってきた友人の声は、今までにないくらいに優しげで、モカの耳をくすぐった。

 モカたちがここへ着いたとき、小さな友人は、ここを「あたしたちの郷」と言った。

 ノロの手当てが済んだころ、銃声や咆哮を聞きつけ集まってきた小人フェアリーたちに連れてきてもらったのだ。

 見れば樹々の枝股えだまたなんかに、小鳥の巣箱みたいな可愛らしい住居があった。

 それらは葉などによって下からは見えにくくなっていて、実際、角度によってはまったく見えないものもある。

 そういったカムフラージュに、モカが「あれってわざと?」と訊くと、友人は肩から「あまり見つかりたくはないのよね」と教えてくれた。見つかりたくないというのは、人だけでなく様々な生き物にだろう。

 首を傾げるモカが、「じゃあ木の中に直接家を作っちゃえばいいのに」と言うと、今度は「そんな家に住むのは、裕福な人か偉い人くらいよ」と笑われた。あのツリーハウスだって、普通の大きさならば充分買い手がつくほどなのだが。

 他の郷では、あるいは幹を掘って木の内部に住むのも一般的らしいが、それには手頃な枝を一本切り落とすところから始めなくてはならず、大変なのだそうだ。

「わたしも住んでみたい!」

 そうモカが鼻息を荒くすると、友人は苦笑いを浮かべて言う。

「本当に大変なのよ、木ってなかなか硬くってね。だからって柔らかいのを選ぶと、せっかく作ったのに倒れちゃうし。木の中に住むって、一苦労なんだから」

 大きなため息をくので、その作り方を聞いてみた。

 友人曰く、まず小人たちが屈んで通れるくらいの太さの枝を切り、樹皮を取り除くのと同時に、そこを出入り口とする。そして剥き出しになった木の内部を腐らせたり、虫に食わせたり、削ったりして掘ってゆき、くりぬいて居住スペースを作るみたいなのだが、小人は金属製のトンカチやノミを使わないため、時間と労力ばかりが掛かるという。

「なんで鉄の大工さん道具使わないの?」

「小人は鉄が苦手って知らない?」

「えっ! そこは本の通りなんだ!」

「多分モカちゃんが読んだ本じゃ、また夢物語が書いてあったんでしょ」

「え? 冷たいから苦手なんだって書いてあった。あとはお馬さんに踏んずけられたりしてるから、玄関扉に蹄鉄を飾っておくと嫌がって近寄ってこないとか」

「あーうん、迷信ね。まったく、あたしらフェアリーをバカにしてんのかしら只人サリードは……そんな間抜けな小人フェアリーなんていないわ」

 友人はそう言い切ってみせたが、その後すぐ「……多分」と自信なさげに付け足して、続ける。

「ほら、あたしたち生体電気で飛んでるって言ったじゃない? だから静電気がすごいのよね、鉄に近付くと」

「あ~、だから……」

 言われて、モカは昨夜のことを思い出した。

 ノロの剣やら、出しっぱなしだった鍋やら、袈裟懸け鞄やら、丸ごと鉄製のものはもちろん、部分的にも金具かなぐがついた荷物を運んでくれようとするたび、あちこちから「いでっ!」とか「ぎゃっ!」とか、小さな悲鳴が聴こえてくるのが気になっていたのだ。今更ながら、あれはそういうことだったのか、と得心がいった。

「悪いことしちゃったね。今は平気?」

 モカが気遣うと、友人は少しぼうっとしていたらしく、取り繕ったような笑顔を向けて、あわあわと両手を振る。

「へっ、平気よ平気! 一晩どころか、こんな時間まで寝てたんだもの、もうどうってことないわ」

 そんな友人に、モカはちょっぴり悲しい顔をしながら、「そう? よかった」と笑ってみせた。

 きっと、このような穏やかで綺麗な場所では、そうするのが一番なんだと思うのだ。

――でもね、わたしは、せっかくできた友達が出会ってすぐに、それも目の前でいなくなっちゃうなんて、ほんとに嫌だったんだよ?

 モカは泉を眺めながら、心の中だけで友人を叱った。そよ風が水面を撫でて、自分まで慰めているようだと思った。

 こんな光景を見ていると、ふと、「あの死闘は夢だったのでは」なんて考えが過るのだが、それを否定する証拠と結果が二つ、ここにまざまざと存在している。

「よーし、いくぞー! せーのっ!」

 大勢の、男性小人たちの声がした。

 彼らはジャバウォックの死骸を樹々の合間に横たわらせ、ギロチンの要領で、首めがけて楔形の岩を落としている。

 どうやら頭と胴とを切り離そうとしているようなのだが、なかなか上手くいかないらしい。

 しばしその様子を見学してみると、小人に似合わぬ野太い声で「落下点を修正するぞー!」なんて言いながら頑張っている。

 エイモンの説明によれば、ジャバウォックは重たい頭部を支えるために、第二頸椎から第四頸椎までの間が薄く軽い鱗で覆われているのだと言っていた。これを軟鱗と言うらしい。曰く、「弱点は生態と共にあり」とのことだ。

「ノロ、よくわかったよね。見た目全然変わらないのに」

 せっせと働く小人たちに目を細め、モカが笑った。肩の友人も「確かに。あんなに暗かったのにね」と釣られて笑う。

 当人は「剣の切っ先で撫でてみればわかる」とか言っていたが、つくづく無茶なことをしてくれたものだ。

 それも自分の我儘のために、よくて片足、最悪命を懸けるだなんて言う無茶を。

「こちらにいらっしゃいましたか。やっと、只人の皆さんでも落ち着ける場所をこしらえましたんで、どうぞこちらへ。ドルイド様がお呼びです」

 モカが人知れず、きゅっと握りこぶしを作っていると、青年と思しき小人が飛んできた。友人の郷を見て回るツアーは、どうやらここまでのようだ。

 モカは翅のない友人を気遣いながら、ゆっくりと歩き出す。

 彼女の胸囲にはサラシが如く、ぐるりと包帯が巻かれているのだ。

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