新たな矜持

――恐ろしいものを見た。

 安らかな顔で寝息を立てる少年を遠巻きに見下ろし、ヘンリーは思う。

 脳裏に焼き付いているのは、殺意剥き出しの只人にんげんと、経験のない痛みに半狂乱になった竜類ドラゴン

 数分前まで死闘を演じていた両者は今、竜類ドラゴンが息絶えるといった形で沈黙している。

 このような幕切れは、ヘンリーにとって、にわかには信じ難い結末であった。

 見渡せば、辺りにはまるで雨上がりに出来た水溜りのように、おびただしい量の血痕が残っている。

 それらはまぎれもなく人体が保有する量を越えており、戦闘の結果からしてもどちらから流れ出たものなのかは一目瞭然で、屍となって佇むジャバウォックのそれだと断言できた。

 自分といくつも変わらない少年がこれを成し遂げたのだ。その衝撃たるや、いまだ十代なかばほどまでしか生きていない人生にせよ、生涯で体験したことのないくらいだった。

 なにしろ自滅を誘ったとはいえ、あの恐怖の権化に勝利してみせたのだから。

 だが、そんな勝者のほうも無傷ではない。

 今はとりあえずまたがっていたジャバウォックの首から降ろされ、少女と小人による懸命な応急処置が行われているところだ。

――はなから右足はくれてやるつもりだったのか……。

 ヘンリーは横たわる少年の右足に注目する。

 ジャバウォックに噛み千切られたかと思われた彼の右足は、ぐるぐるに巻き付けられたつると、その蔓で太腿の前後をはさむようにして縛り付けられた二本のさやに守られ、運よく失われてはいなかった。

 噛みつかれたときに聴こえてきた硬い音は、どうやらこれのせいだったらしい。特に裏腿うらももに添えられた鞘には短剣が収まったままになっていたので、ジャバウォックの門歯が皮膚に食い込むのをギリギリで阻止していた。

 すなわち彼は、最初から右足を犠牲にするつもりで臨んでいたということになる。捨て身の攻撃だ。竜類ドラゴンを相手に足を餌にして戦うなど、英雄譚にもならない。常軌を逸している。

 確かに彼には戦闘前にもそういうふしがあったが、それでも、腕ならまだしも足を捨てるだなんて、自ら逃亡手段を断つのと同義。どうぞ食ってくれと言わんばかりの行動である。

 うまくいくかもわからない決死な賭けを、少年は運に任せてやってのけたのだ。

 しかしながら、やはりあの大顎おおあご咬合力こうごうりょくすさまじかったようで、彼の苦し紛れの工夫も強烈な圧迫をしのぎきることができず、ひしゃげた鞘が太腿を切って、じんわりと出血していた。滲み出る血液に布地の吸収力が負け、ズボンをてらてらと濡らしている。

 なんとか脚部の欠損こそ免れたものの、患部が不気味に腫れあがっているところを見ると、きっと骨も無事ではないのだろう。

「……エイモン、彼と僕との違いはなんだ」

 ヘンリーは手当に尽力する二人の背を虚ろな目で眺めながら、同じものを見ているであろう信頼する従者に問いかけた。

 幼い頃から自分の教育係として、親よりも顔を合わせてきた人物に答えを求める。

「…………」

 だが、無情にも返答はなく、エイモンは閉口したままだった。

 その態度を、主人への反抗だなんて糾弾するつもりは毛頭ない。

 でも、答えてほしかった。さもなくば、ノロに対して湧いてくる仄暗い感情に、押しやられてしまいそうだった。それをとても怖く感じる。

 ヘンリーがこれまで培ってきた、民の上に立つ存在になるため、後ろめたいことのないよう清廉潔白に生きてきたというささやかな矜持は、もはや消え失せた。

 自分とてディアトリマを盗んで逃げようとした口なのだ。そうやって胸を張れる日は、もう金輪際来ないだろう。

「……彼は自分を賭けてもヤツを倒した。僕は腰を抜かして逃げた。彼はその場にとどまって二人を守りぬいた。僕は領民を置いて逃げてきた」

「……若様」

 忸怩じくじたる物言いをするヘンリーに、エイモンが口を挟もうとした。が、ヘンリーは「わかっている」とそれさえ手で制し、続ける。

「父上は言った。いくさこそ男の生き甲斐であり、戦場いくさばこそ男の生き場所だと。では、いったいこの僕は……なんだ?」

 そう言って一旦、口を真一文字に結んだ。

 交流こそあまりないが、ヘンリーは父親を尊敬している。

 ヘンリーの父は日々領地の拡大を公言し、三メートルの囲壁を築いた数年後には、更にその外側にまた新たな五メートルの壁を築き上げる、有言実行の偉大な領主だ。

 それに比べて自分はどうだろうかと、ヘンリーはこれまでの自分を振り返る。

「僕は生まれてこの方、何も実現できていないのだな」

 思わず、たどるには短すぎる軌跡だと自嘲してしまった。

 だがこうなって、ようやく気づいたことがある。

 それは、父親が作り上げてきた領地を、実績を引き継げると、何の疑いもなく思っていたこと。それともう一つ、いくらウェスクス伯が長子と言えど、誇り高くいようと、あの少年にはできて、自分にはできないことがあるということ。

 今回の遭遇戦に限っては、からくも、そして奇跡的にも人側の勝利で決着したが、ジャバウォックに挑んで早々に戦意喪失した身からすれば、浅はかだったのは自分のほうだということくらい、とっくに理解できていた。

 恥だなんだと騒いだところで、「手も足も出ない相手からは逃げる」と決断できるエイモンは正しい。

 だからヘンリーは、固く口を閉ざしたままのエイモンにもう一度、確認の意を込め、静かに問い直す。

「……答えてくれエイモン。僕たちがしようとしていたことは、なんなのだ?」

「…………」

 けれど案の定、その問いに答える声はなかった。

 ヘンリーだって、本当はわかっている。エイモンが黙して語らない理由も含めて、すべて見当がついていた。

 ヘンリーが思うに、大方のあらましはこうだ。


 ジャバウォックからの初襲を受け、脇目も振らずに下山を目指していたあのとき。狂奔きょうほんするエイモンの耳が不意に捉えたのは、ノロたちの微かな話し声と、ディアトリマの鳴き声だった。

 ヘンリーを連れ全力疾走するなかでそれを聴き分けられたのは、ひとえに揺るがぬ忠誠心のなせるわざだろう。

 そう思わせる証左に、もしエイモンがディアトリマの鳴き声の特徴を知っていたとしても、鳥のさえずりなんて其処彼処そこかしこから聴こえていたし、更に言えばガサガサと茂みを掻き分ける音や、二人分の荒れた呼吸音、体内に響く心拍音などが聴覚を阻害していた状況だったのだ。なんとかヘンリーを逃がそうと、藁にも縋る思いだったに違いない。

 そんなエイモンが、嘘をついてまでノロたちに接触した目的は、言わずもがな彼らが所有するディアトリマである。

 ヘンリーたちには、足が必要だった。

 二人は危機に陥った自領のために、一刻も早く救援要請をしようと、急ぎヒッセニア領へ向かう途中だったのだ。

 戦火に巻かれたウェスクス領から抜け出す際、命からがら乗ってきた馬車は、ジャバウォックの奇襲に馬が暴れて手放すはめになった。

 自分らのせいで手遅れになれば、領民共々路頭に迷う。この火急の事態での唐突なジャバウォックの襲来は、非常に呪わしく、また、痛恨の極みだった。

 ゆえにエイモンがディアトリマに目をつけるのは、自然な流れだったと言える。

 しかし、だからと言って正義感の強いヘンリーにそのまま、「あのディアトリマを奪いましょう」とエイモンが提案したところで、反対されるのはわかりきっていた。

 そのうえ恐らくエイモンは、聴こえてきた声から、若い少女の存在を看破していたはずなのだ。尚更言い出せるわけがない。

 だが、これを不幸中の幸いとするべきか、ヘンリーはエイモンに視界を遮られていたことに加え、自領の件やジャバウォックから逃げ出したことに意識が持っていかれて、モカが女であることなどちっとも気が付いていなかった。

 従ってエイモンはそのことを伏せ、ウェスクス領の存続と、それを統治する身になるヘンリーのためだと詭弁をろうした。

 実際は薄々、ウェスクス領は時すでに遅しとなっているのではとも思ったりしたが、それは度外視とまではいかないまでも、二の次にした。

 ヘンリーを守れさえすればいい。それこそがエイモンの使命だからである。

 もちろん、ノロたちが戦争相手である近隣領の追手である線も疑って警戒したが、様子をさぐってみれば思った以上に若い子供。しかもロアマだ。

 エイモンの性格上、良心に苛まれつつも、使命をまっとうしようと計画を実行に移したのだろう。

 ノロたちとの会話の最中、念のため自分らを知っている人間か確認を取ったり、違うと判明してからはその機会を窺って会話を引き延ばしたりしていたのは、ヘンリーにもわかった。

 エイモンとしてはノロたちが寝入ったすきを突くつもりだったのだが、再びジャバウォックがやってくることも視野に入れ、その混乱に乗じることも考えていたと思われる。

 こんなことをするのはヘンリーが納得しないと承知の上で、ジャバウォックの恐ろしさをよく知っているエイモンは、暗黙の三ヶ条に沿って行動しようと思っていた。

 そんな矢先に小人フェアリーが現れ、希望が見えたと思いきや、それも否定されてしまう。

 寸刻後、よりによって折悪おりあしくジャバウォックも登場し、動揺してしまったエイモンは焦って機会を逃してしまった。

 どこにジャバウォックがいるかわからない以上、迂闊にディアトリマを強奪することができず、どうにか手に入れたかと思えば、結局ヘンリーにもモカが女だと悟られ、今に至る。

 ノロたちにジャバウォックの弱点を教えたり情報共有をして一時共闘したのは、やはり犠牲をいたことへの、せめてもの罪滅ぼしのつもりだったのだろう。

 すべてはヘンリーのため。背伸びをして次期領主を気取っていても、頭一つも井戸の外に出れていない子供のためにエイモンがいた、誠実な嘘だった。


 うつむいていたヘンリーが、ぽつり、「勝ち逃げだ」とつぶやく。

 それにエイモンが「若様……?」と不安げな揺らぎの声をかけると、ヘンリーは今度こそ、はっきりと言った。

「……勝ち逃げだ。勝つまで逃げることは二度と許さん」

 これまでかてとしてきた誠実さを保とうとすれば、それは一言で言うなら、欺瞞である。

 何をどう言い訳しようが、ノロたちのディアトリマを奪おうと、言い逃れの余地なく盗賊まがいな所業をしでかすところだったのだ。

 けれど、だからこそ、ヘンリートッド・ウェスクスはやり直さねばなるまい。今日をさかいに、ヘンリーとして。

「僕は勇ましいことを言っても、所詮あのざまだった」

 自分は逃げた。逃げるのが嫌で女たちの救出という大義名分のもと挑んでみたが、心もろとも、ものの見事に打ち砕かれた。エイモンが故郷から逃げ出した気持ちが、今なら痛いほどわかる。

 あの恐怖を払拭するには、強くなるしかない。

 あの少年のように、自分の何を捨ててでも、覚悟のできる者になるしかない。

「エイモン、ついてこい。使命を果たして僕を守れ。僕はウェスクス領にいた民と同じくらいの人数は、守れるようになってみせる」

 それに対し、エイモンはやっと、返答するのだった。

「ハッ、若様。どこまでも、どこへでも」

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