果敢な強行

 自分を探す懸命な声を聞きながら、彼女は巨樹を目指して走っていた。

 ジャバウォックの注意はその声の方角に向けられており、こちらに気付いてはいないようだ。

 普段ならあの天辺てっぺんにだってひとっ飛びで行けるのに、なかなかたどり着けない小さな歩幅が今回ばかりは恨めしい。

 自分がもう少し大きければ、とうにあそこへ立てていたのだろうか。

 自分がもっと大きかったら、災いを払い除ける力があったのだろうか。

 彼らを巻き込んでしまったのは悪いと思っている。だが、もしかしたら、小人フェアリーよりも戦闘に長けた只人サリードなら、あるいはあの怪物を屠ることができるのではないかと期待してしまったのだ。

 その理由の一つに、彼らが武装していたのもある。

 剣の一本にしろ、小人フェアリーの一太刀と只人サリードのそれでは計り知れない差があるし、なにより銃は小人フェアリーでは到底扱えない代物であるから、そんな望みを持ってしまうのも致し方ないことだろう。

 しかし、いや、やはりと言うべきか、その望みも泡沫うたかたの如くついえた。

 彼らはその武装をもってしても、逃亡の一手を選択したのである。ならばもう、あのケタケタとわらう不気味な怪物に抗う手立てはない。

 この山はすでに、どうしようもないくらい深い闇に呑まれてしまったのだ。

――なのになんで、なんで逃げないのよ! さっさと逃げてよ……!

 名を呼び続ける声と、そして銃声が連続して二つ。次いで総毛立つようなおぞましい咆哮が沸きあがり、それをまた銃声が掻き消す。

 そんなことが五度、六度と繰り返されたあと、ようやく彼女は巨樹の根元に到着した。

 視線は遥か高みにある梢。これからそこへ登らねばならない。

 この巨樹はかつて、ドライアドの住む樹だった。今は稲妻のせいで痛々しく裂けて焼け焦げ、朽ち果てているが、それでもここらで一番立派だったことを覚えている。

 幹が折れ、荘厳さの大半を失ってこそいるものの、今なおその樹高はジャバウォックよりも少し高く、きっとあの必死な呼声こせいも、頂上へ登りきる頃には止んでいるはずだ。

「……忘れないでね、その名前」

 彼女は束の間の友の声を振り切るようにしてそう呟くと、巨樹の裂け目に身を滑り込ませ、ささくれた内部を登り始めた。


 暗くて見えない枝をくぐり、行く手を阻む茂みを掻き分け、モカたちは落雷跡地の外周を沿うようにして移動していた。

「フィーネさんっ! 返事をしてっ! お願いっ!」

 これで何度目だろう、度々足を止めてはフクロウを放ち、繰り返し絶え間なく呼びかける。

「お嬢さん! 本当にあの小人フェアリーがまだいるとでも? もうとっくに逃げてるのでは?」

 ヘンリーの手を引きながら、エイモンが訴えた。が、モカは歯を食いしばってその可能性を否定する。

「そんなことないっ! だってフィーネさん、フィーネさんはそんな人じゃないからっ!」

「しかし応答がないではないですか! 自ら死地へ踏み込むなど考えられません! それにわかるでしょう? アレに挑むなど自殺行為! アレを前に誰が自殺する気を保ち続けられましょうか!」

「絶対にいるのっ! あなたたちこそなんで逃げないのっ?」

 言われて、エイモンはちらりとヘンリーを盗み見た。そうしたいのはやまやまだが、仕える主がそれを良しとしないのだ。

 握る手からは震えが伝わり、顔面蒼白で、走る足にもふわふわと力が入っていない様子。それなのに、眼だけは強く「逃げてはならない」と語っている。

 臣下としては無理矢理にでもこの場から離れたいところだし、主の意に背いてもそれが最善であるとわかっているのだが、その眼は蹂躙される故郷から逃げ出したあの日の自分に向けられているようで、なんとなく、ジャバウォックに背を向けられない。

 一方で、あの少年なら、と思ってしまっている自分もいる。

 およそたがが外れているか、もしくは螺子ネジが足りていないとしか思えない言動をするが、けれどひょっとして、ジャバウォックに対抗し得るのではないか。

 竜類ドラゴンに遭っては一切を棄てろ。それがことわりのはずなのに、そんな気がしてしまうのである。

「おい女! ヤツが飛ぶぞ!」

「っ! フィーネさんっ! 危ないから早く戻ってきてっ!」

 ヘンリーの警告に、モカはすぐさま立ち止まってフクロウを構え、引き金を引く。すると銃口が火を噴いて、轟音と共に多数の鉛玉が放射状に散開発射した。

 ジャバウォックは反射的に飛膜翼をかざし、弾幕を遮るような格好を取るが、外殻よりも薄く脆い翼は、よく見ればもうかなり損傷しているようだ。

 ノロの言う通りに着弾点を絞り込み、集中して攻撃し続けた成果であろう。

 とは言え、立ち姿から弱っているような気配は感じられず、むしろ威嚇の咆哮には苛立ちが込められており、油断できない。

 モカはもう一発撃ち込むと、走り出しながらも落ち着いて排莢、装填をこなし、水平にくっついた銃身を撫でるようにして二つ並んだ撃鉄を起こす。

 痩せ細っているものの、大きな体躯はいい的だ。しかし尋ね人がどこにいるのかわからない以上、無闇矢鱈むやみやたらと撃ち込むことはできない。飽くまでジャバウォックを牽制するための攻撃である。

 ただ、姿を消したノロが奇襲を狙っていた場合、この銃撃はかえって邪魔になる。加えてくだんの小人がもし一矢報いるために残ったのであれば、発砲対象であるジャバウォックに近づくことが予想される。

 そのため、モカは二人を巻き添えにしないよう常に神経を張り巡らせておかなければならず、精神的な消耗は相当なものだった。

「フィーネさんっ! さよならなんて嫌だよっ! わたし絶対あきらめないからねっ!」

 ざざざっ、と靴底で地面をなじり急停止したモカが、声を振り絞ってわめく。

 慣性を殺すために込めた力でそのまま全身を強張らせ、喉が潰れることもいとわず声帯を震わせた。

 宛先も定まらぬ我儘わがままな叫びは代わりにジャバウォックへとぶつかり、そして月の浮かぶ空へ反響する。その余韻が消えるか否かというとき、やっと待ち侘びた返事が届いた。

「あたしだってあきらめてないわよッ!」

 月を背負う小さな影がある。どうやらあの巨樹の頂上から飛び降りたらしい。

 しゃくるように低く頭を下げていたジャバウォックがその声に反応し、モカたちから視線を切って月を見上げる。

 そして落ちてくる小人を確認すると、きゃきゃきゃと喉を鳴らし、乾いた喉をその血で潤そうと、大口を開けて御馳走を待ち受けた。

 誰もが息を詰まらせ、時が止まったかのような錯覚を起こすなか、茂みからもう一つの影が中空に投げ出される。

 月光に映えるは白くなびく髪。長らく姿を消していたノロだ。

 蔓を使い振り子のようにして天高く舞い上がったノロの身体は、放物線を描いて次第に落下していき、ジャバウォックの頭上へと向かう。

 停止していた時間がゆっくりと送られていくその光景を、誰もがただ呆然と見ていた。突然のことに、ジャバウォックでさえ様子をうかがっていたほどだ。

 ノロは手にしていたイタチを噛むようにしてくわえると、涙と鼻水で顔を濡らしながら目をぱちくりさせる小人を捕まえ、外套のフードに投げ入れる。

 瞬間、停滞していた時間が急激に加速していき、体感に感覚が追いついた。

 それにいち早く順応したのはジャバウォックだった。

 小人よりも喰いごたえのある獲物を腹に収めようと、蛇のように首を伸ばして喰らいつく。

「ノロっ!」

 モカがそう叫ぶも間に合わず、大きな門歯がノロの右足に噛みついた。ガツン、と噛み合わさるような硬い音に、血の気が引いていく一同。

 だが、ノロは噛みつかれたままイルカを手に取ると、爛々と光るジャバウォックの眼に狙いを定めて引き金を引く。三十センチもない距離だ。外すことはない。

 心臓が跳ねるような撃音に、皆が一斉に肩を弾ませ、ハッとした。

――喰われてなおも戦うというのか……?

 目の前で繰り広げられている光景に狂気を感じ、身震いするエイモン。

 焼けつくような猛烈な痛みを感じたであろうジャバウォックが、けたたましく呻きながらぶんぶんと頭を振っている。が、ノロはくわえていたイタチをジャバウォックの鼻腔に突き刺し、喰い千切られないよう、振るい落とされないよう耐えている。

 そしてジャバウォックがあごの力を緩めたすきに、イタチを引き寄せるようにしてずるりと門歯から這い出し、そのまま一気にひたいを走り抜け、首にイタチを突き立てた。

 ジャバウォックの喉を擦り減らすような金切り声がビリビリと鼓膜を揺らし、思わずモカたちは耳を塞ぐ。

 だが、一番近くでそれを聴いているはずのノロはその眼に殺気を宿したままだった。

 特に顔を歪めるでもなく、ずぶずぶとイタチの刃をジャバウォックの首に埋めていく。

 その痛みに混乱するジャバウォックが長い首を丸め、鋭い爪でノロを引っ掻こうとするが、逆に自分の急所をえぐるばかりだ。

 たまにその血の飛沫ひまつが離れたモカたちの足元まで飛んでくるくらいに、我を忘れて暴れ狂っている。

 そうして自分で自分の急所をえぐり、むしってげかけた首が赤々とした肉を露出して地面の所々に血溜まりを作っていくと、段々と力の入らなくなっていく首がついに重たい頭部を地に伏せ、そしてとうとう巨躯も沈んで動かなくなった。

 自滅というその死に様に竜類ドラゴンたる威厳はなく、首に突き立った剣にもたれて気を失う少年にもまた、竜殺しの栄誉は遠いように感じた。

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