幕間 オルタナ領~ヒッセニア領間

第一節 逢着

最悪な出会い

 小さな森を抜け、木々もまばらな草原の真っ只中、三頭のディアトリマが街道をく。

 頬を撫でる爽やかな風を感じつつ、一行いっこうもなく、前方に横たわる青々とした山に差し掛かろうとしていた。

「ねーノロ~ん」

「…………」

「ねーねーノロ~ん」

「……なに?」

「休憩しよーよーう。お尻痛いよーう」

 オルタナ領から旅立って三日目、近頃のモカはだいたいこんな感じだった。

 こんな感じというのは、ディアトリマの背でゆさゆさと、さながら首の据わっていない赤子のように揺れている、今のような状態のことだ。

 こうなってしまったのはいつ頃からだったか、最初の一日目は順風満帆だった。

 モカは終始興奮が抑えきれないといった様子で、鼻息荒く周囲を見渡しては、目に映るものすべてに感動していた。

 だが、それも一晩、二晩と過ぎるうち、目に見えて飽きてきていた。

 初めて経験することも多々あったはずだが、その実オルタナ領から見える景色と、何ら変わり映えしないことに気づいてしまったのだろう。

 順調だったのは最初の一日目だけ。三日でこのざまだ。

 尻に関しては旅慣れていないのだから仕方がないにせよ、さすがに音を上げるのが早過ぎやしないかと、この先が思いやられる。

「さっき休んだばっかでしょ」

「でもさー、なんかモカトリマも機嫌悪そうなんだよーう」

 モカトリマというのは、モカが乗っているディアトリマのことだ。

 相棒には名前をつけるもの、という教えに従って、モカが勝手に命名したのである。

 言わずもがな、ノロのディアトリマはノロトリマ、荷物を載せているディアトリマはニモツトリマと名付けられた。その安直さたるや、他の追随を許さない。

 ちなみに見分けはつかないが、モカに教育を施されたのは、多分モカトリマだと思われる。

 さらに余談だが、ニモツトリマは類い稀な脱走癖の持ち主であった。

「……じゃあちょっとだけね」

 モカトリマを見ると本当に不機嫌そうにしていたので、ノロは鼻から深い溜息をき、モカの提案を渋々聞き入れるのだった。


 今回の旅の目的は、レイヴェル領、及びジフノ領の両領主に手紙を届けることである。

 もっと詳しく言えば、レイヴェル領のレイヴェル辺境伯と、ジフノ領のジフノ明哲伯めいてつはくに、ローエンワイツが書いた手紙を、ノロたちが直接手渡せと依頼されている。

 ただ、この両領はアシュエル公国連盟の最西端にあり、連盟領土の中心部にあるオルタナ領からでは、ディアトリマの足でも片道約一月半ひとつきはんはかかってしまうだろう。

 そこで、ローエンワイツはある経由地点を提言した。

 それが今向かっている場所、目の前の山を越えたところにある大都市、ヒッセニア領である。

 ヒッセニア領は非常に栄えた街で、国都や各主要都市とをつなぐ交通機関がある。

 その交通機関の一つ、汽空艇きくうていに乗って、その先にあるレイヴェル領、ジフノ領を目指そうというわけだ。

 陸路をけば進行を阻む障害があったりで遠回りを余儀なくされるが、空からならばく手を遮るものはない。

 問題はその搭乗料金だが、「私からのプレゼントを三つほど売れば釣りがくるよ」とはローエンワイツ談。

 まさかそのプレゼントがディアトリマだったなんて、正直夢にも思わなかった。


 森に入る手前、丁度いい木を見つけたので、一行いっこうはディアトリマから降り、その木陰で休むことにした。

「なんでノロはお尻痛くなんないの?」

 ノロがニモツトリマの手綱を枝にくくっていると、モカが尻を撫でて問うた。

「いや痛くないわけじゃないけど……モカの乗り方が悪いんだよ」

「乗り方なんてあるの?」

「あるよ? ひざの裏で羽をはさむようにして、かかとくらの輪っかに引っ掛ける。これが觜鴕かくだの乗り方」

「へ~! だからノロトリマはパタパタしないのか!」

「いや、ストレスになるしそんなにぎゅっとはしてないけどね……。両側を強くはさんだら走れ、片方だけはさんだらそっちに曲がれ、ってしつけられてるんだよ」

「だからニモツトリマ追いかけるときノロだけあんなに速いんだ! わたしも乗りこなさなきゃ! ねっ、モカトリマっ?」

「走りだしたら前にかたむくから、身を伏せてかかとを突っぱねるようにするといいよ。……まあ、これから山に入っちゃうけど」

「ほほーう! 山越え楽しみーっ! まっ、今は休憩休憩~。ノロ、わたし今のうちにトイレ行ってくるね」

「うん、わかった。あんま遠く行かないでよ? なにかあったらすぐ行くから」

「なにを言う! いくら家族でもわたしは乙女なの! 来ちゃダメだかんね!」

「……じゃあカモシカ持ってって。せめて森のなかには入らないでね」

「あの茂み! 森手前ギリギリセーフ!」

「……はいはい行ってきなよ……」

「来ちゃダメだかんね~っ!」

 モカの声が遠くなり、姿も茂みの向こうに消えた。

 言葉を濁さず堂々とトイレ宣言するし、ましてや外ですることに抵抗がないみたいなのに、「女の子はよくわかんないなあ」とノロはモカトリマを撫でるのであった。

 一方モカは茂みの裏、懐中時計を確認する。時間を計るためだ。

 まさか銃を片手に用を足す日が来るとは思わなんだが、これぞモカが乙女たる所以ゆえん、奥義『大小秘匿措置シャッフルトイレット』。

 大きいほうだろうが小さいほうだろうが、所要時間を一定にすることで判定不能に持ち込む、乙女モカ究極奥義力技である。

 気にしすぎだと笑うのならどうぞ。時間の無駄だと怒るのならお気の済むまで。

 ただし、乙女に向かってそのような態度を取るのであれば、男の器の小ささを、自ら晒すようなものなのだ。それ相応ペナルティの覚悟をもって立ち向かうべきであろう。

――スタート!

 モカは統計したデータに基づき、放尿を開始する。

 羊毛で作った排泄具も持ってきた。ぬかりはない。

 このまま用を足し終えて、あとは頃合いを図って戻ればいい。

 そう思っていた。この時までは。

――蝶々が、糸に絡まってる……?

 綺麗な、美しい蝶がもがいている。よく見れば、それは蜘蛛の糸だった。

 巣というほどのものではないが、枝葉と枝葉をつなぐように、宙を往復する糸がある。

 蝶はその煌めく糸に絡まって、それでも懸命に羽ばたいていた。

――かわいそう。もう持ち主もいない巣に捕まって……。放してあげてもいいよね。

 モカは少しだけ手を伸ばすと、蝶に絡まった糸を断ち切る。

 数本を指に絡めただけで、蝶は束縛から解き放たれた。

 そして自由を謳歌するように、そのままひらひら飛んでいく。

 彼方でふらふらする蝶を見て、モカは「なんかいいことした気分……」と微笑んだ。

「ああぁぁぁぁぁっ! あんたなにしてくれてんのよっ!」

 声。突然の絶叫。

 ノロのものではなく、当然自分のものでもなく、けれど確かに女性の声がした。

 随分と間近で発せられたはずだが、しかし辺りには女性はおろか、人っ子一人見当たらない。

「ちょっとあんた聞いてんの? ここよここ。っていうか目の前なんですけど!」

 さっきと同じ声。目の前という単語に、モカは真っ直ぐ前を見た。

 すると、枝葉の合間、確かにいた。モカの目線と同じ高さに、とても小さな人間が。

「…………」

 身長はおよそ二十センチくらいだろうか、スレンダーな体つきに目鼻立ちの整った顔をして、艶やかなブロンド髪は後ろで一つに束ねられ、よく見れば背部に四枚の翅らしきものまである。

 そんな、一風変わった女の子だった。

「なによ。なに黙ってんの。なんとか言いなさいよ」

「…………」

「あんたね、さっき喋ってたじゃない。いいことした気分、って。……ていうかなに? 全然いいことじゃないわよ。むしろ迷惑なの、わかる? ……あちょ、な、なによ。あっ! 待ちなさい!」

 モカは無言ですっくと立ち上がると、同時にズボンを上げ、走って逃げた。

 自分がどんな顔をしていたのかわからない。銃の使い方さえ思い出せない。頭のなかは真っ白だ。

 初めておちいる度合の緊張、というか最初の声が聴こえたときから、すでに気が動転していた。

 どれだけの時間あそこにいたのかも定かではない。もうそんなのどうでもいい。

 今わかるのはノロをめがけてまっしぐらなことと、あの声の主はあの小さな人だったという事実。

「ノロぉぉぉぉぉぉ変なのにおしっこ見られたぁぁぁぁぁぁ」

「えっ、なにどしたの? ってうわ危なっ! モカ銃口向けないで! カモシカぽいして!」

「こんくらいのっ……こんくらいのぉぉぉ」

「ええ……? これくらいのなに……あっ、うんち?」

「うんちじゃなぁぁぁいぃぃ! ちっちゃいのがいたぁぁのぉぉぉ、ひとがぁぁ」

「ちっちゃい……えっ! モカちゃちゃいおっさん見たの? いいなあ幸せになれるんだってよ?」

「おっさんじゃなぁぁいぃぃぃ女の子ぉぉぉぉ」

「うんん……? う、うんうん女の子だもんね、手ぇ洗いたいんだもんね、ほら、手、出して?」

「洗うぅーん……」

「うん、はいこれ、湿らせといたから。泣かない泣かない。ね?」

 なだめめながら、ノロは首をかしぐ。

 血相を変えて走ってきたかと思えば、ひっくひっくと泣きながらわめくモカ。

 鼻水をぐずぐずさせ手をぬぐうその姿を見て、ノロはますますわからなくなった。

――爪の間が汚れてない……ということは本当にうんちじゃない……。漏ら! ……してもないか……。

 乙女の詰めは甘かった。モカ乙女はその乙女モカさ故、大をするときは無意識に穴を掘っていた。

 そんなこともお見通しなノロが、とにかく落ち着いてから話を聞こう、と結論を出したとき。

「ちょっとーーーっ! 逃がしてたまるかーーーっ!」

 はねの生えた小さな人が、突撃よろしく飛来した。

「来たぁぁぁぁぁあれぇぇぇ同一人物ぅぅぅぅ」

「フェ、小人フェアリー……」

 ノロのつぶやきは、かしましい乙女たちに掻き消された。

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