旅立ちの日
オルタナ領西方検問所。日差しが風に暖色を着け始めた午前。
普段は番兵くらいしかいないこの場所に、珍しく人だかりが出来ていた。
「腕の調子はどうかな、ノロくん」
「問題ありません。あと
「それはよかった」
ローエンワイツが指摘すると、ノロは包帯が巻かれた右腕を撫でた。
曲げたり力を入れたりすると違和感があるが、痛みというほどのものはない。
だいたい、この程度の怪我なら慣れっこだ。
肉片ごと抉り取られたため縫合することはできなかったが、ミレイが適切な処置をしてくれた。化膿にだけ気をつけていれば心配いらないだろう。
「腕の調子はどうかな、モカくん」
「ばっちりです。カモシ――長銃のほうはまだ七割しか当たりませんけど、二発あれば問題ありません」
「それは……よかった」
冗談のつもりで言ったローエンワイツが、何事かを呑み込んでうなずくと、モカはカモシカを撫でた。
この二日間、黙々と練習した。
時間こそ足りなかったが、一心不乱に、それこそ取り憑かれたかのように撃ち続けた。
もともと勘がいいのか、それとも若いが故の吸収力か、扱いは随分と上達した自負がある。
あとはやはり筋力。体格はこれから成長するにして、筋力不足からくる反動負けには改善の余地があった。
なにせ領外へ出るのだ。今後に期待などと悠長に構えてはいられない。
撃てば百発百中と、欲をかけば今日までにそう言えるようになっておきたかった。
なぜならそう。今日は、今日こそが待ちに待った旅立ちの日なのだから。
踏み出したことのない外の世界。いわば新しい世界へ旅立つ日。
まだ見ぬ世界。いまだ知らぬ世界。
憧れを抱き目指した場所へ、ようやく念願の第一歩目を踏み出すことができる。
「……ノロ。これ、受け取ってくれ」
ローエンワイツの手前、おずおずとフロトーが歩み出た。
差し出してきたのは、いつか貸してもらった短銃ホルダーだった。
「フロトーさん……。……ありが――」
「モカちゃん! ほらよ! 好きなだけぶっ放つんだぞ! 弾はいくらでも作れるが、
「これ、二人のために仕立てたの。よかったら着てね? 破れるような無茶しちゃダメよ?」
「うちからはこれ。保存がきくから……大したものじゃなくてごめんね? モカちゃん、ノロくん、頑張って」
「モカちゃん、ノロちゃん、これ食べて仲良くするんだよ? どうか無事でね」
町民が殺到し、あれよあれよと増えていく荷物。
弾丸やフード付きの外套はありがたいが、その大半は自分らでも用意していた食糧だった。
これはもう一度荷物を整理しなくては、と思っていると、ローエンワイツが再び歩み出る。
「食糧はもう必要なさそうだね。私からはこれを」
そう言って差し出したものは、懐中時計だった。
試しに開いてみると、コンパスの機能も備わっている。さすがは伯爵家。高価そうなものだった。
「それとこれは欠かせない。なくさないようにね」
次に二通の手紙と革製の小袋。この旅の目的であり、依頼の遂行に必要なものだ。
それらを受け取り、大切に袈裟懸け鞄へしまうと、ローエンワイツがいやにニコニコしていることに気づいた。
「時にモカくん。キミの身長は……百六十くらいかな?」
「……? 多分、それくらいです、けど……」
「うーん、よしよし、ならば大丈夫だろう。カイルくん、ここへ!」
モカは首を傾げ、隣に立つノロを見た。
だが、頭一つ分ほどの高さにあるノロの目にも、同じく疑問符が映っていた。
「道を開けろ! 危ないぞ!」
カイルの声だ。
そうそう大声を上げない人なのに、とそちらへ視線を向けると、群衆の頭の上に三つ、ぬっとそれらが現れた。
「ローエン様……? あれ、なんですか……?」
「鳥さ」
「おっきくないですか?」
「大きい鳥だからね」
人混みが割れ、近付いてくるその大きい鳥に釘付けになっていると、隣でノロが言った。
「……ローエンさん。なんでこんなところにディアトリマがいるのか、説明してもらっていいですか」
ディアトリマ。別名を恐鳥という。
走鳥類、あるいは走禽類や平胸類というカテゴリーに属する、飛べない鳥だ。
使役動物としての歴史は実に浅く細々としたもので、
走鳥類の使役動物は一般に
そのなかでもディアトリマは、全体的にずっしりとした体格に凶暴性を兼ね備えた、非常に御しづらい種である。
「うーん、新規の取引先に貰った、のだよ。お近づきの印にと。頑丈だし、森を抜けるなら馬より速いというものでね。だがどうにも……私にはなつかなくてね」
「……それで?」
「好きにしていいよ。遠慮はいらない。ほら、荷物が
――いや、いやいやいや。
ノロは思う。これは親切心からなんかじゃなく、体よく押し付けられてるだけだ、と。
モカに至っては、口をぽかんと開け、目前に迫ったディアトリマを見上げている。
と、そのとき。
ディアトリマの鉤状で大きな嘴がモカを狙う。
「あぶなっ!」
間一髪、ノロがモカの襟首を引いたおかげで怪我を負わずに済んだ。
その横でローエンワイツが「……やはり獲物として認識されてしまったか……」と顎に手をやりつぶやく、が。
「ノロ、多分大丈夫。任せて」
モカはそう言うと、カモシカを槍のように構えた。そしておもむろに、ディアトリマの首根っこを突く。
「えいっ! このっ! どうだ! わたしがボスだ!」
頭が心配になるようなことを口走りながら、幾度となくカモシカの銃口で突きまわすモカ。
執拗に首を狙われ、当然暴れようとするディアトリマだったが、カイルや力自慢の領民が必死に手綱で制してくれた。なんとも奇妙な連携だった。
「……ようし、もういいでしょう。わたしがボス。わかったならこれあげる」
どれくらい時間を費やしただろう、モカは仁王立ちして「ふうっ」と額を腕で拭うと、干し肉を取り出した。先ほどルミィから貰ったものだ。
「待て。待てだよー? ……よし食え!」
驚くべきことに、ディアトリマはそれに従った。
一連の流れを引いた顔で見ていたノロが問う。
「……どこで習ったの?」
「ノロ」
「えっ」
「ダメなことしたからお仕置きして、反省したからご褒美あげた。ノロがわたしにすることマネしてみたの」
「……あ、ああそう……。……え?」
かくして、モカはディアトリマの獲物から脱し、手懐けることに成功したのだった。
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