決意の誓い

 明くる朝。ノロはキッサー家のキッチンにいた。

 喫茶店とはいえ、この町唯一の飲食店であるためか、キッチンにはなかなか上等な調理設備が整っている。

 その設備のなかの一つ、木炭も使えるクッキングストーブにかかった鍋を無表情にかき混ぜ、淡々と朝食の支度を進めていた。

「ノロおはよ」

 一階へ降りてきたモカが、目をこすりながら声をかける。

 ノロもそれに「うん、おはよう」と返すと、温まったシチューを皿によそった。

 カウンターテーブルにはすでにパンとサラダ、水差しが用意されており、そこにノロが作ったシチューが加わる。具だくさんだが、もう、あの味ではない。

 ノロはクッキングストーブの引き出しを開け、まだ使える炭を取り出すと、火消壺に放り込みがてらモカに言う。

「モカ、俺は少し出てくる。食べ終わったら食器を水につけといてね」

「うん、わかった。いただきまーす」

「召し上がれ。……それと――」

「わかってるよ。食べ終わったらちゃんと荷造りもしておく。出発は明後日だもんね」

「……うん、すぐ帰ってくるから。……それじゃ、いってくる」

「ん、いってらっしゃい」

 朝食を食べ始めたモカを尻目に、ノロは家を後にした。白い花が揺れていた。


 あの日。変化が芽吹きはじめた日常を、根こそぎ引っこ抜かれたあの日。

 それまで滑らかに回っていた滑車は、はずれてどこかへ飛んでいった。

 代わりに剥き出しになったギザギザの歯車が、そののこぎり状の外郭がいかくで身の内を容赦なく引っ掻いては削り、虚無感と無力感で一杯なはずのノロに、じくじくとした痛みを与えてくる。

 いっそのこと壊してくれればいいのにと願っては、いつも通りの穏やかな陽気に打ちのめされ、重たい石を飲まされた気分になった。

 道に飛び散った瓦礫は、今はもう片付けられている。崩れたものはこれから綺麗に修繕されていくことだろう。

 だが、キッサー家の食事と挨拶は、一人分減ったまま、戻らない。

 今日も風車は、我関せずとばかりにゆっくりと回っていた。

「あら……おはよう、ノロちゃん……」

「ああ……おはようございます。ルミィさん」

 うつむいて歩いていたせいか、ノロはルミィがそこにいたことも、目的地の手前まで来ていたことにも気がついていなかった。

 そしてノロはルミィの手元を見て、自分がそこに手ぶらで来てしまったことに思い至る。

「お花、分けてあげましょうね」

「あ……すみません。ありがとうございます」

 ノロはルミィから二輪ほど花を受け取ると、墓地のなかへと歩を進めた。

――モカも誘えばよかったかな。

 ふと、分けてもらった花を見ながら考える。

 モカはドッピオの葬式以来ここに来ようとしないから、誘っても無駄だっただろう。

 葬式の日、モカは泣かなかった。母のことを話されても、一滴の涙も流さなかった。

 多分、まだ自分のなかで消化できていないのだ。その気持ちは痛いほどわかる。

 ノロだってなぜだか不意に足が向いただけで、葬式以来、ここへ立ち寄ったことはなかった。

「おやおや、あの二人また来てるのね」

 ルミィの言葉につられて目を向けると、ドッピオの墓前に二つの人影があった。

 フロトーとクロッグだ。

「フロトーさん、クロッグさん、おはようございます」

 ノロは膝をついている二人に歩み寄った。

 振り返った二人の顔は、酷く悔しげにゆがみ、泣くのをこらえているようだった。

「ノっ、ノロ……ごめんな、ごめん……!」

 先に口を開いたのは、クロッグのほうだった。

「……なにがです?」

「俺は……俺はあの時、動けなかった。動かなかった。ビビっちまって……。銃を持ってったから大丈夫だろうって、私兵団もいるし大丈夫だろうって……!」

 その悲痛な懺悔にフロトーも続く。

「……俺も……一歩も外に出れなかった。ヤツを見たら怖くなって、聞こえてくるみんなの悲鳴も怖くて、なんにも、なんにもできなかった……すまねえ、すまねえ」

 彼らは謝罪を繰り返し、自らを「腰抜けだ」とか、「情けない」といった言葉で責めた。

 そしてまた、墓石を磨く。大の男が地面に這いつくばり、布で丁寧にその表面を磨いている。

 ノロはなにも言えなかった。

 仮に本当に彼らのせいであっても、責める気は毛頭ない。怒ってもいない。どうこう言える立場でもない。

 ふと、彼らの真っ赤になった手が目についた。脇にある桶には水が張られている。

 朝はまだ少し冷えるというのに、ずっと磨いてくれていたのだろう。空に対して平行な墓石は、朝日を反射するほどに輝いていた。

 もう一点の汚れもない表面には、姓が同じ二つの名前と、その祈りが彫刻されている。

――愛しい、家族か……。

 ノロはなんと声をかけたらいいかわからず、ただじっとその様子を見守っていた。

「ノロちゃん。ドッピオさんがね」

 そんなノロを見て、ルミィが語りかける。

「私を助けてくれたのよ。頼もしいわよね、ドッピオさん。優しくて。私を家まで送ってくれて、あなたもここにいたほうがいいわって言ったら、ノロちゃんも頑張ってくれているからって」

 虚ろな視線をルミィに移し、ノロは朦朧とした頭で考える。

――俺、頑張れてたかなあ。

「ドッピオさん、言ってたわよ。あの子は違えぬ子だって。だから自分もあの子を違えるわけにはいきませんって」

――違えぬ子?

「……俺が……ですか……?」

「ええ。困った顔でね」

――違えぬ子? 俺が?

「とっても嬉しそうだったわ。ノロちゃん、ドッピオさんの言うこと無視してまで、みんなを助けようとしてくれたんでしょう?」

――いや、違うよ。違うじゃないですか。俺はつけ上がってたんだ。だからこうなったんだ。だから「守れなかったじゃないですかッ!」

 思わず、大声が出た。花もくしゃくしゃに握り潰していた。

 目の前の老婆に向かって、みっともなく捲し立てた。止められなかった。

「俺がさっさと私兵団を呼ばないからッ! 俺が油断したからッ! 俺が――」

「守りたかったんでしょう? それで守れたものもあったでしょう。ノロちゃんは、必死に守ってくれたでしょう?」

 優しく、諭すようにルミィが言った。

「よくやってくれたじゃない」

――いいや? よくやった。

 その声と重なって、ドッピオの声がした。あの日あの時、かけてくれた言葉。

 頭のなかで聴こえたのに、まるですぐそばにドッピオがいるかのような、そんな気さえした。

「ノロ……ノロよお、知ってるか? 墓を磨くのは、入ったやつにも空が見えるようにだ。だから、よーっく磨いてやるからな……! 十年経っても、何年経っても、この空が見えるように、お前らを見守ってくれるように、俺らがピッカピカに磨いてやるからな……!」

 死者が残された者を見守れるように。そういった風習がある。

 ここにモカの両親が眠っているのなら、見守ってくれているのなら、自分はそれに応えなければならない。ノロはそう思った。

「……お願い、します」

 だから、見ていてほしい。自分を違わぬ子といってくれるのなら。

――あなたからの依頼、続行しますよ、ドッピオさん。今度こそ、なにがあっても、モカを守る。

 時間は戻らない。不可逆の歯車が回り始めたのなら、望むところだ。そう思った。

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