統治者の責任
オルタナ領の南に、三階建ての大きな館がある。
他の家とは明らかに建築様式が異なるその館は、ドーム状の屋根を持つ棟を中央に左右対称な凸型のシルエットをしており、一見すると教会のようだ。
実際、オルタナ領の教会と比べ、さほどその大きさに差はなく、石造りか木造かの違いなのだが、いくつもの窓がついた壁面を
その外観もさることながら、内装についても引けを取らない。
両開き式の玄関を開け一歩なかへと入れば、そこには赤い絨毯をはじめとし、高価そうな調度品の数々が至る所に飾られ、天井からは豪華なシャンデリアがぶら下がっている。
誰もが一度はそこでの暮らしを夢見るような、そんな家。それがこのオルタナ領領主、オルタナ伯爵家の邸宅である。
ただし、今は広い庭の一角に咲く可憐な花や、様々な造形に整えられたトピアリーは見る影もなく踏み荒らされ、敷地内のそれらを守るはずであった鉄柵も薙ぎ倒されているのが現状だ。
「ドッピオが……死んだ?」
その館の主であるローエンワイツが呟いた。それは、葉の
「……はい。自分の娘を守ろうと、突進するイポトリルの前に立ちはだかり……」
それに対し、オルドレッドは沈痛な面持ちで言葉を返した。齢を重ねてしわがれた声は、悲しみを優しく撫でてくれているかのようだった。
「……そうか……あいつらしい。……実にあいつらしいな」
「……申し訳ございません。私めが至らなかったばかりに」
「いや……いいんだ、オルド。お前のせいではないよ」
そう言ってローエンワイツは、長い長い息を吐いた。そして少しかすれた声で「そういうやつなんだ、あいつは……」と言うと、目元を手で隠した。こみ上げるものを
一人のロアマがオルタナ領へやってきたのは、もう二十一年も前のことだ。
その男はいつもにこやかな笑みを浮かべていて、薄汚れたぼろ切れを着ているというのに、日向に咲いた花を思わせるようなやつだった。
また、三丁の銃を携えたそいつは、よくそこら辺に着ていた外套を敷き広げ、慣れた手つきで手入れをしていたのだが、それがなんとも似合わないのだ。
そんなやつだから、入領してたった半日で町の子供たちと鬼ごっこをして遊ぶようになり、その晩には大人たちと酒を酌み交わして、夜が明ける頃には依頼を頼まれるまでに打ち解けていた。
といっても、依頼斡旋所がないため正規の依頼とはいえず、ほとんどお手伝いみたいなものだから、その報酬もお礼といったほうがしっくりくる程度のものだった。
「おいお前。お前だよ根無し草」
若き日のローエンワイツはその男が気に食わなかった。だからそんなふうに彼を呼んでいた。
別段、恨みがあるわけでもなかったのだが、強いて言えばロアマのくせして日に日に領民と仲良くなっていくのが、ローエンワイツにとって面白くなかった。とりわけ一人の女を笑顔にしているのには、どうにも無性に腹が立った。
「! これはどうも、ローエンワイツ様。ここはいい町ですね。土地も人々も素晴らしい」
道の途中で声をかけられ、
土で汚れた頬も、ローエンワイツがした呼び方も、男にとってはどこ吹く風といった塩梅だった。
「ふん、そんなことは当たり前だ。我が父上の領地だからな。それより貴様、いつまでここに長居するつもりだ」
「? 僕がいると困りますか?」
「ああ困るね。お前、『
ローエンワイツはかぶりを振って答えた。
失せ姓というのは、姓がない人への蔑称だ。
男のタグには姓がなく、もう帰る場所も、行く当てさえもないことを、ローエンワイツは知っていたのだ。
だからそのことを引き合いに出せば、さすがの彼だって不快な顔をするだろうと思っていた。しかし男は、それでも愉快そうに笑って言った。
「ははっ、僕は嫌われているようですね。でももう少しだけ滞在を許してもらえませんか」
「なんだ? ここにいても金は貯まらんだろ。そうだ! 金目の物を二つか三つお前にやろう! 売ればひとつ一等アシュエル金貨二枚と、二等アシュエル金貨一枚くらいにはなろう。それで問題ないな? お前も欲しいだろ?」
「おお~それはすごいですね……。でも、遠慮しておきます」
「なんでだ。一等金貨なんてお前には縁がないものだぞ。それともなんだ、金より欲しいものがあるってのか?」
「僕が欲しいのは……そうですね、頼りになる兄だとか、目の離せない妹だとか……僕はもう一度、家族が欲しいですね」
ローエンワイツは、男の答えによっては笑い飛ばしてやろうと思っていた。だができなかった。
きっと家族とは離散か、最悪の場合死別していてもおかしくない。なのに男は言ったのだ。なんの臆面もなく、兄か妹が欲しいなどと、到底叶わぬことを言った。
そしてそれは、ローエンワイツにも相通ずるものがあった。
ローエンワイツの母親は、数年前に出ていったきり戻っていない。こんなに満ち足りた生活を捨てて、どこかへ去っていってしまったのだ。
伯爵夫人が出ていくなど前代未聞だが、その理由はなんとなくわかっていた。他でもない、領主である父との仲違いだ。
父は何かにつけ領土を拡大したがり、練兵にばかり力を注いでいた。家庭をおろそかにするどころか、領民でさえ軽視している節があった。
思えば自分が成長するにつれ二人の不和は進んでいったと、ローエンワイツは追憶に耽る。
「……お前、本当にここがいい所だと思うのか」
ローエンワイツは男に尋ねた。
領主の息子として、いずれ家督を継ぐ者として男に問う。その態度は打って変わってしおらしく、雨雲のようにどんよりとしていた。
「どうしたんです? 急に」
「いいから答えろ。本当にそう思うのか」
――ロアマであるお前から見て……他の町を見たことがあるお前から見て、本当にそう思えるのか。
そんなローエンワイツを見て、男は目を細めて言った。
「……ええ、いい所じゃないですか。清水の湧く大地は緑豊かで、助け合う人々は
心臓を締めつけてくるのに、なぜだか心地のいい言葉だった。
ローエンワイツは力一杯唇を結び、まぶたを閉じることしかできなかった。
それからというもの、ローエンワイツは
あるときは自分の目指す理想を語り聞かせたり、あるときは領民の理想とする領地の形を探らせたりと、相変わらず尊大な態度をとるローエンワイツだったが、男は嫌な顔一つせず付き合った。
以前と違うのは、ローエンワイツが剣のない言い方をするようになったことだ。
「ドッピオです」
「んん? いきなりなんだ。お前の名くらい知っているよ」
「驚いた、知ってたんですね。一度も呼ばれたことがなかったので、もしかしたらと思いまして」
「ただ呼ぶ機会がなかっただけだ。それよりもお前、さっきの話どう思う」
「さっきの話……領主様の話ですか?」
それは季節が移ろい、そろそろ跡継ぎの話が現実味を帯びて、ローエンワイツが統治者としての在り方を模索し始めた頃のことだった。
「ああ、そうだ。父上は武力に重きを置いているが、私はそれでは駄目だと思っている。私は貿易などの外交を
「そうですね……。単純に守れるだけの力が欲しい領主様と、また別の方法で町を守ろうとしているローエンワイツ様と、僕はどちらも大事だと思うし、尊敬していますよ」
「……お前に訊いたのが間違いだったよ」
「いやいや、最後まで聞いてください。もしも二者択一で、領民としてどちらか一方を支持しろと言われたら、僕はローエンワイツ様を選びます」
「そうか! やっぱりお前もそう思うか!」
「ええ。守るうえで腕力は必要ですが、それはひとつの要素で、いざという時だけでいいんです。……それに僕は――」
「んん?」
「――壁に閉ざされていないこの町が好きなんです」
そう言うドッピオの横顔に、ローエンワイツは呆気にとられた。
本当は言いたいことが山ほどあった。しかしローエンワイツがそれを口に出せたのは、それから数年の時が経ち、ドッピオがロアマタグを返納し領民となって、自分が密かに想いを寄せていた女と家族になったあとだった。
「お前はいつだって人のいいところを探して尊敬しようとする。お前のそういうところは、危ういというか、あまり感心できない。駄目だと思うぞ」
「ははは、肝に銘じておきますね」
「お前……せっかくあの娘と結婚して姓を得たというのに、しっかりしないと――!」
言いかけて、ローエンワイツは言葉を詰まらせた。
初めて目にするものに、驚きを隠せなかったのだ。
「はは、ラテと正反対のことを言いますね。目の離せない妹みたいな存在と家族になって、頼りになる兄もできて……僕は、僕は幸せだなあ」
笑ってそう言うドッピオの瞳が、潤んでゆらゆらと揺れていた。
その頬にはいつもと変わらぬえくぼがあったが、そのときのそれには、何ものにも代え難い実意が垣間見えた。
「……オルド、検問録を持ってきてくれ。東西南北、すべての検問所からだ」
規則正しく鳴る柱時計の音に、ローエンワイツが割り込んだ。
「承知致しました」
そしてオルドレッドが部屋から退室すると、確固たる決意をその眼に宿し、統治者としてそれを口にする。
「ひとつ、お前との誓いを守ろう」
――誰一人として、この町の人を失せ姓にしないでくれよ?
「ひとつ、お前の想いを裏切ろう」
――いつまでも壁のない町でいるといいなあ。なあ、ローエン。
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