獣の慟哭

 化け物と対峙するノロ。膠着こうちゃくした時間が過ぎる。

「アイネさん、そろそろです。準備はできましたか」

 その声音に、アイネはノロの本気を感じた。

「ノロ兄ちゃん、大丈夫なんだよね……? ぼく、ヤだよ。ノロ兄ちゃんがもし――」

「大丈夫。コルテ、俺は大丈夫だよ。心配いらない」

 コルテの不安な心を、ノロが払拭する。

「なんたって俺は、国境越えのロアマだからね――」

 国境越えのロアマ。

 安全のない外の世界で、このような化け物の相手は嫌というほどしてきた。

 その響きにコルテは、勇気だとか、希望だとかいった熱い感情がこみ上げるのを感じた。

 しかし、アイネのほうはむしろその逆だった。

 確かに領の外、それも国壁の外ならば、数々の修羅場をくぐり抜けてきたことだろう。それにノロはフロトーからの領外依頼もこなしている。

 だが、アイネは知っていた。その狩りの対象は、こんなにも巨大な猪ではなく、ましてや猪ですらなく、兎だということを。

 いくら国外から来たとはいえ、なるべくこういった化け物との遭遇は避けてきたはずだ。

 万が一出くわしてしまったとしても、うまく逃げてきたはずなのだ。

 そうでなければ、今ここにノロが立っていることはないと、目前にある脅威の前ではそう思えて仕方がなかった。

「アイネさん。一、二の三、ですよ。準備はいいですか?」

「ノロくん……ノロくんっ、なにか他にいい方法を考えま――」

「一、二の――」

 アイネが言い終えるより先に、ノロが合図を出し始めた。

 ノロだって、別にどうしても戦いたいわけではない。こんな化け物に立ち向かうなんて、自分でも正気の沙汰じゃないと思う。

 ただ、この異常個体は、自分が逃げれば他の誰かを狙うだろう。

 そうなることが目に見えているのに、尻尾を巻いて逃げるわけにはいかなかった。

――ノロ、今日は狩りじゃない。仕留めることよりも、助けることを優先しよう。

 頭の中で、ドッピオの声が響く。

 そう、仕留めるのではなく、助けるのだ。

 ロアマであるノロだって、このオルタナ領を大事に想っているのだ。

 アイネやコルテ、ルミィにフロトーとクロッグ。それにラズカやカイルと、ドッピオ。そして、モカも。

 この町のすべてを守りたい。守れられればいいと願う。

「――三ッ!」

 つま先立ちで小さく飛び跳ねていたノロが、一気に前傾姿勢になって間合いを詰めた。

 イポトリルもそれを迎え撃つように走り出す。もうその血走った眼にはノロしか映っていない。

 その隙をついて、アイネがコルテを脇に抱えて走り出した。

 母強しとはよく言ったものだが、火事場の馬鹿力も働いているのだろう、脱兎の如く走り去る。

 振り返っては無駄になる。一刻も早く私兵団を呼んで、ノロの救助を頼まなくては。

 一心にそんな想いを抱え、アイネはその場を後にした。

 それを音と気配で感じ取ると、ノロはイポトリルとの一騎打ちに集中した。

 一秒が一分にも思える、なにもかもがスローモーションな世界で、ノロはイポトリルをかわすことを一番に考え、その身をひるがえす。

 間一髪で衝突と牙をやり過ごすと、すれ違いざまにイタチの切っ先をかすめさせる。瞬間、響きあがる鋭い鳴声が耳に痛い。

 しかし、ノロはひるまず転がって受け身を取りながらも反転、イポトリルの次撃に備える。間髪入れずに再びイポトリルの突進。頭突きの体勢に入るのを待って、衝突と回避の紙一重で飛び込む。そして一太刀。

 これがノロのイポトリルに対する戦闘スタイルである。

 剣を振ることもなく、ただ鋭く手入れしたその刃を当てて応戦する。

 さながら闘牛士のように、突進をすんでのところで擦り抜けてかわし、浅くとも確実なダメージを蓄積させていく構えだ。

 こうなると当然スタミナ勝負。通常ならばノロのほうが不利だが、初撃で背に食らわせた傷口は深く、今なおイポトリルの針金のような体毛から血がしたたっている。このまま一撃を重ねていけば勝機はある。

――目が慣れてきた。このままいけば狩れる。

 一撃、また一撃とイポトリルの攻撃を掻い潜りながら、ノロは確信した。

 カチカチと牙を鳴らしていたイポトリルが威嚇の咆哮をあげ、またもや突進を仕掛ける。

 ノロは瓦礫と化した塀に向かって走り、三角飛びからとどめを刺そうとした、そのとき。

 イポトリルの鼻先が「クンッ」と下がる。

――しまった!

 それは猪をはじめ、つのや上向きの牙をもった獣の常套手段。しゃくり上げだ。

 消耗戦からくる焦りと、勝利を確信した油断もあっただろう、猪突猛進という言葉があるが、猪は急停止からの方向転換も可能で特に注意が必要だ。最後まで気を抜くべきではなかったのだ。

 上顎の犬歯と擦りあうことで、常に鋭く研磨された牙がノロの右腕をえぐる。

 ノロは反射的にイタチを構えて防御したが、かろうじて脇腹を守れた程度。もはやこの腕ではツバメを扱うことは難しい。

 だが、それは同時にチャンスだった。

 イポトリルは上空に跳んだノロを追いかけるために、突進の勢いを殺していた。

 屋根からの初撃とは大きな違い。この好機をノロは逃がさなかった。

――絶対に外すな! すべてを賭けろ!

 すかさずノロはイタチを逆手に持ち替えると、背中越しに肺を狙い、ジンジンと痺れる右腕にも力を込めて、全体重を刃に預けて突き刺した。

 渾身の一撃はイポトリルの毛皮を引き裂き、大きく隆起した背中の筋肉をも掻き分けて、ついにその切っ先が肺の膜を突き破る。

 思わぬ反撃に金切り声を上げて振り落とそうとするイポトリル。

 それでもノロはイタチにしがみつく。歯を食いしばり、刃渡り五十五センチの刀身が見えなくなるほど、更に深く突き立てる。

――勝つ。勝って生きる。生きて勝つ……!

 脳内を反復する己の声に、ノロはその最期まで力を緩めなかった。

 ごぼごぼと湧き出る血と自身の右腕からあふれる血が刀身をつたって混ざりあう。

 そして、次第に動きを鈍らせていたイポトリルが、ついに、力尽きた。

 が、しかし。勝利の余韻もつかの間、ノロのすぐ右側から、もはや衝撃そのものといった凄まじい破壊音がとどろく。

「……冗談だろ……」

 ノロは呆れまじりに力なく笑った。

 完全に想定外だった。むしろ、その可能性を考えてさえいなかった。

 煉瓦の塀をぶち抜いて現れたのは、同胞の断末魔を聞きつけた、もう一頭のイポトリルだった。

 念頭に入れておくべきだったのかもしれない。しかし、イポトリルは群れなど作らず単独行動をする動物だし、それを知っていたからこそ、ノロにはそこまで考えが及ばなかったのだ。

 右腕は使えない。イタチを引き抜こうにも必ず隙が生じる。

 ノロがとった行動は、すぐさま死骸になったイポトリルを楯に隠れ、左手でツバメを構えることだった。

 刹那、まるで真っ直ぐな稲妻が走ったような音が辺りに鳴り響く。

「ノロ、キミなら無茶はしないと思っていたのに、案外やってくれるね」

 その音が消えるか否かのタイミングで、聞き慣れた優しい声がした。

 振り返らずともその声の主がわかったノロは、音に貫かれて沈んだ二頭目のイポトリルを見つつ、軽口を叩いてみせる。

「いけませんか?」

「いいや? よくやった」

 ノロの返事に同じく軽口を叩いたのは、他でもないドッピオだった。

 ノロの真似にしては少し低いが、崩壊を免れた物置小屋の上に立ち、いまだ銃口から紫煙をくゆらせるカモシカを、したり顔で肩にかついでいる。

 アイネには私兵団を呼ぶようにと頼んだのだが、途中でばったり行き会ったのだろう、ノロがもっとも信頼を寄せる人物を呼んできてくれたみたいだ。

「遅くなって悪かったね。こっちにも一頭いてさ。まさか三頭いるとはね」

「そっちもですか……。イポトリルが人里に、それも三頭も……?」

「ああ。迷い込んだとは考えにくいね」

 棲処すみかにしている森に異変があったのか、それともなにか別の原因があるのか、いくら頭をひねってもたどり着かない正解に、二人は難しい顔をして黙り込んだ。

「あーっ! ぃやっっっと見つけた! 置いてくなんてひどいよ! ノロこれ忘れ物!」

 ドッピオのいる物置小屋のそばから、随分とご機嫌斜めな声が飛び込んだ。

 緊張感あふれる場におよそ似つかわしくないその主張は、どれだけイポトリルが危険な生物なのか、認識が甘いというほかない。

「モカ、別に僕らは意地悪したわけじゃあないよ」

「うそ! だってわたしすっごーいおっきな声で呼んだんだよ! それなのに二人とも行っちゃうんだもん!」

「いやいや、ごめんね? 無我夢中だったっていうか……ノ、ノロもほら……!」

 イルカを片手に頬を膨らませ抗議するモカを、ドッピオがあちこち手を動かしてなだめる。

 その光景に、「たまにはドッピオに任せてもいいか」とノロは一人微笑んだ。

――これだ、これを守りたかったんだ。

 そこら辺に瓦礫が散らばるなか、これにて一件落着、と三人は笑いあった。いや、笑いあおうとした。

 それをはばんだのは、ノロの脇をかすめていった黒い突風。遅れて濃密な獣の匂いと、赤黒い飛沫が散る。

 その正体は、一番弱そうな者を狙う野生の本能。

――まだ生きてたのか……!

「モカ! 危ない!」

 ノロが叫んだ。二人が同時に反応する。ドッピオの顔は驚愕を示し、モカの顔が恐怖に染まった。

「撃てモカ! 撃つんだ!」

 モカが咄嗟にイルカを構えるのを見て、ノロが声を荒げた。その射線上に自分がいることなどどうでもよかった。

 しかし構えはしたものの、モカの手は震えるばかりで引き金を引くことができない。恐怖で動けないのだ。

 それがわかっていたかのように、ドッピオは素早く小屋から降りると、迫りくるイポトリルとモカの間に立ち塞がった。

 ノロも手にしていたツバメを投げるが、イポトリルの堅い毛皮や厚い脂肪と筋肉を貫き、致命傷を負わせるほどの威力はない。

 ましてや刃渡り二十センチの短剣では、しっかりと握っていたとしてもイポトリルの突進を止めることは難しかっただろう。

「クソッ! ドッピオさん撃――」

 そして、ノロはこの時になってようやく気づいた。

 ドッピオがカモシカを撃たないのは、残弾がすでに尽きてからだということに。

 しかし、それももう遅かった。なにもかもがもう、手遅れだった。

 イポトリルに跳ね飛ばされ、ドッピオの身体が宙を舞う。牙に引き裂かれたその身から鮮血の雨が降る。

 静止した時間のなかで、「放て!」という声と、鼓膜が破れるほどの轟音が聴こえた気がした。

 だがそれよりも、鳴りやまない耳鳴りの向こう側から聴こえる、獣じみた咆哮のほうがうるさかった。

 それが自分の叫び声だとノロが自覚したのは、すでに事切れたイポトリルに駆け寄り、めった刺しにしているところを、大勢の男たちに引き剥がされたあとだった。


 それから二日後の朝、領主オルタナが帰還した。

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