バ獣の襲撃

 検問所での制止を突破し、逃げ惑う領民の合間を駆け抜ける二人。

 悲鳴と怒号が飛び交うなか、ドッピオが周囲を注意深く警戒しながら言う。

「ノロ! キミは戻りなさい!」

 しかしノロは無言でドッピオとの並走を続けたまま、引き返すそぶりも見せない。

「……頑固だな、誰に似たんだか」

「…………」

 ドッピオの説得に対し、ノロはまるで「無駄だ」と言わんばかりに町の観察を続けた。

 領外にいたときは騒がしく感じる程度だったが、進めば進むほどに事態の深刻さが見て取れる。

 その有り様は酷いもので、喧騒の中心に近づくにつれ、立ち並ぶ家を区切る煉瓦の塀は崩され、庭先にある木板で建てられた物置小屋なんかは潰されていた。

 丸太造りの家は頑強で崩壊こそしていないが、窓やドアといった箇所は破られているものが目立つ。

 ドッピオは苦々しい顔をしながらも、突然このような状況に放り込まれパニックに陥った領民を見て、今は人手が必要だと決断した。

「……ノロ、無理はしないように」

「獣には慣れています」

 やっとドッピオの許可が下りたことに、ノロは口角をつり上げた。

 火の手でも上がっているのか、幾筋か煙が立ち昇っているのが見える。

 その凄惨な光景に違和感を覚えたドッピオは、急に立ち止まると眉をひそめた。

「おかしい……私兵団の姿が見えない」

 確かに。ドッピオの言うことはもっともだ。こんな騒ぎが起こっているというのに、町には悲鳴を上げながら逃げ惑う領民ばかり。領内に踏み込んでから私兵団の一人も見当たらないのは不自然だ。

 いくら領主が留守だからといっても指揮をとる人間がいるはずだし、事に当たっているとしても、一人くらいは避難誘導を担当する兵がいるはずである。

「ちょっと見てきます」

「えっ……? 見てくるってどう――」

 唐突な発言にドッピオが面を食らっていると、ノロは崩れた塀を使って三角飛びをし、いともたやすく民家の屋根へ登ってみせた。

 口をあんぐりと開けていたドッピオだったが、気を取り直してノロに言う。

「ノ、ノロ! 二手に分かれよう! 僕はみんなの救援にあたる! ノロは領主様の館へ行って、私兵団にこのことを知らせてきてくれ!」

「わかりました」

 ドッピオの提案を了承すると、ノロは館のほうへと顔を向けた。といっても、この高さでは他の家や木々が邪魔になり、館の屋根くらいしか見えない。

 登った家が二階建てか、あるいは教会の鐘楼しょうろうであったならもう少し見晴らしもよかったのだろうが、今はそんなことを言っている場合じゃない。

「ノロ、今日は狩りじゃない。仕留めることよりも、助けることを優先しよう。くれぐれも無茶はしないでくれ」

 ノロがその言葉に力強くうなずくと、ドッピオは煙の上がっているほうへと消えていった。


 それと同時刻、喧騒に混じって悲壮な叫び声をあげる女がいた。

「コルテぇぇ! どこなのぉぉっ! お願いだから返事をしてぇぇっ!」

 アイネだ。顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、愛する我が子の名を叫んでいる。

 時折、ぶつかった領民の服をつかみ、すがりつくように息子の所在を問うては、首を横に振られて絶望し、それでも町をさまよっていた。

「おか……さ……ん……おかあ……ん……!」

 声がする。弱々しい声だったが、アイネにはその声がしかと届いた。

 幻聴などではない、確かな質感を伴った声だった。

「コルテ……? コルテ! どこなの! どこにいるの!?」

 アイネがコルテの姿を探し、せわしなく視線を動かす。と、いた。

 崩れかけの塀の隅、大きな木片の瓦礫が倒れ掛かった井戸の陰に隠れて、コルテは震えていた。

「コルテッ!」

 アイネはすぐさま駆け寄ろうとした。が、できなかった。

 目と鼻の先に、血塗れの足を抱え、恐怖にがくがくとその身を震わせる我が子がいるのに、塀の向こうから現れたを見て、身動きが取れなくなってしまったのだ。

 イポトリル。

 頭頂部から鼻先にかけての体毛が禿げ、緻密骨ちみつこつが露出した大猪。

 その骨質の頑丈なコブは背中にも見られ、オス同士の争いや外敵から身を守るために発達したといわれており、そのさまが拳の拳頭に見えることからナックルボアとも呼ばれる。

 また、平均体長二メートル、肩高約一メートル七十センチ、体重およそ四百キロの巨躯から、岩猪との異名も持つ。もっとも、普通の猪との大きな差異は、スラリと伸びた四肢と首、それと蛇のように長い尾であろう。まるで駱駝らくだのような体型だ。

 加えて十五センチほどの鋭い牙を有しているが、気性は非常に神経質で警戒心が強く、どちらかというと臆病な性質である。が、しかし。

 興奮状態や窮地にあるときは、その限りではない。

「……コルテ……動いちゃダメよ……動かないで、そこにいて。……ね? お母さん、すぐ行くから……!」

 ピンと張り詰めた空気に、むせ返るような獣臭さが鼻を衝く。

 地を蹴る蹄。荒い鼻息。あんなものに体当たりをされたらひとたまりもない。おそらく大の男でも跳ね飛ばされてしまうだろう。

 それでもアイネは息子のもとへと駆けだした。

 例え恐怖が身体を突き抜けようとも、逃げる理由にはならない。

 足にこめる原動力はただひとつだけ。この世で自分がたったひとり、あの子を守れる母親だから。

 走り出したアイネに反応し、コンマ数秒遅れてイポトリルが地面を蹴った。

 その瞬発力はほんの数歩で巨躯を肉迫させる。

 にもかかわらず、アイネは防御の姿勢さえとらずにコルテへと手を伸ばした。

 イポトリルが頭突きの体勢に入る。それを見たコルテの息が詰まる。その衝突の寸前。

 母子の視界の上から飛び込んできたのは、銀色の光と白い影。

「ノロ兄ちゃん!」

「ノロくん!」

 そう、ノロだ。

 屋根から屋根へ跳び渡っていたときに窮地の二人を発見し、急ぎ飛び降りてイポトリルの背にイタチを突き立てたのだった。

 たまらずイポトリルが、不意に感じた焼けるような痛みにけたたましい鳴き声を上げて暴れだすと、ノロは蹴りと共にイタチを引き抜き、二人の前に降り立った。

 そしてその暴れ狂う獣から一刻も目を離さず告げる。

「遅くなってごめんね。よく頑張ったよ、コルテ。アイネさんも」

 ノロの後姿を見て、思わずアイネは泣き出した。

 それが安堵からなのはわかったが、その安堵は子を守れたからなのか、自分らが救われたからなのかは判然としなかった。

 コルテもそんな母にしがみつき、誰に言うでもなく泣き叫ぶ。

「もう大丈夫だよね!? ぼくたち、もう大丈夫なんだよね!?」

「……うん。大丈夫だよ」

 ノロはそう言いつつも、更に興奮してこちらを睨みつけるイポトリルを見て思考を巡らす。

――普通ならこれで逃げていくはずなのに、どういうことだ?

 目の前の獣は深手を負ったというのに逃げ出す様子がなく、それどころか、蹄で地を掻きならし、今にも突進せんといった勢いだ。

 もともとイポトリルは、人里に降りてくることなど滅多にしない。

 イタチを突き立てたときにその血走った眼を見て思ったが、この個体が異常なのだとみていいだろう。

 イポトリルから目を離せないノロは、背中越しに二人に問う。

「……二人とも、走れる?」

「それが……コルテは足を怪我しているみたいで」

「……そうですか……」

「だ、大丈夫、私が抱えて走るわ! 早く逃げましょう!」

 逃げても追いつかれるというのに、涎を垂らした強大な獣を見てアイネが口走る。相当混乱しているようだ。

 だからというわけじゃないが、ノロはそれを断った。

「……それならよかった。こいつは俺が引き受けます。アイネさん、俺が合図をしたら、コルテを連れて逃げてください。私兵団へ連絡をお願いします」

「な、なにを言ってるのノロくん!」

 あんな巨大な猪に、どうやって勝つもりなのか、正常な判断力が失われているアイネにも、どうやったって勝ち目がないことくらいわかる。

 しかし、ノロは左手に持ったイタチを血振りすると、「たーん、たーん」と独特なリズムでステップを踏み始めた。

 二人を逃がしてから自分も逃げるつもりかとも思ったが、どうやらそうではないことがその背中から伝わる。

「チャンスは多分、一度です。アイネさん、準備をして」

 狂気を秘めた少年と、凶器を持った獣が対峙する。この場において正常といえるものは、もはやなにもなかった。

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