ノロの空白

 のどかな昼下がり。

 草が禿げて茶色い地面が露出した道を、一人の少年が歩いていた。

 年老いた老人のような白髪と、星を摘み取った夜空のような黒い瞳。それがここオルタナ領で、モカの兄として知られる少年のトレードマークである。

 名前はノロ。キッサー家に居候している身だ。

「あら、ノロくんこんにちは。フロトーのところ?」

「こんにちはアイネさん。ええ、いつもの依頼です」

 アイネが洗濯したシーツを物干し竿にかけ、パンパンと叩きながら言う。

「あら? じゃあちょっと早いんじゃなあい? うちでお茶でもどう?」

「それはいいですね。でも、明日から勉強を始めることになりまして。早く用事を済ませて、今日は早めに休めと。また今度お邪魔しますね」

「そう、残念。まあ、お茶はキッサー家のほうがおいしいものね」

「とんでもない、ツィーグラー家もおいしいですよ。それでは」

 ノロはアイネと別れると、てくてくと歩を進めた。その後ろで「勉強?」という声が聞こえた。


 ノロに姓はない。ただのノロだ。姓は失った。

 例えば喫茶店を営むドッピオや、その扶養家族であるモカにはキッサーという姓があるし、今声をかけてきたアイネには、ツィーグラーという姓がある。彼女は煉瓦職人の家に嫁いで、その姓になった。

 婚前の姓はシュミットといい、彼女の実家は鍛冶屋なのだが、結婚を機にツィーグラー家に入ったのだ。

 本当は結婚してもシュミットを名乗るつもりだったのだが、昔気質むかしかたぎな父親に、「女の細腕に鉄が叩けるか! おとなしく嫁に行け!」と一蹴され、ツィーグラーに姓を変えた。今はコルテという子宝にも恵まれ、幸せな日々を送っている。

 このように、基本的に姓はその家の生業を示す。つまり職業姓である。

 では、なぜノロには姓がないのか。これは珍しいことでも、難しいことでもない。

 家計が立ち行かなくなったり、何らかの理由で没落したりして家財を失うと、姓を名乗れなくなる。ありふれた話なのだ。

 再び姓を得るには、養子か婚姻などで別のところに籍を置くか、あるいはなにかで財を成し、再興するかして手に入れるしかない。

 ノロがキッサー家で暮らし始め、その生活に馴染み始めたころ、一度ドッピオに「ロアマタグをこのオルタナ領に返納して、キッサーを名乗るといい」と勧められたことがあった。

 しかし、ノロは「そこまでお世話になるわけにはいきません」と断った。

 それが正しかったのかはわからない。ただ、ドッピオは悲しそうな顔をしたが、モカはロアマタグを手に入れた。きっと、これでよかったのだと思う。


「フロトーさん、こんにちは。ノロです。来ましたよ」

 ノロは丸太造りの家の前に立ち、ドアを叩いた。すると、中からどたどたと慌てた足音が近付いてきて、ノロが後ろへ下がると同時、そのドアが開いた。

「おま、ノロ、早えよ! まだクロッグのとこから弾が届いてねえぞ!」

「平気ですよ。俺にはこれがあれば」

 眉をハの字にして焦るフロトーに、ノロは右腰に下がった剣の柄を叩いて見せた。

 剣の鞘は真直ではなく、少しいびつに曲がっている。

 この剣はノロの愛用で、浅くS字を描いた刃にあわせて、切っ先が少し前に突き出た湾刀だ。

 刀身の根元から三分の二ほどは片刃だが、先端部分は両刃になっている。

「いや、お前……確かにいつもお前が獲ってきたもんに弾痕はねえけどさ……」

「それにこれもありますよ」

 渋い表情で言葉を漏らすフロトーに、ノロは左腰に固定された短剣を叩いた。

 こちらもノロが愛用している、刺突に長けた三角形の刃をもつ鋭い逸品だ。

「はあ~……わかったよ、わかったわかった。でも、ほれ、一応持っていけ。でねえと、俺がドッピオに怒られちまう。なにかあったときゃあ、モカちゃんにもな」

 フロトーはそう言うと、玄関内の脇に飾ってあった一丁の短銃を寄越した。

 ついでに「ちょっと待ってろよ」と奥に引っ込み、戻ってくるとホルスターも一緒に投げ寄越した。

「そいつは太腿につけろ。腰のベルトから吊るせば落ちねえし、ホルスターのベルトを絞れば、お前の脚でもぴったりになるだろう。どれ、つけてみろ」

 ノロはフロトーに言われるがまま、ホルスターを左の太腿につけた。

 少し違和感があるが、フロトーの言う通り、ホルスターに短銃を納めてもしっかりと固定されていて、邪魔にはならない。

「お言葉に甘えて借りていきますね。今日も一匹でいいんですか?」

「おうよ! 持ってけ持ってけ! そうさなあ、一匹で充分だが、余裕があれば二匹頼みたい」

「わかりました。それじゃあ、いってきます」

「ああ。無理はするなよ! 油断禁物だ!」

 ノロはきびすを返すと、フロトーの「気ぃつけてなあ」という声を背に、検問所へ向かって歩き始めた。

 思えば正式なものではないものの、こうして依頼を頼まれるようになったりお茶に誘ってくれるようになったのは、キッサー家で暮らすようになってちょっとした頃からだ。

 依頼の内容は様々だが、それから徐々に頼まれることが増えていった。

 こうして定期的に入る依頼もそうだ。

 ノロは思う。なにも言わないけれど、きっとこれは、ドッピオが一枚噛んでいるのだろうと。

「一番大変なのは、あなたからの依頼だよ、ドッピオさん。確かに、楽な仕事じゃあない」

 そして、小さく独り言ちた。あの日のことを思い出しながら。

 そういえばあのときもこんな、のどかな昼下がりだった。


――やあ、キミがノロくん?

 少年が木陰で丸まって寝ていると、低い声が響いた。

 まるで洞窟のなかにいるようだと思った。

 しかしそんな冷たく湿ったものではなく、その男の声は、春の日向のようだった。

「ええ、そうです。……なにか」

 少年は身を起こし、木に寄りかかって返事をした。

 長旅でへとへとに疲れているが、せめてもの礼儀のつもりだった。

 だが、男はさして気にもしていない調子で言う。

「いやあ、ここは少し、肌寒いだろう。僕の家に来ないかい? それに、ここで寝ては身体が痛くなってしまうよ」

 なんのつもりだと思った。少年は知っているのだ。この町の人々に、自分が気味悪がられていることを。

 だから少年は怪訝な表情たっぷりに、男を見上げて言ってやった。

「……ありがたいですが、遠慮しておきます。それに、俺のタグプレートの話を聞いたはずです。俺のようなやつをそばに置くのは、あなたのためにも……、娘さんのためにもなりません」

 少年は両腰の剣と短剣をぽんぽんとなでながら、男の陰に隠れている女の子を見た。歳からして、二人は親子だと思ったのだが、否定しないところをみると、間違いなかったようだ。

 しかしそれでも、男の調子は崩れない。

 それどころか、この物騒な身振りに笑顔のひとつも欠けることがなかった。

「はは、そうかなあ、そうだね。ではこうしよう」

「なんです?」

「依頼だ。僕が働いている間、この子を見てやってくれないか。店の手伝いばっかりして、ちっとも遊びに行きやしないんだ。報酬は、寝床と食事。どうだろう、楽な仕事じゃあないよ。この子はきっと、おてんばになる」

 少年は、ああ、この男は頑固なんだなあ、と思った。そうとしか思えなかった。

 少年のタグプレートは、『ノロ』というところ以外、読めないようになっていた。

 半分は、自然とそうなった。半分は、自分でそうした。

 そんな不備だらけなタグプレートにもかかわらず、国壁通過許可証を持っている。そんなもの、不気味に思われて当然だ。

 こんな小さな町、話が拡がるのなんてあっという間だろう。男の耳にも入っているはずだ。

 そして、悪い噂に巻き込まれるのだって、あっという間だ。

 だから断ったのに、男は頑固にも言い方を変えただけで、言い分を変えようとはしない。

「…………」

 少年は男に対し、黙ることで意思表示をしようと試みた。しかし頑固な男に通じるはずもなかった。

「僕はドッピオ。ドッピオ・キッサー。それと――」

 男はもじもじと後ろに隠れている子を差し出し言った。

「この子はモカ。よろしくね」

 栗色の柔らかそうな髪と、ヘーゼルの瞳がきれいな子だった。

 もう男のなかでは、依頼を受けてくれるものだとなっているらしい。

 だが少年は、それも悪くないか、と思った。どのみち、この男は頑固なのだ。

「……どうも。俺はノロ。ただのノロです」

 すると、男は満面の笑みを咲かせた。目がなくなってしまうんじゃないかと思った。

「ようこそ、キッサー家へ。キミたちが兄妹になってくれたら嬉しいなあ」

 少年が、さすがに兄妹は無理だろう。後ろの子、モカって子は、ずいぶん恥ずかしがり屋みたいだし。と思っていると、その場に可愛らしい声が響いた。

「ノロ兄ちゃん、くさい! お父さんお湯沸かそ! お家帰ってお風呂の準備!」

「…………」

「…………」

 一瞬の沈黙のあと、男の愉快な笑い声が上がるなか、少年は「おてんばね……これは楽な仕事じゃなさそうだ」と呟き、口もとに小さな笑みを浮かべるのだった。


 領外へ続く道をノロが歩いていく。

 早く依頼を片付けなければ、自分のいない間に、またあのおてんば娘がなにかしでかすやもしれない。

 ふと、ノロは立ち止まり、くんくんと、自分の肩の辺りの匂いを嗅いだ。

「匂いがつかなきゃいいけど……帰ったら風呂かなあ」

 そしてまた、一歩を踏み出した。

 やわらかな陽気のなか、口もとにあの日のような笑みを携えながら。

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