モカの夢

 凛と澄んだ空気が溶け始めた、清々しく気持ちのいい朝。

 とある二階建ての家に、真っ白な朝日が差し込む。

「ノロ~……」

「うん?」

「ひまだよう」

 居住スペースとなっている二階ではなく、喫茶店として使われている一階に、この家の住人がいた。モカとノロである。

 モカは客のいない五人掛けのカウンター席の真ん中で、腕を枕に突っ伏して座り、脚をぶらぶらさせている。いかにも暇を持て余しているといった様子だ。

 その後ろ、二つ用意された四人掛けのテーブル席にも客の姿はなく、店内にはモカとノロの二人しかいない。

「まだ朝だからね。昼には誰かしら来るよ」

 カウンターの奥で、ノロが背中越しに答えた。

 さきほどから包丁でも研いでいるのか、しゃりしゃりと鋭い音がする。

 脚を振り子のようにする以外、全身を脱力させて、モカがまただらしのない声を上げた。

「ノロ~……」

「うん?」

「……探検したい」

「店番終わったらね」

「……冒険したい」

「店番終わったらね」

「……旅したい」

「店番終わったらね」

「…………」

「モカ、これも立派な依頼だよ」

 今二人は、ドッピオから店番を頼まれている。

 そのドッピオはといえば、朝早くに出かけて帰ってきたと思ったら、「店番頼んだよ」の一言だけを残し、丈夫そうな革製のケースを抱えてまたどこかへ行ってしまった。

 二人の朝食はきっちりと作って出ていったが、なにやらバタバタと忙しそうなドッピオに、「いってらっしゃい」と声をかける隙もなかった。

 退屈なモカは、その中身がなんなのか考えていたが、すぐに飽きてやめた。大きな長方形のケースには、なんだって入りそうだった。

「依頼って言ったってさ~……」

――お父さんからのだし。正式な依頼じゃないし。依頼執行証もらってないし。依頼斡旋所さえないし。これただの店番だし。いつもやってるし。

 そんな言葉の数々が、次々と浮かんではモカの喉元までこみ上げる。

 それらを新鮮な空気と一緒に呑み込んで、閑古鳥が鳴く店内、庭先でひらひらと蝶が舞うのを目で追いながら、モカはひとつ、大きなあくびをした。

「ノロ~……」

「うん?」

「なにかお話しして?」

 モカの唐突なお願いに、ノロは手を止め考えた。

 お話してと言われても、モカの退屈を吹き飛ばすような面白い話はない。

 こんな小さな町で起こったことなんて、数時間後には誰もが知っている話になるし、そうでなくとも、ほとんど一緒にいるモカが知らない話なんて、そうそうあるとは思えなかった。

 ノロは振り返ってモカを見る。

「お話ね……。三等金貨は、一等銀貨のだいたい何枚分でしょう……とか?」

「ストップ! 算術の話はやめて」

 なにかから身を守るように、咄嗟に頭を抱えたモカのその右手を見て、ノロはひとつ思い浮かんだ。要は暇を潰せればいいのだ。

「モカはさ、どうしてロアマになったの? どうしてそんなにロアマになりたかったの?」

 モカの親指に嵌まった、ロアマタグと呼ばれる指輪。それを手に入れたいと思った理由。

 ノロはそれを、今までモカに訊いたことがなかった。

「それはね~……。う~ん……夢だった、からかな――」

 そう言ってモカは目を閉じると、記憶をたどった。

 心地のいい微睡みに落ちていくさなか、いつか自分も、ノロにそう尋ねたことを思い出した。

 そうか、自分が夢を叶えられたのは、大好きな兄のおかげなんだ、と思わず頬が緩んだ。


 いつからロアマになりたいと思ったのか、実はあまりよく覚えていない。ただ、その想いが褪せてしまった日のことは、今でも鮮明に覚えている。

 モカは、ロアマに対して並々ならぬ憧れをもっていた。

 一生を生まれた領地で終える人が多いなか、広い世界へ足を踏み出してゆくロアマを尊敬した。

 だからドッピオの語る冒険譚は、いくら聞いても飽きることがなかったし、モカにとって、ロアマだった父とロアマになった母は、誇りだった。

 そんな家庭で育ったモカが、自分もそうなりたいと思うのは必然だったのかもしれない。

 そうしてその想いは一歩一歩、十四歳に近づくにつれて、日増しに高まっていった。

 ある日のことだった。モカはみんなの前で「わたしはロアマになる」と宣誓してやった。

 自分一人では抱えきれなくなった感情を、誰かに聞いてほしかった。また、人に決意表明をすることで、自分がどこまで本気なのか確かめるつもりでもあった。

 ドッピオをはじめとする町の人々は、事あるごとに「考え直せ」と言ってきたが、やはり決意は揺るがなかった。

 そんな日々が続いた、ある朝。

 まだ空が白んだばかりだというのに、いそいそと出かけるドッピオを見かけた。モカはそのあとを隠れてついて行った。

 そのときは、ただの好奇心であったり、急に出て行って驚かしてやろうなどといった、些細な悪戯心であった。いずれにせよ、ちょっとした戯れのつもりだったのだ。

 ほどなくして、モカの小さな冒険は、目的地にたどり着いた。

 ドッピオが足を止めたのは、教会の奥にある墓地だった。

 モカもその場所の意味は知っていたが、だからこそ立ち入ったことがなく、ドッピオはなぜこんなところへ来たのだろうかと不思議に思った。

 その雰囲気と静けさに身動きが取れなくなって、完全に出ていくタイミングを逃したモカは、座り込んだドッピオの背中を、ただただ眺めていた。

 そしてそのとき、聞いてしまった。否、聞こえてきてしまった。

 コロコロ、リンリンと鳴く虫のさざめきの合間に、墓石のことを「ラテ」と呼ぶ、ドッピオの声が。

 その名前をモカは知っていた。ロアマになってどこか遠くへ旅立ったはずの、恋しい母の名前だった。

 そして同時に、モカは悟ってしまった。母がその旅路から帰ってくることはもうないのだと。

 モカは走った。家に向かって走った。

 後ろから得体の知れない恐ろしい化け物が、「知らなかっただろう」と嘲りながら追いかけてきている気がして、それを振り切るように全速力で走った。

 それからは、母や姉の話は控えた。そうしないと、再びあの化け物がやってくる気がした。あれに赦してもらうためには、知らん顔を突き通さなければならなかった。

 また、自分がなにか悪いことをしてしまった気がして、それを隠すために、一生懸命父の手伝いに励んだ。あれだけ焦がれたロアマへの想いも、そのときを境に、急に萎んでいった。

 ところが、町の人々はロアマになると言った自分を応援し始めた。もうそう思っている自分はどこにもいないというのに、優しいまなざしで応援し続けてきた。

 モカは「もうやめたの」なんて言い出せなかった。小さな身体のなかの淀みは増す一方だった。

 しかし、それは突然現れた。

 ノロという怖い目をした少年は、一振りの刀剣と一本の短剣、そして、ロアマタグを身に着けていた。実物を見たのはこれが初めてだった。

「ノロ兄ちゃんは、どうしてロアマになったの? どうしてそんなにロアマになりたかったの?」

 気がつけば、モカは訊いていた。

 自分が失ってしまった気持ちはどこへ行ってしまったのか、知りたかった。

 ノロは言った。

「怖いんじゃないかな。知らないってことが。知らなかったで済む後悔なんて、どこにもありやしないんだよ」

 肺が、息をすることを思い出したみたいだった。

 心臓が、鼓動を取り戻したみたいだった。

――知ってしまうことは、怖いことじゃないんだ。

 それからというもの、モカはたくさんの話をノロにせがんだ。

 ノロは七日通しについては「もう昔のことだから」と曖昧な返事を繰り返したが、そのほかのことならなんでも答えてくれた。

 この世界は、七つの大陸と二つの海でできていること。

 そこには不落の十二国家と言われる国々があり、ここオルタナ領が属するアシュエル公国連盟も、そのうちのひとつであること。

 ヒトには様々な人種があり、自分たちはサリードという、大した特徴のない人種だということ。

 ノロの話はドッピオよりも壮大で、色濃くて、知らない話を聞くたびに、あちこちに散らばった自分の気持ちを拾い集めているような気分になった。

 そのうちモカは気がついた。

 自分がロアマになりたいと思ったのは、こうした人に追いつきたいからなのだと。

 知らないのなら知ってゆけ。今までどのような気持ちで、父が自分に隠し事をしていたのか。

 化け物はもうどこにもいない。モカの心にもう一度、大火が灯った。


「やあ! 遅くなってごめん! ノロは今日依頼が――」

 手ぶらになって帰ってきたドッピオが開口一番に謝ると、ノロが「シー」っと唇に指を立てた。

「初めての依頼に緊張したみたいです」

 すやすやと寝息を立てるモカのため、ノロが取り繕った。

「……この寝顔……いい夢でも見てるのかな」

「きっとそうでしょう。直前まで、ロアマの話をしていましたから」

「はは、夢を叶えたと思ったら、寝てるときの夢でまでいい思いをしてるのか。依頼をほっぽらかしていいご身分だ」

 二人は笑いあう。残念ながら、ノロは結局、モカがロアマを目指した理由を聞きはぐってしまったが、こんな幸せそうな寝顔をされては仕方がない。

「さあ、ノロ。今日は依頼があっただろう? もうお行き。今日は早めに休みなさい。明日から勉強をしてもらうよ、モカと一緒にね」

「勉強、ですか?」

 思わず聞き返したノロだったが、ドッピオの強く澄んだ笑顔を見て、「わかりました」とだけ返した。

 庭先を飛んでいた蝶が、そのはねを休めていた。

 ぽかぽか陽気と一輪の花に身を預け、ゆったりとくつろいでいるようだった。

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