ドッピオの決意
白んだ空にまだ朝靄がたちこめるなか、滲む朝日に佇む一人の男がいた。
靄は遠くの木々を影に変え、手前に立つ木柵の輪郭をもあやふやにする。
ここはオルタナ領北方にある教会の、更にその奥の丘。オルタナ領で最も静かな場所だ。
「ラテ。モカがロアマになったよ」
細身だが背の高い、清潔感あふれるその男は、緑色の地面を切り取る四角い石に向かって話しかけた。
表面がつるつるに研磨されたきれいな真四角のそれは、この丘のところどころに点在しており、それぞれに彩とりどりな花が手向けられている。
ピンと背筋を張ったものや、ぽってりと頭を垂れたもの。花弁の多いものと、少ないもの。
色だけでなく多種多様な花がそれぞれに飾られ、そのどれもが可愛らしい。
「まいったよ、本当になっちゃうなんてさ。まだ絵本だってろくに読んでやれてないのに……。僕のもとから離れて行ってしまうんだ。……僕もついて行きたいけど、キミと生きていくと決めたとき、タグはもう返還してしまったし、家長がいなくては、家はなくなる。そうなれば……僕ら一家は……」
ぽつりぽつりと言葉を落としながら、男も石へ花を供えてやる。白く小さな花弁の、美しい花だった。
その石には、『ラテ・キッサー 愛しい家族』とある。この石の下に眠る者の名と、その祈りだ。
「わかってるよ。あの子なら大丈夫、って言うんだろ? 僕だってそうさ。そう思う。あの子なら大丈夫。……でも、でもね、いくらなんでも早すぎるよ。僕らが家族と過ごす時間は、いつだって短すぎる」
男は石に掘られた文字を指先で撫でながら、言葉を続けた。
「僕はクレマにだってろくに絵本を読めてやれてないんだ。そりゃあ、フィナムだったのだから喜ばしいことさ。しかも
石の肌をくすぐる、少し伸びた草をいじり、男は「ほうっ」と息をついた。
そして声のトーンを少し上げると、いくらか柔らかな眼差しで言った。
「そういえば、キミも知っていると思うけど、ノロがうちに来て……お兄ちゃんができて、モカはとても変わったよ。なんていうか、我慢しなくなった。いい意味でね。瞳の色もだけど、ますますキミに似てきたと思わないかい? ……あの子がモカのそばにいてくれたら、僕も少し安心できるのだけど……僕にはそんな酷なこと頼めないよ。もうノロだって、大事な家族なんだ。きっとこれまで大変な思いをしてきたのに、またそれを味あわせるだなんて、僕には……」
男が石に語りかけていると、さく、さく、と草の踏みしめる音がした。
その足音の主が男に声をかける。
「ドッピオさん。お早いですね」
「ど、導士様。おはようございます」
頬をかいて、ドッピオが「お恥ずかしいところを」と照れくさそうに笑った。
導士はそれをにこにこと微笑みながら否定する。
「いいえ。夫婦間で我が子の話をすることの、どこが恥ずかしいものですか」
すると、それを聞いたドッピオは顔を赤くして、呟くようにして言った。
「……いつから聞いていらしたので……?」
「あっ」
ドッピオの返答に、導士は視線を宙に逃がした。
ドッピオはこの靄のせいで、導士の存在に気づいていなかったのだろう。導士は相当前からドッピオの話を聞いていたようだった。
二人の間にしばしの沈黙が下りる。その間に耐え切れず、導士はひとつ、ごほんとせき払いをすると、「ところで」と話を振った。
「モカさんのロアマタグ、ご覧になられましたか?」
「もちろんです。困ったものですよ、見て見て、と何度も見せびらかしてくるもので」
「ははは、目に浮かびます。では指輪も、ご覧になられましたか?」
「ええ。あの子の小さな手にあの太い指輪は、なんだか不格好で」
「なぜ親指に嵌めているか、なぜ親指のサイズで申請したかはご存じで?」
「えっ……さあ……?」
朝靄が晴れつつある。
丘に整列した石の表面が、より強くなった朝日を、鏡のように反射している。
「あの子は、ラテさんに似て、あなたが大好きなのでしょうね。そしてあなたに似て、家族が大好きだ」
頭の上に疑問符を浮かべるドッピオに、導士は続ける。
「さぞ、人々に自慢することでしょう。親指の指輪を見せつけて、私はこの人のためにロアマになった、と。親指は、父を象徴する指ですから、ね」
「……僕のため、ですか……」
ドッピオはうつむいた。
それは、自分のためというのならそばにいてほしい、という想いを口に出さずとも済む、ドッピオの声なき叫びだった。
それなのに、ドッピオの口はこう言うのだ。
「あの子が様々なものと出会い、見聞きするのは、喜ばしいことです。その傍らに、僕がいるというのなら、なおさら……」
自身が元ロアマということもあって、その素晴らしさはよく知っている。
良いことも、悪いことも、経験という一言に勝るものはない。
しかもその果てに妻と出会い、家を持ち、家庭を築けたのだから、ロアマを否定するなんてことは、到底できなかった。
しかし、それでもやはり我が子の幼さを思うと、目の届かないところに行ってしまうという事実のほうが重く、どうしても、ドッピオの顔をうつむかせるのであった。
「……あの子は、好かれていますね。愛されています。この町の人々に。ご存知ですか? ルミィさんは、食べきれもしない量の干し肉を作っていますよ。冬はもう過ぎたというのに」
「……え……?」
唐突な質問に不意を突かれ、ドッピオは顔を上げた。導士は答えを待たずに、構わず話し続けた。
「アイネさんは、コルテの坊やを連れて、毎朝毎晩、お祈りに来ます。……ああ、そうそう、アイネさんは最近、旦那さんに、チーズをなるべく使わないようにしろ、と厳命されたそうです。大好物なくせに、と笑ってらっしゃいました」
「…………」
「クロッグさんは、こんなのどかな田舎町だというのに、火薬の準備に忙しそうです。その奥方は、せっせとフード付きの外套を仕立てているとか。……皆さん、笑って仰います。止めても無駄だからこうするのだ、と」
ドッピオはまたもうつむいた。そして拳を握りしめるのだ。自分もそうあるべきだと、奮い立たせるために。
絵本よりもロアマの話をせがむようになったあの日より、置いてきてしまった覚悟を取り戻すために。
若き日の自分のように夢見がちで、愛する妻のように奔放な愛娘を、笑って送り出せるよう。
「ドッピオさん。ノロくんは、待っていますよ。無茶なモカさんについて行ってくれないかと、ほかでもない、家族に迎え入れてくれたあなたの口から、そう頼まれるその時を。あなただっておわかりでしょう? あの子が、ノロくんがどんな子か」
「――ええ。
パッと顔を上げ、真っ直ぐな瞳でドッピオは言い放った。
ずっと欲しかった息子を想って。己のなかにある迷いを捨てるように、甘えを捨てるように、自らの決意を込めて。
導士は一瞬、驚いたあと、顔つきの良くなったドッピオを見て、目尻のしわを穏やかに浮かべこう尋ねた。
「ドッピオさん。あなたは、愛する我が子たちのために、これからどうするおつもりですか?」
すると、ドッピオも目を細め、清々しい面持ちでこう言った。
「とりあえず、鬼になろうと思います。差し当たっては銃の扱いと教養。これができていなくては、いくら可愛い子と言えども、旅はさせられませんからね」
そして、導士には見透かされていた自分の想いを、決意を、しっかりと口にした。
「……もう、止めようなどとは思っていません。僕の子は……僕らの子たちは、きっと大丈夫ですから」
ドッピオと導士は、互いに晴れた笑顔を向けあった。
朝日はいつの間にか高く昇り、靄はきれいに晴れていた。
自分のいないところで、まさかこんな話になっているとは、当の本人たちは思いもしていないだろう。しかしどれだけ嫌がろうとも、今のドッピオの顔を見てしまえば、断ることなんてできないのだ。
丘に気持ちのいい風が吹く。ぽかぽかとした陽気のなかで涼しいその風は、白い花弁をゆらゆらと揺らした。
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