オルタナ領の人々
日も落ちかけた夕暮れ。
二階の自室のベッドで、モカは大の字になって寝転がっていた。
その顔はどこか憂鬱そうで、八日前に十四歳の誕生日を迎えたばかりだというのに、普段の天真爛漫なモカはどこかへいってしまったようだった。
「……わたし、ロアマになったんだ……」
天井に向かって手をかざし、モカは右手の親指に嵌まった指輪を眺めた。
雲間を抜け、窓から差し込む黄金色の夕日に、指輪はただ鈍い光を放っていた。
あのあと、ステイプレートをもらって家路についたモカは、目の前の光景に口を尖らせた。
七日通しを終えたお祝いに、てっきり豪勢な食事が待っているものだとばかり思っていたのに、そこに用意されていたのは、お粥やスープなどの流動食ばかりであったからだ。
当然、不服を申し立てたモカだったが、ドッピオは「身体に障るから今はこれで我慢するように」と、取りつく島もなかった。
あのノロでさえも「ほんとに危ないからね」と追従していたぐらいだ。
そんな二人の様子に観念したモカが渋々食事を済ませると、今度は「眠くない」と言っているのに「とにかく休め」と自室に追いやられ、仕方なしにベッドに寝転がってロアマタグを眺めていたのだが、いつのまにか寝てしまっていたらしい。
それから目が覚めたのはついさきほど。まるで長いまばたきをしていたかのように、自然と目が覚めた。
「お父さん、普通だったなあ……」
かざしていた手を額に当てて、モカがつぶやいた。少しだけ、切ない声だった。
それとは対照的に、喫茶店を営む一階から、包丁がまな板を叩く小気味のいい音が聞こえてくる。
そのリズミカルな音楽に、夕飯こそは豪華な食事でお祝いしてくれるはずだと期待を募らせた。
モカの腹時計が七日通しで狂っていなければ、まもなく夕飯の支度が整う頃合いだろう。
そう思っていると、部屋のドアがガチャリと開いた。
「モカ、起きてる? ご飯、準備できたよ。下に降りといで」
ノロだ。声を抑えて呼びかけるくらいなら、ドアを開ける前にノックかなにかすればいいのに、とモカは思った。
「起きてる。ご飯なあに?」
「具だくさんのシチュー……かな」
ノロが歯切れ悪く答えた。胸に詰まった期待が、急激に霧散していく。
「……お肉入ってる?」
「え、それは~……まあ、とにかく下に降りておいでよ」
モカは思う。これは夢を見ないほうがよさそうだ、と。
こういうとき、ドッピオは厳しくなる。
普段はこれでもかというほど甘いのに、娘の健康や体調に関しては、その態度は一変、融通が利かなくなるのだ。
モカもそれがドッピオの愛情だということはわかっているが、それでも、少しくらいお祝いしてくれてもいいのに、と思わずにはいられないのだった。
「別にこの家から出ていきたいってわけじゃないのにな……」
そう小声でこぼしながら、ギシ、ギシ、と階段を軋ませて一階に降りると、モカは呆気にとられた。後ろでノロの、クスクスと笑う声が聞こえた。
「主役のご登場だ! グラスを掲げろお!」
「モカちゃんこっちよ。ほらおいでなさいな」
「はははっ! おい見ろよあのツラ! ノロ! お前うまくやったみたいだな!」
「ノロくんじゃバレちゃうと思ったんだけど……大丈夫だったみたいね」
「……カンパイはまだか。腕が疲れるぞ」
モカの姿を見て、小太りで無精ひげの男が声を張り上げた。
その声を合図に、白髪を大きなみつあみにした老婆が手招きをし、おでこの広いちょび髭はノロに向かって親指を立てた。
その隣には、ほっと胸をひと撫でするおっとり顔の美人が座り、奥ではいかにも無口そうなガタイのいい男が、律義にずっとグラスを持ち上げて待っている。
そのほかにも見知った顔が、モカにあたたかい笑顔を向け、わちゃわちゃと賑わっていた。
「フロトーさん……ルミィ婆、クロッグさん、アイネさん、カイルさんまで……みんなどうしたの……?」
モカは茫然としながら尋ねた。
目の前のことを理解しようとみんなの名前を呼んでみたが、それでも脳の処理が追い付かない。
そんなモカを見て、ドッピオがふんわり微笑み言った。
「どうしたのって、お祝いさ。サプライズ成功かな?」
トントン、と、なにもないまな板を包丁で叩くドッピオ。
どうやらそれを、階段に待機させたノロへの合図にしていたらしい。
この場はモカに内緒で準備された、サプライズパーティだった。
ドッピオは集まったみんなの笑顔のなか、一際優しい笑顔で言った。
「――モカ。ロアマになったね。おめでとう」
その笑顔に、モカの瞳が潤む。
その一言が欲しかったのだ。豪華な食事よりもなによりも、その一言だけが。
食べる物もなく話し相手もいない、暗い地下で過ごした七日間、どれだけつらくても、その言葉を思い浮かべると頑張れた。
ステイプレートをもらった帰り、自分の無知に恥をかいたあとでも、この瞬間を想像すると頬が緩んだ。
ずっとずっと、そう言ってもらえるのを待っていた。
「わたし……ロアマになったんだ……」
滲む視界からぽろぽろと涙がこぼれたとき、改めてモカは口にした。
踏ん張っていた口を開いたせいで、ずるずると鼻水が垂れてきた。
「モカ、ほら見て、メインは具だくさんシチューだと思うんだけど、チーズとトマトのはさみ焼も捨てがたいし、あっちには山菜を添えた猪肉のたたきがある。モカはどれがメインだと思う?」
「そりゃあ肉! 猪肉だろうよ! なあモカちゃん!」
「おやおや、あんたはいつまでたっても胃もたれしないねえ」
「いーや、ドッピオの作る具だくさんシチューは絶品だ。俺もノロに賛成だね」
「私はチーズとトマトのはさみ焼ね。私が作るとどうしてもトマトがくずれちゃうのよ」
「……カンパイはまだか……」
ノロがモカの鼻水を拭きながらおどけると、同じ調子でみんなもおどけた。
やいのやいのと、料理上手なドッピオの品の名をあげていく。
そんな気遣いが嬉しくて、そんな我が家が誇らしくて、店の看板娘は腰に手をあてこう答えた。
「もちろん全部! お父さんが作ったんだもん! でもね、このパーティのメインはわたし! ノロ、わたしにもグラスちょうだい!」
そして全員に飲み物が行き渡ると、キッサー家に一時だけの静けさが訪れた。
きっとこのパーティは、夜遅くまで続くことだろう。それでいいのだ。これはお祝いなのだから。
「わたしのロアマになったぞ記念を祝して! カンパーイ!」
「カンパーイ!」
大勢の声に祝福され、その日モカは、ロアマになった。
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