連盟擾乱篇序章 オルタナ領
第一節 日常
二人の子供
「終わったー! 外だー!」
朝の礼拝堂。バタン、と勢いよくドアが開け放たれ、それと同時に少女の声が響いた。
現れたのは、鎖骨をくすぐる栗色の髪と、淡褐色の瞳をもった女の子だ。
高くアーチを描いた天井が、彼女の声をわんわんと反響させる。
少女は「外だ」と言ったが、ここはまだ礼拝堂の中。先ほど開けたドアは、礼拝堂の地下室へと続く階段前のドアである。
「こら、そんなに大きな声を出してはいけません」
少女の背後、下へと延びる階段から、それをたしなめる男性の声がした。青さのない落ち着いた声だった。
「あ、導士様。でも、誰もいませんよ?」
階下から詰襟の黒衣をまとった男が上がってくると、少女は「ほら」と言って指差した。
二列にずらっと並んだ長机には一人の姿も見当たらず、礼拝堂はがらんどうだ。
そんな光景に、少女が「やっと上ってきたんですね」と続けると、導士はしな垂れた前髪を後ろに撫でつけながら、乱れた息で反論した。
「皆さん、お忙しいのです。まったく、どこにそんな、元気があるのやら」
やれやれ、といった口調で導士が呆れると、少女は力なく笑った。
「いやぁ……倒れそうですよ……。『
ふらふらと膝に手をつく少女。
その様子を見て、導士は少女が無理していたことを悟ると、幾分か穏やかな顔つきで言った。
「当然です。なにもない地下室に七日七晩篭もり、水だけで耐えしのぐのですから」
そして一拍置いて息を整えると、貝開き式の小さな箱を差し出し、改まって少女に告げる。
「モカさん、おめでとうございます。これにて七日通しは修了。これがその証です。これよりあなたは――ロアマです」
そう言って導士が箱を開けると、そこには細長いプレートの両端にチェーンがついた首飾りと、薄く幅広に打ち延ばした指輪が納まっていた。
そのどちらにも宝石などの装飾はなく、あるのは鈍色の光沢のみとシンプルなものだが、モカと呼ばれる少女が、幼い頃より欲してやまないものだった。
思わずモカは息を呑み、まじまじとそれらを見つめる。
首飾りをよく見ると、プレート部分はフレームに嵌まっているようで、そこには出身地・発行場所・名前と、暗号化された登録番号が刻まれていた。その暗号記号は、指輪のほうにもよく似たものが刻まれている。
モカは桐の箱から指輪を取り出すと、それを右手の親指に嵌めた。そしてそのまま、言葉もなく少しうつむくと、導士に首飾りをつけてもらう。
太い指輪も、首飾りの頑丈そうなチェーンも、さほどの重さはない。しかし、モカにとっては価値のある重みが、しっかりとその身にのしかかった。
七日通しという、七日七晩たった一人で地下室にこもり、与えられるものは水のみという苦行をやり遂げて得られるもの。それがこの『ロアマタグ』と呼ばれる二つの装飾品と、それらが証明する自由である。
「いいですか、これを受け取るということは、籍を抜け、民として納める税が免除される代わりに、民として受けられる保証や恩恵もまた、失われてしまいます。これからは自力で生きていくほかないのですよ?」
「わかってます! ロアマのことはお父さんに何度も訊きました! バシバシ依頼を受けて、ジャンジャンお金を稼いでやりますよ!」
「いや、そういう、ことでは……なくて、ですね……」
しどろもどろになる導士にクスリと笑いかけ、モカは口もとに笑みを浮かべた。
「冗談です。……わかってますから、ちゃんと」
「それなら……いいのですが」
その様子を見て、導士はやっと笑みを作った。そして息を「ふっ」と漏らすと、穏やかな眼差しでモカに言った。
「さあ、ドッピオさんが心配しているはずです。ノロくんも待っていますよ。家へ帰ってなにか食べていらっしゃい」
「はい! でもその前に寄るところがあるんです!」
導士の言葉に元気よく答えると、モカは若草色のスカートをひるがえし、礼拝堂から走り去っていった。
七日通しをやり遂げ、ついにロアマとなったことが余程嬉しかったと見える。この七日間水しか口にしていないのに、そんなことは忘れてしまったかのようであった。
そしてその場に残された導士は、ぼそりと独り言ちた。
「なぜ指輪を親指のサイズで申請したのか、聞きそびれてしまいましたね……」
そんなこと、実は聞かなくてもわかっていた。
あの子は父子家庭だ。あの家に一人の少年がやってきたのだって、ほんの二年前のこと。それまでずっと二人でやってきた。
三つ年上の姉は国に引き取られ、母親はあの子の命と引き換えに亡くなり、それ以来ずっと父ドッピオが、男手ひとつで育ててきたのだ。
もちろん町の人々の支えもあったが、しかし、それでもやはり、あの子の中心には父がいる。
だからきっと、あの子が親指を選んだのは、そういうことなのだろう。
「はて、ノロくんは今いくつでしたっけ……」
導士はまたひとつ独り言を宙に投げると、あごに手をやり、教会に繋がる扉の方へ歩いて行った。
「やあモカちゃん、七日通しは済んだのかい?」
「おお、モカ! 無事ロアマになったんか!」
「あっ! モカだー!」
「ルミィ婆ちゃん! クロッグおじさん! おっ、コル坊も!」
矢のように駆けていくモカに、町の人々が次々と声をかける。
しかしモカは足を止めず、返事の代わりに指輪を嵌めた親指で、首飾りをクイッとひっかけて見せた。
ロアマタグを身に着けているということは、つまりそういうことである。これ以上にないしたり顔だ。
それを驚嘆まじりに笑って見送り、その背が道の彼方に遠ざかると、みな一様に寂しそうな顔を見せた。
「そーかあ……。モカ、とうとう出てっちまうのか……」
この町にとってモカとは、そういう存在なのだ。
姉を国に取られても、天に母を取られても、父の営む小さな飲食店で、あふれる笑顔をふりまく娘。
どうにも不憫なこの娘を、小さな田舎町は一丸となって見守ってきた。
そんな娘は、いつの頃からだったか、「ロアマになる」と言い出した。
最初は、「母はロアマになって旅立った」と話した父親も、長いことそうやってごまかしてきた町の面々も、考え直すよう引き留めた。ロアマになって母を探すつもりだと思ったからだ。
しかし、「ああ、口には出さないが、この子は母がもうどこにもいないことを、薄々勘づいているのだ」と感じてからは、それを応援するようになった。
なぜなら、それは多分、都でお勤めを果たしている姉を訪ねるためでも、ロアマになったという母を連れ戻そうとしているわけでもない。
なにか父に恩返しがしたいからなのだと、背伸びをしながら日々立派に手伝いをこなす娘を見ていれば、ひしひしと伝わってきたからだ。
「……今日のお昼、ドッピオさんのところにお茶でもしに行きましょうか」
「……そうだな、そうするか。看板娘の見納めだ」
気を取り直して各々の作業に戻ろうとする人々のなか、小さくなったモカの背中を見て誰かが呟いた。
「あっちって、モカちゃんのお家の方じゃないよね?」
「……ええっ?」
その言葉に、再びざわめく人々。口々に、「まさか、この足でそのまま旅立つつもりか」と慌てふためいた。
「おいおい! モカがおかしくなっちまいやがった!」
「七日通しが余程
「そういえばあいつ、なに走ってやがる! この七日間なんも食ってねえくせに!」
辺りに混乱が伝染していく。
なかには急いでモカのあとを追う者や、ドッピオのところに知らせに走る者も出始めて、もう町中てんやわんやだ。
このままでは収拾がつかなくなると思われた、そんなときだった。
「おいノロ! ノロじゃねえか! 聞いてくれ! モカがおかしくなっちまいやがった!」
銀髪というにはあまりにくすんだ、まるで灰をかぶったかのような髪色の少年を見つけて、人々はぐいぐいと詰め寄った。
その勢いに押され、ノロと呼ばれるその少年は、二歩三歩後退りしながら身をのけ反らせる。
ちらちらと毛先がまとまらない短髪に黒い瞳をしたこの少年は、二年前からモカの家であるキッサー家に居候している少年で、モカより二つ年上なこともあり、いわば兄として認知されている。
そのため店を空けるわけにはいかないドッピオの代わりに、よく突飛なことをするモカの子守り役を任されている。
つまり、今回もまた「お兄ちゃんなんだからなんとかしろ」ということである。
「……話を聞かせて」
両手を上げたノロが、頬に一筋の汗をつたわせる。すると、皆が一斉に状況を説明し始めた。
これではさらに困惑の色が深まるばかりだと思われたが、少年は時折「へえ、モカが」とか、「あっちに?」だとか、「あの、ツバが」などと相槌を打っている。さすがはモカのお兄ちゃんである。
「大丈夫、モカはタグを使いに行っただけですよ」
そしておおよそを把握したノロがそう口にしたのは、必死にしゃべった町民が、やっとその肺いっぱいに吸気をとり込んだ頃だった。
「そりゃ、いったい、どういうことだ?」
「これですよ」
ぜえぜえと息も絶え絶えに投げかけられた質問に、ノロは自身の胸元の首飾りを指に引っ掛けて見せた。
「ああ……なるほど……」
その一言で、事態が鎮静化し始めた。察しのいい人は、もうそれだけでノロの言葉の意味が理解できたからだ。
こうして事を収めたノロは、いまだ首を傾げる数人に、笑いながらこう付け加えた。
「モカの初めての滞在地は、ここ、オルタナ領ってことです」
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