間章4 長兄の千里眼

 上がってきた報告書に目を通しながら、

「今更になって何故に“帝国”はこれを血眼になって手に入れようとしていたのかね」

 と、男は珍しく首を捻った。

「若殿に分からぬものが我らに分かるとでも?」

 執務机の対面で直立不動にて控えている家臣が困った顔付きで答える。

「何もかも俺に丸投げはどうかと思うぞ。形の上では既に他家の跡取りなのだからな」

 右手の人差し指で机をこつこつと叩きながら、男は首を横にふて見せた。

「先方も生まれた孫を跡取りにしてくれれば良いとの事ですが?」

「皆まで云わせる気か」

 思わず苦笑しながら、男は家臣に尋ね返した。

「これは失礼を。然れど、御舎弟二人がいくら優秀と云えど、若殿と比べれば誰もが首を捻ると云う事は忘れないで戴きたいものです」

「家を治めると云う事に関して云えば、ダリウスは俺を越していると思うがね?」

 男は常日頃から本気で思っている事を口にする。

 事実、彼が家の内々のことを父親の代わりに処理する様になってから何とか際限なく膨らむ借金をそれ以上に増えなくするので手一杯だったのが、ダリウスが家中の取り纏めをしてからは驚くべき速度で財政が改善しつつあった。

 元からあった借金を考えなければ領内から上がる収益は倍以上に増えていた。

 周りからは男の功績と思われていることの大半もここ数年のことだけを考えればほぼ全部がダリウスの功績である。

 ダリウス自身はそう考えていないのだが、場を用意するだけしてそれ以上どうにもできなかった男にははっきりとダリウスの才能が見えていた。

「全てを見通す目をお持ちの方と比べれば、でしょうな」

 この家臣にしても男の言い分は理解しているのだが、それ以上に昔からずばずばと先の展望を当ててきた男の才能の方が優れていると考えていた。何せ、一度たりとも間違ったことを選んでいないのだから、家臣団からしてみればある種の信仰が生まれていてもおかしくはないのである。

「流石に何もかもを理解しているわけではないのだがな」

 過剰評価を受け、思わず男は首を左右に振った。

 彼が神懸かった様な読みを常々発揮しているのはただ単に情報を集められるだけ集め、それらから導き出される答えを口に出しているだけである。何も知らない家臣たちから見て見れば恐るべき異能にしか見えないが、彼からしてみれば、常識の上に常識を重ねて当たり前の答えを出しているに過ぎない。

「我らの様な凡愚には若殿が云う何もかもと我らから見た全てを見通すの違いが分かりませんな」

「ダリウスとアレウスは理解してくれるのだがな」

 同じ様なことを言われた際に、弟たちには種を明かしてみて納得された事を男はふと思い出した。

 だからといって、その弟たちが同じ様に真似たところで男程の精度は得られなかった。

「御舎弟様方は我ら凡愚とは一線を画す方々ですので」

「確かに、あいつらが優秀なのは否定出来ぬな。だが、俺とて無能を近くに置いているつもりはないのだがな?」

「御舘様を含めまして、どうにも常人に計りがたい処がありまして」

 男が重用する者は何らかの長所を活かすだけの才を持ち合わせていることをこの家臣もよく知っている。自分がそうであるとも理解しているが、主君とその子供たちの才能には遠く及ばないことも自覚していた。

「父上の戦場に於ける勘は人間離れしているからな。あれは誰も真似できまい」

 比べる相手が悪かったかと男は少しだけ心中で反省した。

 そうこうしていると、扉の外から扉を叩く音が聞こえた後、

「若殿。ダリウス様がお出でになりました」

 と、部屋の警備をしている騎士が注進してきた。

「通せ」

「若殿。それがしは下がらせて戴きます」

「ん? 遠慮しているのか、ブライアン。お前も在室していて問題ない件だぞ?」

「これ以上の面倒事は遠慮させて戴きます。ただでさえ、猫の穴を埋めるのに手一杯ですのに、それ以上の仕事が舞い込んだならば流石に許容量を軽く越しています。誰しもが若殿や御舎弟様達の様に働けませぬ」

 丁重でありながら、断固とした拒絶の意思をブライアンは示すと、ダリウスと入れ違う形で有無を言わさずに退出していった。

 それを横目で見ながら入室してきたダリウスが、

「又、何か悪巧みをしていたので、兄上?」

 と、笑いかけてきた。

「お前まで俺を何だと思っているのだね」

 疲れ切った口調で男は大きく溜息を付いた。

「さて、何と申しますかな……」

 困ったかの様にダリウスは言葉を濁らせ視線を泳がせる。

「全く、生き残る為の術を模索しているだけでその扱いなのだ。世情に名が知れたらどの様に扱われるやら」

 冗談めかして愚痴った後、「何、今更としか思えない話をどうしたものか悩んでいたのよ」と、真顔で告げた。

「今更、でありますか?」

「ああ。件の商人が持ってきた情報が余りにも今更過ぎてなあ」

 何とも言えない表情で首を傾げる兄に、

「一体何があったので?」

 と、ダリウスは尋ねた。

「まあ、お前には話さねばならぬ事か」

 瞬時に男は意識を切り替え、手に入れた情報を手短に語った。

「……その様な密約が」

 呆れるやら感心するやら悩ましげな顔付きでダリウスは考え込む。

 彼が兄より聞かされた情報とは、数年前に“帝国”で起きた内乱に関わる幾つかの密約についてであった。

 その内の大半は彼ら兄弟がそうでないかと当たりを付けていたものであったが、残りのものは初耳のものが多かった。

「確かに、兄上が今更と云いたくもなる様な話ですな」

 中原王朝が“帝国”の争乱を起こしていた両派閥と不可侵の密約を結んでいた事自体は、誰でも簡単に想像が付くことであった。内乱が起きる直前まで国境での小競り合いが常時起きていたというのに、内乱が始まると同時にぱたりと止まったのである。何もなかったと考える方が難しい状況であった。

 付け加えれば、その“帝国”の内乱中に中原王朝の方でも大きな政争が起きていたことを考えれば、両国の思惑が一致したからこその密約であったのだろう。

「ま、この一つを除いては、だがな」

 机の上に置いてある書類をダリウスの方に押しやる。

 素直にダリウスは受け取り、軽く目を通した。

「……何でこの様な文章が残っているのですかね?」

 怪訝深そうにダリウスは何度も書類を確認する。流石にこの様なものがあるわけがないと疑って掛かりたいのだが、“覇者”の反応や兄の態度からして贋作というわけでも無いという妙な確信も生まれており、どう反応すれば良いのか困惑していた。

「さて? “覇者”殿らしくない不手際だが、誓書を交わす場合、相手方と自分用に一枚ずつ用意するものだから、その片割れであろうが……どちらから洩れたのやらな」

 男は肩を竦めて弟を見た。

「ですが、取り交わしている相手はカペー動乱の最中に本拠地を落とされて死んでおります。今更どこから出てきたものですか?」

 兄の言い様から、出所は“覇者”ではないと察し、即座にこの誓詞の信憑性を疑う。

「まあ、お前の云いたい事も良く分かるさ、ダリウスよ。だが、出てきた。明らかに“覇者”の手元からくすねてきたものでは無いとすれば、何者かが最近まで隠し通してきたものと思われるな」

 男はそう言って静かに笑った。

 弟とは違い、男はこれが贋物ではないと確信していた。

「よくもまあ今になって出す気になりましたな」

 呆れ半分と言った顔付きでダリウスは首を二三横に振ってみせる。

 兄の反応から、自分が知らない何らかの裏付けがあると察したのだ。

「ま、この誓書に関わった当事者の内、“覇者”殿しか生きていない以上、洩れて困るのは“覇者”殿だけであろうよ。中原王朝は皇帝派に与していたのだ。太師派のリチャード・マルケズをこそりと領内を通過させてギョーム迄無傷の儘上手く追い立てると云った密約が今の“帝国”に知れたら些か困ったであろうな」

 男はにやりと笑い、「何せ、内乱終了時に中原王朝と“帝国”は互いの敗者が逃げ込んできたら引き渡す条約を表で結んでいたのだからなあ」と、指摘した。

「開戦の良い口実として利用されるでしょうね。東征する意思が“帝国”にあったならば、ですが」

 ダリウスは兄が言うであろうことを先に予測していたので、悩むこと無く即答する。

 “帝国”としてみれば、中原王朝の王都であるヴォーガは目の上のたんこぶと言っても良い。中原方面への出口付近に中原最大規模の都市があるために、東進を阻まれているのだ。攻め落とす機会があるのならば、何にも優先して侵略してくることであろう。

 一方で、中原王朝からしてみても王都と指呼の間と言うべき場所に国境がある事は由々しき事態である。しかしながら、今更ヴォーガを捨てて他に遷都するのも“帝国”に対する敗北宣言とも取られかねない以上、意地を張ってでも守り通さねばならず重い負担となっていた。それが一時的にとは言え、不可侵の密約が結べるのならば飛び付くのも致し方のないことである。

 ある意味で、現在の“覇者”の北進も“帝国”との間に生まれた一時的な均衡状態が今でも続いているのも大きな理由の一つであろう。

 ただ、その北進に主力を使ってしまっている以上、突如“帝国”が攻め込んでくることだけは避けたい筈なのだ。北進の原因の一つがこの書状を取り戻すことにあったのだとしたならば、そのこと自体が帝国の東進を呼び込む真似でもあることとなり、些か皮肉な話と言える。

 だが、ダリウスからしてみれば、“帝国”が東進してくれる方が余程有り難いので意見に己の希望的観測が入り込むのも致し方のないことでもある。

「当然それは無い訳だ。何せ、今の皇帝は蹴落とした太師と争っていた時代から北に目を向けていたのだからなあ」

 ダリウスの内心まで読んだ上で、男は返事をする。

 男もまた、“帝国”がハイランドを制圧せんと北進してくることを望んでいない。

 いないが、現実に起ころうとしていることから目を背けるほど、夢想家ではなかった。

「それを隠す為に態々東の国境に森妖精エルフを多く配置していたのですから頭が下がりますな」

 現実主義者という点では兄以上のダリウスも“帝国”が態と北に対する意識を有していない振りをしていることぐらい先刻承知であった。

 闇の森オルドスに住まう森妖精が“帝国”の戦術面における切り札の一つであることは周辺諸国に広く知れ渡っていた。姿隠しの術を使い情報収集や戦線の後方での破壊工作を含む攪乱を得意とし、戦場においても魔導師とは異なる形式の術を巧みに使いこなして敵兵をその餌食とする。弓の名手でもあり迂闊に近寄れば多大な犠牲を出す。前線で働ける強者もごく少数いることはいるが、それは他の種族の部隊に任せていることが多い。

 真面にやり合えば多大な犠牲を出すのは間違いないことで、余程のことがない限り森妖精の部隊が詰めている城塞に攻め込む軍はなかった。

 そして、“帝国”は他国から森妖精がどの様に評価されているか熟知しており、重要拠点に重点的に配属する傾向があった。

「ま、改めて密約ではない不戦条約を己が優位な立場で結ぶ為にも交渉道具の一つとして欲しかったのであろうよ。只、それでも幾つか疑問が残るわけだが、な」

 弟が冷静に“帝国”の対ハイランド戦略を見ていることに一先ずは満足していた。

 だからこそ、男は自分が持った懸念を弟に伝えることとする。

「然う云われますと?」

 兄の読みが那辺にあるか何時もの如く読み切れずにダリウスは首を傾げた。

 ダリウスは彼の兄の性格を良く理解している。理解しているが上に、分からないことは素直に聞くことにしていた。兄の推論が確かな事柄の上に確かな事柄を積み重ねていって結論となす以上、途中の経過も聞いておかねば話に食い違いが出ることもある。お互いに共通した認識を持っていることこそが自分たち兄弟の強みだと考えていた。

「この誓書の出所はギョームのかつての主だとしても、他の密約に使われていた誓書や密書はどこが出所なのであろうなあ?」

「兄上も答えを知らないので?」

 手に入った情報の共通点は“覇者”が関わっているという事だけである。一部の誓書は“覇者”ではなく、当時の中原王朝の丞相の名で交わされていたが、“覇者”が与していた陣営の名目上の盟主だった故に全く関係していないとは言い難かった。

 普通に考えれば“覇者”の手元から全ての誓書が漏れ出したと思えるところだが、それはないと最初に兄が宣言している以上その線はあり得ないと確信した。

 そして、その兄が確信しているならば裏は取れているとみていたのだが、本気か皮肉か今一分かりにくい台詞から一連の話を裏付けているのが確証がない情報だとダリウスは気が付いた。

 だとすれば、何をもって兄がその結論に至ったのかを知る必要があった。

「件の商人も仲介役の様でな。誰がこの件を画策したのかまでは知っておらん。ま、推測は容易いのだが……確証がないのでなあ。さてはて、どこまで手を突っ込むべきやら……」

 ダリウスの問い掛けに、真剣な表情で男は考える素振りを見せた。

 そしてこの態度はダリウスの予測通りである事を意味していた。故に彼は兄が結論を出すのを静かに待つ。

「よし、軽くは調べよう。状況証拠から導き出した今の答えが的外れでないかだけでも分かれば良し。逆に深入りし過ぎて“覇者”に俺の存在を気取られるのが一番拙いな。我が国で一番有名なのは父上、次に知れているのが舅殿という現状が崩れるのは困りものだ」

「難しい匙加減ですが、可能なので?」

 不可能ではないだろうが、かなりそれに近いことを兄が言い出したとダリウスは思った。

 軽いと言ってもこの兄がやることである。それこそ徹底したものであろう。“覇者”ほどの器を持った人物が見逃す様な規模ではないはずだ。

 逆に気が付かない程度の調べでは完全に裏が取れないと見なしたのであろう。見なしたのに危険な橋を渡ると言うことは絶対に無視してはならない情報であると何らかの理由で確信したということに違いない。

 ダリウスの問いの真意はどこまで深入りする気なのかという確認に他ならない。

「一応口実はある。情報の裏取りをしようと態とらしくハイランド系の商人がうろちょろしていたら、逆に“覇者”殿は安心するだろうさ。情報がハイランドで止まった証だからな」

 兄の言わんとしたことを素早く勘案し、

「帝国に流れなければそれで良い、ですか。分かり易いですな。しかしながら、それで以てハイランドから“帝国”に流れていないと“覇者”殿が考えますかね?」

 と、尋ね返す。

 二人とも自分たちの正体に気が付くのは“覇者”だけだと理解していた。

 だからこそ、気が付かれない様に細心の注意を払って今迄雌伏の時を送ってきたのである。二人の器量であれば、やろうと思えばハイランドを強引に掌握し、そのまま外へ打って出ることも用意であったのだ。

 それをなさなかったのは、隣国である“帝国”で君臨している“新皇帝”やソーンラントのファーロス一門、それに遠国ではあるが“覇者”と言った傑物たちにそれでは勝てないと結論付けたからである。

 ハイランドとそれらの国々では国力差があまりにもありすぎる。一方に勝てたとしても、もう一方に備えられる程の余裕はないし、一戦でも致命的な失敗を犯せばそれで終わりなのだ。国力だけで考えれば隔絶した差異がある。こればかりはどうしようもない。

 どうしようもないからこそ、気が付かれない間に力を蓄え、確実に勝てるその時に勝負を懸けると決めたのである。

 その絶対の前提条件を破りかねない行動に移って良いのか、石橋を叩いて渡らないほど用心深いダリウスとしては確認しなければならないことであった。

 自分たちは相手のことを熟知しているが、相手方が自分達の取る行動をそこまで確信できるのか、と。

「うちと“帝国”の不仲は既に知れていること。態々御注進に及ぶ仲かね? それも我が家が」

 弟の危惧を男は一刀のもとに切り捨てた。

「……成程。父上が“帝国”に対する急先鋒として知られていることを逆用しますか。確かに、父上がこれを使って“帝国”と“覇者”をぶつける様な策士ではありませぬからな。“覇者”殿が危惧する様な事態には直ぐに陥らない、と」

 その答えにダリウスも納得する。

 ソーンラントと長年抗争が続いている様に、“帝国”相手にもハイランドは戦い続けてきていた。

 特に“帝国”がハイランド発祥の地であるスクォーレを制圧してからはある意味でソーンラント以上に強い敵愾心を燃やしていた。

 かつて大災厄があって逃れたとは言え、父祖の地であるスクォーレを我が物顔にされているのだ。これ以上の屈辱はない。

 だからこそ、ハイランド人は対“帝国”となると血が頭に上った状態になる。それは、“軍神”も例外ではないと言われていた。

「まあ、寧ろ父上が一番逆上するんだがね、“帝国”相手には」

 困ったものだと苦笑しながら、男は首を軽く左右に振った。

「ソーンラント戦の時よりも戦果が段違いですからな」

 父親の戦歴を思い起こしながら、ダリウスも同意する。

 “帝国”に対して並々ならぬ戦意を持つ彼らの父親であるが、戦場において冷静さを失っているわけではない。むしろ、“帝国”と相対した場合、執拗なまでにきめ細やかな軍略で完膚なきまでに叩き潰す傾向があった。

「元々斑気むらきのある方だが、今回ばかりはそれの御陰で助かる」

 男は和やかに笑い、「父上の指示で俺が裏を調べていると思えば、先ず“覇者”殿は真実に辿り着けまい」と、断言した。

「納得です。只、父上が調べそうな辺りまでを頑張って調べさせるというこれ又面倒な加減が生まれたわけですが、如何致すのです?」

 兄が既に対策を練っているだろうと想像しながらも、ダリウスは懸念を表明する。

「“帝国”絡みの情報を丹念に調べさせよう。もう一方は一通りと云った感じだろうな」

「“帝国”側の情報の信憑性を問う為にも調べている、そう思わせれば成功だと?」

 長兄の考えを即座に読み取り、ダリウスは確認をする。

「ま、父上だからな」

 男は声を上げて大笑いする。「今はその評判を利用させて貰おう。何もかもを利用しなければ、俺達は生き残れないからな」

 彼らの父である“軍神”は幾つかの点で有名であった。

 一つ、自軍に決して略奪を許さない。

 一つ、“帝国”に対して強い敵愾心を抱いている。

 そして、隠し事を嫌う、である。

 その隠し事を嫌う所為で商人と深く突っ込んだ取引ができず、それが回り回って内政に大きな翳りを生むこととなっていた。更に、毎年の様に軍を起こしているのだから、略奪なしに正当な評価でもって配下に恩賞を与えていけば大赤字になるのは当然である。付け加えれば、“帝国”相手だと採算度外視で挑むのだから内政畑の文官が長兄やダリウスが家のことを見るまでどれほど苦労していたか想像に難くない。

 しかしながら、“軍神”の人となりがこれだけ世間に広く知られているため、信義を第一とする家であると高く評価を受けていた。彼ら兄弟の評判が然程有名でないのも、偉大なる父の陰にすっかり隠れきってしまっていることが大きい。

「御意。それで、御用件はそれだけでしょうか?」

 話が終わったとみて、ダリウスは長兄に尋ねた。

 彼自身優秀な男であるのは確かなのだが、今迄積もり積もった内政上のツケが酷いことになっており、それをどうにかするために特に何もないのならば仕事に戻りたいのである。このダリウスの才幹を以てしても、未だに目を離せない綱渡りが続いていた。

 当然、ダリウスより前に何とかしようと奮闘していた長兄がそのことに気が付いていないわけがない。

 だからこそ、この程度の用件だけで兄が自分を呼び出すわけがないという確信をダリウスは抱いていた。

「もう一件ある。ブライアンたちの到着から遅れて、アレウスを通しバラーのエクサ・ファーロスが当家に援助を願い出てきた」

「国ではなく、当家に、ですか?」

 ダリウスの予測通りに彼の長兄は他にも相談事を持っていた。

 問題は、その内容が彼の予測を軽く越していたことであり、自分のこなすべき仕事が増えたと予感した。

「ああ。誰にも知られたくはない密約だよ」

「今日は密約だらけですな」

 何やら愉しそうにダリウスは笑った。半分やけっぱちの心情であったが、どちらにしろ笑わずにはいられなかった。

 何せ、密約をしない家で密約を結ぶための相談を受けたのである。完全に巻き込まれた形だが、先々のことを考えると結ばなければ先々より苦労する事が見えた話でもあった。今苦労するか、後で四苦八苦するかぐらいの違いともなれば、否でも応でも今解決しなければならないと覚悟を決めていた。

「我が家はとんと密約とは縁が無いからなあ」

 軽くすっ惚けながら長兄もともに笑う。「父上が父上だからな。約束事は全て開けっ広げ、裏でこそこそ何かすることを酷く嫌っているからの。ま、俺がやっている事は家の為になるという事で目こぼしして貰っているが、今回はどうしたものかな」

「流石に表で結べる話ではないので、密約しかないのでは?」

 兄が分かった上で軽口を叩いていると判断し、ダリウスは即座に献策する。

「父上に話を通すか通さないかもある」

 ダリウスの考えを聞き出したいのか、男は一番の難題を言った。

「通さずに援軍を遅れるのですか?」

 根幹の疑問として、ダリウスは端的に問う。

 要するに、家と家との密約ではなく、彼ら兄弟とエクサとの密約に変えても問題ないのか、ダリウスは誰も聞き耳を立てている者がいないと知っていてなお直接問い糾さないという用心を重ねていた。

「依頼は“傭兵組合”を通して士官と下士官級の人材を回してくれ、なのだな。それぐらいならば、俺やお前の臣下を貸し与えるだけで問題ないと云えば無いのだが……」

「帝国の動きを考えればこちらも優秀な人材は貸し与えたくはない」

 兄の考えを読み取り、ダリウスは密約をむすんだ際の問題点を挙げる。

「ああ。戦場を知るという意味で送り出したい人材がいない訳では無いが、俺やお前の臣下だけ送り出しても家全体の利にはならん。先のことを見越せば、家門全体で考えねばなるまい」

「父上に話を通す必要が生じますな」

 先々のことを考えた兄の発言から、この密約を父親に通さないとどうにもならないとダリウスは結論した。

 実際のところ、彼らの父親が未だに堅持している家門の軍は“覇者”や“帝国”のものに比べても練度や経験で見劣りしない中原随一の精鋭である。長兄やダリウスの下に付いている者たちも年嵩の者は歴戦の強者揃いであり、その薫陶を受けた若者たちも一廉の者が多い。ただし、対外戦争の経験が少ないのは否めなく、その辺りで大きな差が付いているとも言えた。

 エクサからの提案は生きて帰って来さえすればその足りない点を補う美味しい話であり、彼ら兄弟の臣下だけで行う利点も大きい。

 しかしながら、何れは相争うであろう“覇者”との軍勢と直接やり合う機会を軍主力に与えないのも考え物である。

 先々のことを考えれば、いずれ中核を担う者たち全てに機会を与えておいた方が得策であることは間違いない。

 家族に甘い長兄が父親の嫌がることを躊躇する以上、ダリウスは兄の背を押してでも決断させなければならないと判断した。

「どちらにしろ、アレウスから回ってきた話だ。一度は父上の耳に入れねばならなかったさ」

 男は静かに考え込みながら、「相手が恥を忍んで頼み込んできた故に隠さねばならない、とすれば父上でも諾と云おうものさ。問題は、父上がそれを隠し通せるかなのだが……」と、呟いた。

「まあ、無理でしょうな。ですから、その対策を練れば宜しいでしょう」

 兄の懸念に同意した上で、ダリウスは発想の転換をするべきではないかと考えた。

「……何かあるかね?」

 男は弟が考えもなしに提案する様な人間ではないと理解していた。故に腹案を有していると断じ、話を促す。

「さて。兄上程の才があるとは云えない私の考えですが、父上らしい選択をさせれば宜しいかと思います」

「密約にするな、と?」

 用心深い弟がただそれだけを告げようとしていることに疑問を覚えた。

 今回の件を何故密約のままで終わらそうと男が考えているかを理解しているはずなのだ。表沙汰にしようとすることを考えているとは思えない。ある種の好奇心を自分の表情から隠せずにいると自覚しながら男は敢えて分かり切っていることを口にした。

「何もそこまでは云いません。父上の気質から、困っている者を見捨てるという事をしないとは誰もが知っていることでしょう? ですから、傭兵組合から直接依頼を受けたという形で送り出せば宜しいか、と」

 ダリウスはにこりと笑った。

「……成程。エクサ・ファーロスという窮鳥が助けて欲しいと飛び込んできたが故に二進も三進も行かなくなった傭兵組合の危地を父上が救う、か。まあ、回りくどいことを除けば誰もが納得する様な脚本だな」

 男は心底感心する。

 傭兵組合が“軍神”の名声を利用している様に、彼らの家も傭兵組合を利用していた。軍資金を稼ぐのに軍の一部をハイランドとは敵対していない相手ならば傭兵として貸し出しているのだ。軍の練度は実戦がなければ低下していく以上、精鋭を保持するために戦い続ける必要がある。毎年の様に軍を動かしている“軍神”とは言え、全軍を常に実戦に駆り出すだけの戦もなければ、先立つ軍資金もない。

 そこで自軍の一部を他家に貸し出す傭兵業を営み始めたのである。その仲介に当たっているのが傭兵組合であり、中原全土に知れ渡っている事実でもあった。

 故に、“軍神”が傭兵組合の依頼に応えることは不思議な話ではない。

「その上で、父上にはアレウスが旅先で助けられたと先に報告しておけばエクサ・ファーロスへの心証はよりよいものとなるでしょう」

 ダリウスも自分の父親がいくら傭兵組合に頼まれたからとは言え、その依頼先がファーロス一門の一人であったと知れればいい顔をしないことぐらいは分かっていた。分かっていたからこそ、末弟が旅先で救われたと知れば態度を軟化させるだろうとも予測が付いていたのだ。

「……ふむ。密約自体は我らとエクサにて結ぶ。父上はその密約の上で行われる傭兵組合との契約を決断して戴く。表に出てくるのは我が家と傭兵組合との癒着じみた深い仲だけ、か。悪くはないな。いずれ“覇者”との争いの偵察がてら助けましょうとも口添えすれば、父上も我らが積極的に賛成する理由が密約とは思われまい」

 男は思わずにやりと笑った。

 実際、彼ら兄弟が父親に“覇者”の脅威を説いていることは少なくともハイランドでは良く知れた話である。“覇者”が手の者を使って探ったところで、それ以上は出て来ない。

 彼ら兄弟が優秀とは言え、“軍神”を上回る才だなどと家中の者でさえはっきりと理解していないのだ。余程、力を入れて探らない限り──それこそ、ファーロス一門並みに──決して判明することはない。

 自分の弟が己の想像以上に策士である事に長兄は満足を覚えていた。

「いやあ、父上はどちらかというと、アレウスを助けた恩義で肩入れしていると思うのではないですかね?」

 なんだか兄が自分のことを買い被りすぎているのではないかと不安になり、ダリウスは戯けた調子で探りを入れる。

 用心深い性格の所為でダリウスは己を過小評価気味の嫌いがあった。その謙虚な性格もあり、家中で兄以上の評価を受けることがないこともダリウスの謙虚さが増す要因となっていた。ある意味でダリウスのことを最も正確に評価しているのは長兄なのである。ただ、ダリウスからしてみれば、それは過大評価にしか思えないので重荷なのだが。

「まあ、家族を救って貰った恩義はそれ以上の恩義で果たさねば当家の名が泣くからな。落としどころとしては問題あるまい」

 敢えて弟の勘違いを正すことなく、男はダリウスの話題転換に乗っかった。

「それではその様に動くとして、兄上と私とどちらが動けば宜しいので?」

「俺が即座に動ける様に先入部隊の編成を急ぐから、お前が傭兵組合の工作を担当してくれ。第一陣は父上が承認し次第即座に雇われる状態でないと拙いだろうからな」

「それ程時間がありませぬか?」

 兄の答えから、ダリウスはソーンラントの情勢を理解する。

 先程からある種の焦りを兄から感じていたのだが、先を正確に読み通す兄がこれほどまでに決定を急ぐ以上、事態が風雲急を告げようとしているのだと察知したのだ。

「場合によっては“ペッツォ”をその儘傭兵組合経由で出さざるを得ない位には切羽詰まっておるぞ?」

 己の切り札を惜しげもなく使うと宣言し、男は弟の様子を見る。

 それに対し、得心がいったとばかりにダリウスは頷き、

オーロが先程までこの部屋に居たのはそれが原因で?」

 と、尋ね返す。

「いや、ブライアンは金ではない。ないのだぞ?」

 何事にも動じない男がこめかみ辺りに冷や汗を流しながらも、無理矢理笑顔を浮かべて否定してみせる。

 表だって使っている者を除けば、当然の様に諜報活動や工作活動をしている部下の身辺情報には気を使っている。弱みを握られて裏切られる様な真似は避けなければならない。勘の良い弟相手にも公言させるわけにはいかなかった。

「兄上がそう仰せならば」

 ダリウスは素直に自論を引っ込めた。

 兄が暗に匂わせていることは間違いなく道理であるし、逆の点から見ればそうだと言う答えを貰ったも同然なのである。兄の手駒を確認したいのならば、そこから導き出せるものがあればダリウスにとっては容易な作業でしかない。

「お前ならば問題ないとは思うが、変に意識されるとそこから解明される時もある。俺としてはそれを決して望まない」

「御意」

 ダリウスは兄の釘刺しに短く答えた。

「お前の方もバラーの方に出す臣下を決めておいてくれ。初めの内は我らの臣下だけで行うしかない」

 そして、既に決まった話とばかりに長兄はダリウスに先程の計画を進める様に指示を出す。

「そうなるでしょうな。それで、アレウスはどちらに向かったのです?」

 ソーンラントの中心部で活動してたアレウスがバラーのエクサに助けられたと言うことは陥落したラヒルを脱したと言うことでもある。アレウスの性格上、実家の迷惑となる様な真似はしないだろうから、バラーに長居することはまずない。

 次に、バラーからラヒル以外に向かえる先を考えるとアーロンジュ江を北に渡るか、東に下るかである。ハイランドに帰ってきているのであれば、目の前の長兄の反応がもう少し違うと確信していた。

 アレウスの性格を考えれば、北よりも迷宮都市のある東であろうとダリウスは結論付けた。

「迷宮都市だそうだ」

 兄の返事はダリウスの推測通り、アレウスが東に江を下って行ったというものであった。

 行ったことのない土地を見て回ることも好きなアレウスである。迷宮都市に戻る前にアーロンジュ江北岸を漫遊することも考えられた。だが、南岸が戦乱の渦に巻き込まれた以上、ソーンラントの影響圏で観光する愚をするほど間抜けではないと兄の贔屓目を差っ引いても評価していた。自分の観察眼と弟の判断力が間違っていないことにダリウスは大きな満足を覚えた。

 そんな内心をおくびにも出さずに、

「おや、今度こそ宿願を果たすのですかね?」

 と、ダリウスも注目しているアレウスの夢の成就があるかどうかを兄に問う。

「無理だろう」

 残念そうな表情で男は間髪入れずに答えた。

「無理ですか」

「あれとあれが見込んだ者たちはそこに達するだけの力を有していようがそれだけで抜けられる程大迷宮は甘くはない。ガットが手を貸したとして……まだ癒し手ともう一人何らかの強者が欲しい処であるな」

 冷静に状況を分析し、まるで自らの出来事であるかの様に悔しがる。

 二人の弟と同じかそれ以上にこの世界に関して深く知りたいのはこの長兄である。そのためにアレウスに家に伝わる口伝を教え、迷宮都市の大迷宮へと導いた。天下の統一を目指す理由の一つも世界の根幹に繋がるものを調べやすくするためという他の群雄がそれを耳にしたら唖然としかねない動機まであるほどだ。彼ら兄弟にしてみれば死活問題なのだが、他の者たちからは理解されまいと弁えていた。

「兄上もお詳しい様で」

「判断を下せるだけの詳しい情報が集まっている分、大迷宮は予想しやすい。但し、前人未踏の地は上層の一層降りる毎の難度差を持って推し量っているに過ぎないから、実際とは違うだろうが、な」

「兄上は、大迷宮の底はどこにあるとお考えなのですか?」

 丁度良い機会なのでダリウスは思いきって兄に気になっていたことを訊いてみた。

 その成り立ちから言えば湖の底に沈んだと言われている神話の時代にあったとされる古代都市であろう。しかしながら、もし仮にそうだとしても解けない謎は幾つもある。

 迷宮都市近郊の枯れた迷宮とて神話の時代まで遡れるものが数多くある。そちらは既にただの廃墟となっているのに、大迷宮だけは上層を含めて未だに生きているのである。それらの事柄から判断すれば、大迷宮にしかないものが未だに誰もが到達していない地点にあると考えるのが常道であろう。

 兄の常日頃の言動から、大迷宮の底に何があるのか、底がどこにあるのかを推測しきっていると見立てていた。公の場では確証の無い事を決して言わない兄だが、この種の雑談でならば考えを纏めるために自分の考えを開陳する時もある。ダリウスはそれに懸けてみた。

「既にアレウスはその断片触れておるわ。嘗てあった“古の都グ’レゴル”、その基部こそが最下層であろうな。ただ、今の大迷宮を何者が制御しているのか迄は推測出来ぬ。情報が足りぬわ」

「まあ、底を推測出来るだけでも頭おかしいと思うのですけどね、私は」

 大体予測通りの答えを返してきた兄に挑発じみた返事をする。

「否定はせんよ。だが、“古の都”が何たるかを知っていれば自ずと然う云う推測しか出来なくなる」

 ダリウスの考えなど見透かしているとばかりに長兄は笑う。

「寧ろ何故その様なことを知っているのかお聞かせ願いたいですな」

 ある意味で予想通りの反応を示した兄に対し、ダリウスは駆け引き無しで尋ねてみる。

「アレウスが最下層にて大迷宮の謎を解いたら教えてやるさ」

 はぐらかしたと言うよりは、近い将来そうなると確信している響きで長兄は確約して見せた。

「それは意外と早く聞かせて頂けそうですな」

 ダリウスは朗らかに笑う兄に確信を持って答える。

 ダリウスもまた、アレウスならば大迷宮を踏破すると確信していた。

 問題は、それに必要な仲間をいつ得られるか、それだけの話である。

「まあ、あれは天に愛されておるからの。結局は望むが儘に事が進むであろうな」

 男は静かにそう言ってから、「……さて、何時呼び戻したものかな」と、悩ましげに呟いた。

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