間章3 抜山蓋世

「父上、兄上より定時連絡が」

「そうか」

 部屋に入室してきた壮年の男が老境に入った厳めしい武人に書状を手渡す。

 老将──サムスン・ファーロスはエクサからの報告書を丁寧に読み取る。

「……戦端が開かれて一ヶ月も経たないうちにラヒルが落ちるとはなあ」

 流石のサムスンにしても、この展開は予測していなかったのか大きく溜息を付いた。

「“帝国”に注意を払いすぎていたのでしょうか?」

「そうではあるまい。仮に“覇者”に対して我らが注意を向けていても、この結果は覆るまい。要は、それ程の相手だと云う事じゃろう」

 些か疲れ切った顔付きでサムスンは息子の問い掛けに答える。「どこぞの“軍神”と同じよ。然う云う者なのじゃろうて」

「では、軍を返しますか?」

「愚問じゃな。元々ソーンラントの発祥はここら一帯じゃよ。足場を固め直すのが先じゃろうて」

 老人らしい笑い声を上げながら、サムスンは一刀のもとに息子の問いを斬り捨てた。

「では、あちらに居る王族は見捨てる方針で?」

「見捨てるとは聞き捨てならんの。こちらまで逃げてきたら助けようもあるが、今の儂らでは向こうまで手が届かんだけじゃよ」

「それは確かに……」

 男は深々と頷き、同意してみせる。

 今更この地を引き払い、王都の方に引き返した所で何も得るものは無い。これがラヒル陥落前ならば未だしも、既に落ちた後なのだ。“覇者”の主力が待ち構えるソーンラント西部に向かうよりも、足場を既に固めている東部に誘き寄せた方が勝ち目がある。現状ソーンラントで纏まった戦力を有しているのがオーグロ駐留中のファーロス一門のみである以上、慎重に動く必要があった。

「ま、こちらは勅命通り動いているのじゃから、さして問題はあるまいて。こちらは、の」

 執務机の上に置いた書状に目をやりながら、サムスンは呟く。

「兄上ならば、それこそ問題ないのでは?」

「……儂の所為でもあるのじゃが、家中に人間至上主義が蔓延しすぎておらなんだら、既に家督はエクサに譲れていたのじゃがの」

 右の人差し指で机上を叩きながら、サムスンは考え込む。

 父親の次の言を待ち、男は直立不動でサムスンに視線を向けた。

 一つ大きく息を吐いてから、

「矢張り何ともならんの。こちらに居る者を向こうに送ったとて、エクサの云う事を聞きはすまい。向こうは向こうで何とかして貰う他あるまいて」

 と、苦渋の決断を下した

「まあ、兄上ならばそれぐらい予測していそうですが」

「寧ろ、した上でのこれじゃろうな」

 書状に目線をやりながら、「傭兵を雇う事の許可を求めてきおった。最初から儂らが援軍を送る事は無いと踏んでおる。その上で、ハイランドとの単独講和に関する自由裁量フリーハンドを黙認して欲しいとも、な」と、サムスンは言いながら軽く肩を竦めて見せた。

「それは又……思いきった事を……」

 男は呆れた口調で首を横に振った。

「まあ、どちらも認めるしかあるまい。何も出さないのならば、せめて遣り方ぐらいは認めざるを得まいて。傭兵の方は兎も角、ハイランドとは如何にして手繰り寄せるのかは些か楽しみではある、かな」

「それに関してですが、手の者から“軍神”の倅がラヒルを脱してバラーに至り、江を下ったとの報告が入っております」

「泳がせておったあの若僧かね?」

 その報告を聞いて、サムスンは興味深そうに尋ねた。

「その若僧です。調べに寄れば、囲まれる前のルガナを脱し、ネカムに向かう途中で急遽ミールへと足を向けたとか」

「流石は“軍神”の倅よな。戦に愛されておる。いや、彼奴きゃつの様に鼻が利く、のか」

「動きを見ればそのどちらとも取れそうですな」

 父親の発言に対し、「ハイランドを出てから南での足取りを追いますと、常に戦乱の渦中へと身を投じています」と、集めた情報を披露をした。

「そうなると、彼奴目が息子の行き先を指示しているとも取れるが……あれが人に戦を譲る口かの?」

「無いでしょうね」

 即座に男は答えた。

 中原でも有数の武の名門であるファーロスと真っ向から遣り合える相手となると片手の指で事足りるぐらい少ない。

 その数少ない一人がハイランドの“軍神”である。

 知っての通り、ハイランドは人口が少なく、ソーンラントは中原でも有数の人口密集した都市を幾つも有する強国である。その違いは動員兵力にも如実に表れ、ソーンラントを相手にする大抵の国は兵力差による力負けを喫するのが世の習いと言っても過言ではない。

 だが、“軍神”がソーンラント方面の戦に顔を出す様になってからは様相が変わった。

 ソーンラントの量に対抗する為に徹底した質の向上と地の利を活かした戦術原則ドクトリンを編み出し、ハイランドに侵略しようとするソーンラントの軍勢に大量の出血を強いた。

 ソーンラントはハイランドに連戦連敗、帝国方面の抑えだったサムスンをハイランドの抑えに回さざるを得なくなる程最終的には押し込まれた。

 流石にサムスン相手には“軍神”も無双できず、両雄相打つと言った膠着を生む事となった。

 そして、それがソーンラント陣営に於ける対“帝国”の戦略を変更せざるを得なくなる要因となり、東への回帰に繋がっていったのだ。

「あの戦狂いが息子とは云え人の為に戦を譲るかと云えば……信じられんな。寧ろ、父親譲りの嗅覚で最高の狩り場を見つけ出したと考える方が未だしも真面じゃて」

「流石の我が家でも、四六時中戦場を駆け回りたいと思い願って実行する者は居ませんからねえ」

 親子してこの反応になるのも理由がある。

 “軍神”の二つ名の由来はその天才としか言えない用兵の才でもどの様な死地であろうと喜び勇んで付き従う兵達を引き付ける天性の魅力カリスマでもない。本来は、年がら年中戦陣で過ごす様を揶揄したものだったのだ。領主として大切な何かが欠けている男、それが“軍神”に対して世間が最初に抱いた感想であった。

 今もそれは変わってはいない。いないが、それ以上に常勝不敗の名将に対する信仰が何よりも強くなっただけなのである。

「すると、噂の嫡男絡みか、の」

「並大抵の家ならば既に傾いているはずですから、伊達では無いという事でしょうな」

 “軍神”と相対する事が多かったサムスンはハイランドでも彼の家のことを常に調べていた。あれだけ出兵し続ければ、如何程使うかぐらい、同じ武門の家であるからには先刻承知と言ったところである。故に、その動向を調べれば相手の懐具合など容易に推測できた。

 だが、ある時からその推測が外れる様になった。それどころか、今までにない軍拡も行っている節すら疑えた。あってはならない事態であった。

 今でさえ、こちらが優位なはずなのに互角以上の戦いをやって退ける“軍神”が更なる力を手に入れたらどうなるのか、考えるまでもない。その絡繰りを探る為にサムスンは本腰を入れて調べる様に指示を出した。

 その結果、“軍神”の嫡男が家のことを差配する様になってから劇的に台所周りが改善されたと判明した。

 “軍神”に注意を払い続けていたファーロスだからこそ知り得た情報であり、噂である。

「“軍神”の次の世代まで安泰となれば、ますます面倒な事よの」

「幸か不幸か、我らが“覇者”と相手をする以上、ハイランドは“帝国”に狙われましょうな。彼らの真価が見えてくるのも、それ次第でしょうな」

「彼ら、か。フン、“軍神”も倅に恵まれたと見える」

 息子の台詞の意図を悟ったサムスンは思わず苦笑する。

 これから“帝国”とやり合うとなれば、国元にいなければ役に立とう筈もない。彼らと言ったからには、国元にいる長男と次男のどちらも優秀で、“帝国”相手にも何らかの戦果を挙げると確信してのことだとサムスンは理解した。

「鳶が鷹を生んだ、私は然う理解しております」

「“軍神”を鳶と申すか。これは楽しみな話が増えたの」

 サムスンはかんらからと豪傑笑いでそれに答えた。

 “軍神”のことを世界で一番高く評価しているのは間違いなくこのサムスン・ファーロスであろう。“軍神”と最も多く戦い、尚且つ“軍神”相手にその回数だけ生き延びているのだ。互いに互いの首を狙い合い、お互い何度も死にかけてはいるもののその度に相手の策を食い破り生き延びている。

 だからこそ、その最大の仇敵をして“鳶”と評するだけの何かを持っている二人の“鷹”に強い興味を持った。

「まあ、鳶は鳶で怖ろしい鳥であると思いますがね、父上」

「その鳶に勝てぬ儂は何であろうな?」

「獅子、では無いでしょうか?」

「獅子か。獅子ね。成程、それはそれで上手い事を云ってくれるのお」

 息子からの思わぬ評価を聞き、思わずサムスンは失笑する。「確かに、地を行く獅子では鳶に勝てぬわ」

「まあ、“軍神”さえいなければ、今頃父上がハイランドを制していたでしょう。“軍神”と共に双璧と呼ばれているあの御老人では父上を止めるにはちと心許ないと云った処でしょうし」

「ガリバルディも良き将ではあるが、常識の範疇に収まるからの。全く、“軍神”さえおらなんだら、ハイランドは既に我らが手中に落ちていたものを」

 些かばかり残念そうにサムスンは大きく溜息を付く。

「その場合は、“帝国”と全面抗争している間に“覇者”の南下が始まっておりましたな」

「儘ならぬものよのお」

 間髪入れぬ息子の反応に対して、サムスンは苦笑で答えた。

 実際、“帝国”の国力はソーンラントと互角かそれ以上と考えられている。何せ、ハイランド、ソーンラント、中原王朝、カペーに根を張る勢力及び南狄オーク西戎ドラゴンと周囲を敵に囲まれているにも関わらず、その全てと同時に干戈を交えても国力がびくともしないのである。“江の民”や“山の民”の反乱で手一杯になるソーンラントとはその点が違い、そして、異質であった。

「まあ、人間至上主義に塗れた儂らが云うべきでは無いかもしれんが……」

「節操がなさ過ぎるのも問題ですなあ」

 親子して顔を見合わせ思わず失笑する。

 “帝国”が“帝国”たる所以、数多の国、数多の種族、数多の文化を一つの“法”の許に纏め上げ、偉大なる皇帝の指導をもって国体と為す。森妖精エルフだろうが、南狄だろうが、西戎だろうが、そして人間でさえ“法”の許に平等なのだ。故に各々の思惑が飛び交い国の意思は複雑であるが、ただ一つの大義の下、同じ志を持って存在している。人間至上主義の打破、である。

「行き過ぎた思想は毒にしかならぬのは、人の事を云えぬのかな?」

「ま、個人的な感想で宜しいのでしたなら、ハイランド程度の適当さが望ましいでしょうな。我が国では無理でしょうが」

 男は肩を竦めて、「何せ、我が甥御からしてある意味で極まっておりますからな」と、苦笑して見せた。

 サムスンは何とも言えない表情を浮かべ、

「ジリオンか」

 とだけ呟いた。

「預ける相手を間違われたのでは無いですか、父上?」

 真剣な表情で男は父親を詰問する。

「まあ、お前は然う云うであろうな」

 受け流す訳でもなく、然りとて否定する訳でもなく、サムスンはそうとだけ答えると唸り声を上げた。

 サムスンの息子は三人いた。現在眼前にいる末子、正室が産んだエクサ、そして二人の母親に比べれば多少身分の低い側室が産んだ戦死した一番年嵩の息子である。身分が低いと言っても家督を継げないほどでは無く、当人もそれを理解していたからこそ戦陣で獅子奮迅の働きをし、誰もが惜しむ様な働きをなして討ち死にしたのである。

 家督を継がすことができないにしろ、何かしらの家に養子に出すか、一家を新たに立てるかして身を立てさせようとしていたサムスンからしてみれば、それは大きな衝撃であった。

 本来ならば遺された孫に新しい家を作って与えるべきであったのだが、初孫可愛さとそれなりに家臣団から支持を受けていた息子の功を鑑みて自らの手元に引き取る事にしたのである。

 この時、末の息子は家督を継ぐ権利を残すにしてもエクサに預けるべきだと強硬に主張した。後を後々継がせるにしても、エクサの家督相続権を確りとしたものとし、然る後に序列を定めるべきだと正論を振るったのである。

「まあ、父上がジリオンの後見人になるのは道義的に見て問題はありませぬ。ですが、父上が引き取ってしまったから、ジリオンと我らの家督相続の序列がほぼ同位置と見える状況となってしまいました。その上、守役が家中でも指折りの人間至上主義者。私には父上が何を考えていたのかよく分かりませぬ」

 男は大げさに首を横に振りながら、大仰に溜息を付いて見せた。

「まあ、然う云うな、ベノブよ。儂にはあれが不憫であった、それだけで良い」

 サムスンは敢えてベノブの言を取り合おうともせずに、身内の情で動いたと誤魔化す。

 この件に関しての返答としては何時ものことなので、再度溜息を付いてから、

「左様で御座いますか」

 とだけ答えると、ベノブは押し黙った。

 ベノブは自ら進んで情報収集など裏方の仕事を自らのものと任じていた。上二人の兄が何らかの理由で跡目を継げなかった状況にでもならない限り、自分に御鉢が回ってくることはないと考えていた為、誰もやっていない仕事を自分のものとすることで居場所を作ったのである。

 自分にも当主になるだけの器があると自負していたが、上二人の兄を差し置いて成る程の器でもないと理解していた。むしろ、人間至上主義よりの上の兄と各勢力との調整役を務めている下の兄との潤滑剤をしないと家が分裂する未来しか見えなかった。

 幸か不幸か、ベノブには先読みをする為の材料を集めるだけの才覚もあった。だからこそ、自分が家を継いだら家中が破綻すると読み切れてしまったので興味がない振りをせざるを得なかったところもある。

 ある意味兄のエクサと同じく、ファーロスらしくないファーロスの一人であり、現在の一門の危機に対して深刻な思いを抱いていた。

 そして、噂をすれば影と言うべきか、

「御祖父様、命じられた仕事を遣り遂げて参りました」

 と、ジリオンが何の前触れもなく入室してきた。

「おお、そうかそうか。よう遣ったの」

 孫にでれでれする父親を横目で見て、ベノブは顔には出さなかったが、内心では苦虫を噛み潰していた。

 ジリオン自体にベノブは悪感情を抱いていない。むしろ、可愛い甥っ子として猫かわいがりしすぎていると周りに苦言を受ける程である。

 祖父と孫という関係もあるが、一門の頭領であり、軍の総帥でもある相手に私人として気安く接しすぎなのである。これでは、周りが次期当主がジリオンと勘違いするのも仕方ないと云えば仕方ないことであった。

「叔父上もこちらにおいででしたか」

「何、父上に報告する事があったからね。お前の方こそどうした?」

「はい、近隣に住み着いている蛮族を蹴散らしました」

「そうか」

 甥の話を聞いてから、父親の方を見てそれが正規の命令を持って出されたものであることを看破した。

 問題は、自分が蚊帳の外に置かれていたことであるが、自分が携わる程のことでもなかったかも知れないと即座にベノブは考え直す。

「まあ、聞くまでも無いが、成果はどうだったのだね?」

 そこで、ベノブは軽い気持ちで問い掛ける。

 この甥ならば武で不覚は取るまいと理解しての質問であった。

 だからこそ、その答えは聞くまでもないと高を括っていた。

「はい、皆殺しにしてやりました」

 何の衒いも無く、ジリオンは事実だけを述べた。

 この時、思わず出かかった表情を押し込めたことに自分のことながら褒め称えても良いと後にベノブは心中で喝采した。

 そのまま、父親の方に視線を遣ったが、他の軍忠報告を聞く時と同じ様に予断を含めぬ姿勢を保っていた。

「父上」

「有無、ジリオンよ、良くやった。追って沙汰を下す故、今は下がって身を休めるが良い」

「はい、分かりました」

 ジリオンはサムスンに一礼すると、そのまま退出する。

 二人ともまんじりとも動かずに扉を暫く眺めてから、

「父上、如何なる指示を出していたので?」

 と、徐にベノブは口を開いた。

「オーグロの安全を図る為に、周辺にいる蛮族共を追い散らしてこいと命じた」

「追い散らす、ねえ」

 ベノブは目を細めてから、「父上、どうなるか分かっていて命じましたね?」と、大きく溜息を付いた。

「あれの武がそれを楽に為せる領域まで達しているとは流石に考えてもおらんわ」

「と、云うと?」

「事態が急変しておるから時間を掛けるな、一撃を加えたら直ぐさま離脱せよ、と厳命したわ」

「それでこれですか……」

 余りのことにベノブは絶句した。

 これこそがベノブをしてジリオンに跡目を継がせたくない理由であった。

 熱狂的な人間至上主義者なのだ。

 父親がそうであった事も影響しているが、サムスンがベノブに付けた守り役が最悪であった。ファーロス一門の中でも一二を争う程の狂信的な人間至上主義者なのだ。これで博愛主義者に育ったとしたならば、偉大なる奇跡と言えよう。

(せめて、兄上の許で育てていれば、人間至上主義者になったとしても、今少し余裕のある性格になっただろうに……。その上で当主になったのならば、兄上を含め誰も不幸にはならない道だったのだ)

 ベノブにすら分かる道理をサムスンが理解できていないとは考え難い。だとすれば、肉親の情で目が曇っているか、ベノブですら知ることのない情報を許に先を読んだか、若しくは老いによる判断力低下のいずれかであろう。

 いずれにしろ、情報担当のベノブとしては認めがたい事実ではあったが、それに拘ったところで事態が好転するわけでもない。家門が崩壊しない様にでき得る限りの努力と根回しを怠らない様に動くしかないのだ。

 それでも、今日の様なことがあれば一瞬にして外交努力が無になるのだから、全てを投げ捨てたくもなる。

(ああ、クソッ。これでオーグロ周辺の慰撫を遣り直さねばならない。兄上にも連絡しないと。戦略眼を持った側近をジリオンに付ける事も考えないと拙いか? ああ、クソ、クソッ! 何よりも時間が無さ過ぎる!)

 心中で一通り場言を吐いてから、「それで父上? 戦略の変更が必要だと思われるのですが、如何なされるつもりで?」と、気を取り直して意見の摺り合わせの為に切り込んだ。

「基本線は変えぬ。従う者にはソーンラントの民としての扱いを。従わぬ者は敵と見なす」

「明らかに好意的な交渉継続中だった部族を皆殺しにされた事に関しての当家の見解は?」

「……協定を破った者には死を」

「父上、今迄の慣例を無視する事になりますが?」

 念を押すかの様にベノブは確認する。

 人間至上主義に傾倒した後のソーンラントでも、嘗て先祖達が取り決めた“江の民”や“山の民”に対する扱いを基本軸に交渉を続けていた。

 今回の様な生活圏の境界争いは新規の開拓地でもない限り、先住者優先とする。その祖法があるが為ベノブは昔の記録を引っ張り出し、九割方は話を纏め上げ、後は細々とした取り決めを詰めるだけまで持ち込んでいたのだ。

 それを武で以て刈り取ってしまっては、以降の交渉ごとは相手方を油断させるための態度ポーズでしか無いと見なされても仕方ないと言えた。

 そして、サムスンの言葉は祖法を捨てたことを意味する。

 基本線の維持とは正反対の動きであった。

「では、連中にジリオンの首でも差し出して許しを請うというのか?」

「それでこの辺り一帯全てを平定出来るならば安いものでしょうな」

 怒りで顔を朱に染め始めた父親に対し、ベノブはしれっと言って退ける。「全ての問題がそれで解決出来たのならば、ですが」

「その価値が無い、と?」

「今回の問題のけじめ程度にしかなりませぬ。でしたら、若気の至りと云う事で当人には謹慎、教え導いた者の首を届け、後見人足る父上が指示が曖昧であったと直接詫びを入れれば向こうも多少の上乗せと境界線を自分達の主張通りにしてくれぐらいで済むでしょうな。後一月ぐらいあれば、全てこちらの云い分が通った事を考えれば惜しいですが、“覇者”のことを考えれば挽回出来る程度の誤差でありましょう?」

 しれっと、さっさと始末しておきたい政敵に責任を押っ被せながら、今迄の感触から早急に妥結できる線をベノブは提示して見せた。

「……ぬぅ」

 サムスンはそれを聞いて唸り込んだ。

 本来ならば、ジリオンに命じた指令は周辺の“江の民”と折衝を担当しているベノブに話を通すか、ベノブの許可を取ってから動くべきものであった。

 それを孫可愛さに常識を持って動けば簡単にこなせ、箔が付くであろうと軽い気持ちで命じてしまったことは否めない。

 オーグロ周辺の交渉総責任者であるベノブに話を通さないことによる影響も考えずに、だ。

「今回の件、明らかに私の責任ではありませんよね? 命じられた父上か、実行したジリオンの何れかに帰するのは誰が見ても明らかです。これから来たるであろう“覇者”との戦いの際に後方を扼した状態にしたいのならば、“山の民”と“江の民”を殲滅するのも一つの手でしょうな」

 皮肉気な口調で口の端を擡げ、ベノブは突き放す様に言い放った。

「……隠居で何とか負からんかの」

「私に云われても」

 思わず苦笑しながら、「責任の所在をはっきりさせなければ向こうも引き下がりますまい。ジリオンが守役にある事無い事吹き込まれて暴走したという筋書きにするには分かり易い生贄が必要かと」と、ベノブは肩を竦めて見せた。

 政敵を取り除きたいベノブの思惑は兎も角、“江の民”と“山の民”との折衝に当たっている身としては彼らのソーンラントに対する拭えぬ不信感をひしひしと感じていた。ここらで一つ相手の心証を大きく上げる何かをしたいと考えていたところにこの様である。本気で皆殺しを狙うか、誰が見ても大きく譲歩したと見える何かをなす必要があった。

(ま、最悪皆殺しでも良いのだが、兄上との連絡が絶望的になるのがなあ)

 地理上、ラヒル近郊まで“覇者”に制圧された以上、完全な陸路でのバラーへの連絡は不可能になったと考えるのが妥当であった。少なくとも、本気で連動する気があるのならば、“江の民”との協力関係を成立させるのが最低限必要と考えられた。

 仮に連絡が取れなくなったとして、そのことで不利になるのは出征先にいる自分たちだけである。無理に逆撃に転じなければバラーで籠城するであろうエクサは潤沢な物資を武器に長期戦で敵の一部を釘付けする程度はできると考えられた。その様な展開になった場合は、その間にオーグロから打って出て敵の本隊を打ち破り、ラヒルを取り戻すことが理想的な展開であろう。

 問題は、それを相互の意思疎通なしでやって退けなくてはならないのだから、その時点である意味全ての前提が破綻しているのだ。情報の共有なくして、どうやって互いに連動できるというのだろうか?

 少なくとも、連絡船の確保は挟み撃ちにしたいのならば必須なのだ。

 更に付け加えるとすれば、現状、オーグロ駐屯中の兵の大半を動かせば“江の民”や“山の民”の決起が目に見えている。兵を西に動かしたいのならば、和議にせよ殲滅にせよ、問題を解決する必要があった。

「どちらにしろ、視野の広い補佐役をジリオンに付ける事が急務でしょう。当主にするにしろ、しないにしろ、ファーロスの一翼を担うならば遣れて当然の事柄が出来ないにも程がある。父上とてそれは御理解なさっておりましょう?」

 従って、ベノブは最初に解決せねば話が進まないことに着手することを決心した。これから先のことを考えて、一番の不安要因を取り除くに限るのだ。

「あれの貢献を考えれば……」

「生かすにしろ殺すにしろ、ジリオンの守役を外すのは最低条件ですな。最早、悪影響しか与えていない。どうぞ父上、ご決断を」

 早いところ兄に面倒な仕事は丸投げしたいと思いながら、ベノブは父親に決断を迫った。

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