第二話 ラヒル強襲

 ソーンラント王都ラヒル、実はラヒルの名を持っていた都市は一つだけではない。ソーンラントは首都をラヒルと呼び慣わす習慣があり、遷都すると同時に旧名か新しい名を付ける。旧都オーグロが良い例で、最初はラヒルと呼ばれていたが遷都と同時にオーグロと命名された。

 元来、ソーンラントの支配層はオーグロ近郊の部族であり、西へ西へと勢力を拡張してきた。その都合、領土全域を支配するのに東の果てでは不便だったために徐々に首都も西へ西へと遷移してきた。

 その過程で流れ込んできた中原の文化や悪名高き人類至上主義思想の影響で本来ならば仲の良かった“江の民”と“山の民”と相争うこととなる。そして、争い始めてからは安全を求めて西の果てに都を移したのである。

 だが、南西に“帝国”という新たな脅威が生まれたことにより、ソーンラントは方針の転換を再び図った。旧都オーグロ方面を安んじ、王都を再び東寄りに遷都するという大方針である。

 一見すると場当たりな戦略にも見えるが、一つ一つの方針転換に百年以上の間があることを考えれば、時勢に合わせた柔軟な対応が出来ているとも言えた。

 但し、最後の大方針を決めた時点で中原王朝に“覇者”が君臨していたと言う事を忘れていなければ、と後世の歴史家ならば注を入れるであろう。



「いやあ、帰ってきたって感じがするね」

 レイは荷物を降ろすと上機嫌に言った。

「ここ最近の根幹地だからな、この宿」

 アレウスもそれを否定することなく、「茶、入れるか?」とレイに尋ねた。

「貰う~」

 嬉々としてレイは答え、ふと正気に戻り己の姿を見る。

「ン、どうした?」

「……最近ずっと鎧着っぱなしだったから、今の今まで違和感を抱かなかった。先ずは着替えてくる」

「ああ、四六時中当たりに気を使っていたからなあ」

 アレウスも少し鼻を利かせてからばつが悪そうに同意した。ミールからここに戻るまで着替えたり、身体を拭く余裕がなかったのだ。

 結局、身の安全を優先したのか商人はラヒルへの護衛をアレウスやレイを含めた傭兵全員に掛け合ってきた。幾人かはアレウスの言った最初に請け負ったネカムまでの料金でそのまま引き受けると言う案に不満たらたらであったが、

「ミールで他の仕事を受けるよりも、さっさとラヒルに出た方が得策であろうよ。その上足代が出るのだ。仮に虎豹騎と出会うとして、ミールとラヒル、どちらで出会うのが得策かな?」

 とのアレウスの指摘を受け、渋々ながらも全員で請け負うこととなった。

 当然の事だが、ラヒルまでの道中は要警戒であり、誰も彼もが精神をすり減らしていた。

 万が一、億が一ぐらいの可能性とは言え、再び虎豹騎と道中で出会う可能性がある以上、気を張り続けるのは当たり前であり、道中は誰もが生きた心地を実感できていなかっただろう。

 勿論、アレウスを除いて、だが。

「直ぐ戻るから」

 レイは直ぐ様部屋へと戻る。

「まあ、俺も普段着に着替えるから焦ることはない」

 苦笑しながらアレウスは自分の割り当ての部屋に入る。

 身につけた甲冑をてきぱきと外してゆき、鎧直垂を脱ぐ。

「……こりゃ、早めに洗濯しないと臭いきつそうだな」

 流石のアレウスも思わず鼻に飛び込んできた悪臭に顔を顰めた。

 手早く洗い物籠に着ていたものを突っ込み、宿に置いていた普段着を身につける。

「レイでなくてもこりゃいかんなあ。どうにも戦場の思考に切り替わりすぎている」

 とりあえず茶を入れたら公衆浴場にでも行こうと考えながら、茶道具を用意し、共有の部屋へと出る。

 予測通りレイはまだ戻って居らず、アレウスは湯を入手するために部屋を出る。

 それなり長い間滞在した宿の廊下を鼻唄交じりに移動し、台所へと至る。

「茶を入れるための湯が欲しいのだが?」

「はい、只今」

 傭兵や冒険者が定宿にする宿屋は大抵表通りに面している酒場が四六時中開いているため、裏の宿に泊まっている客に対して宿代に見合った奉仕を提供している店が多かった。流石に風呂が付くとまでなると余程の宿でしかないが、茶を入れる為の湯を分けて貰うや、酒場では無く部屋で飲み食いをする程度ならば木賃宿でもない限り大概提供していた。

 十分な湯を水入れに分けて貰い、アレウスは足取りも軽く部屋に戻る。

 未だに共用部にレイは戻って居らず、アレウスが出て行った時と部屋は同じ状況の儘だった。

 さしてその事を気にすることもなく、アレウスは愛用の茶道具をいそいそと取りだし、またもや鼻唄交じりに手慣れた手つきで急須に茶葉を入れ、湯を注ぎ込む。二人分の茶碗を用意し、暫し待った後に急須から茶碗へと注いだ。

 軽く自分の分を味見して満足した後、椅子に座って窓から外の光景を眺めた。

 茶が丁度良く冷めてきた時分に、

「御免、待たせた?」

 と、自分の部屋からレイが出てくる。

「何、丁度良い頃合いさ」

 アレウスは笑い、手振りで茶を勧めると自分の分を啜る。

「なんかこう、臭いが、ね」

「戦場帰りを思い起こすのはいかんな」

 椅子に座りながら愚痴るレイにアレウスは同感だとばかりに頷いて見せた。

「こんな時に合う香でもないものかな、全く。……んー、アレウスの入れる茶の香りは心落ち着くね。毎日こうなら良いのになあ」

「傭兵などと云う因果な商売でそうもいくまい」

 思わず零れた本音に、アレウスは苦笑して見せた。

「まー、分かっているけどさー。それで、アレウス。これからどうするの?」

 大きく一つ溜息を付いてから、気を取り直してレイは今後の展望を尋ねる。

「ふむ」

 茶の香りを鼻で楽しみながらアレウスは視線を外にやる。

 その視線の先には太平を謳歌するラヒルの目抜き通りが映っていた。

「俺が知り得る限り、これほど繁栄している街は中原広しと云えど片手の指で数えられるかどうか程度だろう。戦乱の世でありながら、これだけの民が太平を享受している、それだけでも大したものだ。ラヒルが前線から離れているとは云え、並大抵のことではない。ソーンラントの政は良いものだとこれだけでも俺は断言する。……だが、今は乱世だ」

「この光景も不朽のものではない……」

 アレウスのぽつりとした呟きにハッとした表情をレイは浮かべ、思い当たった言葉を口にする。

「正に正に。一手間違えれば、明日にでも火の海に沈む。噂話が正しければの話だが、バジリカの精兵がネカムに入ったそうだ。これで“覇者”の右腕ルシュア・ベルラインの元にの陣営の主力が揃ったことになる。“覇者”は本気でソーンラントを陥落おとしに来た」

 淡々とした口調でアレウスは自分の得た情報を解析した結果を断言した。

「その割にはこの国は慌てていないよね?」

 レイは不思議そうに窓の外の光景を眺める。

「その為のルガナだと思っていた訳だからな。まあ、その考え方に間違いはなかったのだが」

 アレウスは茶を啜りながら、「思い切ってカーム方面から強襲してくるとは考えていなかったのだろうな」と、真剣な顔付きで呟く。

 中原王朝側から見たソーンラントとの国境は王都ヴォーガの北とそこより北東に位置するカーム州である。ヴォーガはジニョール河が作り出している扇状地の端緒部に位置することから想像が付くように、三方を山脈に囲まれている。従って、ヴォーガからソーンラント最南端に位置するルガナまでは地図上では近いものの、実際に進むとなれば些か面倒な地形に存在する。

 一方のカーム州とソーンラントの国境はなだらかな丘陵地帯で繋がっており、行き来に不便はない。不便はないからこそ丸見えであり、正直急襲や奇襲に向いた地勢ではない。行き来がしやすいと言うことは、攻めやすく守りにくいのだ。これはどちらの陣営にも言えることであり、一度大軍を動かせば互いに応じ合い、大決戦と雪崩れ込むであろう。

 当然、一箇所にそれだけの軍を纏めれば、他が手薄になる。側面に様々な勢力と接触している国同士、それを望んでいる節は少なくとも今まではなかった。

「なんで考えなかったのかな?」

 ソーンラントにはカーム方面から入ってきたレイからしてみれば、どう見ても攻め込むならばそこしかないと考えていた。今回ルガナを見て、力攻めで陥落させにくいと見極めていた分、その思いは顕著である。

「中原王朝王都であるヴォーガとルガナは目と鼻の先だ。ルガナにあれだけの精鋭が駐屯している以上、それを完全に無視してネカムを攻めることは自ら包囲されに出てきたか、自分たちの後背を好き勝手に動かれるだけだからな。只の精鋭なら兎も角、帝国からソーンラントに亡命してきた南狄オークを含んだ突騎だ。俺ならルガナを完全放置することは御免蒙る」

 レイの素朴な疑問にアレウスは淀む事無く自分の考えを開陳した。

 普通に考えれば、ルガナを自由にしたまま、カームからネカムに攻め込むことは危険である。ルガナを攻め落とすか、抑えの軍勢をおいてからでないと現実的とは言えない。

 しかし、そうなれば大規模な軍を起こす必要があり、密やかにと言うわけには行かない。乱世である現在、その様な動きを見過ごすような隣国は存在しないと言って良い。

 余程の根回しや勝算がなければ思いきれない筈であったのだ。

「だから、“覇者”はルガナを攻めているのかな?」

「さて、どうだろうな?」

 アレウスは些か考え込んでから、「既に話は付いているのかもしれん」と、ぽつりと呟いた。

「どういう事?」

「ソーンラントと“覇者”を天秤に掛けて、“覇者”を選んだのであろうよ。但し、ソーンラント主力を打ち破った暁には、と言ったところだろうか?」

 アレウスは虚空に視線を揺蕩たゆたわせながら、己の心の内にある考えを纏めた。

「根拠は?」

「一つは俺達がルガナを出るまでそんな気配が一切なかったことだな。あそこに居る連中が“覇者”の動きに気が付かない筈が無い。俺達が出た後に突然包囲されたのだとすれば、どうにも不用心すぎた気がしてな。もう一つは“覇者”殿が己の片腕に主力を任せて居る事だな。“覇者”殿に直接降ったのならば、まあ、ルガナに篭もっている連中の顔も立つ。ファーロス一門でも居ない限り、“覇者”殿が自ら出陣する必要もあるまい。将としては一段ぐらい落ちるやもしれんが、“独眼竜”もあれで中々優秀な将軍だ。今ソーンラントが繰り出せる戦力程度では勝ちに持ち込む事は厳しいであろうな。ネカムからここラヒル迄はほぼ直線で進める。早めに戦力を集めないことにはラヒルの陥落はほぼ決まったも同然であろう。レイは籠城戦好きかね?」

「それが好きだという人は居るのかなあ」

 アレウスの問い掛けにレイは思わず苦笑した。

「俺の下の兄上は援軍が確実に来るなら篭城も苦ではないと云っていたな。まあ、来なくても敵が大軍で油断していたら外から伏兵を率いて敵将を討てばどうとでもなるとも云われていた気がするんだが……どんな状況を想定されていたんだかなあ」

 良い例を挙げようとしたつもりだったのだが、答えている内にアレウスはどんどん自信を無くしたかの様に小声となっていった。

 レイもその様子を見逃すことなく、

「絶対にそれは例外中の例外だよね?」

 と、問い糾した。

「俺もそう思う。どう考えても本拠地に攻め込まれた時点で負けている」

 真顔でアレウスは頷いた。

「まあ、君の奇妙変哲な御家族は良いとして、ソーンラントに籠城戦の名手って居るの?」

 話が逸れそうになっているのに気が付いたレイは本題を探る。

 現状の戦況の儘進めば、ラヒルの攻防戦は確実に起きる。その時、籠城に強い将がいるか居ないかで彼らの進退は決まる。これだけは確実に大概が同じ認識を持っていなければ拙い話であった。

「“覇者”殿の配下になら居ると聞いたことがあるぞ? 後は、カペーの“大徳”が配下に攻防自在の名将が居ると聞いたな。まあ、“帝国”にもそれに匹敵するバケモノがいるが……こちらは宰相と仲が微妙だからそうそう滅多に戦場で出会うことはないだろう。大戦にでもならない限りは」

 アレウスは知り得る限りの現状を引っ繰り返せる将を数え上げた。ただ一つ問題があるとするならば、ソーンラントの将をあげていないという点であった。

「ん? “大徳”の配下の将軍は良く出てくるって事?」

 レイにとっては聞き捨てならない言葉が耳に飛び込み、本題から逸れると分かっていても尋ね返せずには居られなかった。

「多分お前も知って居るぞ。今、ギョームを攻めているカペー地方の七十余りの城邑を陥落して廻った彼の“大将軍”だ」

 何を今更聞いているのだと言った表情でアレウスは律儀に説明した。

「え、あの方って守勢得意だったの!?」

 思わぬ情報にレイは驚きを隠し得なかった。

「何を云っているんだ。カペー動乱の最初期に国を陥落された際、南で勢力を墨守していたのは彼の“大将軍”様だぞ? その御陰で“大徳”は最低限の戦力を確保し、南のクーヴルとの盟を結ぶに至ったのだから、余程のものだな」

「戦力を保持して遊撃戦に徹していたものだと思っていたよ」

「ないない。それはないぞ、レイ。あれだけの兵力を養うには基盤が必要だ。現にスコント陥落後、北方で活動していた“大徳”の兵力は良くて数千と云った処だった。その程度の勢力ではクーヴルは動かなかっただろうよ。南で“大将軍”と合流して、何処からか流れてきた“策士”の献策により周辺勢力を糾合し、盟主としてカペーの七十余城を制圧した。これだけのことを成し遂げたのは少なくともスコント南部を抑えていたからだ。それがなければ今頃はヴォーガ留学中に縁のあった“覇者”の元にでも亡命していただろうさ」

「然う云う流れだったんだ」

 アレウスの説明を聞き、レイは深く感銘を受けた。

「何で地元民のお前の方が知らないのかと聞きたい処なんだがね」

 些か呆れた顔付きで、アレウスはレイを眺める。

「あの頃はまだ世情に興味持っていなかったし、アンプル山脈の麓の方に実家があった都合さ、どちらかと云うとアンプル山脈に住んでいる獣人や巨人の動向の方が死活問題だったから東の方はとんと詳しくないんだよ」

 一瞬考える仕草を見せてから、

「……ああ、然う云う理由があるなら仕方ない」

 と、アレウスは納得した。

「納得するんだ」

「アンプルの巨人や獣人は流石に有名だからな。国境でもない限り、あの山脈の麓の領主ならばそちらに気を使うだろうさ」

「何か含むところのある良い方だね?」

「人類至上主義は中原の宿痾しゅくあだと今更再確認したところだ。あの阿呆な教えが流行っていなければ、無駄に争うこともなかっただろうにな」

「否定出来ないなあ」

 吐き捨てるかの様なアレウスの現にレイは深々と溜息を付きながら同意した。

 ジニョール河南岸に位置するカペーの西端には南北に縦断するアンプル山脈が聳えていた。山並みは険しく河沿いの北端と南端でぶつかる東西に走る他の山脈との間に出来た峡谷や山脈中央部にある山道ぐらいしか東西への連絡路がない天然の要害である。

 但し、それは人間から見てであって、他の種族からすれば外敵が入り込まない快適な住み処となる。山脈を越えた先にある高原から逃げ込んできた獣人、昔から住み着いていた一部の巨人種当たりが有名である。

 基本的にアンプル山脈に住まう他種族は中原に住まう人間と関わらぬ様に山を下りてくることはなかった。寧ろ、麓に住まう人間とは上手く生活圏を被らせぬ様に配慮しあい、お互いに足りないものを融通し合うなど上手く付き合っていた。

 これが大きく崩れるのは件の人類至上主義の教えに浮かされた狂信者達が麓の住人の意思を無視して山狩りを始めたことに端を発する。寧ろ、反対した麓の住人ごと根絶やしにしようとしたため、本来麓に住んでいた人間たちも山脈に逃げ込んだことで更に話がややこしくなったのだが、どちらにしろ結果は変わらない。本気になった獣人巨人連合が人間に襲いかかったのである。

 逃げ込んできた人間たちの知恵を借り、彼らはカペーを大いに荒らした。

 最終的には人類至上主義者達の首を土産に人間側が大幅譲歩して和平が成立、スコントの森に一部の獣人達が移住し、和平の立役者であるスクォーレから流れてきた一人の英雄が王となった。これがスコント王国の成り立ちであり、後にスクォーレより流れてきた者たちが立ち上げた中原王朝の兄的存在とされる理由である。

 しかしながら、これで全てが解決された訳ではなく、山脈に住まう者とカペーの平野に住まう者に出来た溝は以降埋まることなく今日に至る。

 そう、今でも人間が莫迦な真似をし、巨人や獣人の報復を受ける事が多々あるのだ。

 しかも、麓の人間以外の悪行で、麓の人間が無駄に犠牲を受ける構図は変わっていないという笑えない事実も続いていた。かつて己らの先祖がやらかした事の付けを今の子孫が受ける、正しく因果応報である。

「あそこら一帯を“大徳”が治めていれば暫くはその様なことは起こるまい。彼の方は人種の違いで区別などせぬ。只純粋に能力のみで区別をするある意味で尤も怖ろしい君主なのだからな」

 偉く真剣な顔付きでアレウスは言い切った。

「どうして怖ろしいの?」

 不思議そうな顔付きでレイはアレウスを見る。「能力のみで評価してくれるならこれ以上ない主君じゃないの?」

「逆を云えばな、使えぬ者は切り捨てると云うことなのだよ。自分の代わりになる者が現れたら条件次第で捨てられる。能力がある者にとっては天国であろうが、なかったりなくなった者にとってはどうであろうな」

 飲み干した茶碗の縁に指を這わせながら、アレウスは微妙な顔付きで一つ息を付いた。

「流石に功労者は何らかの配慮が為されるでしょう?」

 アレウスの態度に不審なものを抱きながらも、レイは恐る恐る尋ねた。

「人情はある方だからな。それ相応の何かは授かるだろうさ。だがな、自分がまだまだ働きたいと思っていても、ある日突然仕事を奪われ今日からはゆっくり身を労れと云われると想像して見ろ。これがどれだけ残酷なことか分からないでもあるまい。まあ、それだけ配下を見ていると云うことでもあるが、“大徳”の二つ名を持っていながらもあっさりとその決断をする人物鑑定眼がどれほどのものかは理解しておくべきだろう。……只、まあ、人を使う者としての優しさの一つではあるとは思うがね」

 複雑な表情の儘、アレウスは最後に一言付け加えて押し黙る。

 気分転換がてら立ち上がり、湯を急須に入れ直し、再び抽出されるのを待つ。

「随分と詳しいね?」

 茶を淹れ直して貰いながら、レイは不思議そうにアレウスを見た。

「まあ、一応面識があるからな、彼の方々とは。人の評判、自分から見た印象、成し遂げた業績などを比べれば見えてくるものもある」

「面識があるって云うと、雇われていたの?」

 さらりと重要な情報を漏らしたアレウスに、レイは一番可能性が高そうな事柄を挙げてみた。

「一応最終的にはそうなるか」

 アレウスは考え込みながら、「初戦と都が落ちるまでは適当に陣場借りしていた。その後、その情報を持って“大将軍”に伝えて、“大徳”にもその情報を売りに行ったのが縁だな。それからスコントとクーヴルの同盟がなるまでは“大徳”に雇われていたぞ? 御陰で“策士”ともそれなりに面識がある。その後は、“大徳”の勝利という先が見えたからそこで別れたがな」と、言ってから茶を飲んだ。

「それって間違いなくそのまま居れば仕官出来たよね?」

 レイは誰しもがアレウスの発言を聞いたら持つだろう疑問を口にした。

「別に家を追い出されて武者修行の旅に出た訳でもないから流石に仕官はなあ。悪くない主だとは思うが、身内の贔屓目を差っ引いても上の兄上の方の器が上だからな。仕える理由がない」

 アレウスは仕官を望んでいる浪人や傭兵が聞いたら激昂しそうな台詞を平然と言い放った。宿屋の部屋とは言え、誰が聞いているか分からない場で辺りを憚らずに言いきる辺りアレウスの感覚は浮き世離れしていると言われても仕方のない態度である。

 その様なアレウスの態度を一切気にせず、

「そこまでアレウスがべた褒めするお兄さんに会ってみたいよ」

 と、レイは思うが儘に感想を述べる。

 ある意味でこの二人は似たもの同士であり、己の能力を頼み乱世に野望を抱いて漕ぎ入れる英傑とは一線を画しているとも言えた。

「此の儘俺と旅していれば何れは会う機会も来るさ。それで、どうする?」

「ボクの命はアレウスに懸けているから、アレウスが決めてくれよ。僕はそれに従うよ」

 アレウスの端的な問いの内容を即座に理解し、レイは正しく答えを述べる。

「そうだな……。ソーンラントと心中する趣味はないからラヒルに残るという選択肢は先ずない。ここから出るとするならば南に“覇者”が出張っている以上他の三方。ハイランドに行くつもりは無いから西はない。残るは北か東だが……。東はファーロス一門が居るからやはり戦乱、北に出てから……そうだな、一度迷宮都市に戻るかな?」

 レイの答えを聞き、アレウスは頭の内に周辺の絵図面を描き、今後の行動案を練る。

「すると北のバラーに出てからアーロンジュ江を下るという感じ?」

 打てば響くとばかりにアレウスの考えをレイは補足する。

「俺としてはそう考えているが……ただなあ、迷宮都市に戻るには時期尚早な気もするし……情勢を考えれば仕方がない、か」

 アレウスにしては煮え切らない態度で首を捻り、手を額に当てて考え込む。

 それなりに長い付き合いである以上、レイはアレウスの態度で内心をある程度推し量れた。只、アレウスがこの様な態度を示したことが未だ嘗てなかったのでどう反応して良いのか悩み、

「何か問題でも?」

 と、当たり障りなく何気ない調子でレイはアレウスに尋ねた。

「まあ、なんだ。お前と組む前に一度迷宮都市で迷宮に挑んでいた話はした、な?」

「確か聞いた記憶がある様な、無い様な?」

 アレウスの煮え切らない態度にレイは内心で首を捻りながら記憶を反芻してみる。

「その時に組んでいた徒党は不慮の事故で全滅してな。俺以外で生き残りが一人、蘇れたのが二人、完全に旅立ってしまった者が二人なんだが……。生きのこれた一人ですら酷い心の傷トラウマを背負ってしまってな。どう足掻いても徒党を組み直せそうにないから一度解散して、機を見てから又組もうと約束していたのだが……。挑み直すにはまだ間が空いていないかなあ、と愚考する次第でなあ」

「ああ、うんうん。聞いてた聞いてた。確か、誰よりも深いところまで乗り込んでいて、吃驚するぐらい儲けたものだから慎重論のアレウスの言葉が軽んじられる様になったんだっけ?」

「正にそれだ」

 深い悔恨の念を感じさせる響きで、「あの時俺が徒党を抜けるとまで強く出ていれば違っただろうになあ」と、溜息を付いた。

「アレウスにしては珍しい」

 レイは正直なところをそのまま言った。

「そうか?」

「うん。だって、アレウスって失敗しようが人死にが出ようが結果は結果として受け止め、次に同じことをしない様に教訓とするだけでぐだぐだと悩んだりしないもの。そんなに後悔している様は珍しいと思うけどね」

「……まあ、そう見えるか」

 大きく息を付いてから、「己の命令で殺した者は流石に後に引く様な事はない様に育てられてきたからな。各々が自分の自己判断で皆が行動する状況下で、己だけが正しい判断をし、それを人に忠告しても受け入れて貰えない場面での死は又別でなあ。もっと上手く説得出来ていたらとか思い出す度に考えてしまう。雇われている時は己が判断する場面ではないから矢張り気にしないのだが、同格の同志や仲間の死はそこまで割り切れないものだなあ」と、アレウスは乱暴に茶をあおった。

「ああ、そうか。だから、ボクのことを気に掛けているのか」

「そりゃお前、五分の相棒だろう、俺らは。少なくとも俺はそう思っているぞ? 何かこうしたいと思う事があるのならば何時でも云って貰って結構だ。ちゃんとその意見を聞き入れる用意はあるぞ?」

 お前は何を今更言い出しているんだと言いたげな表情でアレウスはレイを真っ直ぐ見た。

「ま、ボクの方余り自己主張していないだけだからねえ。アレウスの考えの方が安全だと分かっているし」

 レイは静かに首を横に振る。「ああ、強いて云えば、ラヒルには何時まで居る予定?」

「俺が一人なら明日にでも進発したい」

 アレウスは間髪入れずに本音を言った。

「もう一日ぐらいは居られない? こう、色々と準備が……」

 取り付く島も無い返事にレイはしどろもどろになって何かを訴えようとする。

 アレウスは不思議な生き物を見る目でレイを眺め、

「……色街の方の用件かね?」

 と、答えに行き着いた。

「ン、まあ。そんなところ」

「俺もこの後展開の自信はないのだ……」

 アレウスは再び外に視線をやり、「一般常識からの推論で良いのならば、ラヒルに今いる軍勢及び近隣から直ぐに集められる諸侯を呼び付けネカム方面に兵を出すとしても良くて一週間、悪ければ一ヶ月以上掛かる。ソーンラント陣営が戦争準備に完了する時間は“覇者”に比べるとお話にならない状況だろう。ただし、ルガナを救援する気が本気であった場合は既に軍勢集結命令が出ているはずだから、それを転用出来る。この場合は本来援軍を出兵する予定日そのままが出陣可能な日取りとなる。ソーンラント側が仕掛けるとしたら現状一ヶ月程度は掛かるだろうな」と、自分なりの推測を開陳した。

「成程。結構余裕はあると見ているの?」

「戦は相手が会って成立するもの。逆を云えば、こちらの都合など相手からすればお構いなしだと云うことだ」

 楽観的な顔付きのレイにアレウスは真剣な眼差しで首を横に振った。

「えっと……“覇者”が明日にでも来ると?」

「正に、正に」

 我が意を得たりとばかりにアレウスは膝で手を打つ。「お前もネカムでの一件はこの目で見たであろう。“覇者”は勝算があるのならば思いきった一手を平然と打ってくる。ファーロス一門が居るのならば兎も角、今のラヒルに手を出さない理由を俺は見出せん。故に早くて今日、遅くともソーンラントが出撃する準備が出来る前にラヒルを包囲する未来しか見えぬのだよ」

「それで明日にでも出発か。そうか、それなら納得出来るなあ」

 アレウスの読みを聞き、レイは深く納得する。それだけ先の“覇者”の行動はレイの度肝を抜いていた。

「まあ、お前がどうしても二日要るというのならば明後日でも仕方ないとは思うがね」

 アレウスの提案を受けて、レイは真剣な顔付きで何か計算する態度を示し、

「……どう頑張っても荷物を纏めるのに一日半かかる……」

 と、机に突っ伏した。

「明後日の朝一か……。まあ、無難な線ではないかな」

 些か渋い表情ながらも、アレウスは右手を首の後ろにやりながら同意して見せた。

「微妙かい?」

 アレウスの仕草を気にしながらレイは尋ねる。

「……まあ、先頃みたいに完全に死ぬなという時以外首の後ろは反応しないから、どう転んでも死にはせんよ。……只まあ、判断を失敗すれば不自由な生活を強いられるだけだと思うが」

 最後の一言は聞こえるか聞こえないか程度の声色でアレウスはぽつりと呟いた。

「分かった。急いで荷物纏めてくる!」

 レイは慌てて腰を浮かせようとするが、

「まあ、待て」

 と、アレウスに制された。

「何?」

「宿の荷物からにしなさい。あと、色街行く時は得物と最低限の防具を服の下に着込んでおく様に」

 驚くほど真剣な顔付きでアレウスはレイに忠告した。

「流石にそれは無粋じゃないかなあ」

 その様なアレウスの態度にレイは困惑する。

 如何にアレウスが色街にも行かずに剣の道に没頭する求道者と言えど、粋を知らない男ではない。そんな彼が無粋な真似をしろとはっきり指示した事に違和感を覚えたのだ。

「既に戦時ぞ? 耳聡い傭兵もかなり入り込んできていよう。そして、本番まで色街で遊び呆ける連中が増えれば、色街の治安も悪くなる。行き付けの店に用心棒を買って出れば喜んで受け入れて貰えよう。お前は信用されていようからな」

「あー、確かに。然う云う事ならそうしてみるかな」

 アレウスの読みを聞き、得心したレイは提案を受け入れる姿勢を示した。

「それが良い。実際に“覇者”の軍勢が来たらそのまま逃げられるからな。店の方も、その時は逃げだした方が有り難いだろう」

「まあ、あっちが変な勘違いして流連を立て籠もりとして扱ったら困るものね」

 想像し得る最悪を何となく頭に浮かべ、レイは大きく頷いた。

「然う云う事だ。まあ、これまで世話になっていた礼も兼ねているのだろう? さっさと部屋を整理して出掛けるのだな」

「そうする」

 レイは素直に頷き、そのまま部屋に向かう。

「俺は公衆浴場でとりあえず一っ風呂浴びてくる。その後は組合に寄って帰るから入れ違いになると思うが、部屋の戸締まりだけは気を付けてくれ」

「はーい」

 返事だけ後に残し、レイは部屋へと消えていった。

 アレウスも特には気にせず、部屋に向かい、風呂に出掛ける準備をする。



 神ならざらぬアレウスが全てを見通す事など不可能と言えど、現在が最悪の事態よりも尚状況が悪く、それが過去の己の行いを原点とするものと言う事などどうやって知ることができようか。

 しかしながら、アレウスにとっての僥倖は彼を陰に日向に見守っている者が身内に居たと言う事である。



「良い湯だなー」

 太平楽とばかりに湯船に浸かり、アレウスは御機嫌な様子を示す。

 基本、ソーンラントで風呂と言えば貴人たちが好む蒸し風呂であった。密閉された空間、釜にくべる薪代、蒸気にする水など一般の民衆が個人で持つには金も労力も掛かりすぎた。

 ソーンラントが拡張する中、“江の民”や“山の民”と交わっていく中、互いの衛生観念の違いが無用な争いを生みかねない、そんな状況になるのはある意味で必然であった。そこで、人間の城邑に彼らが踏み込む時は身を清めてから入城すると言う不文律がいつの間にか生まれていた。ソーンラントに於ける公衆浴場の始まりである。

 最初は水浴びが出来るだけの施設であったのだが、いつの間にやら湯船ができ、気が付けばソーンラントに住まう者にとって公衆浴場はなくてはならぬ生活の一部となっていたのだ。

 “江の民”や“山の民”と袂を分かった今でもその風習は続いているのはそういう意味では皮肉とも言えた。

「御機嫌でんなー、旦那」

 何時の間にやらアレウスの隣で中肉中背の目立たぬ男がニコニコと笑っていた。

「そうでもない」

 アレウスも慣れたもので男の事を最初からいたかの様に扱う。

「てっきりもうこの街を出たものかと思っておりましたわ」

「ほぅ」

 男の台詞を興味深そうにアレウスは聞く。「何故そう思った?」

「旦那なら籠城で時間を潰されるの嫌うと思っとりましたもんでしてね」

 何気ない調子で男は聞き捨てならない台詞を吐く。

「相変わらず耳が早いな」

 アレウスは男がそれを知っている事を当然のものと受け取り、「他には?」と、促した。

「まあ、御上は隠そう隠そうとしている様ですが、商人の中には既にネカムの話やら傭兵組合の話やらで天手古舞いですなあ。まあ、ここらの大店は大抵バラーにそれなりのものを置いているもんですさかいそこまで慌てとる粗忽モンは少ない様でんな」

「今更商品をそっちに運ぶ間抜けは少ないか」

 場合によっては隊商の護衛に入り込んでバラーまで移動する事も想定していたアレウスからしてみるとそれなりの悲報であった。

「ま、期待しとらんかったんなら痛くも痒くもありまへんやろ。ところであんはん、偉く怨まれてますなー」

「この世界に居ればそれなりにな」

 その事をさして気にしていないとばかりにアレウスは頭に乗せていた手ぬぐいで顔を拭う。

「人中のリチャード・マルケズ」

「?!」

 ぽつりと呟いた商人の台詞に一瞬だけアレウスは表情を歪めた。

「彼の御仁の部下の内、流れ流れて“覇者”の下に付いた者が居りますやろ?」

「……いや、それは初耳だ」

 口元に手をやりながらアレウスは小声で囁く。「真か?」

「ルガナ攻めの直前にロンテーモ州に流れてきて匪賊と化していた一派の一つが“覇者”殿に降りましてな。確か、頭目の名前はジャマー・ダッハールとか云いましたかいな」

「選りに選って奴かよ」

 思わずアレウスは天井を仰ぎ見た。

「おや、心当たりがおありの様で?」

 明らかに知っていながら知らない振りをしている、そんなバレバレの様子で男はアレウスを笑顔で見る。

「そら、カペーにいる間ずっと付け狙われていた相手の名前を忘れるものかよ」

 男に対しアレウスは毒突いた。

 それを見て楽しくて楽しくて仕方ないといった顔付きを浮かべ、

「おやまあ。それではこの話は値千金でっしゃろな~」

 と、意味深に笑う。

「……何がだ?」

 聞きたくは無いが聞かないと更に状況が悪化する、そんな予感を抱きながらアレウスは男に聞き返した。

「ネカムが落ちた直後にルガナ攻略に従軍していたダッハールの姿が消えたそうで」

「……おい、レオパルド。思わせぶりな話は止めろ。兄上からの指示か?」

 こちらを試すかの様な物言いに遂にアレウスの堪忍袋の緒が切れた。

「とんでもない。殿にアレウス様を悩ませたなどという報告をしたらあたしの首が危うい」

 ピシャピシャと首を叩きながら、剽軽ひょうきんな声色で男は答えた。

「どうだか。お前さんとガットだけはどうにもその辺信用ならん。それで、狙いは間違いなく俺なのか?」

 心中に生じるイライラとした気分を飲み込みながら、至極冷静な口調でアレウスは最重要な問題に踏み込んだ。

「件の商人は今日中にハイランドへと御案内ですわ。こっちも大盤振る舞いでドラゴセルペンテオーロアルジェンテランチアまで投入確定ですわな」

「兄上は、あの商人こそ今回のキモと見立てたのか?」

 驚きを隠し得ない表情でアレウスは思わず豹を見た。豹が挙げた名はアレウスが知る限り彼の兄が使っている密偵の中でも強引な策を行う時に用いられる腕利きの者たちであった。

「さあ? 殿のお考えを読めるようでしたらこの様なお役目になどついとりませんやろ」

 再び態とらしい洛中ヴォーガ言葉で豹ははぐらかすかの様に笑った。

「韜晦は良い。お前の考えで良いから聞かせろ」

 波立つ心を無理矢理抑えた無表情でアレウスは直截な答えを求めた。

「あたしの考えなんざ、アレウス様はお見通しで御座いましょうに」

 豹は心からそう思っている事を素直に口にした。

「実際に聞かねば細かい処まで分かると思うのか? 兄上ではあるまい」

「まー、そうでっしゃろな~」

 男は戯けた儘で、「あの時点で“覇者”の陣営はアレウス様の事に気が付いていない様ですし、どう考えてもあの商人に何かあると考えるのが至って常識的な結論かと」と、答えた。

「あの時点では?」

 豹の台詞のふとした表現が気になり、アレウスは思わず口にする。

「ええ、あの時点では」

 豹はアレウスの言葉を鸚鵡返しに返す。

「今は?」

 その言葉の影に隠れている意味をアレウスは見逃していなかった。そうでもなければ態々あの時点等という言葉を使う筈も無いと直感が囁いてきたのである。

「……ダッハール隊、既にラヒル近郊に伏せている模様」

 辺りを憚るかの様な声で豹はこればかりは巫山戯た様子もなく素直に報告した。

「一寸早過ぎないか?」

 流石のアレウスもそこまでは想像していなかったらしく、顔色に動揺が現れる。「如何に連中が突騎であろうともルガナからここら辺までこの短期間で駆け付けられる訳ないだろうが」

「輜重隊を付けずに手弁当だけでやって来たみたいですな。あと、ラヒルの中に攪乱用の密偵が入り込んでいるのは確実で、連中、最近それとなく集まっていた模様です。時期的にはアレウス様が宿に入る前後で、ですが」

「……狙いは、俺、か?」

 どう考えても密やかにラヒルの門を開き、何らかの目的で街中を襲撃するとしか思えない状況証拠にアレウスは戦慄を抱く。死の予感は感じないが、何とも言えない居心地の悪さは街に入ってからずっと感じていた。カチリと状況と答えが噛み合った、そんな感触を覚えたのだ。

「確証はありませんが、恐らくは」

「クソ、とんでもない手を使いやがる。片道在れば良いだけの兵糧で速攻掛けてくるか。件の商人相手ならば他にも遣り様があるだろうしな。同じ手を使ってでも仕掛けてくるとなれば……俺の素性に気が付いた、か?」

 件の商人よりも自分の方に“覇者”の視線が移ったと確信した以上、アレウスの頭はそれから逃れる為に何故自分が狙われるかを先ず推測し始めた。どこまで“覇者”が犠牲を払うのを厭わないのかを理解しない限り、逃げるにしてもどこまで逃げれば良いのか決めることができない。

 ある意味でアレウスは彼の兄の影響を強く受けていた。先ず相手を知る事を優先するのである。情報無しで挑む事を無謀と強く戒める癖があった。

「調べようと思えばアレウス様の素性は簡単に割れますからな。只、今回はそうではないものかと思いますがね」

 長考に入りそうなアレウスに対し、豹は助け船を出す。

「根拠は?」

「例の件はルガナの傭兵ギルドで請け負った仕事でしたよね? ルガナの傭兵ギルドに照会が入ったとは思えませぬから、ミールに商人が逃げたという情報と傭兵の何者かが急遽道を変えさせたという噂程度の話から“覇者”の興味を引いたと見た方が良いのでは? それに、傭兵組合の方から手繰られているのならば、こちらの情報網にいの一番に入り込みます。あの組合は大殿を敵に回す様な真似を致しますまい?」

 豹は自分の手持ちの情報から一番確率の高そうな推測を提示して見せた。

 アレウスも一理あると感じたのか、

「……ならば何らかの理由から俺が“覇者”殿の人材収集欲に引っ掛かったと? まさか、高が傭兵の直感如きにか?」

 と、困惑を見せる。

 アレウスが豹の推測を受け入れたのはそう難しい話ではない。

 彼の実家が傭兵組合に対し強い影響を持っているのは間違いなく、一番の得意先であり出資者でもある彼の父親に対し堂々と裏切る事はないと確信しているからである。今、傭兵組合の名声が保たれているのもある意味で彼の父親が最大の功労者であり、彼の父親の支持がなくなった途端にその名声が地に落ちかねないのは紛う事無い事実なのである。

「余り考えたくはないのですが、若しくは、最初からアレウス様の素性を知った上で泳がせていたというものも考えられます」

 豹を含めたアレウスの兄が使っている密偵の仕事の一つに情報の制御がある。知られたくない情報を他の噂で上書きしたり、相手が知っておいた方が後々楽になる情報ならば敢えて漏洩する等自分たちにとって都合の良い様に世評を動かすのだ。その為に自ら情報屋の真似事をしたり、各種組合と取引したり、各地の群雄や商人に取り入ったり何でもする。

 豹の担当はアレウス周りの情報であり、アレウスの不用意な発言や行動から望まぬ相手から彼の正体を手繰られない様に欺瞞情報を流したり、探っている者をあらゆる手段で妨害する事を任せられている。弟を溺愛する彼の人物からその仕事を与えられているだけあり、彼の人物が有する密偵の中でも実力は指折りのものである。

 そして、“覇者”に対してアレウスの情報を流れない様にする事は豹に与えられた任務の中でも特に重要視されているものであった。豹としてもこの件に関しては絶対の自信を持っているものの、ダッハールというアレウスを付け狙っている男が“覇者”に与した以上、そこから真実に辿り着かれた可能性は否めずにいた。

「まあ、確かにそれは考えたくもないな」

 苦い顔を隠そうともせず、アレウスは天を仰いでから溜息を付いた。

 アレウスとて自分の正体が知られても良い相手と悪い相手ぐらいは考えて動いているが、どこをどう巡って自分の正体が知られてしまうか等までは想定出来る筈も無い。廻国修行の旅を始めてそれなりの時間が経っている以上、己の正体に至る欠片は考えている以上にばらまいてしまっているだろう。

「ま、いずれにしろ潮時ではないか、と」

 豹は暗にアレウスの正体に関する情報の制御が限界に来ていると伝えてきた。

「気が付かれているものとして動くさ」

「左様で御座いますか。それはそれとして、どちらにしろお早い御出立をお勧め致しますが?」

 明らかに出来ないだろうと思っている態度を隠そうともせず、豹はアレウスに助言した。

「いっそお前のその態度は清々しいと思えるよ」

 主筋に対する敬意を一切感じさせない物言いにアレウスは思わず笑ってしまう。「ま、俺一人なら何とかしたんだがな」

「でしょうな。宿の荷は傭兵組合を通して次の目的地に運ばせます。他に御入り用のものは?」

 最初から答えが分かっていた様に豹はアレウスに必要な措置の確認を取る。

「黒影と俺の弓を事が起きる前までに用意しておけるか?」

「やれと云われるのならば用意しておきましょう。それでは、又後程」

 然う言い残すと豹は湯船から立ち去っていった。

 それをまんじりともせず見送った後、

「束の間の休息すら楽しめないのか」

 とだけ呟き、アレウスは湯船を出た。



 公衆浴場を立ち去った後、アレウスは予定通り傭兵組合に立ち寄った。

 情報を仕入れている以上、急ぎの用件はなかったのだが、何となく直ぐに宿屋に帰る気にはなれなかったのである。

 付け加えるとするならば、自分を見張っている何かがいるのならば、普段通りに動く事で相手の存在に気が付いていないという振りをする必要もあった。

「親爺さん、今のバラーってどんな様子よ?」

 とりあえず、知っておいて損はしない情報を得る為に組合本部に併設された酒場に顔を出す。

「アレウスか。人にモノ聞く前に遣る事あるだろうが」

「では、適当なものを」

 親爺の文句を至当な発言と受け止め、金貨一枚を勘定台カウンターの上に置く。

「……帝国金貨か」

 渋い表情を浮かべて、親爺は酒棚から適当な瓶を取り出して陶器杯タンブラーに中身を注ぐ。

「ま、帝国金貨ならこんなものか」

 親爺の反応とある意味で見覚えのある瓶からアレウスは正確に己の支払った代価の価値を理解した。

「今の皇帝になって漸く立て直しって処だからな。ランバガンがやらかした改鋳貨幣の悪夢未だに、って処だ」

 アレウスが分かりきった事を聞いてきていると知りながらも親爺は真面目に答え、洋杯グラスの様子を一つ一つ確認する。

「一番価値があるのは山小人の作っている山岳金貨かい?」

 安酒でも高級な酒でもない中途半端な飲み慣れた酒を舌の上で楽しみながら、アレウスが知る一般常識が変わっていないのか尋ねてみる。

「山岳貨幣は軒並みどれも価値があるな。一般流通していないモノで云やあ、迷宮産出の古代貨幣だがね」

 明らかに持っているんだろうという問い掛けに対し、

「欲しいのか?」

 と、アレウスは確認を取った。

「……今は要らん。後で誰かが貰う事になるだろうさ」

 アレウスの問いに親爺は静かに答える。「さて、バラーの件であったな。ファーロスの城下町に何か興味があるのか?」

「ん? 今、あそこファーロス一門のものなのか?」

 アレウスからしてみると意外な答えが返ってきた為、思わず鸚鵡返しに問い返した。

「アーロンジュ江に面していて、尚且つ軍需物資の集積地だからな。東征するならば根拠地としてこれ以上の場所はない。現当主サムソンの長子が太守を務めているよ」

 親爺の返しにアレウスは心中で大いに納得する。

 バラーの街はソーンラントの中でも指折りの交通の要所に位置し、都であるラヒルの後背を守る重要な城郭である。その為、ソーンラント各地より集められた物資の集積地としても活用されており、ラヒルを経済政治の中心とするならば、バラーは軍事の中心と言うべき街に成長した。

 それ故に、ソーンラントの王族はこの街の支配権を臣下の者に譲る事はなく、時の王にとって信用出来る者が太守の任に付いていた。

 その街が武門の家であるファーロスに任されている時点で、ソーンラントがこの度の東征にどれだけ力を入れているか想像出来ようものである。

「すると、厳戒態勢か?」

 真面な思考を持っている者ならば、前線に物資を送り込む拠点をがら空きにする訳がない。態々ファーロス一門で重要拠点を囲っておきながら、無能を配置するとは思えない以上、かなりの厳重な警備が想像された。

 余所者として街に入り込もうとしている側としては、入れないぐらい厳しいと流石に困った事になる。

「まあ、こないだまでのここいらよりは。何せ、川下りをすると“江の民”に襲撃されているからな」

 アレウスの心配の種を見切っているのか、親爺は太守が陸よりも江側に対する警戒に重点を置いていると伝えてきた。

「“山の民”は海に近い丘陵地帯が生息域だから、流石に襲撃には来ないか。遠征してくるには距離があり過ぎる」

 ソーンラントに恨みを持っているのは“江の民”だけではなく、アーロンジュ江北岸下流域の丘陵地帯に住む“山の民”と呼ばれる獣人族を中心とした亜人種も同じである。現在のソーンラントはアーロンジュ江の北岸に勢力を張っているとは言い難く、水運の都合でぶつかり合う“江の民”とは意味合いが違う。

「それに、ある意味で連中の傍に既にファーロス本軍がいる以上、こっちにちょっかいを出す余裕はあるまいよ。聞きたい事はこんな処かね?」

「大雑把には。又来るよ」

「気長に待っておるよ」

 親爺は何気ない調子で然う言うと、洋杯を布で拭く作業に戻っていった。

 知りたい情報を得たアレウスは組合の裏手にある厩に顔を出す。

 奥の方まで歩いて行くと悠々と寝転けている巨大な馬が居た。

「黒影」

 アレウスは静かな声で馬に語りかける。

 巨大な馬は尻尾を軽く振るが起きる様子はなかった。

「又、お前と駆ける事になりそうだ。少し荷物が重いやもしれんが、耐えてくれ」

 静かにしゃがみ込み、アレウスは馬の首を撫でる。

 聞いているのか聞いていないのか、馬は高鼾で太平楽な様子を示した。

「後で会おう」

 ふっとした笑みを浮かべ、アレウスはそのまま立ち去る。

 馬は主が立ち去った後も尻尾を振りながら幸せそうに寝転けていた。



 宿に戻るや、アレウスは真新しい鎧直垂に身を包み、今使う事ができる最高の鎧を鎧櫃から取り出した。

 鎧の状態を確認してから、手早く己の荷物を纏め、共用部屋の入り口近くに積み重ねる。

 その儘、レイの部屋に入り、纏められている荷物を矢張り共用部屋に積み重ねた。

 外を見ると宵の口と言ったところで、眼前の目抜き通りは魔術の光やら油か何かで灯している光やらが氾濫し始めていた。まんじりともせずその光景を眺めてから、アレウスは愛刀を抜き放ち、手入れを始める。

(連中が仕掛けてくるとしたら、払暁か、それとも深更か……)

 与えられた情報だけでは判断し難い処をアレウスは己の経験も踏まえて少しずつ考えを纏めていく。

 アレウスの経験から基づくと奇襲で尤も効率が良いのは朝駆けである。深夜の内に敵の目から夜闇で隠た儘移動し、明るくなった処で大半が寝ぼけた敵軍を蹂躙する。一当てして逃げると言う戦法には余り向かないものの、そのまま総攻撃を仕掛けるのならば相手に気が付かれていなければ最良の手段と言えた。

 敵陣を攪乱するだけして逃げるのならば逆に同士討ちも期待出来る深夜に少数で攻め込むのも悪くはないが、土地勘と夜間であろうとも統制が取れる少人数で尚且つ敵陣に殴り込むだけの度胸を持った精鋭が必須となる。

 少なくとも相手が本当にジャマー・ダッハールとその麾下の突騎ならば先ず土地勘はない。だが、夜襲を仕掛けて自らは同士討ちせず、目的を果たした後そのまま逃げおおせるだけの力は間違いなくある。

(只まあ、城攻めという点だな。騎兵向きの仕事じゃない、本来ならば、だが)

 アレウスは愛刀を光にかざして刃の状況を調べる。(“覇者”の密偵が入り込んでいるのは想定通り。それが俺達の入城に合わせて集結、何らかの相談事をした形跡あり……。味方の軍勢に合わせて城門を開けるぐらいの事はしてくるよなあ)

 これが最前線の城邑ならばアレウスも悩まなかったであろう。

 内応や敵の工作員による城門の開放に対する警戒は並大抵ではない筈だ。

 しかしながら、ラヒルは違う。少なくともネカムが陥落するまでは所謂後方に位置していた為、門は平時の運用であった。その上、長らく戦乱の世が続く中、ラヒルは安全な街として中原一の繁栄を謳歌していたのだ。どう考えても戦時運用の統制は怪しいものとしか思えなかった。

(ファーロス一門が居れば別だったのだが、明らかにその留守を狙われている訳だからな)

 丁寧に愛刀の手入れを続けながらもアレウスは思考を続ける。

 問題はその一点に集約された。

 “覇者”がソーンラント攻略に踏み切ったのは明らかにファーロス一門が中原王朝との国境から離れた位置にいる事と、ソーンラントの注意が“帝国”に向かっているというアレウスから見たら明らかに失策から始まっているのだ。

 正直、“覇者”のことを少しでも理解しているのならば考えられない行動である。他の誰もが理解出来ていなかったとしても、ファーロス一門の長であるサムソンがそれを見逃しているとは思えなかった。

(考えられるのはファーロス一門が既にソーンラント中枢部を見切っているか、若しくは“覇者”に対する誘いの一手として打っているのか、あるいは両方か……)

 内心の懊悩を表に出さず、アレウスは黙々と愛刀の手入れを続ける。

 アレウスは生まれが生まれ故にファーロス一門の恐ろしさを骨の髄まで理解していた。

 ハイランドは“帝国”とも接してはいるが、南に位置する大山脈が邪魔でお互いに手出しがし難い状況であり、アーロンジュ江沿いにハイランドに侵出出来るソーンラントの方が様々な意味合いで交流が深かった。最近もソーンラントの政争で敗れて亡命してきたソーンラント王族を中心とした勢力が更なる権力を求めて大規模反乱を引き起こすという大事件が起きていた。この件も元はと言えば、ソーンラント王宮での利権争いでファーロス一門に敗れた件の王族の派閥が一族郎党を引き連れてハイランドに亡命してきたのが原因である。古くから続く武の名門としてソーンラントでの権力基盤は確りとしたものであるし、権力の背景にある武力も衰えを見せる事はない。

 一方の“覇者”の方も廻国修行中に嫌と言う程アレウスはその力を見せつけられてきた。

 中原王朝内での己の立場を確立する為に中央に反抗的な諸侯を討伐し、王朝内の政敵を態と隙を見せて釣り上げ纏めて排除、政も堅実であり着実に成果を積み上げていた。御陰で中原王朝の勢力圏内は隙がなく、廻国修行の旅も傭兵がてらでなければ上手く運べなかっただろう。最初から入り込めない“帝国”を考えなければ、尤も隙のない国と言えた。

 そして、アレウス如きが理解できる内容をあのファーロスが理解していない訳がないのである。

(誘いである事は確実。当世の兵聖と呼ばれる“覇者”殿がファーロスの填め手を見過ごす訳もない。であるならば、ファーロスの狙いを逸らす為にも“覇者”殿の目的は早期のソーンラント制圧とみるべきか? そこに件の商人や俺が絡むとするならば……)

 愛刀を鞘に収め、アレウスは窓辺まで近寄り、ネカムの方を見る。

 今のところ変化は見られず、アレウスはその儘椅子に座る。

 豹を含めた兄の密偵が何も掴んでいない以上、アレウスが調べたところで何か出てくる可能性は低い。だとするならば、アレウスにできることは事が起きた際に最速で最良と思われる行動を取れる態勢を作り出すことである。

 一番簡単な手はレイを見捨てる事だが、これはアレウスの矜恃が許さない。

 次に簡単な手は廻国修行を諦めて兄の元に帰る事である。帰る事自体はアレウスも問題としないのだが、折角兄が父を説得してまで手に入れた自由をむざむざと捨てるのも勿体ない。

 己の趣味と矜恃を守りつつ、実家の実益にもなる行動となれば一つ、予定通りバラーに抜け出すことであろう。

(俺の理想としてはダッハールが商人の方に向かう事だが、まあ、あのダッハールだからなあ)

 “大徳”に雇われてスコント王国に滞在していた時も戦場でならば兎も角、後方に居ようが場合によっては王宮に居ようとも命を付け狙われた記憶が蘇る。

 彼が兄の指示よりも早くジニョール河を渡ってカペーからカカナンに移動した大きな理由はなんやかんやで恩義のあった“大徳”に迷惑を掛けぬ為でもあった。それ程ダッハールの行動は常識外れであったのだ。

(ダッハールの俺への執着、執念を計算しての策ならば、狙いは間違いなく俺であろう。問題は、本当に俺を狙うだけの為にたった一回しか使えない手を惜しげもなく使うか、という点だな)

 如何にファーロス一門が居らず、平和惚けしているラヒルと言えど、城門を内側から開けられると言った最悪の工作を行われた場合、当然の様に二度と引き起こさせない対策を練られる筈である。どうせそれを行うならば、城攻めの最中に行った方が増しというものだが、完全武装の守兵が居る中で門を開け放つなどと言う荒技を只の密偵達で戦時に行うとなれば多大な犠牲を出す事だろう。

 そう考えれば、警戒が薄い状況下の僅かな奇襲でそれを実行する事自体には利があると言える。問題は、その成果をどこまで上げる策を用意出来るか、であろう。

(問題はその相手というのがあの“覇者”殿という一点。……なんで、“覇者”殿を避ける為に本拠を置いたラヒルでこんな悩みを持つのやら……)

 アレウスは内心で頭を抱えながらも思考を止めずに手元の湯飲みに視線を向ける。

 与えられた情報から最善の方策を考える。怖ろしく用意周到な長兄を見て育ったアレウスにとってそれは習い性となっていた。逆を言えば、それが出来ない状況に陥っていると変に落ち着かなくなる。だからこそ、家から飛び出し、アレウスは廻国修行を選んだのだ。

 ただひたすら剣技を磨く為だけに、家の煩わしいことを捨て去ったのである。

(それでもしがらみは消え去る訳ではないからな……)

 一つ大きく溜息を付いてから、アレウスは再び“覇者”の狙いに思いを馳せる。

 結局のところ、“覇者”がやりたいことが見えているからアレウスは現実逃避をしたくなるのだ。野戦によるソーンラントの戦力漸減計画、ファーロス一門が居ない間に詰みまで持って行く事である。

 ファーロス一門に率いられたソーンラント全軍と野戦をすれば如何に“覇者”と言えど想像以上、寧ろ最悪の打撃を受ける可能性が生じる。勝てたとしても、次に繋がらないどころか、“帝国”の侵攻を誘発する様な真似だけは避けたい筈である。故に導き出せる答えは野戦誘導した上での速戦である。援軍が来る前に勝負を決め、できうることならば、ラヒルも落とす。

 それが意味するところは何か、結局はそこに集約される。

(どう考えても、挑発行為をする事で敵軍を誘き出す事が目的なんだよなあ。ソーンラント軍が外に居るのならば、態と負けるという手もあるが、城に籠もっている。ならば、出ざるを得ない状況に導けば良い……)

 今のところ、彼が見る限りソーンラントの民は慌てていない。まだ相手を押し返せると信じているのである。ファーロス一門への信頼は揺るぎないものなのだ。

 従って、ファーロス一門が援軍に来るまでラヒルで籠城している限り、民の心は折れないものと思って良い。民の心が折れない限り、どんなに“覇者”が占領地を慰撫したところで本当の意味での統治から掛け離れたものとなる。それどころか、ソーンラントの工作次第では反乱が頻発し後方を扼することも覚束なくなる。

 付け加えれば士気が高い以上、相手から折れてくる事はないのでこの儘では長期戦への備えを求められることになる。長期戦を避ける為に民の心を折るのであれば、一番手っ取り早いのは心の拠りどころであるファーロス一門に決戦を挑んで降すことだが、それは論外であった。それができるのであれば、最初からファーロス一門相手に戦端を開いたとアレウスは考えていた。

(理想はファーロス一門と戦う前から勝った状態にしている事。分かり易く首都を落とすのも良いし、ファーロス一門以外の戦力を叩き潰しておく事でも達成出来る。……矢張り、城下の焼き討ち、か)

 “覇者”からすれば、ただ単に商人かアレウスを攫う為だけにラヒルの城下を襲撃させた場合、自分の手の内をある意味で無意味に曝すことになる。しんば、狙いが気が付かれなかったとしても伏せておいた密偵の無駄遣いになる以上、どう考えても最大限の成果を狙うのは当然の流れと言えた。

 その上、上手く行けば本当の狙いが焼き討ちの方だと誰しもが考える。

 ならば、やらない方がどうにかしている。

(それと、兵糧が手持ちだけ、荷駄を付けずに侵攻となれば、どこかで物資を調達出来なければ十全の活躍が出来ない。途中で味方と合流してから再び進発しているか、帰り道に味方と合流する予定があるか、と云った処か……。此度はその両方であろうなあ)

 “覇者”の目的が焼き討ちを行う事でラヒルの民の不安を煽る事ならば、ソーンラント陣営が取れる手は奇襲しに来た部隊を返り討ちにするか、“覇者”の手勢をソーンラントから追い返すか、ファーロス一門を呼び戻すかのいずれかになろう。

 ファーロス一門を呼び戻すのは論外と言えた。何せ、東に戻る為の地均しをしている最中に呼び戻せば、それまでに掛けた労力が全て無駄になる。その上、対“帝国”用に描いた青図面を完全に捨てる事となるのだ。“覇者”に勝ったとしても、国の先が失われるに等しい。

 だからといって、ファーロス一門抜きで“覇者”の軍勢に勝てるとソーンラントの首脳陣も考えてはいないであろう。故に、手も足も出ないと周りから見られない為にも、奇襲を仕掛けたジャマー・ダッハールの突騎を何が何でも返り討ちにするしかない。

(“覇者”の狙いはそれだな。ダッハールを餌にある程度の兵を釣り出し、“独眼竜”率いる主力にぶつけさせる。当然、ダッハールを打つ為に全軍出撃する訳がないから、援軍を呼ばすも良し、頃合いを見計らって退却する相手を乱戦に持ち込んでそのまま城迄雪崩れ込むも良し……後は“覇者”次第か)

 大凡“覇者”が考えているであろう策の全貌を推測したことでアレウスは一先ず落ち着いた。

 ここまで推測すれば、“覇者”が何時仕掛けてくるかなども推測は容易いのだ。

 既にネカムを発したベルライン率いる主力がラヒルに近い軍勢を展開しやすい地で待ち構えており、そこにダッハールがソーンラント軍を釣り上げる。夜中に焼き討ちを行い、そのまま払暁前に撤退した場合、ソーンラント側がダッハールを見失い、夜明け後に主力が見つかり結局籠城を選ぶ可能性が高い。確実を期すならば、払暁間近に焼き討ちし、相手が混乱している間に離脱、払暁に姿を見せたまま撤退が理想的であろう。

(敵襲は深更以降だな)

 アレウスは確信する。

 夜闇が深くなってから侵入し、自分か商人を確保、その後に火付けをして目立つ様に暴れるだけ暴れてから、払暁近くに門を出て、態とらしく相手が付けられる速さで自軍の陣へと帰る。

 今、民の心に余裕があるのはラヒルが堅牢であり、ファーロス一門が戻ってさえ来れば今まで通りの生活に戻れると信じているからである。その心の拠りどころを壊せば、民の心は折れる。

 それを繕う為にも、ラヒルを守る軍は出て来ざるを得なくなる。自分達がまだ負けていないと示す為にも誰にでも分かる形で勝っておかねばならないのだ。

 全ては相手の心理を読み切った“覇者”の掌の上であった。

「アレウス様」

 考え耽るアレウスの前に、どこからか忍びの者が現れ出でた。

「なんだ?」

 特に驚く事もなく、アレウスはおとなって来た理由を尋ねた。

「西門で怪しい動きがあります。ダッハール勢が仕掛けてくるものかと」

「一寸待て! いくら何でも早いだろうが!」

 男の報告を聞き、アレウスは思わず逆上した。

「は?」

 行き成り意味の分からない叱責を受け、男は困惑を隠せずにいた。

「……いや、“覇者”殿の狙いがラヒル駐屯中の軍の釣り出しであるならば、餌が見えなければ意味があるまい」

 何も知らぬ相手にいちゃもんの様な言葉を投げかけてしまったことを恥じ、アレウスは端的に己が推測した状況を説明した。

「成程。確かに一理ありますな」

 アレウスの発言を聞き、男は納得する。

 アレウスに付けられているだけあり、男はそれ相応の戦略眼と戦術眼を有していた。

 だからこそ、ある意味でアレウスよりも現状を理解していた。

「それで、ラヒルの守兵と市街で戦って負ける様な手合いなのでしょうか?」

「……何だと?」

 それはアレウスにとって考えても見なかった視点であった。

「アレウス様はソーンラントの兵と云えばファーロスの軍勢を思い起こされるでしょうが、あれは例外中の例外。あれほどのつわものは余り居りませぬ。ひるがえって、ダッハールの突騎や“覇者”の主力である虎豹騎やバジリカ兵は如何でありましょうか? それがし愚考致しますに、当家の近衛程度の練度を有しているのでは?」

「どっちも戦場往来激しい軍勢だからな、然もありなん」

 男の推察を聞き、アレウスは大いに納得する。「すると、高々千騎に達するか達していなか程度の突騎に数万の軍勢が蹂躙される……。流石にそれは……」

 アレウスとて武門の家の出、戦力と兵力が異なる事ぐらい嫌と言う程理解している。兵力とはその場に居る兵の数を示し、戦力とはその兵がどの程度力になるかを示す指標である。兵力が多くても戦力とならない場合もあるし、逆に兵力が少なくとも戦力としては恐るべきものを有する場合がある事を百も承知である。

 その上で、ダッハールの役割を陽動であり、釣りの為の餌と断じたのだ。

「当家ならば、御当主様が直率すれば容易いものかと。流石に御当主様よりは劣りますが、あのダッハールも中々の者。それなりの成果を示すのでは?」

 悩むアレウスに男は己の経験からの進言をする。

 アレウスがカペーでダッハールに付け狙われていた時、その動向を探り状況を報告していたのはこの男の仕事であった。実際に命を狙われ続けてきたアレウスの次にダッハールに関して知悉していると言っても過言ではない。いや、寧ろ主筋の者を守る為に必死に駆けずり回っていた分、この男の方がダッハールについて正しく評価しているのかも知れない。

 だからこそ、男はアレウスに直言をした。

「確かに、不可能ではない、のか? いや、しかし、それでもラヒルを落とす程ではあるまい。流石に三万もの軍勢で夜襲を掛けるなどと行った芸当は彼の“独眼竜”でも適わぬ筈。やり過ぎては釣り出しも儘なるまいに……」

 自説を捨てきれず、アレウスはある意味で自縄自縛の状態となり思考の迷路に嵌まっていった。

「アレウス様、悩むのも程々に為されませ。既に起きている事に目を向けるべきで御座いましょう」

 一刻も争う状況である事を嫌と言う程知り抜いている男は、アレウスに急ぎ行動に出るべきだと暗に進言を続けた。

「む、確かにその通りだ。悩むのは終わってからでも遅くはないが、動く前に頭を抑えられては何も為せぬ。さっさとレイを迎えに行くか」

 気を取り直したアレウスは急いで鎧を身に纏い始める。

「弓の方は黒影の鞍に箙と一緒に括り付けております」

 鎧の装着を甲斐甲斐しく手伝いながら、男は報告を続けた。

「何時もの弓か?」

「御意。三人張りの重藤弓で御座います」

「ま、あの方の五人張りには及ばぬが、良き強弓よ」

 弦の張り具合を確認し、数度弦打ちをする。「鏑矢は如何程用意した?」

「特に注文がなかったので数本……五本と云った処で御座います」

 箙の矢を確認しながら男は答えた。

「まあ、合図用と考えればそれだけで十分か。まあ、合図を出すかどうかは微妙な処だが」

 アレウスは装備の最終確認を取りながら、太刀を佩く。

 問題ないと判断し、そのまま部屋を出る。

 宵の口を過ぎたばかりの時間の所為か、表の酒場の方には気配が多いものの宿屋の廊下で擦れ違う者は一人も居なかった。

 裏口に辿り着いた時、完全武装した黒影の手綱をニヤニヤ笑う豹が差し出してきた。

「お早いお着きで」

「全く、お前らは頼りになるのかならんのか分からん」

 大きな溜息を付きながら、アレウスは黒影の背に跨がる。「そうだ、今、ラヒルに居る兄上の手の者はお前らだけか?」

「詳細は云えませぬが、まあ、それなりには」

「それではな……」

 アレウスは豹に幾つか注文を出す。

「……遣って遣れない事は有りませんが……。それで殿の不興を買う事になるのは我らでは?」

 流石の豹も顔を顰め、アレウスに対価を出せと暗に求める。

「俺が死んだら不興を買うどころではあるまいに」

 思わずアレウスは吹き出した。

 アレウスが言う通り、彼の兄が結果的にであれ、彼が死ぬような状況に陥る事を見過ごした者に何の罰を与えない訳がない。間違いなく、死んでいた方が楽だったと思うような何かを与えるであろう。

 それが分かっているのに敢えて報酬を寄越せという図太い根性を持った者をアレウスは嫌いではなかった。今、アレウスが豹に与えた指示はそれだけの報酬を望んでも咎める者はいない、その様な難事なのだ。

 寧ろ、アレウスの方からしてみても、只で黙々と行われた方が気持ちが悪いものであろう。

 古今東西、只ほど怖いものはないのだ。

「良かろう。迷宮都市に無事到着した暁には、俺が迷宮より見出した装具の内、お前が欲しいと思うものをくれてやろう」

「真で?!」

 それまでの演技を忘れ、思わず豹は素で返事をしてしまった。

 豹の反応も当然の事である。

 かつてこの世界に存在したと言われる魔法文明期の生きた遺跡を迷宮と呼ぶ。迷宮から発掘される品は現代では再現不能な魔法が籠められていたり、今では遺失している材料や鉱物、生息地すら知られていない魔物が数多存在しており、それらを引き上げて売り捌くだけでも巨万の富を得る者もいた。

 中でもアーロンジュ江の中流と下流の境目当たりにあるタンブーロ湖に点在する島々に幾つもの迷宮が眠っている。その中でも最大の島に迷宮都市と呼ばれる街はある。この街の下には最大級の迷宮が埋もれており、今も尚最下層を目指して冒険者達が鎬を削り、富と栄誉を求めて潜っている。

 アレウスはその中でも屈指の冒険者であった。未だに彼らの徒党が記録した現状確認されている最下層は更新されておらず、アレウスが徒党の解散を決めた時には迷宮都市のあらゆる組織から引き留める声が後を絶たなかったと言う。

 それもその筈、迷宮都市の地下より引き上げられる富は他の迷宮と比べても希少価値の高い莫大な価値を有するものばかりであり、中でもアレウス達が引き上げていたものは他の誰もが調達できなかったものであった。その価値もものによっては天文学的な数字を叩き出していた。その分、彼らが使う装備も怖ろしく金が掛かっていたが、潜れば潜るほどそれを上回る儲けを叩き出しており、迷宮都市もその恩恵を十二分に受けていたのだ。彼らの全滅が近隣諸勢力の陰謀ではないかと真面目に都市議会で話し合われる程度には。

 アレウスは、迷宮で見つけたものの内、自分で使えないものは仲間に譲ったり、売り捌いたりしていたが、彼の目に止まった武具や防具は収集して自分のものとしていた。迷宮都市を立つ時にそれなりの量を処分していたが、今でも彼が所有しているものは一振りで並の田舎貴族の名跡を買収出来る価値があるものばかりであった。

 その何れか一つを譲るというのだから、目の色が変わっても仕方の無いものと言えた。

「二言はない」

「有り難き幸せ」

 平伏する勢いで豹は頭を下げた。

「然れど、俺が褒美を渡すのは、豹、お前に対してだ。お前が部下を使ったり、同僚を使ったりした際の報奨もその内に含まれているものと考えよ」

「……は?」

 頭の上から振ってきた台詞を聞き、豹は思わずアレウスを見返した。

「当然であろうが。それを払っても十二分に釣りが来る品ぞ。何で俺がそれ以上を払う必要がある?」

 態とらしく大きな溜息を付いた後、これまでの仕返しとばかりにアレウスはニヤニヤと笑って見せた。

「いえ、その、云われる通りではありますが……」

「何、お前が自分で使いたいと思ったのならば、己の貯蓄を切り崩して報酬を用意すれば良いだけの話。兄上からそれだけのものを貰っておろう? まあ、報酬分の仕事は為せよ」

 高笑いをしながら、アレウスは黒影の腹を蹴る。

 黒影は一啼きすると、アレウスが指示する方向へと駆け出した。



 アレウスは慎重に夜闇を掻き分け色街へと向かう。ラヒルの街中は既に頭の中に叩き込まれており、どの道を使えば誰にも気取られずに目的の場所まで駆けられるかを素早く答えを弾き出していた。

 南門ではなく、西門の方から強い兵気を感じる以上、既にダッハールは街中に入り込んでいると見るべきであろう。それに、入り込んでいないのならば、今はまだ気配を隠し通しているはずである。

 導き出せる答えは一つ、ほぼ時間がないと言うことである。

(何事もなく街を抜け出すのが理想だが、そうも行かないか)

 バラーのある南方面に抜ける予定のアレウスからすると、莫迦正直に南門から侵入してくる方が有り難かった。ただ、もしアレウスが侵入する立場だとしても、一番警備が厳しい南門を狙う寄り、多少でも警備の緩い門を狙っただろうし、退き際も考えれば相手の警戒が薄い方面を狙うのは常道と言えよう。

 唯でさえ後手を踏んでいるのだ。南門までの距離を考えれば、アレウスは敵に自分が補足される可能性が高いと見極めていた。

 もう一つの問題は、折角アレウスの見えないところで羽根を伸ばしているレイを無理矢理連れ出さなくてはいけないという気の重い問題である。どこが行き付けの店かは色んなところから耳に入ってくる噂で知っていた。レイが店で何をしているのか想像が付く以上、アレウスの気の重さは更に増す。普段から気を張って隠し通している事を最初から知っていましたと告白するようなものである。気まずいと言う話どころではない。

 その点を考えて、これがダッハール以外の将が攻め込んできたと言うのならば、最悪見捨てても害はない。捕まって事情を聞かれた時に上手く対応すれば、その場で解放される可能性すらある。

 だが、相手はあのダッハールなのである。アレウスに対して異常なまでの敵意を燃やす相手が、アレウスに関係が深い者を前にして理性的な対応を期待できるか怪しいところであった。レイの秘密の事も相俟って、どの様な目に遭うか分からない以上、首に縄を付けてでも連れ去る覚悟を抱いていた。

 その結果、レイに怨まれるとしても、宿に着いた時点で判断を誤った付けというものである。

 だからと言って、その時点で今回の件全てに気が付いていたとしたら、それはそれで異常な話であろう。アレウスからしてみれば、身内にそれが出来る人間がいる以上、遣れないとおかしいとなるのだろうが、これは余程の少数派と見て良い。そして、アレウスが捕まると言うことは、その少数派の存在を“覇者”の側に洩れる可能性があるという点こそが最大の問題とアレウスは見なしていた。

(まあ、兄上の存在が知られる事も俺の自由が無くなる事も認められるものでは無い。ならば、さっさと逃げるのみよ)

 色街に辿り着くのに後は表の大通りだけであり、流石に騎乗して行けば人目に付きすぎるかとアレウスが悩み始めた頃、西の方から異様な喧噪が聞こえてきた。

 一つ大きく息を付いてから、アレウスは一気に覚悟を決めて、そのまま大通りに乗り出した。

 まだまだ盛りの時間だけあり、色街までかなりの混み具合であったが、アレウスはそれを気にする事無く黒影を駆けさせた。黒影も又、アレウスの意思に応え、行き交う通行人を縫うように疾駆する。

 尻餅を付く者、その巨体に怯えて身を竦ませる者、行き成り逃げようと駆け出す者、様々な反応を一切合切無視して、アレウスは目的の連れ込み宿まで駆け抜けた。

「レイ! 逃げるぞ、着の身着の儘で良いから、急いで出ろ! 時間が無い、ダッハールが来たぞ!」

 よく透る大音声でアレウスは宿の前で叫ぶ。「お前から出て来なければ、こちらから攫いに行くぞ! 荷物は諦めて、さっさと来い!」

 アレウスは目を瞑り、宿の中の気配を探る。慣れ親しんだ気配がわたわたと動いている感じがしたので、静かに数を数え始める。

 周りが騒がしくなってきたが、アレウスは敢えて無視し、そっと西を見る。予測通り、そちらの空は赤々と何やら煙って見えた。

「旦那、無粋じゃありませんかね?」

 何やらアレウスの事を見兼ねた遣手婆やりてばばが声を掛けてきたので、黙って手にした弓の先を西の空に向ける。

「“覇者”の手の者が城内に入ったぞ? 何かしら逃げる手立てはあるのかね?」

「……旦那、本当の事で?」

 西の空が赤いと言えど、それが戦火によるものとは限らない。これだけの大都市ならば、不審火やら何やらで大火事が起きる事もそれなりにある。どさくさに紛れて荒事をする為の言い訳と考えるのも無理ない事なのだ。

「信じる信じないは好きにせよ。俺とてそれを証明する手段は持ち合わせておらん。だが、ネカムを落とした虎豹騎を目にした以上、何があっても不思議は無いと思っているよ?」

「おやまあ。ネカムが落ちたって噂は本当だったのかい」

「それはあっさりと信じるのだな」

 些か意外と言った顔付きで、アレウスは遣手婆を見た。

「ま、こんな処でこんな因果な商売やっているとね、耳だけは早くなるもんですよ。それで、旦那はどうするおつもりなんで?」

「ちと厄介な奴がこっちに来たって話を聞いたんでな。相棒を拾い上げたら、北に逃げる。ま、バラーまでなら何とか俺の方が早く逃げ切れようよ、多分」

 アレウスは首の後ろをピシャピシャと叩きながら、「で、婆さんは何もしないでも良いのかい?」と、尋ね返す。

「ま、この年まで生きるとねえ。死ぬまでの蓄えさえ何とかなれば何とかなるもんですよ」

「流石に今は略奪する事はないだろうが、街を燃やす事に躊躇はしない連中だろうから、気を付けてな」

 漸く着の身着の儘で出てきたレイを見て、アレウスは馬を寄せる。

「アレウスの嘘吐き! 全然余裕なんて無かったじゃないか!」

 慌てて出て来た所為か、何となくちぐはぐな姿でレイは荷物を両手で胸の前に集めた儘アレウスを見上げる。

「それはすまなかった。だが、文句は“覇者”に云ってくれ」

 何とも言えない顔付きで、アレウスは大きく溜息を付いた。

 それから、一気にレイを片手で持ち上げ、黒影の背に乗せる。

「ちょっと、アレウス!」

 かなり雑に持ち上げられ、レイは顔を赤くして抗議する。

「文句は後に回してくれ。敵に遭う迄には疾駆に耐えられる姿勢を取っている様に。最悪、手持ちの荷物は諦めろ」

 レイの言い分を相手にせず、アレウスは言いたい事だけ言うとレイの為に荷物の置き場所を用意する。

「……え、そんなに拙い状態なの?」

「正直云って、宿屋に荷物を預けた方が後で取り戻せる可能性がある程度には。但し、燃えたものの保証はして貰えぬだろうよ」

 目を白黒させているレイを後目に、アレウスは黒影を静かに進発させた。

 わたわたと荷物を馬上で背負える様に調整し、

「一体何事なの?」

 と、レイはアレウスに問う。

「ダッハールを覚えているか?」

「あー、アレウスと初めて会った頃によく襲撃掛けてきていた傭兵隊長?」

 薄らと残っている記憶を辿り、それらしき人物を思い起こしながらアレウスに例は確認を取る。

「まあ、正確には“人中の”リチャード・マルケズと云う男の部下だったんだがな、ジャマー・ダッハール」

 アレウスは何気無くある意味で核心情報を口にする。

「……“人中の”……あれ? “人中の”リチャード・マルケズ?」

 レイはアレウスが口にした二つ名に何かしら引っ掛かるものを覚えた。レイが知る限り、“人中の”と言う二つ名は世界広しと言えど二つと無かった筈である。中原無双と知られた最強の武人を示すものだったと記憶が訴えていた。

「云っていなかったか?」

 アレウスは首を傾げる。「“人中の”リチャード・マルケズが“帝国”から中原王朝に亡命してきたばかりの頃、ギョームを本拠地にしていた中原諸侯がスコントに侵攻した。それにマルケズは便乗してな。部下共々参戦した処、緒戦で奴は目出度く討死にした訳だ。まあ、その討ち死にした戦いが俺の初陣みたいなものでな、奴御自慢の汗血馬をいの一番に殺して一騎打ちを挑んだ。今から思えば若気の至りなんだが、当時は怖い物知らずでなあ。ま、勝てそうもないから途中で必死扱いて逃げたのは良いものの、何でかは知らないが、やつの部下が合流しに来てみたら討ち死にしていたらしくてなあ。俺が奴に挑んだのは誰もが見ていたものだから、仇に違いないと勘違いされた訳だ。その所為で、一部の残党から命を狙われる事になり、今に至る訳さ。まあ、大体は“大徳”の元に居た時に返り討ちにしたのだがな」

「返り討ちに出来たんだ……」

 アレウスの明け透けな告白に流石のレイも思わず言葉を失う。

 アレウスの強さは理解していたが、中原最強の男と渡り合った上で勝てそうもないから逃げ出すという真似はある意味で想像すらできないことであった。自分より強い相手から難なく逃げると言うことが実際可能なのかどうかは置くとしても、最強と名高い相手を殺したと部下たちが思い込む程度の腕は当時から持っていたと言うことなのだ。今のアレウスの年を考えれば、本当に初陣だった筈である。その様な若僧が遣れるようなことでもないし、遣る様なことでもない。本当に規格外の男だとしか言い様がなかった。

「“大徳”の元に居た将士が優秀だったからな。戦場で敵方に付いた連中は粗方対処出来た」

 大したことないとばかりに軽い口調でアレウスは言い切る。

「アレウス側の陣営にも居たの?」

「居たが、然う云う連中は大体“大徳”傘下に収まって手打ちをしたな。“大徳”は種族や出自で区別する方ではなかったから、あっさりと降った奴らも多かったぞ。他に行くよりは、俺の事を妥協してスコントで仕官した方が旨味が多かったからな。……まあ、そんな事お構いなく俺の首を狙ってきていたのがダッハールなんだが」

 大きな溜息を付きながら、「あいつだけは戦時平時関係なく俺の首を狙ってきていてなあ。迷宮都市に引き籠もるまで、南に居た時は常に襲い掛かられていたようなもんだ。お前と出会った頃はもう大丈夫かと思って、ジニョール河近郊まで足を伸ばしたらやっぱり襲われたんで、慌ててソーンラントに本拠地を移したんだが……あれ? お前とつるむようになってからは襲撃されていないの、か?」と、アレウスは首を傾げた。

「いやいや、出会った時に一回だけ襲われているよ」

 思い出したくもないとばかりに例は首を横に振った。

「ああ、最後の一回はお前と出会う事になったあれか。あれも酷かったなあ」

 アレウスも又首を横に振り、「で、ここでそいつをおかわりしたいか?」と、レイに訊く。

 和やかな表情をアレウスに向け、

「御免蒙るね」

 と、レイはきっぱり断った。

「そうか、だったらそろそろ……駆けるぞ」

 アレウスは黒影の腹を蹴り、疾駆へと移るように合図を出した。

 一声啼いてから、黒影は静かに駆け出す。

 レイは慌てて両脚を踏ん張り、黒影の背にしがみつく。

 アレウスは辺りの気を探りながら、北門へと黒影を誘導する。

 色街を抜け、目抜き通りに懸かった時、アレウスは異変に気が付いた。

「チッ、静かすぎる。ここはもう既に終わった後か?」

 弓に矢を番えながら、アレウスは気配を探る。

「どういう事?」

 舌を噛まないように気を付けながら、レイはアレウスに問い掛ける。

「この時間に人が居ないのは異常だ。西門の異常が伝わって逃げ惑う民草が居るのならば兎も角、誰も居ない? だとするのならば、連中が既にここを突破し、目的を果たしたのならば納得はいく。納得はいくが……些か早過ぎる。丸で、最短の道を最初から知っていたかの……そうか、知っていたのか。最初から俺達狙いだとすれば、既にここは敵の手の内。首に違和感を感じないのは命の危機ではないから……俺を生け捕りにするつもりか。クソッ、舐められたものだな」

 険しい表情を浮かべ、「レイ、もう一段階飛ばすから舌噛まないように気を付けろ。黒影、頼むぞ」と、言うや否や、番えた鏑矢を空へと射る。

 レイは何故自分達の居場所を教えるような真似をしたのか疑問に思ったが、舌を噛まずに問い糾せる速さでなかった為にぐっとそれを呑み込んだ。

 アレウスは辺りの気を探りながら、予定を変更して目抜き通りを横切り他の裏道へと黒影を進めた。

 表通りの方に気配が集まるのを察知し、更に表から離れた路地へと黒影を導く。

 流石に、路地裏に疾駆出来るだけの広さはなく、致し方なく黒影の歩調を落としてゆっくり確実に進む。

「飛ばすんじゃなかったの?」

 一応辺りを自分なりに探ってから、レイは声を潜めて尋ねる。

「誰が聞いているか分からなかったからな。アレで表通りに集まってくれると有り難いんだがな」

 やはり、辺りをはばかる小さな声でアレウスは答えた。

 実際、二人の感覚が正しいものならば、先程アレウスがこれ見よがしに夜空へと鏑矢を撃ち込んだ当たりが騒がしくなっている気配がしていた。

 まだ、それ程離れていない故に騒げば気が付かれる可能性が高い。

「まあ、どうせそこら中に密偵が張っているだろうから、いずれは気が付かれるが……こっちが主導権イニシアティブを握っている間に北に少しでも近寄っておかねばな」

「それで、何でダッハールが来たって知っているのさ?」

 先程聞こうとして聞けなかった話をレイは切り出す。「アレウスがここ暫くラヒルを拠点にしているって情報でもダッハールが掴んだの? だとしても、ラヒルの城門を打ち破れる程の戦力持っていないよね? それとも、何か劇的に状況が変わった訳?」

「情報屋が押し掛けてきてな。ダッハールが“覇者”殿の軍門に降り、バジリカ兵と一緒にネカムに入ったと云う話とどうも“覇者”殿の陣営の方でとある隊商の情報が流れている節があるって話をしてきてな。信憑性の高い話なので買わざるを得なかった」

 溜息を付きながらアレウスは答える。

「ああ、彼か」

 レイも情報屋としての豹のことを知っていたから、あっさりとアレウスの演技に騙される。

 演技と言っても、全く以て完全な嘘を言っている訳ではないので、アレウスの方も本音半分以上の台詞であった為、騙されない者を探す方が難しいぐらいであろう。

「本当に高い情報料であった……」

 そして、何故か遠い目をしながら、アレウスは虚ろに答える。

「そ、そうなんだ……」

 機嫌が良い悪いとは全く違った方向で沈み込んでいる様子を見て、レイは思わず口籠もる。

「俺の収集品コレクションの一つを譲り渡すんだぞ? 冗談じゃない……」

 この世の終わりとばかりにアレウスは嘆く。

「……一財産じゃないか──」

 叫びそうになるレイの口をアレウスは左手で慌てて塞ぐ。

「騒ぐな」

 溜息交じりにアレウスはレイに呟く。

 鞍上の二人を後目に、黒影は静かに北へと進む。ばいを噛んでいないのに、主の思いを汲んでか全く以て音を立てずに動く当たり、並の軍馬ではなかった。

 レイの鼻息が落ち着いたと見極め、アレウスは手を離し、

「頼むから静かにしていてくれ。流石の黒影でも二人載せた状態で連中の馬に勝てるとは思えん」

 と、静かに諭した。

「ごめん。余りの事に驚いちゃってさ」

 レイは素直に謝る。

 レイもアレウスの収集品を見せて貰った事があったが、どれもこれも一品物の上、今や遺失した古代魔法文明時代の魔力付与エンチャントが為された品々だったのだ。一城と同じ価値があると目される品一つと同価値があると情報を売り込んできた相手の度胸とそれを惜しげも無く払うアレウスの度量に驚きを覚えないで何に驚けと言うのだろう。レイの反応は当然のものであるが、今この場ではアレウスの言い分の方が圧倒的に正しかった。

「分からんでもないが、今は静かに、な」

 それが分かっているアレウスは苦笑しながらも辺りを見渡す。「それにしても静かすぎるな。敵襲を畏れて家に籠もっている訳でもないだろうから、最初から家に籠もっているのか……」

「若しくは、既にダッハールが襲撃しに来ていることを知っていて逃げたか、隠れているか?」

 あり得ないと思いながらも、レイは普通に考えたならばそうなるであろう可能性を言って見せた。

「そんな処であろうが……。どちらにしろ、表もこちらも静かすぎる……」

 アレウスからしてみても、明らかに常識外れな事が起きている今、常識に常識を重ねた仮定が意味を為さないと理解している。しているが、だからといって他の考え方の材料を持たない以上、一般論で推測するしかない。その結果が、今の状況と乖離しすぎている所為で困惑を覚えるのである。

「住民を皆殺しにした後とか?」

 常識に当て嵌められない以上、突飛抜けていそうな考えを敢えて口にした。だからと言って、決してないとは言い切れない可能性ではある。

「無いとは云い切れぬが、占領後を見越せばそこまで“覇者”殿も阿呆ではあるまい。ロンテーモの轍は踏むまい」

 アレウスの方も分かったもので、その可能性を考えていない訳ではなかった。

 但し、アレウスの方では無く、“覇者”の方の切実な理由からそれはないと切り捨てていただけなのである。

「えっと、親族が強盗殺人されたから報復に現地に住まう者を根切りにした話?」

 アレウスの話に出たロンテーモの出来事についてレイは確認を取る。まだ、レイが実家に居た頃に聞き及んでいた噂を思い出したのだ。

 今より十数年前、“覇者”がバジリカの乱を制して精兵を得た後、その功で任じられた土地に故郷より家族を呼び寄せようとした。“覇者”の故郷は戦乱の真っ只中であり、まだ自分の傍の方が安全であると判断したのだ。

 ただ、その場合問題なのはそこに至る迄に通り抜ける土地であり、彼の任地と故郷の間も又戦乱の嵐が巻き起こっていた。唯一それなりに安定していた土地がロンテーモであった。

 だが、皮肉な事に、“覇者”が当時所属していた閥と敵対している閥に近かった人物がロンテーモを治めていた為、“覇者”自身は余りそこを通す事に対して乗り気ではなかった。

 それで終わっていれば問題は無かったのだが、“覇者”の父親とロンテーモの統治者同士が昔馴染みであったことと、“覇者”との関係も敵対と言うよりは中立に近かったのだ。故に、急ぎならばそこを通らざるを得ない事情があった。致し方なく、“覇者”も最終的には折れ、ロンテーモ経由で親族を迎え入れる事に決まった。

 “覇者”の父親とロンテーモの統治者は旧交を温め、護衛の為に部下を付ける厚遇を示した。しかし、その部下が目先の利に揺れ、“覇者”の親族を襲撃し、財宝を強奪していったのだ。その時、親族の多くが四散して逃げ果せるも、“覇者”の父親が運悪く最初の襲撃で死んでいたのである。

 当然、怒り狂った“覇者”の報復は激しく、ロンテーモの大地はあけに染まった。

「平たく云えばそうだな。実際はもう少し入り組んだ話なのだろうが、先ず中原に住まう者が聞き及ぶ話はそうであろうよ。故に、ソーンラントでも知られていようから、ここではそれが真実となろうなあ」

 アレウスとてその時にロンテーモにいた訳ではないので詳しい事を知らない。

 だからこそ逆に、ソーンラントの民衆も噂単位でしかその事について知っていないと確信している。

「だとしたら、ここで同じことを繰り返せば、感情的になりやすいソーンラント人の頑強な抵抗に遭うって事?」

「だろうさ。普段は兎も角、頭に血が上って感情的になったソーンラント人程扱いにくいモノはない。“覇者”殿とてその程度は先刻承知であろうから、何かしらの手は打ってるだろうよ」

 レイの質問にアレウスは我が意を得たりとばかりに大きく頷いて見せた。

 ソーンラント人の感情の起伏が激しい事は周辺諸国によく知られている事実であり、例を挙げようとすれば枚挙にいとまが無いという世界である。世に知れ渡っているソーンラント絡みの有名な逸話からしてその激情と切っても切れない関係なのだから推して知るべしとしか言い様がない。感情的にならないソーンラント人を探して見つける方が不可能だと言われる当たり、周りからどう思われているかも言う迄もないのだ。

 最早常識としか言い様がない前提を“覇者”が無視して策を練るとはアレウスには思えなかった。

「例えば?」

「己が悪名を利用し、逆らう者は皆殺し、手を出さねば危害を加えずと云った処が分かり易い手段だが……既に西門の方を燃やしている訳だからなあ? そんな相手を信じるかと云えば……」

 アレウスは首を捻り困惑した。

 レイに追及されなかったらついぞ気が付かなかった事だが、ソーンラントの民の気性を考えれば、西門付近を焼き討ちしたのは悪手である。何せ、ソーンラント人と来たら気性が激しい癖にねちこいのである。恩義もそれなりに長らく覚えているが、それよりも恨みを辛みを絶対に忘れないのだ。彼の故郷も、このソーンラント人の特性がなければ、もう少し平和的な付き合いができたと考えられていた。

「やっぱり、信じないよねえ」

 レイも同じ疑問に達していたらしく、アレウスに自分の結論を投げかけた。

「信じないだろうなあ」

 鸚鵡返しにアレウスも相槌を打つ。「それこそ、いつも通りのダッハールで、実は俺だけを狙う為に“覇者”を上手い事利用したと考える線もあるが……そこまであの“覇者”殿が甘いとは思えぬからなあ。絶対に何かしらの裏が有りそうだな。ま、今考えたところで詮無き事か」

「確かに、今は無事逃げる事に全力を注ぐべきだよねえ」

 アレウスの本意をしっかりと理解し、レイは周りを見渡した。

「まあ、ここでダッハールの手の者に襲われてもどうとでもなるから良いのだが、問題は北門付近よ」

 レイの挙動の意味を察し、アレウスは先の展望を語る。

「あっちに居ると思う?」

 北門の方を眺めながら、レイはアレウスに尋ねた。

「“覇者”殿から見て俺は捕まえられたら良い程度の標的だが、ダッハールから見たら第一優先であろうしな。只、流石のダッハールも仕官したばかりであるからして、新しい主の機嫌を損ねるような真似をすまい。どうやってかして、北門から抜け出せれば俺の勝ち、北門で立ち往生したならば俺の負けと云った処か」

 アレウスは冷静に状況を解析する。

「ラヒルの城壁って高いよねえ?」

 そんなアレウスに対し、レイは懐疑的な疑問をぶつけた。

「流石に飛び越えたり飛び降りたりは出来ぬなあ」

 アレウスもレイのその態度には慣れたもので、この場から見える北門方面の高い城壁を眺めながらしたり顔で答える。

「城門も分厚いよね?」

「蹴り開けられるとしたら、アンプル山脈に住まうと云われる巨人ギガースぐらいだろうな」

 今が隠密行動中でなければ豪傑笑いで返しただろうという気配でアレウスは二三頷いて見せた。

「今、夜だから城門は閉まっているし、跳ね橋も上がっているよね?」

 敢えて分かりきった事をレイは再度確認する。

 ラヒルは近くを流れる川から水を引き込み、外側の城壁に沿って水堀を張り巡らせていた。例え門が開いていたとしても、跳ね橋が上がっていれば出ることは適わなかった。

「“覇者”殿がやった様に一時的にでも門を占領すればどうにか出来るのだがな」

 当然何も彼もを理解した上で、アレウスは空惚そらとぼける。

「詰んでいない?」

 当然、アレウスの打った手を知らないレイからしてみると、何でそんなに余裕な態度を取れるのか理解に苦しむところであった。

「その為の高い情報料だ。……まあ、レイも荷物を捨てる覚悟は付けて置けよ。大切なものだけはちゃんと別にしておくのだぞ?」

 軽くアレウスは種を明かし、ついでとばかりにこれから起こりうる事への対策を警告する。

「どういう事?」

 余りにも端的すぎて、レイは流石に理解に苦しんだ。

「最悪、金目の物を連中の前でばらまく。ダッハール以外は俺の首よりも、俺の首に掛けられた金が目当てだ。まあ、連中の中でも古参は俺の武を知っているから、知らない奴を先ずけしけるだろう。どちらにしろ、及び腰にした処で、冒険をせずに簡単に手に入る金品がばらまかれたらどうすると思う? 俺はそれを拾い集めると思うね」

 レイの問いに対し、アレウスは自分の予測を語った。今までの傾向から相手の動きを読み、アレウスはその対抗策を準備していたのだ。

「でも、夜闇で見えなかったら意味ないんじゃないの?」

 至極尤もな意見でレイは異を唱える。何となくだが、今迄の会話の内容から、アレウスが想定していた襲撃時間と現実に大きな隔たりがあったのではないかと推測したのだ。

「ここはラヒルだぞ? 北門に繋がる表通りで灯火が落ちている? あり得ない、灯の落ちる事無き街、それがラヒルだ。連中からしてみても、暗いより明るい方が襲撃しやすいのだから、消す理由がない」

 単純明快な理由でアレウスは断言する。

 事実、表通りの方からは灯りが漏れてきており、ラヒルの繁栄ぶりを示していた。

 それだけに、ここいら一帯の異様な静けさが不気味ですらあった。

「道理、なのかな?」

「ま、それに連中、俺の方が夜目が利く事知っているしな」

 それでも疑問が残るレイに対し、アレウスははっきりしている事実を突きつけた。

「一体どれぐらい遣り合っていたのさ?」

 自分の方が夜目が利くと知っている以上、少なくとも夜襲を受けた経験があると言う事である。付け加えるならば、今こうして生きているという事は少なくとも闇討ち全て返り討ちにしてきたことに相違なく、更にその自信振りから相手が夜戦を断念するだけの損害を与えてきたということだろう。

「……数え切れないくらい、かな?」

 遠くを見る顔付きで、アレウスは大きく溜息を付く。「さて、休憩時間は終わりだ。次の角で大通りに出直し、一気に北門まで駆ける。準備は良いな?」

「良くなくても行くでしょう、君は」

 溜息交じりにレイは答える。

「いや、流石に今回はちゃんと聞いておくぞ? 形見の髪飾り無くしたら大騒ぎしそうだからな」

「……何の事かな?」

 何故か空惚けるレイを後目に、

「まあ良いさ。ここまで云っておけば、お前の事だ。ちゃんと準備は終わっていると信じておくぞ。あと、散蒔ばらまく時と思ったら悩まず遣ってくれ」

 と、アレウスは鞍に括り付けて置いた袋を渡す。

「重っ。何これ?」

 手渡された革袋のずしんとした重みに思わずレイは驚きの言葉を上げた。

「“帝国”の金貨だ。連中にはこれが分かり易かろうよ」

「大盤振る舞いだね」

 流石のレイもこれ程の重さもの帝国金貨を見た事も触った事もなかった。これがアレウスの言でなかったら偽金か何かと疑うところだが、アレウスならばこの程度用意することは容易いと知っていた。

 ただ、容易いと言っても直ぐに用意できる様なものではないから、胡乱な目で見てしまうのは致し方のないことであろう。

「命と比べれば、それの方が圧倒的に安い。それに、迷宮に潜れば数日で取り返せる。金は使い処を間違えると痛い目を見るぞ?」

 レイの言いたい事を何となく察しながらも、アレウスは敢えて自分からした金に対しての所信を語る。アレウスなりの経験則から来た人生訓であり、使い処を間違えて破滅していった者を思い浮かべていた。

「それはそうだろうけど、ここが使い処なの? アレウスからしてみても、これはそれなりの額でしょう?」

「……皆まで云わせるな」

 アレウスは渋面を浮かべ、「お前の密やかな楽しみを奪う程俺は甲斐性のない男かね?」と、溜息を付いた。

「あ、えーっと……」

 何とも言えない表情を浮かべ、レイはそっぽを向く。

「……まあ、待て。俺が気で人の行動を察知出来るのは理解しているな?」

 少しばかり違和感を感じたアレウスは一度黒影を止めてからレイに確認を取る。

「うん、それは、まあ」

「男と女の気の流れが根本的に違う事も分かっているな?」

 アレウスは違和感の核心に斬り込む。

「うん、うん……って、あれえ?」

「おい、待て。本気で俺がお前の正体に気が付いていなかったとでも思っていたのか?」

 流石のアレウスも困り果てた表情を浮かべ、「俺に接触してきたその時からお前が女である事自体は分かっていたのだぞ? 何やら男として行動していたい様だったからそれを尊重していたが……お前は何でそう変な処で抜けているんだ」と、大きく溜息を付いた。

「えーっと、ボクの演技が完璧だったから?」

 レイは飽く迄も空惚けて、問題に気が付かなかった振りをし続けた。

「まあ、俺以外は大抵気が付いていないから完璧だったんだろうな。俺のお前に話していた能力をすっかり計算していなかったという事以外は」

 やや呆れた口調でアレウスは突っ込みを入れた。

「うー、気が付いていたなら何で気が付いていない振りをしていたのさ?」

 諦めきれぬとばかりにレイは飽く迄も食い下がる。

「それをお前が望んでいたのと、何やかんやで傭兵業界というのも男社会だからな。不当に報酬が減らされるのは好みではない。己の腕という物の価値は正当に評価されるべきだ」

 アレウスは己の心情をレイが理解していないことに対して殊の外強い語気で己の意思を示した。

「じゃあ、宿で同じ部屋を取る事にちっとも悩む様子を見せなかったのはどうなのさ?」

 レイは今一度アレウスに食い下がった。今迄一度もその様な場で葛藤を示さなかった事もレイがアレウスに気が付かれていないと思った一因である為だ。

「流石に世間知らずを一人っきりにさせる度胸はないぞ? これでも身内と思った相手が破滅するのを座視する趣味は無いんでな」

 アレウスからしてみれば、それは当然の理であった。何でレイに訊かれるような内容なのか今一理解していない様子ではあったが、悩む様子もなく、アレウスは即座に答えた。

「納得いくようで、納得いかない……」

 何とも言えない複雑な表情を浮かべて、レイはぶつくさと呟く。

「全く面倒な事だ。女扱いして欲しいなら、この窮地を脱してから好きなだけするから機嫌を直せ。……ま、何はともあれ、ここを脱してからだ」

 黒影に合図を送って表通りを目視出来る場所まで出てから、矢を番えて弓を構え直し、アレウスは再び黒影に疾駆を命じた。

 裏通りの薄暗い夜陰から飛び出すと同時に、アレウスは前もって察知していたどこか覚えのある気配に容赦なく矢を射掛けた。

 アレウスが誤射を畏れずに矢を打ち込めたのは、明らかに人では無い高さに気配を感じたからである。要は馬に乗った人か、小柄な巨人族でも無い限りあり得ない位置に気配を感じていたのだ。このラヒルでアレウスが知る限り、夜間に馬で警邏している警備隊は居ない。故に、今馬に乗っている者は自分を除けばダッハール隊の突騎である。

(ま、異変に気が付いて出撃してきたソーンラントの騎兵の可能性もあったが……矢張りソーンラント側の動きが鈍いな。ルガナだけではなく、ラヒルも既に調略を受けていた可能性まであるか、これは?)

 予測違わずダッハールの手の者を射殺したことを確認し、アレウスは北門目掛けて黒影を駆る。

 直ぐに異常を察知した他の者が呼び子を鳴らすが、アレウスは既に二射目を放った後であった。当然の様にアレウスの矢は呼び子を鳴らし始めた男の首を貫いた。

 三矢目を番えながら、次の獲物をアレウスはあらゆる感覚を用いて探す。

 成る可くならば、それなりの人数が自分の騎射の腕を見ている状況下で確実に殺していきたかった。この種の撤退戦は相手に自分が勝ち戦の最中に死ぬかもと言う疑念を植え付ける事こそが逃げる側の生存確率を上げる。誰も自分の腕を知らなければ何も考えずに突っ込んでこられ、最悪数に呑み込まれて終わってしまう。

 逆にこちらの腕が知れ渡っている場合、一矢を見せびらかせ続けて逃げ切る事も可能となる。流石にそこまで行くと運も絡んでくるが、アレウスの場合は既に部隊の中核となって居るであろう古参の突騎に腕は知れ渡っているのだから、後は“覇者”の元で補充された新入りたちにこちらの腕を教え込めば追い付かれずさえいれば逃げ切れると踏んでいた。

(ま、ダッハール自身が指揮していたらその限りでも無いが、奴もそこまで莫迦ではあるまい。敵の本拠地で敵とは関係ない相手を追い回して策を台無しにするなど……既にしているなあ)

 ダッハールの色々と不安のある前行を思い出し、限界ぎりぎりまでは自分を付け狙う可能性をアレウスは思い付く。(ま、今回はこっちも無策ではないから、最悪やってやれない事もない。……本当に最悪の最悪だがな)

 守り抜きたい荷物がある以上、無駄に交戦したいとは考えない。その為に態々弓を用意したのである。距離さえ置いておければ、今回だけは確実に逃げきれる算段がある。

 問題は距離を置けなくなるという事態である。

(そう、例えば、北門の前で待ち構える、だな。是非も無し)

 北門まであと僅かな処で、騎馬の集団が待ち構えているのを見つけた瞬間、アレウスは悪鬼羅刹の笑みを浮かべた。

 元々、逃げるなどと言う行動を嫌う男が、虎口を逃れる為に意に染まらぬ行為を取り続けさせられてきていたのだ。他に取りうる行動がなくなった時点でアレウスの意思は歓喜で溢れた。

 何となく展開が読めてきたレイも諦めた顔付きで愛剣を抜く用意をする。

 速度を落とさず、アレウスは騎射を続け、戦闘で突っ込んでくる相手を連続で叩き落とす。

 相手と交錯する前に弓から太刀に持ち替え、素早く斬り込む。

 その際、右側の敵をレイに任せ、左側の敵を相手にする為アレウスは左太刀の構えを取ていった。

(ダッハールは居ないか。それと手慣れていない連中が多いな。彼奴ご自慢の突騎は温存と云った処か。新しい主の手勢を犠牲にするとは良くやる……)

 向かってくる相手を全て切り捨てながら、アレウスは行く手を阻む相手の力量を見計らっていた。弓を用意していない時点でダッハール直卒の突騎ではないと見極めてはいたのだ。

 だが、それはアレウスにとってある意味で拍子抜けと言ったところであった。

 練度自体はあの時感じた虎豹騎程ではないがどこの国であっても精鋭と言えるだけの力はある。反応自体も悪くはない。悪くはないが、ダッハールの手の者としては物足りない。明らかに捨て駒である。

(ただ、これだけ統制が行き届いているという事は、金貨を散蒔いた処で意味が無い相手、か? 成程、時間稼ぎとしては最良の手合いだろうな、ダッハールからすれば)

 ダッハールの意図を見抜いたアレウスであったが、だからといってそれが打開策に繋がるという訳ではない。(こちらの足を止め、その上で疲労狙いでもあろうが……避けられぬ以上どうにもならんな。本命が来る前に北門に近づいておきたい処だが……ダッハールがどこに伏せているか、か)

 騎馬同士の行合であり、突破自体は直ぐに終わる。

 アレウスは即座に弓に持ち替え、今度は鏑矢を北門方向に射た。

 ほぼそれと時を同じくして、アレウスは右手方向から強い兵気を感じ取った。

「レイ、何も云わずに俺を信じろ、良いな?」

 アレウスの言葉にレイは何か言い返したかったが、二人乗りとはいえ黒影の本気の疾駆の最中に喋る真似など遣れたものではなく、只頷いてみせるのが限度であった。

 アレウスは無理矢理右を向き、

「レイ、右手に向かって金貨を投げ捨てろ!」

 と、一言命じてから矢を放つ。

 愛剣を握ったまま器用にも袋の口を全開にし、そのまま右手方向に投げ捨てる。

 狙い違わず革袋は宙を舞いながら適度に金貨を飛び散らせ、そのまま良い音を立てて地面にぶつかる。

 当然、“帝国”出の突騎にはある意味で聞き慣れた音である。彼の国で突騎までのし上がった騎兵ならば、金貨での報酬など両手の指でも数え足りないぐらい受け取っているのが常だ。

 だからこそ、効果は覿面であった。

 先頭を行く者がアレウスの矢で射殺された為に、後続が回避行動に移る。その本の一瞬の空白にその音は鳴り響いたのだ。

 先陣を切る何人かはレイが投げたものに目が行った為に気が付いた。

 大量の馬蹄の音に紛れ込む前に、運良くその音を聞き分けた者もいた。

 そして、先頭に立つと容赦なく撃ち込まれるアレウスの正鵠無比な射撃である。

 後続に蹴殺される確率もあるが、確実な死よりは確実な金貨を選ぶ者が出るのも仕方なかった。

 馬同士ならば避けると計算して死体の載った空馬と己の愛馬を盾に金貨を拾う者たちが後続の壁となり、アレウスの想定通りある程度の足止めに成功する。

 それでも向かってくる者には容赦なくアレウスは矢を撃ち込む。

 明らかに馬上向きではない長弓を用いて速射としか言い様のない矢継ぎ早の射撃、その上狙った場所に百発百中の腕、アレウスに慣れているレイから見てもそれは常軌を逸した光景であった。

「レイ、同じ革袋が左にも吊してある。それを投げる準備だけしてくれ」

 レイは愛剣を鞘に収めてから、アレウスの指示通りに左側に吊してあった革袋の一つを持ち上げる。先程と同じくどっしりとした重さであり、これだけで何年遊んで暮らせるのかと考えると常人ならば頭がくらっと来てもおかしくない。

 レイが正気を保っていられるのは、アレウスならば持っていてもおかしくないと分かり切っている事と、レイ自身もそれなりに稼ぎ方というものを知ってしまったからに他ならない。アレウスの金銭感覚に対して呆れた感情を抱いているレイだが、他の傭兵から見ればレイに対して同じ様な感情を抱かれているだろう。レイとて凡百のちまたに有り触れた一束いくらで投げ売りされているような傭兵とは格が違うのだ。その気になれば、数日から一週間働くだけで一年は遊んで暮らせる額を稼ぎ出せる。アレウスと組んでいた為に組合内での評価が高くなっているというのもあるが、レイ自身凄腕なのは間違いないことなのだ。

 故に、今度はアレウスの指示が出る前に左側に同じ様に革袋を投げた。

 アレウスの方も気が付くと同時に今度は左側から来た集団の狙撃を開始する。

 先程と違うのは、先頭を駆ける武者が矢切してきたことだけであった。

「ちっ、ダッハールか!」

 舌打ちしてから、今度は鞍上のダッハールではなく馬の首を容赦なく射貫く。

 流石に矢切をするには得物を振るう空間が足りなかった為、ダッハールは慌てて馬首を転じて無理矢理矢切を行う。

 その間にもアレウスはダッハールの後から来ている部下を容赦なく撃ち殺した。

「矢は、大丈夫、なの?」

 舌を噛まないように気を付けながら、レイはアレウスに問い掛ける。

「まあ、流石に大盤振る舞いしすぎた感はあるが、後は金を散蒔き逃げるのみ。こっちは矢で牽制を仕掛けるから、後左右に一つずつある金貨を適当に蒔いてくれ」

 レイは一つ頷き、黒影の後ろ足に当たらない様気を付けながら、口を開けた革袋を逆さまにした。

 先程までと違い、大量の流れ落ちる金貨は篝火や魔法の灯りで怪しく煌めき、石畳に叩き付けられる独特の音と共に魅惑的な何かを醸し出した。

 アレウスたちを追い縋ろうとせず、金貨が落ちた方へと駆け出す騎馬の群れを無視し、それでも自分たちを優先しようとする者達を数騎撃ち落とす。

 相手が怯んだところで、これ見よがしにアレウスは視線と構えだけで周りを牽制し始める。

 矢の先端が己の身を指し示すと同時に追っ手の速度が少しだけ落ちる。

 そして、矢の先端から外れたものが再びある程度近寄ってくる。その繰り返しである。

(フン、やはりそうか)

 アレウスは脱落した者以外が包囲網を崩さずに付かず離れずの距離を保っているのを見て、自分の予想通りに事態が推移していると確信する。(連中、北門に追い込むつもりだな?)

 これが並の城邑ならば、些か博打なれど城壁の上から馬を跳び降ろすことも考えられる。上手く行けば、人馬共に無事なまま城壁外に逃げ切れる。

 だが、ここは中原有数の街ラヒルであり、その城壁は生半可の高さではない。

 その上、下は水堀であり、城壁から飛び込んで逃げようとした者が五体無事でいられる深さがある訳がない。堀とは防御の道具であり、攻撃の道具でもあるのだ。敵を助ける様な作りになっていると期待するべきではなかった。

 それ故に、逃げ切るならば、門を開けて、その門の蓋となっている吊り橋を落とす必要がある。

 ダッハール勢が自分自身の手で北門を押さえているか怪しい処だが、敵か見方か分からない者の為に門を開け放つ門番はいない。

 要するに、普通に考えれば北門に追い込めば逃げ場がないのだ。

 レイも当然気が付いている筈だが、アレウスが自信を持っている事から、何か手を打っていると確信していた。

 何があっても信じろ、その言葉だけでレイにとってはそれだけで全てを委ねるに足りたのだ。

 アレウスもそれを理解している。

 そして、アレウスにも信じるに足る者がいた。

 だからこそ、アレウスは何一つ慌てることなく、自分は周りを牽制しながら、黒影を北門へと直走らせる。

 終着点である北門に近づくにつれ、アレウスたちよりも包囲をしている突騎の方の緊張が高まる。

 アレウス達が北門前の広場に入った時、歯車が軋む重苦しい音が聞こえ始めた。

 ガタガタと辺りを振るわす音で何かが動き出す。

 異変に気が付いた突騎の一人が動き出そうとする直前にアレウスは平然と射殺す。

 それから悠々と再び矢を番え、ぎろりと辺りを見渡した。

 アレウスに気圧され、ダッハール勢は一瞬足が止まった。

 そうこうしている内に、少しずつ北門が開いていく。

 アレウスは門の中央に向けて進路を取り、黒影に気合を入れる。

「アレウス?!」

 順調に開いていた北門が馬一頭が通れる程度の隙間だけ開いた状態でうんともすんとも動かなくなり、レイは驚きの声を上げた。

「問題ない、計画通りだ」

 アレウスは至極真面目な顔付きで、「真後ろに捨てて良いモノを全部捨ててくれ。流石の黒影であろうと、重すぎて加速が足りなくなるかもしれん」と、指示を出した。

「アレウスの物も?」

 流石に確認を取らず捨てるのは気が引けたのか、レイはアレウスに確認を取る。

「大事な物は傭兵組合を通して迷宮都市に運んで貰う手筈になっている。この上に載せているのは逃げる時に持っているのだから大事な物に違いないと追っ手に勘違いさせる為の替玉ダミーだ」

「……そこまで計算していたの?」

 さらっととんでもない事を言い切るアレウスに対し、レイは心中で舌を巻いた。用意周到にも程がある。一体どこまで何を読み通しているのか、レイは束の間、アレウスの心中の動きに思いを巡らせた。

「そりゃこれだけ追われ慣れているとな」

 後ろから本気で追って来始めた突騎を目で牽制しながら、アレウスは器用にも肩を竦めて見せた。

 黒影も慣れたもので、アレウスの指示も無いのに開いた場所を目掛けて全力で駆け始める。

 レイも慌ててアレウスが替玉と呼んだ袋を次々に投げ飛ばした。

 金貨と違い、バランス良く荷物が詰め込まれている所為か非常に投げやすく、その儘追っ手の馬にぶつかったり、疾駆してきている馬の脚を取ったり、想定外の働きもした。

 それを見て、レイは、

「アレウス、ダッハールに合わせて」

 と、短く指示を出し、四苦八苦する部下を追い抜いて先頭に立ったダッハールの馬目掛けて自分の荷物を投げつけた。

 アレウスも心得た物で、番えていた矢をダッハールに向けて放った後、即座にダッハールの馬の頭に向けて鏑矢を撃ち込んだ。

 ダッハールは罵詈雑言を吐き捨てながら、愛馬を止め、序で矢切をする。

 完全にダッハールの足が止まったのを見て、アレウスは弓をレイに預け、手綱を取って黒影を操る事に専念する。

 アレウスの指示無くとも、黒影は狭い隙間を作っている門扉にぶつかる事無く、するりと抜ける。

(まあ、流石にこっちまでは無理か)

 アレウスが事前に予測していた通り、跳ね橋は完全に降りきってはおらず、何とか駆け上がれるかどうかという角度で止まっていた。

 黒影は手綱から伝わる主の意思に応じ、臆する事無くそれを駆け上がる。

 アレウスは静かに時宜タイミングを推し量り、静かにその時を待つ。

 レイは既にアレウスに全てを委ね、黒影の背中にしがみつく。

 後もう一歩で足を踏み外すというところで、

「黒影、跳べ!」

 と、手綱を操りながらアレウスは叫んだ。

 黒影は当然理解していると言ったばかりの反応で、理想的な場所で踏み切り宙を舞う。

 ガタガタと音を上げて再び上がっていく跳ね橋を背に、黒影は見事に対岸へと着地した。

「よーし、良くやってくれたぞ。まあ、堀に飛び込んでも問題なかった訳だが、楽に事が進められる方が嬉しいからな」

 様子を見る為に軽く並足で流し、問題ないと判断した。

 アレウスは手綱を持ったまま降りるとそのまま歩き始める。今は黒影を成る可く休ませる時だと判断していた。

 矢張り降りて歩こうとするレイを押し留め、アレウスは黒影を先導するかの様に先頭を行く。

「どこに行くの?」

 街の灯が遠くになった頃、レイはぽつりと尋ねて来た。

「予定通り北に行くさ。ラヒル近郊は最早戦場よ。金になる仕事はなくなった」

 歩みを止めることなく、アレウスは逃げる前から決めていたことを言った。

「先ずはバラー?」

 宿屋で交わした会話を思い起こしながら、レイは尋ねてみる。

「そうだな。船に乗って降るのも良い。思い切って対岸に行くのも手だな。ま、路銀との兼ね合い次第だがな」

「路銀、残っているの?」

 恐る恐るといった感じにレイは確認を取る。

「……多少は」

 今まで考えようとしなかった事実に無理矢理直面させられ、アレウスは思わず言葉を濁す。

「やっぱり大盤振る舞い過ぎたんじゃ?」

「否定はしない、否定はしないが……あれ以外に術はなかった」

 苦渋の表情を浮かべ、アレウスは大きく溜息を付く。「そりゃ、使わずにすむならそれが良かった。しかし、先手を取られた上、あの状況下ではどうにもならん」

「それはそうだけど、この先生活するのに必要な分まで使い切るのはどうかと思うよ?」

「ま、“迷宮都市”までの代金ならば借金してでも向かうさ。あそこまで行けば、なんとでもなる」

「僕の服も?」

「ま、約束だったからな。あっちで気に入ったものが在るなら買うとするさ。ま、今はまだ先の話だがな」

 呵呵と笑いながら、アレウスはレイの方を見た。

 レイもクスリと笑い、漸く生き延びた実感を覚えたのだった。

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