傍論 よむ=かく
“作者責任論” 序説?
今、こちらの文章をお読みの方の中には、おそらくこのタイトルの答えが、創造者の負うべきもの、すなわち創造物に対する”責任”であると、理解された方がいると思う。
たしかに、ある商品に対して、製造者がその品質や内容について責任を負う”製造者責任”にはじまり、食品ともなれば、原産地にはじまり、成分表示や遺伝子組み換え作物の使用の有無など、事細かな法律が存在し、違反すれば罰せられる、社会である。国が違っても、同様の民事責任を法律で規定している例は多い。
これらの例をとれば、確かに、”何か” を生み出した者は総じて、その創作物に責任を負うべきであり、意図したものと異なる内容、もしくは求められたものと相違するものを提供した場合は、相応の『罰』を負うべきであるという発想が、可能である。しかしどうだろう。広く世界を見回して、たとえば、文字から成る創作物に関しても、同様の扱いができるだろうか。
作者の意図を超えて、表現されるもの。または、作者の意図しないものが、読者によって感じ取られること。読む人次第で、全く違う内容を持つとされる作品。そうした ”なんだかよく分からない領域” が存在するのが、詩文であってよい、という理解。これらがもし、未だ共有できる社会なら、”創作にかかる責任” の、本質的な捉え難さが見えてくる。
書き手と、読み手の間にある『創作物』。そして "責任" の所在。
言わずもがな、複数の解釈が生じないよう、あらかじめ企図された文章というものは、取扱説明書から組み立て説明書、解説、許諾書など、法的な責任が生じる場面で求められ、私たちの生活の一部となっている。
その一方で、同じ文章でも、より制限の少ない領域、もしくは ”表現の自由” という名の下で、書くことが許されている形式がある。小説、随筆、物語、詩。書き手の独自性が求められ、読む方も一筋縄ではいかないようなものも存在する。私たちは、そうしたものに己の想像力をつぎ込んでは読み、または書く、ということをしている。
そしてそれは、自身のオリジナル小説を、利用許諾書並みの責任を持って書く必要はない、という自由を、意味していた。
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