危険負担X非日常の楽しみ

 かつては、資本主義社会が個人に期待するリスク管理能力、ふりかかる危険負担が重すぎるといって、懸念された。しかし今人々は、そんなリスクを敢えて求めることに、悦楽を見出しつつある。すなわち "スリルの購入" である。


 あらゆるものがゲーム化され、遊びと名の付くものは多様化している。子どもの成長に悪影響であるとか、のめり込み過ぎれば健康被害や、日常生活の破綻を招くと言われる代物であっても、その危険性こそ、シンボリックな意味での ”非日常”であり、大きな市場価値が付いているのだ。


 危険行為に対する心理的障壁は無くなることなく、ただ、時の経過というのもとに、越えられ続ける。個人が自身の遊興やスリル(危険行為)に投資する額は、年々増加し続け、それだけの需要に見合った玩具が、変わらず市場に供給される。


 日常からの解離、飛躍。それは、安心・安全だけれども、退屈な日々から逃れるための、カギカッコつきの”自由”。そんな”自由”が、時代の最先端を指向し、社会の価値付けを牽引している。


 クリエイティブであること、創造性の主体として ”自由” を重んじる生き方の、裏側にあるもの。それが何であるかを知らずに、奔放さを是とする限り、私たちは真実、『みずからを資本主義の贄として』生きている者の一人に過ぎない訳である。


 イメージ戦略とはまさに、このようなことをいうのであろうか。求めた印象と相反するものが実体であっても、それを知って拒絶することに、益が無いのだ。


 どこかで似たようなことを書いたなと、あらためて思う。同じところを堂々巡り、私たちは各々、どんな囲いの中から自由でありたいのか、その望みを反芻することはできても、実際、それ以上のもの(確たる行動の自由)を求めることは出来ない。


 どこまでも囚われと偏見がついてまわり、またそれ故に、そこから自由でありたいと望み続ける。そして、この人間の悲劇的性格の止揚をめぐっては、新しい意見を求める必要はない。既に書かれたものを紐解きながら、歴史を回顧し、歩を進める意義はまさにそこにあるのだろう。


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