第12話 エルフが鼻血を垂らしているわけで

 錆びついた鉄扉で閉ざされた神殿の前には、石人形の残骸とそれに重なるように人間達の骸が転がっていた。


「……お見事ですわ。きっと名のある冒険者だったのでしょう」


 そういうとヒタチは骸の元に屈みこむ。


「ふん、バッカだわ。……本当の冒険者なら生きて帰りなさいよ。相打ちするくらいなら逃げればいいのに。逃げることは恥じゃない。冒険者の基本よ。……いくら黒き魔女が間近だからって」


 @は石人形の破片をポムポム叩いてみた。石なんてとんでもない。見かけ以上に頑強な代物だ。


「えーと、うん、この奥に君らの目的がいるのかい?」


「そうですわ。忌忌しき闇の眷族、現世悪がすぐそばに。魔瘴気の渦の中心は間違いなくあそこです」


「それは戦わないとダメなものなの?」


「何を言ってんの、@、バッカじゃない。この世界を侵食する魔力は日に日に増大しているわ。このままだと、世界は暗黒に包まれる。多くの善なる者が苦しむことになる」


「でも、そんなのほっとけばいいわけで」


 ここに来て、なんというか、イヤな予感しかしなかった。髭の先がヒリヒリした。山田のババアが庭先に潜んでいるときのような、危険のサインだ。


「……もちろん、私には@様と添い遂げるという使命がありますわ。この黒き魔女退治はほんの余興です。余興のために命を懸ける愚者はいないでしょう?」


「そうそう、ヒタチの間抜けの言う通りだわ。私達二人で、さくっと倒してくるから。ね、そしたら私の旦那様にしてあげる」


「いや、うん、正直わからないことだらけなんだけど、俺も行こうか? 行ったほうがいい気がするんだ。何かができる気もしないんだけども」


 フィアットがくすりを微笑むと、@の頭を撫でた。


「ああん、本当に可愛い勇者様だわ。旧支配竜族エイシャント・ドラゴンズを切裂いただけのことはある。ううん、あんたを浚っちゃいたい。グリグリしたい」


 おや、何か物騒なことを言ったが、聞き逃すとしようか。


「@様、貴方様はこの世界の者ではありません。はるか遠く、想像を超えるような彼方からいらしたお方。たかがこの世界のためにその命を懸けてはなりません」


「それは私達の役割、たかがこの世界のためにね」


「だから、私達が戻ってくるまでここでお待ちください。ええ、すぐに戻ってきます」


 優しく@を見下ろす二人、今度はお互いに見つめあって頷きあう。


「それじゃ、@には守護封陣の魔法をかけるわよ。私とヒタチの合わせ技よ。喩え、魔神どもが束になってきたって壊れない、完璧なヤツよ」


「神と、風の聖霊による完全防御。安心してここでお待ちください」


 そして二人は双方の手を取りあって、唱え出す。


「風よ、吹け、吹け、安寧の。風と呼ばれし者はここに集え……」


「全なる神、その慈愛を彼に、その絶対なる御力、その片鱗を小さき我に与えたまえ」


「「聖霊の衣を纏いし神の愛をスーパーナチュラル・一身に受けたる者への聖都の城壁スーパーシリアス!!」」


 二人の言葉が終えるとともに、@は温かい青色の空気に包まれた。それはとても心地よく、そして勇気づけるものだった。先の不安はどこへやら、さっさとお昼寝したい気分だ。


 それとは対照的に、二人の顔は真っ青、似つかわしくないような大量の汗を額に浮かべている。


「おお、大丈夫かい、二人とも?」


 フィアットはぎこちなく笑ってみせた。


「バッカじゃないの! 私を誰だと思ってるの? エルフ族の秘蔵っ子フィアット様よ。聖唱力マジック・ポイントが尽きたくらいどうってことないんだから」


「フィアットに珍しく同感です。冒険者達には覚悟があった。でも、この世界の理を存じない@様を巻き添えにはできませんわ。聖唱力マジック・ポイントなど惜しくもない……とはいえ」


「黒き魔女がいるのよねえ……ほら、ヒタチ」


 フィアットがヒタチに向かって放った物体を@は見逃すはずがない。……マタタビ様だ! それも二つも!


 ヒタチは眉をしかめながらマタタビ様を噛み砕く。ああ、もったいない。もっと味わって嘗めるようにして!


 フィアットも眉間にしわを寄せながら、かりりと身を砕く。@は見た。三つのマタタビ様が口に入っていくのを。なんていうことだ!


 驚愕する@を他所に、ヒタチは汗を拭い、大きな吐息をついた。一方のフィアットは水筒の水を一気に飲み干す。呼吸は荒く、その手は微かに震えている。


「日頃の精進が足りませんわね。あれしきのことで力を使いきるとは」


「うるさい、私の方が負担が強かったんだから、しょうがないじゃない!」


 ようやく落ち着いたらしく、その気の強そうな瞳でヒタチを睨む。その整った鼻から一筋の赤い血が垂れている。


 そんなことはもうでもいい。


「あのー、お二人さん?」


「あんたこそ、力は戻った?」


「ええ、気付けにはちょうどよかったですわ。崇喜花モーニング・グローリィ二つは初めてでしたが、力がみなぎってます」


「奇遇ね、私もよ。秘呪だって禁呪だって、今ならなんだってできるわ」


「うん、俺の話を聞いて欲しいんだ」


「それじゃ参りましょうか」


「ええ、世界を救いに行くわよ!」


 @はたまらずニャーと鳴く。切なそうに。


 もちろん、彼は無視されていたわけではない。強大な敵を前に高揚しているのだ。

 二人は@の目線まで腰をかがめると、同時ににっこりと微笑んだ。フィアットは鼻血を垂らしたまま。


「安心してください。必ず戻って参ります。ここから決して動かないでくださいね。離れれば離れるほど神のご加護は薄れます。だからしばしの間、お待ちください。私だけでいいので」


「ちょ、バッカじゃない! 私だって帰ってくるわよ! ……心配はいらないわ、@。私達の力よ、どんな魔力もどんな刃もあんたには届かない」


「……うん、そういうことじゃなくてね」


「あら、寂しいのですか? ふふ、意外ですね。だったら今抱きしめてあげます。ええい!」


「いや、違うんだな」


「あはは〜ん、それじゃお腹を突いてやる! ほら、ぷにぷに!」


 おお、そこ、そこは気持ちのよいところ。という場合じゃない。


「あの、俺にね、マタタビをね」


「いけませんわ。そろそろ参りませんと」


「よし、いっちょやるか!」


 とフィアットは腰を上げる。


「誰か俺の話を聞いてくださ〜い!!」


 @は叫んだ。この世界のよくわからないところで。


 フィアットは悪戯っぽく振り返った。


「冗談よ。帰ってきたらあげるからね。それまで待ってて」


「いや、うん、一個だけで善いんです。今、この瞬間に」


「平気平気、今夜も二個あげちゃう。奮発だからね」


 この鼻血女、何を抜かしてやがる。


「良かったですわね、@様。喜びは後に取っておいた方が大きくなるものですよ」


 ああ、あああ。ああああ。あああああああああああ。


 この非道な仕打ち、生まれた理由とか生きる意味とかいろんなものが挫けそうだ。


「なんてね、はい。ゆっくり味わってね。じゃ、行ってくるね」


 ぎゃああああああああああ。二つ! 二つも! 二つもですって!


「@様、私達は必ず戻ってみせますので。貴方に身を捧げた者として、貴方の国を探す旅は終わっていません」


 貪るようにマタタビに食らいつく@。二人のどちらかがくすりと声を漏らした気がする。やはりマタタビは偉大である。その甘美な魅力に蕩けていく。朧げになっていく視界の先で、二人が互いの拳を打ち合うのを見た。そして、その重い鉄扉の向こうへと消えていく。


 薄れていく意識の中で@は思った。


 もっと置いてけ、鼻血女。

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