第13話 ダイヤモンドの選択
白い世界の中で、それ以上に真っ白な凜は池の前に立っていた。
その水面に、突如ぼこぼこと沸き立つ泡。
そこが突然盛り上がり、彼の元に大量の水が降ってくる。
〈久しいな…凜〉
水の中から姿を現したのは、巨大な黒い影。
いくつもある瞳をギョロギョロと動かし、凜に囁きかける。
〈見よ。ヒトは増え幸せを手にしている。我々を犠牲にするだけでは飽きたらず、そのことさえも忘れてだ!〉
「…時の流れは、残酷だからね。彼らのせいじゃないよ」
〈世迷い言を…。我々は奪われたのだぞ!命も!幸せも!あ奴らが生きるためだけに!これがどうして、恨まずにいられようか…!〉
化物の背後からは黒いモヤが沸き立ち、空気はビリビリと震えた。
凜の作った白く美しい世界が、まるで侵食されるように黒く歪んでいく。
〈その理不尽をいちばん感じているお前が、こうして未だに我々の前に立ちはだかるとは驚いた。ヒトに捨てられ、それでも再びヒトの為に己の身を犠牲にするとは…馬鹿な男よ…〉
その声色は怒りというより、憐れみに近い。
闇に侵されていく世界の中で、たったひとり残された凜は、身動ぎもしないでまっすぐ立っていた。
木の幹にバン!と音をたてて手をつく。
「ハッ…ハァッ…」
山の中腹。
雨でぐちゃぐちゃになった地面の上で、その金髪までも泥で黒く染めて、麗子は立っていた。
「アキエちゃん…」
その背にはあつ子の姿。
必死で息を整える麗子を、心配そうに見上げる。
(相変わらず…歩きづらい山だ…)
ただでさえもまともに道もない斜面が、雨のせいでぬかるんで立つことさえもままらない。
「しっかりっ…掴まって、ろっ!?」
飛び出た木の根に足をとられた。
背負ったあつ子ごと叩きつけられ、麗子の口の中に泥水が入り込む。
「ゲッホ…いって…ババア!大丈夫か!?」
「だ、大丈夫だよ」
咄嗟にかばったのであつ子に怪我はない。
(ここまで来れば良いか…?)
重い体をなんとか起こし、あたりを見回す。
「嘘だろ…?」
必死に走ってきたはずなのに、出発地点である御神木からそう離れていない。
未だに木の根がぶちぶちと裂ける音はふたりのまわりを包み、地面を揺らす振動は少しずつ大きくなっている。
思った以上に進めない。
「…っ!」
麗子が座り込み、立てた膝に顔を乗せた。
頭を撫でてくるあつ子に、小さく漏らす。
「ババア…アタシ、もう諦めていいかな?」
「大変だったろ。良いんだよ」
わかってないであろう彼女の声は優しくて、麗子が少しだけ笑う。
「そうだな…大変だった。たくさん走って疲れたし…大好きな奴にはフラれちまったしさ…」
「アキエちゃんを選ばないなんて、そりゃ見る目がない男だねえ」
「…ほんとだよ…」
(ここで死んだら…あっちで凜にも会えるかな…)
回らない頭で茫然と、そんなことを考える。
町の方を見ると、海にはいくつかの船が浮かんでおり、避難がうまくいったのだと察した。
(ここまでやったんだ…許してくれんだろ…)
うずくまる麗子に、ふと気がついたようにあつ子が自身のポケットを探る。
「ああそうだ。指輪。これアキエちゃんのだろ?この前見つけたから拾っておいたよ」
「え…いやアタシのはここに…」
言いかけて止まる。
あつ子が取り出したのは確かに麗子の指輪で、内側に栄香の名前が彫られている。
「え…?凜が間違えたのか…?」
首に手をやり、先ほど彼から渡された指輪を確認した。
あの時はまともに見ていなかったので気がつかなかったが、よく見れば装飾や形が全然違う。
麗子が吹き出した。
「ああほんとだ…これアタシのじゃねえよ…間違えやがって。ぼーっとしたアイツらし…」
その指輪の内側。
そこに小さく刻印された文字を見て、息を止める。
「あ…」
書かれていた文字は〝Reiko〟。
一度だけ、凜が誰の目にも見えるよう姿を現した時のことを思い出す。
『この姿じゃないと買い物とかできないからね…それが終わったから、麗子ちゃんを待ってたんだ』
(あの時…)
単純に、自分に任せてくれれば良いのにと思っていたが、あれが、もし麗子にこっそり渡すためのものを買う為だとしたら。
『ずっと一緒にいたいと思った人に、渡せば良いんだね』
凜が、指輪の意味をちゃんと理解しているとしたら。
「凛…!」
麗子の両目から、大粒の涙がこぼれる。
ダイヤモンドが埋め込まれたそれは、雨にも泥にもものともしないできらきらと光っていた。
(アタシは馬鹿だ…!)
長い間たったひとりで、寂しかったのは凛の方だったのに。
まっとうな幸せも知らずに人のために死んで、またその命を懸けようとしている。
どれだけその選択は、苦しかっただろうか。
「…ババア。アタシが間違ってたよ」
麗子が立ち上がった。
「アタシ達には、誰よりも頼りになる神がついてんだ」
身体中が泥にまみれ、その金髪でさえも霞んで見える中、麗子の瞳は輝きを取り戻す。
(絶対に、生きる)
最後まで諦めない。
何もかも手放すことになろうとも、それでも人を守る選択をした、世界でいちばんお人好しな神様を信じて。
「…あの時とは違うよ」
闇に覆われた世界で、凜はくすりと笑った。
人としての生を捨てた時と、こうして神としての生を捨てようとしている今は、同じではない。
「彼女は…僕を選んでくれたんだ…」
仕方がないのだと思っていた。
たったひとつの命より、大多数の命が優先されるのは、当たり前のことだ。
「でもね。彼女は、たくさんの命を犠牲にして、僕の命を選ぶことが、金剛石の選択だって…言ってくれたんだ」
その言葉に、目の前の黒い影はぴくりと反応する。
〈ならなぜ…その女と生きない?〉
「…麗子ちゃんのような未来ある女の子が、この先たくさんの人の命を、背負っていくのは地獄だ」
麗子の選択は本当に嬉しかった。
嬉しくて涙が出るほど幸せで、だからこそ凛は決断した。
「僕は、万人の為じゃない。麗子ちゃんの為に、ここに残ることに決めたんだ」
〈そうか…ならばここで、ヒトの為に消えてなくなるが良い〉
ずるりと影が動き出す。
最後に残った光を潰そうと、凜に向かって向かってきた。
「大丈夫だよ。僕が守るから」
凜が顔を上げる。
そこには、いつも通りの微笑みは消え去り、くしゃくしゃになって涙までこぼす顔があった。
(麗子ちゃん、ありがとう)
君のおかげで僕は、他の何にも代え難い、光り輝く金剛石を見つけたんだ。
「大好き」
生まれて初めて口にした愛の言葉は、誰にも拾われることなく宙に消えた。
「…あ…」
あちこちから悲鳴が上がる。
船の上で拓真は、山が轟音と共に、その身をずるりと削るところを見た。
続いて麓にあった光が、黒く塗りつぶされていく。
「麗子さん…ちゃんと逃げてますよね…」
拓真のそばで、円が唇を噛んだ。
「っ…!」
円の想いもむなしく、麗子とあつ子は山にいた。
御神木の前。
凜の小さな社の中にふたりはいる。
作られてから年月が経った社は、土砂の動きに合わせてミシミシと嫌な音を立てた。
それでも彼女はやけくそになったのではない。
最後まで諦めなかった麗子が、たどり着いた選択肢だ。
「凜…」
ぎゅうと唇を噛んで、目を閉じた。
(信じてる)
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